「……こんなに早く壊れてしまっては困るんですよ、芳野先生。もっと僕を楽しませてほしいものですねえ……」
 岩田の細い指先が春香の顎をなぞっていく。
 その淫靡とも思える指先の動きに、春香は眉1つ動かさない。ただ黙って岩田の瞳を見つめているだけで、されるままにしていた。
 その表情をちらりと見て、岩田は突然興味を失ったように春香の身体から離れた。
「やれやれ、何か早すぎると思ったら…まだ完全に壊れてるというわけでもなさそうですね……」
 岩田は大げさに肩をすくめて、手近の椅子を引き寄せて腰を下ろした。そのまま背もたれを抱きかかえるようにして、春香の顔をじっと見つめる。
 春香もまた、岩田の顔をじっと見つめ返した。
 沈黙……肌に絡みついてくるような重苦しいものではなく、空気が激しく揺れ動くタイプの静けさだった。
「フフフ…」
 やがて、岩田は顔に手をあてて狂ったように笑い始めた。沈黙に耐えられなくなったという類の笑いではない。
「ククク……いやですね、その目。人を哀れむような…それもよりによってこの僕を哀れむような目…許せませんね。ええ、許せませんとも……」
 いきなり椅子を床にたたきつけるようにして岩田は立ち上がった。
 春香はそれをただ眺めている。
「……まあ、憎まれて当然だと思うんですけどね…」
 さっきの激した口調が嘘のような穏やかな口調。
 怒りの表情から一転しておどけたものへと変化した岩田の顔を、春香はただじっと見つめ、やがて口を開いた。
「……岩田君。」
「なんですかぁ、芳野先生。」
 クネクネと腰を振る岩田を見て、春香は軽く目を伏せた。
「そんなに…寂しいの?記憶に苦しむ仲間がそんなに欲しかった?」
「イイッ!イイですねえ、その台詞。さあ、もう一度!女教師が教え子を誘惑するような口調でもう一度プリプリプリーズッ!」
 自分の身体を抱くようにして、岩田は腰をよじり始めた。
 春香はほんの少しだけ優しい笑みを浮かべて、穏やかに告げた。
「石津さんの事はかまわないの?…あなたが望むならお相手してあげましょうか?……忘れさせてあげる……なんて気休めを岩田君に言うつもりはないけど。」
 岩田はぎくりとしたように動きを止めたが、それは明らかに芝居じみている。それが分からないほど、春香と岩田のつきあいは短くない。
 僅かな間をおいて、岩田は軽く両手を肩の辺りまであげて微笑んだ。
「ふっ、僕ぁ照れ屋の上に口べたなんです。しかも、芝村ですからね。」
「嘘おっしゃい。」
「全てがまがいもの……とも言い切れませんよ。」
 春香に投げつけられる岩田の言葉は、どこか空虚な響きがあった。
 それが岩田の内面から来ているのか、それとも岩田が見せる一流の演技なのか、未だに春香は判断が付かない。
 春香は、少しずつ重くなっていく頭を軽く振って呟いた。
「……結局、私はあなたの慰み者なのかしら。」
「おやおやぁ…芳野先生。あなたも、いつの間にか電波を受信する事が出来るようになったのですか、おめでとうを言わせてもらいますよ。」
 ……彼の真実はどこにあるのだろう?
 その身体も、表情も、全てが偽りで構成されているとしか思えない人物。
 しかし、春香は自分もまた似たような存在だと思っていた。
 いわば作り物のボディに、作り物のパーソナリティ……ストレスに耐えかねて人格が崩壊すればリセットされるだけの自分を人と呼ぶのに抵抗を感じていた。
 『我思う故に我あり』という言葉が真実であるならば、自分自身で自分の存在を否定しているようなものであり、生徒達の死、と言うよりもそのストレスが自分を少しずつ壊していく。
 今の日本には、掃いて捨てるほど存在する量産型クローンの1人。
 ただ、それに余計な記憶を上乗せされたのが自分であり、芳野春香であった。
 全てが偽りで構成されているのに、個人のパーソナリティを押しつぶすような膨大な記憶だけが本物だった。
「……心の痛みだけが本物なんてね。」
「ああっ、電波ですね。素晴らしいィ…私はいい後継者に恵まれましたねえ。」
 ストレスに耐えかねて壊れる度に、春香は残酷なメンテナンスを繰り返されていた。最初は酒に逃げた……が、それが出来たのも最初の数回で、今は酒に逃避できないように岩田によって怪しげな処理まで施されている始末だった。
 精神的なよりどころを求めて、教え子と関係を持ったこともある。しかし、それももうできない……何よりも、過去に自分が犯した過ちを春香が覚えていたから。
 生徒達が戦って死んでいくのを、ただ眺めているだけしかできない自分の無力さ。そして、壊れていく自分を機械の部品のように冷徹な目で見られる恐怖。
 例えようのない喪失感を与えて、岩田は自分に何を望むのか?
「……強いのね、岩田君は。」
「いけませんねえ……電波が混線を起こしているようです。」
 春香は、ため息をついて自分の左手の薬指を右手で掴んだ。
「……なんです?」
 岩田が見守る中、春香は指を反対方向に反り返らせた。
 生木を無理矢理折る時のような抵抗が突如消え失せた瞬間、聞こえるはずのない音が室内に響いたような錯覚に捕らわれたのか、岩田は微かに表情を動かした。
 岩田は、逆方向に折れ曲がった春香の指を眺めてぽつりと呟く。
「折れましたねえ。」
「折れたわね。」
 春香は平然と応え、左手を岩田に向かってさし出す。
 岩田は少し困ったような表情でその手を見つめ、そして心にもなさそうな台詞を呟いた。
「痛くないんですか?」
「……あなたの方が良く知ってるんじゃないこと?」
 退屈そうな表情で、岩田は大きくのびをした。
「あいにく僕ぁ、女性の顔が苦痛に歪むのを楽しむ趣味はないもので。」
「あらそう?先生、岩田君は真性のサディストだと思ってたのに……。」
 春香は笑おうと思って……少し失敗した。
 折れた指が痛くない。そのことが少し悲しくなったのだ。
 その表情を見とがめたのか、岩田は幾分真面目な表情で言った。
「痛みが欲しいんですか?まさか、痛みこそが生きている証とでも?」
 口調とは裏腹に、春香の腕を優しく取った岩田はなおも言葉を続けた。
「永遠に繰り返される痛みこそが生きている証とでも言いたいんですか?」
 鈍い…骨と骨がこすれるような音が春香の中で響く。おそらくは岩田がずれた骨を元通りにしたのだろう。医療技術に関しては熟練している岩田のやることだった。間違いのあろう筈もない。
 そして白衣をひらめかせたかと思うと、次の瞬間にはその手に包帯が握られたりしている。
 いちいち芝居じみた仕草が好きな子だ、と春香は思った。
「痛みなど……心だけで充分だと思いませんか?」
「人が…心だけで生きられるならね。」
 岩田は春香の指に包帯を巻き付けたまま、大きな声で笑い始めた。
「フフフ…、こりゃ傑作です。芳野先生、あなた哲学者みたいなことを言いますねえ。」
「……」
「おっと、……これは失礼。」
 くすくすと笑い声をあげながら、岩田は春香の指の治療を終えた。
「一ヶ月も経てば元通りになりますよ。……それまであなたの精神が耐えられるかどうか分かりませんけど。」
 春香はそっと目を閉じ、幻獣との戦闘で散った教え子達の姿を思い出そうとした。
 友軍の危機を救うために傷ついた士魂号を走らせた滝川……春香の水着姿を見て顔を真っ赤にした初心な少年だった。
 豪雨によって泥沼のようになった戦場で、眠るように座り込んでいた来須。
 それらの記憶と共に、膨大なメモリーが春香の中を駆け抜けていく。
 彼らはいつだって本当だった……現実にそこに生きていた。
 それにひきかえ自分は……全てがまがいもので、そしてこの心の痛みでさえも嘘か本当かの区別も付かない。
「……また輪廻は続くのね。」
 何気なく呟いた春香の言葉に、とがった岩田の耳が猫のように反応した。
「輪廻……ですか?僕ぁ、ループと呼んでますけどね。」
 クイ、クイッと腰をひねってじっと春香を見つめていた岩田は、思い出したように指を一本立てて笑った。
「……輪廻。なるほど、私達にとってはまさしくこの世界は悩みと苦しみの地獄ですからね……決戦存在は解脱者というわけですか。」
 感心したように岩田は言葉を続けた。
「いや、決戦存在が世界を救うとしたら……彼らは神ですかね。どちらにしろ、人ではないことは確かです……」
「あなたは……?」
 何故そうしないのか?
 と、問いかけた春香の口を閉じさせたのは、岩田の優しい微笑みだった。
「今回は随分と質問が多いんですね…?」
「そうかしら?」
「ええ…青臭い理想論を聞かせたり、あきらめの早かった昔が嘘のようです。」
「それは、だって……意味がなかったもの。」
 岩田は、再び表情を隠して踊り出した。
 いつもより多く回っていた。
「……?」
「フフフ…嬉しいんですよ、僕は。」
「……やっぱり岩田君はサディストだわ。」
 自分が苦しむのを見て心を安んじているのか、それとも冷徹な研究者にとっての観察対象に過ぎないのか。
「……道具…」
 春香の身体がびくりと震える。
「…として扱われたくないんですか?」
 図星を指されて、春香の頬がかあーっと赤く染まった。
「あ、当たり前でしょ!」
 そう叫んでから、自分の発言が何か巨大な誤解を招きかねないことに気が付いて、さらに顔を赤くする。
 首の骨をコキコキと鳴らし、岩田は何をいまさらという様に春香に背を向けた。
「……戦争ってのは、人を機械として見ることです。戦いに参加しない人だけが、人間として見てもらえると僕は思ってますが……」
「…岩田君?」
「まだメンテナンスの必要はないでしょう?寝不足だと化粧のノリが悪くなりましてね、私は睡眠を多く必要としてるんですよ……」
 岩田は軽く右手をあげて、そのまま部屋を出ていった。
 岩田が出ていくと、春香は頭の重さを再び感じた。
 元栓の緩んだ蛇口から、一滴ずつ毒のようなものが身体に蓄積されていくような感覚。多分、自分が自分でいられるのも後僅かだろうと春香は判断していた。
 これまでの経験から考えると、精々後1週間という所に違いないということも。
 そうすれば頭に感じる重さが紛れるとでも言うように、春香は激しく頭を振った。そしておぼつかない足取りのまま、部屋を後にする。
 ひんやりとした夜の外気に触れ、春香は自分が知らず知らずのうちに汗をかいていたことを認識させられた。
「……気持ち悪い。」
 ぼんやりとした頭で、春香は呟く。
 足は自然とシャワー室へと向かった。家に帰るよりも先に、さっぱりしたいとしか考えられない状態。
「あら…?」
 窓から湯気が漏れている。
「……使用中なのね。」
 そう呟いておきながら、春香はそのままシャワー室の扉を開けた。
「ん?」
 入り口の方を振り向いた若宮と春香の視線が交錯した瞬間、若宮の鼓膜は過度のストレスを与えられることになった……。
 
「……ごめんなさい。」
「いや、まあ……凄い一撃でしたな。まさか、芳野先生に白兵戦で後れをとるとは。」
 正確に言うと、絹をまとめて引き裂いたような悲鳴に耳を塞いだ瞬間、春香のビンタが襲ったのだが、負けは負けと割り切っているのだろう。しかし、左頬に綺麗な手形を残して快活に笑う若宮は、かなり間抜けに見えた。
「しかし……酔っぱらっているようには見えませんが。」
「ちょっと、ぼーっとしてて……」
 どことなく歯切れの悪い春香の言葉に、若宮は曖昧に頷き、空を見上げた。
「……確かに、そういうことはありますな。まあ、俺がシャワー室を覗いたりしたら、ただではすまんのでしょうが。」
 そう呟いて、若宮はどこか寂しそうな表情を浮かべた。
 かつて、覗き行為で停学処分を受けた仲間のことを思いだしているのかもしれない。
「身体中、傷だらけなのね……それに、良く鍛え上げてるみたいだし。」
 さっきシャワー室で見た若宮の身体が傷だらけだったことを思い出して、春香は呟いた。刃物で切られたような傷に、銃創もいくつか確認出来ている……それとも、記憶がそれを補完しただけかもしれなかったが。
「壮大な無駄でしょうな……」
 春香は、不思議そうに若宮の横顔を見つめた。
「何が、無駄なの……?」
「いくら鍛えても……例えば、芳野先生が銃を持ってそこから撃てば、あっさり人は死にますからなあ……」
「そうかしら……身体と身体がぶつかる白兵戦なら、大変な破壊力を持っているような気がするけど。」
「それで決着が付く様なことは、世界にはそんなにないんですよ……勤務時間外じゃないと、とても言えない台詞ですが。」
 躊躇無く戦うためなのか、考えることを自ら放棄してしまうところが昔からあった。春香はそのことを良く知っている。そんな彼があんな寂しい背中を見せたのは……誰のせいだったのか?
 春香はほんの少しだけ無理に微笑んで、そして若宮がそうしているように空を見上げた。
「先生もね、普段なら言えないけど……最後の最後には力しかない。そう思ったことが何度かあるわ。」
 二人は無言のまま、しばらくの間空を眺めていた。
「芳野先生は……絢爛舞踏をごらんになった事がありますか?」
「……あります。それもニュースなんかじゃなくて間近で。」
 若宮は、ほんの少し驚いたような表情で春香を振り返った。一般人である春香に、そんな経験があるなどと信じられなかったのだろう。
「ほ、本当……ですか?」
「青い光を衣にし、見えない何かを見つめていたわ……」
「俺は一度だけ見たことがありますが…どう、思われましたか?」
「……寂しい人だったわね。それまでの仲間はおろか、恋人までが彼を恐怖するようになったわ……最後は泣きながら幻獣を倒していたわね……」
 ウォードレスを着用し、左右の拳を真っ赤に染めて竜を屠った瞬間の寂しい背中を思い出す。
 春香の表情に何か感じるものがあったのだろう、若宮は声を潜めて聞き難そうに尋ねてきた。
「……お知り合いの方、だったのですか?」
「私の教え子よ……っ。」
 春香は頭を抱えた。
 頭がどんどんと重くなる……痛くはない。もし痛みがあるとしたら、それは心の痛みなのだろう、指先に巻き付けられた包帯の白さがそれを自覚させてくれている。
「芳野先生っ!?」
「大丈夫…私は大丈夫だから……」
 忘れたい記憶であったが、決して忘れてはいけない記憶なのかもしれない。岩田がいなければ、二度と戻ることのない記憶の数々。
 多分、忘れてはいけないのだ……
 春香の視界に白いヴェールがかかった瞬間、かつての恋人の手が自分の身体を抱き上げたのを春香は感じていた。
 
 それから数日後、春香は教壇に立って生徒達を見回していた。
 何人かが、少し困惑したような表情を見せているがいつものことだ。春香は大きく息を吸い込んで自己紹介を始める。
「みなさん、はじめまして……」
 
 
                       完
 
 
 萌ファンの天敵芳野先生です。(笑)
 あれさえなければ、誰かとラブラブになってハッピーエンドの結末という話になったかもしれませんが、まあ、これはこれで良し。(笑)別に若宮に悪意はありません。
 そういえば試したことはないんですが、芳野先生と恋人状態になってから芳野先生が壊れたりするとどうなるんですかね?
『はじめまして…』などと自己紹介された次の瞬間に、『えっちな雰囲気』になったりするのだろうかと、高任は大分いやな想像をしてしまいますが。(笑)確か、他人との関係が全部白紙に戻ったような記憶があるが定かではありません。
 

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