「わーい、炊き出しだぁ!嬉しいなあ、楽しいなあ…」
ぱたぱたと食堂の中を走り回るののみの姿を見て、夏樹は心の中でため息をついた。
長々と続く戦闘と海上封鎖のため、百翼長以下の食料支給が半減カットされたのは半月前のこと。その結果、個人で充分な食糧を確保できない状況が続いたため、部隊として炊き出しを行わざるを得なくなった……正直なところ助かるとは思うが、夏樹は楽しいとは思わない。
ああやって騒いでいるのが祭であるならば皮肉の一つも呟くところだが、相手がののみということで夏樹は黙っている。口に出そうが出すまいが、ののみにとっては関係ないのだから。むしろ、自分の中の感情を閉ざすために余計な労力を強いられているのは夏樹の方であった。
くじ引きで割り振られた炊き出し当番のせいか、今日の当番は、夏樹・ののみ・ヨーコ・祭の4人という、かなりアンバランスな構成だ。
しかも祭は食料調達に出ているため、今食堂にいるのは3人だけ。
まあ、小隊きってのお料理上手のヨーコがいるだけに、2人役立たずがいても何とかなるだろうと夏樹は考えていた。
「ののみサン、何がそんなに嬉しいデスか?」
おたまを持って、ヨーコが鼻歌交じりで振り向く。
夏樹から見れば、ヨーコも充分に楽しそうに見えるのだが。
「あのね、あのね…みんなと一緒に食事できるっていいことなのよ。ののみ、ずっと独りだったから……」
「……そうデスか」
ヨーコはくっきりとした美しい眉を微かによせ、それを取り繕うように白い歯を見せた。肌の色が濃いためか、白い歯が夏樹の目にはやけに眩しく映る。
誰かが言っていた。
いつも笑っている人間は、その存在自体が悲しいのだと。
だからと言うわけではないが、夏樹は普段ほとんど笑わずにすごしている。
他人からの同情も、自分自身に対する同情もまっぴらだった。自分の今の境遇に選択の余地はほとんどなかったが、少なくとも自分が選んだ境遇であることに変わりはない。
ばたばたした足音が食堂に向かって近づいてきた。
どうやら、祭が材料を調達して帰ってきたのだろうと判断してそちらを向く。
「まいどー、三河屋です……ってそんなことあるかい!」
祭は食堂に入ってくるなり暗い雰囲気に気づいたのか、渾身の1人ボケ1人ツッこみを盛大に滑らせた。
暗い雰囲気であった食堂を、気まずい雰囲気があっという間に押し包む。
ののみとヨーコが礼儀正しく聞かなかったフリをしているため、夏樹はむしろ祭に哀れみを感じた。
「ねえねえ…なっちゃんもみんなで食事すると楽しい……?」
何事もなかったように…というか、この雰囲気にいたたまれないものを感じたのだろう、ののみは夏樹の袖を引っ張った。
「ののみ、狩谷君をそう呼ぶんはあかんて……」
祭は食料の入った袋を机の上に置くと、ののみの頭に拳をあてて軽くグリグリする。
「まつりちゃん、痛い……」
「……別に、かまわないさ」
「え?」
構わない、と呟いた夏樹の方をびっくりした様に祭が見やる。その表情にはどことなく複雑なモノが浮かんでいたが、夏樹はそれを無視した。
「そ、そう…?」
自分が呼ぶと怒るのに…という、少し傷ついた表情。
「……加藤さん、サラダを作る、手伝ってくだサい」
「ん、ええよ」
気を取り直したようにヨーコの方を振り向くが、祭の後ろ姿がいつもより小さく見える。その背中を見て、夏樹は中学の頃の祭をぼんやりと思い出す。
誰かに遠慮するような、いつも自身のなさそうな目立たない少女。あの当時は、直接自分に話し掛けてくることなど出来なかったのだろう。
自分が弱くなったから……いや、傷ついたから話し掛けることが出来るようになったのか?
夏樹の指が、白くなるぐらいに自分の膝にくい込んだ。
指先に感じる感触とは裏腹に、指先が食い込んでいるという感触はない。痛みもない。多分、昔の自分はこうして知らない内に誰かを傷つけてきたのだろうと思う。
「ののみもお手伝い……」
「ののみはええて、そこで待っとり」
困ったようなののみの表情に気が付いて、夏樹は心の底に沈みかけた意識を浮かび上がらせる。
多分、ののみに真っ暗な闇がイメージとして流れ込んだのだろう。しかし、汚れ無き少女には、闇の中は見えない。
「じゃあ、ののみサン。このお皿、並べてくれマスか?」
「ののみ、頑張るからねえ!」
夏樹は3人が細々と働くのを眺めながら、食堂を後にした。自分が手伝うことなど何一つ無いのだから。
「……人は、もっと弱くならないとね」
誰かを傷つける力さえ失うほどに……という言葉をのみ込む。
自覚しているにせよ、してないにせよ誰かを傷つけてしまうのが人間の生き方であるならば……それが変わらないのならば、弱くなればいいと思う。
「でも、それを行うためには……フフッ、強くならないとねえ…」
夏樹は小さく肩を揺らし、静かに笑った。
士魂号3番機の整備担当である、森・小杉と共に、戦闘データに目を通してこれからの整備方針について語り合う。
「速水サン達、機体を壊さないカラ助かりますネ…」
「……本音を言えばそうね。1番機は大変そうだもの」
「1番機がある水準に達するまで、手伝った方がいいんじゃないかな…?」
「だからといって、3番機を放置しておくわけには……」
夏樹の提案に、森が少しだけ困ったように反論する。
組織的硬直思考とは別の、違う理由によって彼女が難色を示しているのが手に取るように分かる。
士魂号を整備するときは、パイロット部署との緊密な連携が必要である。そのため、パイロットと直接話する機会は多い。
つまりは、そういうことだろう。
「……じゃあ、森さんが残れよ。僕と小杉が1番機のサポートに回るから…いいよね?」
「ワタシ、それでいいデす」
「そ、そう…」
喜色を隠せない森を見て、夏樹は微笑んだ。
「な、何よ…」
「いいや、別に…」
夏樹は森に向かって軽く首を振った。
生真面目そうな少女が夢見ている将来図は知らないが、およそ実現不可能なものであることだけは理解できた。
なぜなら、この少女は何も知らないから。
この小隊の快進撃を支えている4人のパイロットが優秀であることは周知の事実なのだが、彼ら4人の戦意の違いに気が付いている人間はあまりいないように夏樹には思われる。
彼らを支える戦闘意欲……言い換えれば、身内の奥に潜む幻獣に対する殺意の出所の違いとでもいうのだろうか。
壬生屋のそれは復讐……幻獣が憎いから殺す。
多少、血筋による義務もあるかもしれないが、幻獣が家の、主に兄の敵であると考えているのは間違いない。
そして、滝川のそれは恐怖……一番単純な、自分が死にたくないから殺す。1人で居ることに対する恐怖といい、彼の行動規範はほとんどが恐怖より発している。
芝村は、自らが芝村であるために戦う……だからいつまでもたどり着けない。
「殺したいから殺す……」
夏樹は、誰もいなくなったハンガーの天井を見上げて呟いた。
「速水……みんなが君のことを化物と呼んでるよ。でも、僕だけは君のことを理解しているつもりだ…」
夏樹は、今までどこにも行けなかった。
誰かがここまで来なければずっとこの場に留まるしかなかった不自由な身体。しかし、自らの鎖が解き放たれるその瞬間を待ち続け、その瞬間はすぐそこまで来ていた。
「早くおいでよ、速水。ここは……いいところだよ」
まがい物の存在しない、全てが蒼く染まる世界に夏樹の心はとぶ。
「ずっと待ってたんだ……今度こそ、君の願いを叶えてあげるよ」
一番弱く、儚い少年が一番強い何かを目指していた。
そのかなわぬ目標のために自分の中にある全てを捨て、ただ誰かのためだけに身を滅ぼそうとする。その姿は、夏樹の目を奪い、やがて魂を奪っていった。
彼にできることが自分にできないわけはないと思って、夏樹は実にあっさりとそれを捨てる決意をした。
捨て方を教えてくれたのは、あの芝村一族。
「絶望と悲しみの海からそれは生まれ出る……」
感覚を失ったはずの脚が疼き出し、夏樹は子供のような表情で微笑んだ。
すぐそこまでその瞬間が近づいているのを感じる。そうすれば、何度も何度も失意の中で繰り返した少年の毎日がやっと終わりを告げる。
夏樹は肩を震わせて笑った。
「そろそろ、セレモニーから帰ってくる頃かな…」
速水厚志・芝村舞両名の絢爛舞踏章受章セレモニーは、今が戦時中と言うことを忘れさせるぐらいにきらびやかな雰囲気の中で行われていた。
しかしその渦中にある二人は、モニターの中でさほど嬉しそうな表情も見せていなかった。このセレモニー自体が、国の…いや世界全体の一種の逃避と理解できない二人でもないせいだろう。
『……やっぱり、アンタは幻獣より恐い何かになっちまったんだな』
『あなたが微笑むと、次の瞬間には殺されそうでなんだか恐いですね』
『おいおい、俺のことは殺さないでくれよ……』
『あ、あはは……ボク、ちょっと用事を思い出しちゃった…』
『あなたを見てると…先生なんだか恐いわ』
昨日までは友人であり仲間であった人間と会話するたび、少年の顔から笑みが消えていく。昨日までの自分と今の自分の本質は変化していないのに、誰もがみんなよそよそしい態度をとる。
それは、過去において夏樹が体験したのと同じ感情。
速水がまた、仲間の姿を見かけて話し掛けるのを夏樹は見ていた。
「あ、加藤さん…ちょっといいかな?」
「あ、あの…今まで失礼なことをしたと思うけど、忘れてください……」
「……」
「ほ、ほなうちはこれでっ!」
速水から後ずさりするように離れ、いきなり背を向けて走り出す祭。彼女が校舎の陰に飛び込み荒い息を吐きながら震えているところに夏樹は近づいた。
「今の行動が一番失礼だと思うけどね…」
「狩谷君……で、でも…やっぱり恐いし…」
「ああ、別に責めているわけじゃないよ……」
夏樹は、これまで祭が見たことのない様な笑みを浮かべた。
「……加藤さんは、僕のことが好きなのかい?」
「えっ?そ、そんな、うちは…」
顔を真っ赤にして狼狽える祭。
もちろん、夏樹の表情に浮かぶ嫌悪に気が付くわけもない。
「でもね、僕は君が大嫌いだよ…」
夏樹は冷たく言い放ち、祭に背を向けて車椅子の車輪を押した……が、車椅子は動かない。
「……放してくれないか、加藤さん」
『加藤さん』という呼びかけを特別他人行儀に発音すると、祭の身体が大きく震えたのを感じた。
「な、なんでっ?うち、ずっとなっちゃんのために頑張ってきたのにっ?」
『なっちゃん』と呼ばれることよりも、恩着せがましい祭の台詞に不快感を覚える。
「そう?…計算高く、自分より弱い存在を見つけてはしゃいでただけのような気がしたけど、違うのかい?」
「ち、違う!うちは昔からなっちゃんのことが好きで……」
「……速水に対する態度が君の本性だよ。だから、僕は君にお節介をやかれるのが不愉快だった……それすらも気が付いてなかったんだろう?」
夏樹は祭の手を振り払って速水の姿を探した。まだ、遠くには行ってないはずだ。
「なんで……じゃあ、どうしてうちのやることを我慢してたん?」
「暇つぶしだよ。ただぼんやりと待ち人を待つのも芸がないからね」
「待ち人…?」
祭りの表情に、精神の均衡の崩れかけた危うさが見て取れた。
「ああ、ずっと待ってたんだ……長い長い間」
会話をうち切るように夏樹は車輪を押した。
実際には、もうどうでも良かった。誰かを好きだとか嫌いだとか……そんな人間らしい感情を捨てたのは遠い昔のことだったと思い出す。
今の夏樹にあるのは、気分がいいか悪いかだけだ。
突然、背後で何かが壊れたような祭の笑い声が響きだす。その悲鳴じみた笑い声は、夏樹を上機嫌にさせた。
夏樹は昔のクセで、満足げに笑みを浮かべ、車椅子の速度を速めていった……
「何用だ、狩谷。このような場所に呼び出して……」
抜けるような青空の下、洗濯物が風にはためいている。
舞は屋上をぐるっと見渡し、自分と夏樹以外に誰もいないことを知って微かに頬を赤らめた。どうやら、すげえ勘違いをしているようである。
「いや…芝村さんにお礼を言いたくてね」
「礼…だと?」
舞は微かに眉根を寄せた。
芝村としての生を選んでから、最も縁遠くなった言葉である。しかも、『芝村さん』と夏樹に呼ばれたのは初めてであった。
「ああ…君が速水を目覚めさせてくれたからね」
「何を…?」
言っている、と呟きかけた舞の口が閉じられた。
そして、もう一度屋上を見回して言った。
「……狩谷。そなた、ここまで1人で来たのか?」
「誰もおかしいとは思わなかったのかな?」
「何がだ…?」
質問を疑問で切り返され、舞は夏樹の意図がつかめないのか首をひねった。
「クローン技術および、生体クローンの医療転用技術の発達したこの世界において、どうして僕は車椅子生活を余儀なくされているのか……とかね」
数瞬の間、沈黙が二人の間を支配する。
あらぬ方角に視線を泳がせていた舞が、じろりと夏樹の顔を見て口を開いた。
「……何故だ?」
夏樹は、自分の肩が大きく震えるのを感じた。
「何故…だって?ククッ、芝村である君がそれを聞くのかい?」
笑わずにはいられない。
「……確かに、確かに君は世間知らずだよ」
ひとしきり笑った後、舞に向かった夏樹の顔からは表情が消えていた。
「つまり、これから何が起こるか知らないわけだ…?」
全てを仕組んだ芝村一族……目的のためなら手段を選ばない一族ということは身にしみてわかっていたが、まさか一族の人間にまでそれを徹底してるとは。
無論、それが芝村が芝村たる所以なのだろう。
「……我が芝村一族が、そなたを治療させなかったのか?しかし、それこそわからんな。どんな理由があるといのだ?」
治療させなかっただけではなく、自分の脚を奪った事故さえもが芝村の仕業なのだが今となってはそれはどうでも良かった。
「芝村は合理的な一族だからね。理由のないことはしないよ」
夏樹は、舞に見せつけるようにゆっくりと立ち上がった。
「か、狩谷…そなた…?」
「……やっと取り返したよ、自分の脚をね」
「嘘…なのか?いや、歩けるのならそれにこしたことはないだろうが……」
舞の言葉を無視して、夏樹は微笑んだ。
「長かったよ。でもそれだけにいい気分だ……全てがこの時のためにあったとしたら……そうだね、脚を失ったことさえも僕の中で肯定できる気がする」
ここではない、どこか別の場所に辿りつくための翼。それを手に入れるための第一歩。
夏樹に内在する力に気圧されたのか、舞の脚が一歩後ずさりし、かろうじてそこで踏みとどまった。
「へえ、絢爛舞踏の勲章がよほど重いと見える…」
じわり、と夏樹と舞を取り巻く空気が歪んで見えた。
重くなった空気を吹き払うように、小気味のよい舞の言葉が裂帛の気合いをもって夏樹の鼓膜を震わせた。
「あのような飾りに興味はない。ただ、私がさがることで厚志が軽んじられることには我慢ができぬな」
「彼を軽んじるつもりはないよ……君にしたって能力的には充分に人を超えてる……」
微風。
湿度を含んだ重い空気が、ゆっくりと動き出すのを2人は感じた。
「……今日までお疲れだったね」
舞は、夏樹の口調にこれまで幾度となく耳にした殉職者への哀悼に類する響きを感じたのか、表情が硬くなった。
「芝村は竜になれない……既存世界の消滅を願うほど激しく傷つくことがないからね」
夏樹は一旦言葉を切って、舞に教え聞かせるようにゆっくりと呟いた。
「だから芝村は、竜を得るためにいろいろと手を回して……回しすぎたんだ」
「そなたは……何を言っている?」
「天空に浮かぶ黒い月……」
空を指さしながら、夏樹は一歩前進する。
「あれは……芝村の天敵さ」
今まさに、黒い月による日食が始まっていた。あらゆる可視光線を吸収すると言われるその存在によって、太陽の黒い染みが大きくなっていく。
さらに一歩。
「……僕も、彼と同じでね。世界をどうこうすることには興味はないんだ…だから、芝村の嘘がよく見える」
己の脚が疼いた。
さらにもう一歩進み、舞との間合いに入る。
「僕は芝村が大嫌いだ。全てが計算通りにいくかどうか…だから、僕は彼に賭けることにしたよ」
「……私を殺すのは、我が一族への復讐か?竜というのも思ったより小さな存在だな」
「いいや……」
夏樹はゆっくりと首を振った。
「くり返されるループにうんざりしてね。いっそのこと決戦存在を生み出すための儀式を僕の手で行ってやろうというのさ」
己を人としてつなぎ止める糸を断ち切る作業……それこそが儀式。
夏樹の両手は、両親の血によって汚れていた。あの時自分がやらねば、いずれ芝村がそれを行ったであろう。
夏樹は、頭の中でゆっくりと言葉を反芻した。
『時が来たら…あの娘を殺せ』
人を人とも思わぬ傲慢さに吐き気がする。しかし、それを殺意へと変換して舞の瞳を見据えた。
舞の身体からすっと力が抜けた。
「……私では勝てぬな。かといって逃がしてくれるわけでもない」
「あきらめが早いね…」
そう呟いた夏樹を見る舞の顔は、奇妙なほど穏やかであった。
「ふふっ、あやつがヒーローか……それでこそ我がカダヤ」
年齢相応のやわらかな少女の微笑みは、とても絢爛舞踏の浮かべるそれではないように思われた。
「……私がこの小隊に来たのは……いや、あの男らしいな」
ふと、舞の表情が堅苦しいものに取って代わった。
どことなく壬生屋を思わせる頑迷さを漂わせた表情で、舞は誇りに満ちた口調で胸を張った。
「我が一族の命は、人類決戦存在を生み出すためだけにある」
「……他に、ないのかい?」
夏樹がそう囁くと、舞は少しだけ沈んだ表情を浮かべて言った。
「厚志と共に有ることが出来ぬのは残念だな……だが、それは望みすぎというものだろう。自分の死に対して希望を持つなど考えもしなかったが……厚志が死ぬよりは良い」
夏樹はつい、『好きなのか?』と言いかけ、慌てて口を閉じた。
「……覚えておけ。我は勝てぬが、厚志は必ずそなたに勝つだろう」
夏樹の右手で首を掴まれ、高々と持ち上げられたまま舞が呟く。
首が強く絞まり、空を向いた舞の目にゆっくりと太陽を浸食し続ける黒い月が映った。
「厚、志…」
「運が良ければまた会えるさ……ただ、次に会うときは…何を?」
「……悪いな、気が変わった」
首を掴まれたまま、舞の身体が大きく跳ね上がたのである。その無理な動きにより、舞の首の骨がイヤな音をたてた。
「……っ!」
「…手みやげ、だ……もらって…いく…」
夏樹の左腕をへし折った舞の身体が、二度三度と大きく痙攣した。
舞が完全に動かなくなるのを確認して、夏樹はその身体をゆっくりと横たえた。既に折られた左腕は元通りに治っている。
「……さて、絶望と悲しみの海だ」
歓喜に満ちた表情で、夏樹は暗い空を見上げて笑う。
太陽は完全に黒い月に覆われ、それを厚い雨雲が覆い隠そうとしていた。
竜によって倒壊したプレハブ校舎の瓦礫を押しのけ、速水は舞の身体を抱き起こした。そして、気温と同化していくそのぬくもりを逃がさぬように、しっかりと抱きしめる。
「速水君。気持ちは分かりますが、すぐに旧市街に……」
坂上は、自分に向かってまともに浴びせかけられた殺意に身体が凍り付く。
「気持チハ、ワカリマスガ?」
およそ人間性を感じさせない擬似声音のような発音に、背中に冷たいものが流れた。
「こ、このままでは……」
世界が、と言いかけた坂上を速水は遮った。
「世界なんてどうでもいいよ……でも、アレは殺すさ。絶対にね…」
舞の身体を抱いたまま、速水は立ち上がった。
速水の身体を取り巻いていた青白い光が離散していくのを目にして、坂上は目を見張る。
「何か…」
手伝うことはありませんか、という坂上の言葉を先読みしたのか、速水は舞の身体を預けて呟いた。
「邪魔したら…殺すよ」
感情を…怒りすら感じさせない言葉に坂上は絶望的に悟った。
今のこの少年こそが絢爛舞踏なのだと。
殺したいから殺す、それ以上でもそれ以下でもないただの衝動の塊。そして、それを実行に移すことの出来る能力の所有者。
坂上は、自分のベルトに挟んである銃の存在を思い出した。
ここで…ここで彼を殺さなければ世界が破滅するという恐怖感が義務感へと変換されてゆく。
しかし、少年の目が微かに細められたのを見て動けなくなった。身にしみついた軍人の習性が、勝てない勝負に身を投じることを許さない。
坂上から戦意が消えたのを確認して、速水は無造作に背を向けた。
「速水君…武装はどうしますか?」
少年の歩みが止まり、見たもの全てを凍り付かせるような笑顔で振り返った。
「絢爛舞踏に対して愚問ですよ、先生…」
ゆっくりと遠ざかっていく後ろ姿を見て、坂上は大きく息を吐き出した。
やっと動くようになった身体の各部に違和感を覚えながら、震える指先でサングラスを外して、新鮮な空気を肺へとに送り込む。
それは重く、湿った空気……いつの間にか、空は真っ黒な雨雲に覆われていた。
「彼は、あの男のもくろみを超えるかもしれませんね……」
満足げな死に顔を浮かべて腕に抱かれている少女は、坂上の問いかけに何も応えない……
熊本の大地に、大粒の雨が降り注ぎ始めた。
「やあ、遅かったじゃないか……」
夏樹は穏やかに微笑みながら、自分に向かって真っ直ぐに歩いてくる少年に向かって両手を広げた。
熱い雨雲に覆われ、今や周囲は夜を思わせる闇の中にある。
しかし、夏樹の赤い視界はまるで闇の影響を受けていない。凍り付くような笑みを浮かべたまま無造作に近づいてくる少年の全てが見えていた。
「……君の存在がとても不愉快なんだ、死んでくれないか?」
「死ぬ…だって?」
夏樹は肩を震わせて大きく笑った。
「あり得ないよ、そんなことはあり得ない。だって、僕と君は同じなんだから……互いに同調して買った方に取り込まれる以外の結末は存在しない」
そう言い終えた瞬間、夏樹は大きく跳躍した。
自分の立っていた場所に大穴が穿たれるのを見て口笛を吹く。
「そうだなあ、どちらが主導権を握るか決めておく必要はあるよなぁ…」
夏樹の右腕が動いた瞬間、少年は素早くその場から姿を消した。砕けたアスファルトが周囲に激しく飛び散っていく。
夏樹の心は歓喜に震えていた。
抑えがたい破壊の衝動……その対象が己の半身とも言うべき存在ならではの、恍惚感にも似た思いが迸る。
己の、埋めようのない孤独からの解放を心から実感する。
「ガァァッ!」
身内からわき上がる歓喜に、自分を抑えつけることが出来ずに夏樹は吠えた。そして、歓喜に打ち震えて思い通りにならぬ唇を歪めて叫ぶ。
「来いよぉ…速水。遊ぼうぜぇ…」
抑えつけてきたあらゆる衝動を解放させる瞬間、人間であった頃の記憶が夏樹の中を駆け抜けていく。
それまで自分が持っていた特典を一瞬にして奪われた屈辱。疎まれ、虐げられ、優越感の見え隠れする同情と無神経な好奇心。
何故自分だけが……
無限に続くかと思われた慟哭の中で激しく仲間を求め、動かない己の脚にナイフを突き立て、流れる赤い血を見ながら魂を彷徨させた。
そんな時、自らの境遇が芝村一族の手によって作られたものと知りつつも芝村一族の少女のためだけに全てを捨てる少年に出会った。
愚かな姿に呆れ、蔑み……そして妬ましかった。
同族嫌悪をも含む全ての感情が入り混ざった中で、夏樹は決めた。
『壊してやる』…と。
そして、言われるままに両親に手をかけ人であることを捨てた。今となっては、ほとんど感情は思い出すだけで、新たに感じることはない。
それでも、何かしらの痛みらしきものを胸の奥に感じて夏樹は顔を歪めた。それを振り払うように大きく、挑発的に声を張り上げる。
「アハハッ!君が何を考えているか手に取るようにわかるよ。もっと、もっとだ!理由なんていらない、捨てろっ!」
呼びかけが、夏樹自身の衝動を呼び起こし、身体を衝き上げる。
速水が大地を蹴って大きく跳躍するのが見え、夏樹の思考は一旦途切れた。攻撃を軽く受け流しつつ、次の攻撃に備える。
速水は気が付くだろうか?これが戦いではなく文字通り遊びであるということに。
所詮はまがいものの竜と、真の竜になろうとする者の争いが勝負になるはずもない。それでも、彼にはその手を血を染める必要があり、夏樹にとっては彼の手に倒れることが望みであった。
自らの存在は、速水の持つ闇と同調して共にあることができる。
それは、夏樹自身が孤独より解放される瞬間にほかならない。
夏樹の肉体を中核として集まった肉塊が次々とはじけ飛んでゆく。嬲るような、絶え間なく襲いかかる痛みの中で、心は歓喜に震える。
ずるり、と身体から内臓を掴み出されるような感覚と共に、夏樹は速水の手によって肉塊から引きずり出された。
「……ようこそ、速水君。君の望み通り、世界が変わるよ…」
速水の手が振り下ろされた瞬間、夏樹の視界が暗転した。
そして、自分が大きな闇の一部に組み込まれていくのを感じた……
知人からの一言。
『なんか、最近暗い話が多いね。ぱーっと明るいのを書こうよ』
「よっしゃ、任せとけ!」
……ごめんなさい、嘘です。(笑)
しかし、狩谷の脊髄損傷による車椅子は絶対変ですよね。この世界の技術水準なら何かの圧力がない限り絶対治療できるはずですし。(笑)
まあ、最初に田辺さんでSランククリアしたときは、『あ、やっぱり一周目で順序を踏まないといけないのか?』と思ってました。
その時点での高任が想像していたGPMゲームストーリーってのはこういう感じです。(笑)
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