６時起床。

　カーテンを勢いよく開き、もう一つおまけに雨戸を勢いよく開いて闇を払う光の剣を室内へと招き入れる。

　奔流する光のシャワーを浴び、闇になれていた瞳から涙が出た。

　涙が目元に留まることに、ほんの少しだけ肌の衰えを感じてしまう微妙なお年頃。

　そんな不安を拭い去るようにして指先で涙を拭い、いっぱいに太陽光線を浴びながら背筋を伸ばす。ぽかぽかとした春の日差しが、心と身体を起こしていく。

　太陽が昇る頃目を覚まし、太陽が沈む頃に店じまい……こんな生活の全ては灯火管制下におかれた状況のおかげか。

　ふと、窓から下を見下ろすと……だしを取った煮干しのようにやつれた感じの少年が道を歩いている。

　朝の６時に家に帰り、８時半には学校へと向かう学徒兵のなれの果て……その姿を見ることから一日は始まりを告げる。

　

　８時２０分。

　ガラララッ！

　細腕でシャッターを押し上げようとして視界に白い物体が飛び込んできた瞬間、急に力が抜けた。

　ガシャーン！

「ああっ、なんともいけずなシャッターですねえっ！」

　裏声なのか、それとも地声なのか……頭の中でキンキンと反響する声にこめかみをそっと押さえる。

「……私はプロ、私はプロよ」

　呪文を繰り返しながら、頬のあたりをパンと叩いて気合いを入れた。

　ゆっくりとあがっていくシャッターの向こうに、クネクネと悶えるような珍妙な動きを見せる物体。

　初めてそれを見たときの驚きを忘れることができない。とりあえず、それを物体だと思うように決めたのは結構早かった。

　生物学書物を読む限りでは、その物体はいわゆる人間という種との共通点が無視できない程度には散見できた。

　しかし、それを認めるのは……自分自身の矜持が許さない。

「フフフ……グッドモーニングですおねえさん。何か笑える商品は入荷しましたか？」

　今自分がシャッターを支えている手を放しこの物体を購買に並べると上司に怒られるような気がしたので、想像するだけにしておく。

「ああんっ、無視ですか？無視ですねえっ、私がウサギならたき火の中に身を投じて死んでしまうところですっ！」

　ここ一週間というもの、朝っぱらから試練を与え続ける神が何を望んでいるのかわからず、そっとため息を吐く。

「つれないですっ、つれないですねえっ……私は、客！お客様！ギャグを飛ばすのは義務じゃないですかあっ！」

　南国熊本とはいえ、３月の風はまだまだ冷たい。

　そして、体感温度がさらに２度低下する。

「……呪うわ」

「ああっ、萌さん……いや、これはですねえ…」

　周囲に影を振りまく少女に何か弱みでも握られているのか、その物体は困ったように踊り出す。

　少女が微かに頭を下げる……もし保護者ならもう少し厳重に保護しておいてもらいたいと思いながら笑みを返す。

　慌ただしい登校中に購買に立ち寄る人間は少ない。

　もちろん、ガラスにへばり付くようにして商品を眺める客もそうはいない。

「……何か、お求めですか？」

「あ、あの…このネクタイって…」

「２万円（戦争税抜き）です」

　見るからに不幸そうな少女の顔から、何かが剥離していく音を聞いたような気がした。

「２万円ですか？」

「戦争税を含めると、２万３千円になります」

　少女の瞳から光が消え、頭が微かに揺れる。

「２ヶ月……私のお給料の２ヶ月分…」

　ふらふらとおぼつかない足取りで消えていく少女を笑顔で見送るのも楽ではない。

　

　カラーン、コローン…

　チャイムが鳴る……これから昼休みまではほとんどお客が来ない。

　そう、お客は来ない。

「ガハハ……」

「ちょっと本田先生……早く次のページをめくってくれよ」

「うるせえぞ滝川！今授業中だって事わかってるか？」

　……やはりこの人は先生なのか、世も末だ。

　小さくため息をつき、壁にめり込んだ銃弾の痕をそっと指先で撫でた。何故かほんのりと温かい。

　週刊漫画ぐらいすぱっと購入して欲しいとは思うのだが何よりも命が惜しい。そう思ってちらりと視線を移動する。

「くっ……グスッ……ああん、何見てんだ。泣いてなんかいねえぞ！」

　少女漫画を読んで涙する……自分にもそんな頃があったなあと懐かしむ。ただ、空いている手でシャドーボクシングをしたりはしなかったように思うが。

「……っ！」

　ぞくぞくっと背筋を這い登る悪寒を感じて、慌てて左右に視線を送る。

　どこかにいるはずなのに姿はない……プロの仕業だ。

「……ちっ、今日も靴下とちがうばい…」

　どこからか聞こえてくる囁き声。

　なんとなく、女性としての貞操よりも人間としての貞操が危ういような不思議な感覚が薄らいでいく。

　その感覚と入れ違うようにお客がやってきた。

「牛乳っ！」

　叩きつけるようにお金を置く小さな手。

「いくつ？」

「１つ……あ、いや……２つ」

　牛乳瓶を両手に持ち、右手に持った方を白い液体を飲むと言うよりは流し込むような見事な飲みっぷり。

「……ごちそうさま」

　牛乳瓶をコトッと置き、教師が読む週刊漫画を跳ねるようにして覗き込んでいる少年を蹴りつける。

「何だよっ！」

「ふんっ、間違って２つ買っちゃったからあげる」

「……お前が飲めば？人間隙間家具の体型が少しはマシに……」

　とりあえず目を覆う。

　可聴域を超えた悲鳴をあげる少年と怒り狂う少女。多分、２人とも素直になれないだけだと信じたい。

　しかし、とりあえず今は授業中なのですが……

　ぼんやりとグラウンドに目を向けると、いかにもな感じの少年が汗を流しながらグラウンドを走り回っている。

　仕事はないんだけどうろちょろされると邪魔なので取りあえず走ってろ……と命令されたような雰囲気を感じた。

「すいません、こちらの教科書を……」

「……はい？」

　ほんの少しだけこぼれてしまった感情に反応したのか、明らかに教師らしい女性が恥ずかしそうに頬を染めた。

「……家に教科書を忘れてきてしまって…」

　前言撤回。

　

　昼休み。

「こんにちわ、おねえさん」

　心が和む笑顔。

　できることならお持ち帰りしたいが、自分にできることは精々……

「んー、何か今日は気分がいいから税金分おまけしちゃおうっ！」

「え、いいんですか？」

「いいの、いいの…」

　ぞくり。

　背筋を這い登るのは悪寒ではなく、まごうことなき殺気。

「私も何かもらおうか……もちろん、税金抜きでな。なんだその顔は、そなたは特定の個人に特定のサービスを施すのか？」

　明らかに少女は危険だった。

　例えて言うなら、シーイズ、デンジャラス……全然例えていないあたり、少し動揺しているのかも知れない。

「そうだな、これをもらおう…」

　……税金分は自腹。

　しかし、学徒兵として戦争に赴く少年少女から何故戦争税を徴収しなければいけないのか不思議に思いながら遠くを見つめた。

　背の高い少年が、小さな少女にキャンディーを渡している。

　何となく、『ほうら、このお菓子を上げるからちょっと一緒に…』てな感じを受ける不思議な光景は、巫女衣装を纏った少女が刀を抜いて斬りかかるという要素が加わって一気に現実味を失った。

「……あの」

「はっ、はいっ！」

　女の長髪はいろいろ欠点をごまかすようだが、男の長髪は欠点を浮き立たせる。

　つまり、長髪が似合うこの少年は……

「このネクタイを…」

　お金持ちだった。

　財布からちらりとのぞいた紙幣の束に息をのむ。

　平和な昼休みが終わっていくのを感じながら、あのネクタイを羨ましそうに眺めていた少女のことが少し気がかりだった。

　

　放課後。

「……閉店直前に生ものは半額っちゅーのがセオリーとちゃうか？」

　いえ、廃棄です。

　笑顔を絶やすことなく赤毛の少女に微笑みかける。

「戦時下に、貴重な食べ物を無駄にしてはいけないと思うんや…」

　……記録上は廃棄ですが、このサンドイッチは私の晩ご飯なので無駄にはしません。

「うちがそれを半額で買う……そして、定価で買えない困っている人間に定価の７割で売る。これが、有名な大岡裁きの三方一両損ってやつやなあ……」

　……いえ、多分あなただけが得をします。

　商売人の微笑みに対して、プロの微笑み返しで抵抗を続けて１０分。

「ところでおねーさん、やきそばパンの賞味期限って……」

「……あなた、死にたいの？」

「え？」

　少女の顔に怯えが走る。

「好奇心は猫を殺すわ…覚えておきなさい」

　芝村一族でさえ知り得ぬトップシークレット。

　かつて、その謎を一心に追い続けた同僚は変死を遂げていた。

「お、おねーさんは……？」

「私はただの購買のおねえさん…」

　少女は背を丸めて帰っていった。

　何となく充実感。

　４時半の閉店時間まで後数分……春の夕暮れは穏やかに暮れていく。

　そんな購買の前を、女の子よりも綺麗な顔をした少年がツンと澄まして通り過ぎていく。

　自分の信じるものを見つめ続けて、結局は周りを取り巻く危険さえも見えなくなってしまう瞳。

「こら、待ちなさいよ大介…」

　少年の瞳が理知的な輝きを取り戻す。

「……なんだよ？」

「忘れ物……」

　少女のバンダナによく似た模様の布に包まれたその物体は多分お弁当。

「……早くよこせよ」

「姉さん…」

「はぁ？」

「欲しかったら、お姉さんって言ってみなさい……」

　少年は恥ずかしそうに左右を見渡した。

　閉店まで後２分ほど残しているが、聞こえよがしにシャッターを下ろし始めた。多分、あの少年は大丈夫。私の同僚とは違う。

　シャッターが閉まりきる直前、『姉さん…』という囁きを聞いたような気がした。

　

　店を閉じてからの残務処理を終えると、時刻は６時をこす。

「おっと…お疲れさまです…」

　購買の出口でぶつかりそうになった男性教師が、慌てたように頭を下げてきた。

「あ、いえ、こちらこそ…」

　会話になっていない。

　何となくこの人は苦手だった。サングラスの向こうにとてつもなく冷たいものを感じるときと、とてつもなく優しい何かを感じるときがあったりして良くわからないから。

　玄関口を抜けて……

「にゃ？」

　猫……と納得するまでにしばらく時間を要した存在が、自分の肩越しに遠くを見つめていた。

　この猫（？）は、夜になると活動的になる。

　不思議だ……猫の活動時間は精々５時間程度と聞いたことがあるのだが。

　何が見えているのか気になって後ろを振り返るが、深い海の色をした空が見えるばかり。これでも、少しずつ日は長くなっている。

「さて……若い娘が家に帰ってすることも無し」

　頭の中に不愉快な響きを残すように自虐的な言葉を呟き、蹴り出すようにして足を踏み出した。

　呆れるぐらい同じような日々が続いていく。

「あら、購買のお姉さん…」

「あら……毎日大変ね」

「もう慣れましたから……」

「……あんまり慣れない方がいいと思うけど？」

「ええ、本当は私だって慣れたくないんです」

　寂しそうな表情を浮かべ、手の甲で頬を拭う少女。

「じゃ、急いでますから…」

　右手に持ったナイフを腰の位置に構えながら少女が走っていく。

　

　私は、今日もまた悲しいぐらいに同じ時間を過ごしている……

　

　

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　完

　

　

　少しずつ明るい路線に戻したいなあ……と思ったり。（笑）