「黄色い悪魔」
 
 春。
 穏やかな陽光が緑の芽生えを優しく誘い、山々は冬の衣装を脱ぎ捨て、木々は息を吹き返す。草木は新たな生命を育もうと、芽を出し、花を咲かせ、そして花粉をこれでもかと撒き散らす。
 
 春。
気圧配置の関係から、中国大陸より日本に向かって強い風が吹き、『黄砂』と言われる現象が空を黄色く染め上げる。
強い風は山々の杉花粉を鷲掴みにしてわざわざ都市部まで遠路はるばる運んできて『似非黄砂』と言われる現象が空を黄色く染め上げる。
「おやー、空に黄色いもやがかかっているねぇー。黄砂かなと思ったら杉花粉だね、がははは。ところで、君花粉症?」
とか素敵な会話が上司と部下であったりなかったり。
 
 朝。
目覚めは苦痛と共に訪れる。唇はひび割れ、鼻の奥は粘つき、喉は炎症を起こして痛みを訴え、眼の周りはぴりぴりと痒みだか痛みだかよく分からない、とりあえず不快100%な感覚がヒステリックに自己主張をかましている。10年前から春の朝はいつもこんな感じだ。
Oh Shit! 『黄色い悪魔』め! 思わず何もない空中に向かって拳を何度も叩きつける。春はいつも朝からハイテンションだ。
 
は、は、はーくしゅん! しゅん! いかん、動き回って花粉が舞い上がってしまった。おのれ、『黄色い悪魔』め。一網打尽にしてくれるわ!
 
ざー
 
ユニットバスでシャワーを浴びて水蒸気につつまれながら「くくく」とニヒルな笑みを浮かべた。水は花粉の天敵だ。皮膚の上でプチプチと『黄色い悪魔』が弾けるのを感じ、圧倒的な勝利に思わず酔いしれる。
 
出勤前の身支度を整えながら、テレビに意識を向けると真っ赤に変色した関東平野が表示されている。イヤな現実をこれでもかと付きつける、悪趣味でサディスティックな瞬間だ。花粉情報を開示するのを考え出した奴はサドに違いない。
アナウンサーは下非た笑みを満面に浮かべ「今日は花粉の飛ぶ量はとても多いので注意してください」とかぬかしている。
うるせー! 大きなお世話だ。てめー、自分がどれだけ残酷な事実を毎朝視聴者に叩きつけてんのか自覚あるんかい。注意してたら花粉を避けられるんかぁ! 花粉の量が分かった所でどうしようもないだろーがぁ! この偽善者め! 受信料はらわんぞぉ!
 
はぁはぁ……出勤しよう。花粉マスクを装着し、慎重に鼻の周りの形状を整えて密着させ玄関のドアをあける。
開けた途端に『黄色い悪魔』が全身に絡みつき、オレの粘膜という粘膜にでこピンをかまし始めた。くぅ、この感覚は一般人には理解できんだろうな。鼻は辛うじて保護されているが、目の周りは無防備のまま。ゴーグルを着けるという選択肢もあるが、なんというかそこまでやっては人としての尊厳が保てないような気がする。
だが『黄色い悪魔』はそんな隙を逃さず、脇をしめて何度も抉るように人差し指を眼の粘膜に打ち込んでくる。
 
くぅ、耐えねば。
 
駅までぱたぱた歩きながら、ときどきスーツを払ってみる。もちろん、無駄なあがきで駅に着く頃にはもうすっかり花粉まみれ。マスクの防護もそろそろ効果がなくなってきて鼻の奥にくしゃみの弾丸が一つ一つ着実に装填されていっているのが分かる。
 
くぅ、耐えねば。
 
電車の中で、窓を開けたバカがいやがる。ぎゃああああぁ、暑いからって開けるんじゃねぇ! そんなことをしたら、ラムジェットエンジンみたく、高密度化された花粉が車内に溢れかえるだろうが。
狙いすましたように、高密度の『黄色い悪魔』が眼球に叩きつけられる。花粉の薄い膜が容赦なく粘膜の上に形成されていく。なぜだか和紙を漉く職人の姿が脳裏に浮かんだ。
あっという間に弾丸の装填も完了。いくぜ、そーれ!
 
はぁーーーく、しゅん!くしゅん、くしゅん!
 
おらぁ、隣のOL! 迷惑そうな面してんじゃねぇ。止められるもんなら止めとるわ!
くしゃみの次は大量の鼻水。お決まりのコースだ。まるで温泉の様に後から後から湯水のごとく溢れ出てくる。一体、オレの鼻の奥はどうなってるんだ。慌ててマスクを外してポケットティッシュで鼻をかむ。
 
ずっーぎゅぎゅ、ちーん。
 
おらぁ、隣のOL! 一転して哀れむような目で見るな。そっちが性質悪いわ。花粉密度の上昇により車内のあちこちで鼻をすすり上げる音が一段と高まった。
 
くぅ、同士達よ。
 
会社のそばのコンビニに立ち寄る。昨夕、ティッシュを切らしてしまったから、仕入れないと、仕事にならない。
就業時間中、一時間に一回はトイレに行き顔を洗う。席についてからはひっきりなしに鼻をかむ。
 
あぁ! 課長の視線がいつにも増してイタイです。ぎりぎりこめかみに食いこんでくる感じがたまりません。課長!そんなだから、課長の近くの席から同僚は逃げ出して入り口付近の空いた席で仕事を始めるんですぜ。ああ、また余計なことを書いてしまった…。
 
帰り。
電車に揺られ、吊り革に文字通りぶら下がっている。春は、花粉に生命力を吸い取られ続けるので夜にはダシ取済みのかつおぶし状態。たまに、座りたいなーと思わないでもないが、東京駅での熾烈な椅子取りゲームは見ていてあまりにも大人げない。
ギャルゲーやってて
「はにゃ〜ん、萌ぇ〜〜(はぁと)」
とか、ごろんと転がったりする良識あるオトナとしての自覚が椅子取りゲームの参加に異議を唱えてしまうのだ。でも丸めた新聞紙をひらりとかわすゴキブリのような俊敏な動きで、狭い隙間に不必要にでかいお尻をねじ込んで席を確保する年配の御婦人を眺めていると、暖かい気分になれて幸せ。えーと、目の前に座っている御婦人、貴方のことだったりするんですよ。
御婦人を眺めていると目から涙が…。油断した隙をついて『黄色い悪魔』が目の粘膜に会心の一撃を叩き込んだ様だ。周囲で『黄色い悪魔』どもが勝利のマイムマイムを踊っているのが分かる。アルミホイルをガリガリと噛みしめるのとどっちがマシなんだろうか。
 
くぅ、耐え、耐え…、耐え……なきゃいかんのだろうか?
今この瞬間、肩をポンと叩いて
「暴れておっけー」
と言ってくれたら、暴れるかも。いかん、何かに負け始めている!
 
玄関のドアの前で腕を振り回し、頭をかきむしる。一見、電車などでたまに見かける、透明人間と会話ができる特殊技能の持ち主と五十歩百歩。もしかすると向かいの部屋の住人がマンション管理会社に「危ない人が入居しているんです。なんとかしてくれませんか」とか真剣にタレこんでたりして……ひそかにピンチだったりしてな、オレの社会生活。
体に付いた花粉排除の為に、やむを得ない行動なんだが、心のどこかで
「そんなことしてもムダなんじゃよー」
と奇声をあげている何物かがいます。空気清浄器の購入を検討したほうがいいのかもしれない。でも新聞の折りこみチラシを睨み付けてる間に季節は移り変わり、購入意欲もググーンと減退してうやむやに。
全身にまとわりついた花粉をできる限り排除後、入室、即風呂。
 
ざぶ、潜る、潜れ、潜らいでか! 水の中へ、花粉のない世界へ。ユニットバスの小さな湯船にムリムリと体を押し込む姿がなんとなく郷愁を誘う。でも端から見たら水死体。というか、見られたら人生大部分ジ・エンド。
 
湯冷めしないうちに布団に潜りこむ。布団は2月からこっち干していないので、花粉に汚染されていない代わりに水分に汚染されている。湯冷めしない様に布団に入ったはずなのに何故か布団に熱を奪われていく感じがダメっぽくてかなり良い。
天井を見上げながらふと思う。今のまま「受け」でいいのだろうか? マスク、抗アレルギー剤、洗顔等の手段は本質的に「受け」の対策だ。そろそろ「攻め」にまわってもいいのではないだろうか。ティッシュを丸めて作った鼻栓がちくちくと神経を責めるが、その「責め」じゃなくて。
 
そう、「攻め」に。
 
ふと、気がつくと手に簡易発火装置を握り締めている。斜め後ろにはドアを開けたままのレンタカー。時は真夜中、場所は関東近辺の山中。安物の時計の短針と長針に接点をつけて、豆球と乾電池、そしてペットボトルにたっぷり入ったガソリン、発火装置としては安っぽい代物だ。ヘルメット・ゴシック体片仮名系看板・マスクから連想される人達には鼻で笑われるだろう。
杉花粉は80km以上も飛散するので、地図と気象庁で確認した風向を考慮して民家に影響のでないポイントを複数絞り込んだ。ここがその最後の設置場所だ。林野庁の予算・人員削減で最近は山林の管理が行き届かないという話を聞いたことがある。思わず口元がほころぶ。OK、任せろ、オレがアウトソーシングだ。予算5千円で根本から改善してくれるわ。薄い笑みは、花粉マスクをしている為、外からは見えない。また新月で明かりは極端に乏しいため仮に目撃者がいたとしても人物像を描くのは難しいはずだ。
黒く、無駄に育った杉の木の下生えの中に発火装置を置きすぐに離れる。
発火まで時間がない。他ポイントに仕掛けた発火装置も同時刻に発火するようにセットしてある。同時多発的に山火事が各地で起これば消防は容易く人員・装備不足に陥いる。
無灯で国道まで出てきたところでカーナンバーに施した小細工を取り外す。一服したいところだが、そろそろ、あちこちで火の手があがるはずだ。すぐに高速にのったほうがいいだろう。
 
目が覚めた。
と同時にくしゃみ。10年前から春の朝はいつもこんな感じだ。
周りを見る。レンタカーはどこにもない。発火装置も実際に作った記憶はない。
テレビをつけても山火事のニュースはやってないようだ。夢か……夢でよかったような悪かったような。なにやら、とんでもなく実行可能な一部リアル過ぎる夢だったが……。
 
カーテンを開くと、雲一つない空が広がっている。今日も良い天気だ。
元気よく出勤しよう。ノブに手をかけ、力強く玄関の扉を開く。
 
春はどこまでも続いていく。
そして今も花粉の中へ。
 
 
あとがき(エッセイにあとがき? まぁいいじゃん)
 
うわ、夢オチかよ。という声が聞えてきそうです。でも主人公の性格付けを極端にした以外、ほぼノンフィクションで私の生活そのままなので、オチがつくってことはすなわち……。今のところ自分の人生にオチをつける程人格壊れてません。また本文中に何気に危ない表現が散見されますが、本人にそれほど悪意はないです。
 しかし、春は本当に辛い季節です。子供の頃にはまさしく全てが始まる幸せな季節のはずだった…のに、まさかこんな…、こんな……、こんな………ハメに。…あ、
 ああ、鼻水と涙で言葉が出ない。
 
 鼻をずるずるやりながら、高任氏と電話で会話してて、花粉のことを『黄色い悪魔』めと罵っていたら、
「『黄色い悪魔』でなんか書いて」
とお願いされてしまいました。前回の香港旅行記といい、HPのテーマから離れ過ぎていてバランスが悪くなるよと忠告したのに、
「いや、構わんから、面白い、面白い。」
と随分乗り気。おまけに何故か嬉しそう。人の不幸の自爆ネタが好きで好きで堪らないようだ。電話の向こうにいる黄色くない悪魔に向かって
「書いてもいいけどさ、本来オレは瀕死連合の人間じゃないよ。吉井さんの了承はとれてるの。」
「いけるいける、三月に入っても如月さんの扉絵のまま(註1)の人間に拒否権はない。」
先の尖った黒い尻尾をぶんぶんと振り回し、ぐふふふと下品な笑い声を上げている高任氏(たったいま、腹黒い悪魔と命名)。
 
…吉井さん、PSOなんかやってるんじゃなくて!。この腹黒い悪魔とのお付き合いを考え直した方がいいんじゃないですかねぇ。
 
と言いつつ終わる。
 
註1:2001年3月12日に「舞」絵に更新済み
 
2001年3月 某日 ラオウ 記

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