2003年1月19日(日)
 
 ラスト4話あたりから拭いようのない違和感を感じつい先週の放送で踏みつぶされたカエルのような悲鳴を発した龍騎ファンが固唾を呑んでテレビに見入っていた本日朝の8時10分頃から20分過ぎにかけて、全国各地で意味不明の悲鳴があがったモノと思われます。(笑)
 先週の放送でかなりがっくりと来たんですが、悪い意味で予想を遥かに上回ってくれたというか。
 ええ、なんというか……一言でいうと
 
 オチてない。
 
 と言うか、はっきり言って『夢オチ』と同レベルと言っても差し支えないと思います。
 鏡に映った鏡よろしく、『歴史は繰り返される…』ってな微かなテーマを匂わせてこれまで積み上げてきたプロットの重みに耐えかねて全てを投げ出してしまったのかとさえ思えるエンディングでした。
 伏線を張るだけ張ってどうにもできず、後は視聴者の頭の中でオチをつけてくださいといわんばかりの、無責任にも程がある『凄まじい』エンディング。
 しかも、『もう一度やり直そう』といわんばかりのエピローグにくわえ、番組終了後にちらっとでてきた一文『今度は誤った道を選ばぬように…(不正確だけど、意味はこんな感じ)が、さらに視聴者のボルテージを上昇させます。
 
 何よりも間違ってるのはこのエンディングの筈なのですが。
 
 ちょっと待てや…ってな感じで、最後に生き残った(笑)ライダーである仮面ライダーナイトの願いがあのラストシーンと言うことはまずありえません。
 あのラストシーンはカンザキ兄妹の願いというか、ゲームよろしく全てをリセット……とも言えないか。
 なんせ、OREジャーナルの状況が初期とは変わっちゃってるから。
 
 状況としては『ガンパレードマーチ』のループに似ていますが、あれは目指すべきエンディングが『誰もが傷つかない未来』だったからこそ正当性があったワケで。
 で、龍騎の場合……『これまで一年間かけて放送してきた話は悪い例です、真似をしないでね(笑)』と宣言した挙げ句、これまで散々語った、ライダーの願いは滅して重なり合わない、それぞれが違う道を歩んでいる……その中で、人は悩み、傷つき、そしてある種の覚悟を決めるというストーリーその物を破棄しちゃってる。
 正義はなく、そこにはただ純粋な願いだけがあった……なあんて番組の中で綺麗事が述べられましたけど、エンディング間際でナイトの恋人が目覚めたことさえリセットされちゃってる……という印象を視聴者に与えちゃってるわけですよ。
 各ライダー…キドやアキヤマが散々苦悩し、傷つき苦しんで辿りついた結末さえも認めず『今度は誤った道を選ばぬように…』……考えてみれば、めちゃめちゃシニカルな内容です。
 で、そういうことやったからには、『正しい道』に対する明確なイメージを視聴者に示さなきゃいけない筈なんですなあ。
 
 それさえも放棄して、『じゃ、後はよろしく!』とダッシュ逃亡……今の世相を示しているようでステキです。(笑)
 
 で、肝心要のミラーワールドときたら……ココで問題なのは、ミラーワールドのモンスターの存在です。
 モンスターは何故人間を襲うのか?
 これは、神崎曰く『新しい命』だとか、『ライダーの願い』を叶えるための理由付けでなきゃいけなかった筈なんですよ。
 じゃないと、ここ一年でその事件が表面化した理由がつかないわけですから。
 ミラーワールドが普遍的に存在し、かつモンスターは自分の意志で人間を襲っている……という状況と、ミラーワールドは限られた個人によって作り出された世界で、モンスターその物は個人の目的に従って人間を襲っている……もしくはその組み合わせという状況で、お話しは随分変わってきます。
 ミラーワールドが普遍的に存在したのか、それともカンザキ兄妹の作り出したモノなのか……それを判断する材料も断片的で、あの最終話からするとどっちつかずのままです。
 カガワ教授が擬似ライダーを作り出したからには……なあんて考えたいとこなんですが、カンザキ妹を殺せばミラーワールドが閉じると言うことに全く疑問を抱いてなかった割には……消滅した後も。(笑)
 と、すると……カンザキ兄妹(番組放送段階の成人時)はミラーワールドの住人(?)じゃなきゃつじつまが合わなくなってくるわけで。
 だからそれなりにつじつまを合わせようとすると、ストーリーの概要は精々3つに集約されていくと思ってたんですが……というか、物語の結末に向けての伏線だな、と思われる部分をつなぎ合わせると間違いなく集約せざるを得ない。
 
 例えば、ミラーワールドは普遍的に存在し、ミラーワールドへの扉を開く能力を持つ人間は、同じくミラーワールドにドッペルゲンガーのような人間世界への扉を開く能力を持った存在がいる……とか設定すると、かなり懐が深くなり、カンザキ妹が元々はミラーワールドの住人なんつー楽しい設定もありに。
 そうなるとカガワ教授の擬似ライダーの存在がちと厄介ですが、ライダーがカンザキ妹の作り出したモノかどうかは抜きにして……ライダーは文字通りカンザキ妹、もしくは世界を守るために存在するというもの。ただ、カンザキ兄は妹だけを守りたいと願っていて、『20回目のお誕生日に消えちゃうよ…』云々はともかく、ミラーワールドに連れ戻される、もしくは命を狙われる状況を設定して、ライダー同士の戦いは守護者にふさわしいライダーを選ぶため……というのを骨子にする。
  仮面ライダーが常に人間の味方であった過去を振り返れば、こういうのはかなりオーソドックスな物語になるでしょう。
 
 後、ミラーワールドの存在自体がカンザキ妹単独で創造想像した世界だとして……ミラーワールドの創造、維持に多量の生命力を奪われているとか言う設定をでっち上げて、モンスターが人間を襲うのは、枯渇しつつある生命エネルギーの補給。
 ただ、それはカンザキ妹の無意識下に行われている事で……人間を襲うモンスターと、モンスターから人間を守るライダーの存在が、カンザキ妹の心的描写につながるという設定。
 カンザキ兄がカンザキ妹の創造物かどうかはおいといて、何としても妹、もしくは創造主の命を長らえさせたい(死にたくないと言うカンザキ妹の深層意識でも可)という行動規範によって行動している。
 ライダーの契約モンスターは相手を倒す毎に強くなるという設定からして、最後に生き残ったライダーがカンザキ妹の生け贄となる……というのも十分に想像できる物語といえますし。
 真実を悟って苦しむカンザキ妹と、ライダーの苦悩なんかはある意味テーマとしてぴったりかも知れません。
 
 ……とか、他にもいろいろと高任は年甲斐もなく考えてたわけですよ。(笑)
 と言うか、このぐらいの事は誰だって想像してた筈なので、余計にこの脚本を書いた人の意図が読めないと言うか。
 『この最終回でバッチリですよ!』とか思ってる人だったら、それは最初ッから話が通じない人なんで仕方ないとは思うんですが……そういう人が、あそこまで計算された伏線を張るかというとかなり疑問が。
 とすると……『これだけの物語を一年で放送できるか!』と開き直ったにしては、途中意味のないギャグを何話も繰り返していたのが解せません。
 後は、『もう少し子供向けの内容に…』……ってのは既に手遅れなので、ラストに向けて妙な横ヤリが入ったとしか思えない。第一、映画のラストエピソードはそれなりにオチが付いてたし。
 と言うか、漫画でいうところのまさにいきなり打ち切られた雰囲気が漂ってるわけで。
 一体何があったのか?
 
 と、怒りのままに書き連ねていたのですが……上記は、全て中盤以降に現れた不可思議な部分です。
 そう、いわゆる……劇場版がどうのこうの言い出したあたりから。
 もちろん、中盤までに物語の骨子となる部分があからさまに語られる事など無いにせよ、随所に散りばめられた伏線は有機的つながりを否定することなく、いろんな方向に物語を収束させていく可能性を秘めた、いわゆる本物の雰囲気が確かに漂ってました。
 何故いきなりこんな事を言いだしたかというと、あることを思いだしたからです。
 何を思い出したかというと、劇場版『仮面ライダー龍騎・エピソードファイナル』の事です。
 今になって考えてみると劇場版のあおり文句はなかなか深い言葉だなと思ったりしてしまいます。
 ちょっとうろ覚えなんですが……
 
 放送終了後に映画で結末を……などという作品は数多くありましたが。が、放送途中(しかも中盤)で、最終話を映画化するという試みは史上初だと思われます。
 『何故?』と言う疑問は最もですが、この方法でしか龍騎の最終話は語れないからです……
 
 ……てな内容だったと思うんですわ。
 
 『この方法でしか龍騎の最終話は語れない……』
 
 どうでしょう?
 この一年間、龍騎を見続けてきた人間にとって何やらすごく意味深な言葉だと思いませんか?
 つまり……『何らかの理由で本来あるべきシナリオを改変させられた…』……という、製作者からのメッセージのような気がしてきませんか?
 
 これは、仮面ライダー龍騎という本来傑作と呼ばれるはずだった作品がこのような形で幕を下ろさざるを得なくなってしまったことを自分自身に納得させるためにひねり出した屁理屈なのでしょうか?
 しかしこのようなエンディングを迎えてしまったからこそ、何故番組放映途中で『仮面ライダー龍騎の最終話』映画という形で映像化しなければいけなかったのかという疑問を捨て置くわけにはいきません。
 当初は、脚本家の頭に2つのエンディングがあって、そのうちの1つをああいう形で残してみたくなったのかなあ……などと思っていたのですが、普通はあの映画のエンディングとこのエンディングを比べる必要は……というか、いろんな意味でこのエンディングを選択する人間はいないと思います。
 頭さえ冷やしてみれば(本当の意味では冷えていない)……導入部分から中盤までの話の流れとして、このエンディングはあり得ないし、ストーリーに流れる価値観が同一とも思えません。
 今になって思うと、前半から中盤にかけての物語の構成力とテンポと、後半およびラストに至るまでの展開がちぐはぐすぎです。
 そして、中盤以降でのライダーのエピソードと物語の展開も妙にちぐはぐで、最初から決められていたシーンを、どこかでねじ曲げたシナリオの中に叩き込んだかのような違和感が今ならはっきりと自覚できます。
 高任の日記を読み返してみても、その傾向は明らかですし。
 最初にあれだけ煽った13人のライダーは全員でてきていない……そして、映画が公開される直前直後の、本放送におけるこれと言って内容のない話がダラダラと続いたこと。
 そこに何かきな臭いものを感じてしまうのは高任だけですか?
 考えてみれば、自分の願いのために相手を倒す……番組自身で語っているように、そこにはきっと正義なんてモノはないでしょう。
 ただでさえ重厚で難解なストーリーでした。多分、かなりの家庭で子供達は大人達に質問したでしょう……親として、非常に答えにくい質問を。
 戦闘シーンが子供達に悪影響を与える……などと言った馬鹿げた横ヤリで、かつて仮面ライダーはえらい目に遭いました。
 
 つまり、結論は1つ。
 
 仮面ライダー龍騎という物語は、何らかの圧力によってああいうエンディングを迎えざるをえなくなってしまったのではないでしょうか。
 ただ、ウルトラマンコ〇モスのように途中でうち切ることはできない……なら、シナリオを書き直させるまでだ……そんな圧力の過程で、製作者サイドが無念の思いで作り上げたのがあの劇場版『仮面ライダー龍騎・エピソードファイナル』ではなかったのか?
 おそらくは、劇場版のストーリーこそが本来考えられていたシナリオに近いモノ(多分、そのモノではないはず)ではないかと。
 つまり、視聴者をグイグイと引きこみ熱狂させた前半から中盤にかけてだけが、本来の仮面ライダー龍騎としての物語であり、中盤以降はねじ曲げたシナリオの各所に初期設定のライダーのエピソードが突っ込まれた。
 そして、終盤にかけては……本来のシナリオは影も形もなく。
 
 まず高任の願望ありきで、そこに推測を混ぜ込んで考察してみたのですが……なんか、妙に説得力ありますなあ。(笑)
 多分ホームページやら雑誌なんかにいろんな情報があって、そんな情報に対してほぼ盲目に近い立場の高任の考察は間違いなく見当はずれなのでしょう。
 でも、ただ一つだけ言わせて貰うと……仮面ライダー龍騎という物語を小説と捕らえると、途中から明らかに価値観の違う複数の書き手の存在を感じてしまいます。
 もちろん、戦隊モノや特撮モノにおいて脚本担当が順繰りに交代していくと言うことは知ってます。
 ただそれは物語についてきちんと理解し合った上でのやり方であるのにたいして、この作品においては中盤はともかく、物語が収束に向かう終盤において物語の中に漂う価値観そのモノが明らかに異質です。
 
 あ、蛇足ですが後もう一つの可能性があります。
 
 この作品自体が、『一年かけて視聴者を馬鹿にする』という壮大な構想の元に制作されたのではないかと。
 ……もしそうだとしたら、見事にやられました。
 テレビ画面の前で、製作者の思惑通りにアホ面をさらけ出しまくったわけですから。
 
 
     2003年1月19日       文責 高任斎

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