熊本市立図書館に戻る | 次の章へ>>

「速水君」
「はっ、はいっ!」
 ぽややんとした笑顔が、少し緊張していた。
 それもそのはず、初対面の女性にいきなり声をかけられるなど彼にとっては初めての経験だったのだから。
「……ごめんなさい」
「え?」
 いきなり謝られ、速水の混乱は深まった。
「叩いて……って、そんなことできる人じゃなかったわよね」
 そう呟いて、素子は少年の手を取って思いっきり自分の頬に叩きつけた。
「え、え?」
 少年のバランスを狂わせるまでに思いっきり振り回された一撃で、素子の唇から一筋の血が伝う。
「……ごめんなさい。もう、死ぬわけにはいかないみたいだから」
 手の甲で口元を拭うと、素子は少女のような笑顔を浮かべた。
「どこかの誰かとお幸せに…」
「……?」
 
「中村君」
「あ……原主任だったかいね?」
「……」
「……?」
 素子は中村の全身を見つめ、そしてため息をついた。
 複雑な心境で靴を脱ぎ、顔を真っ赤にしている中村の前で靴下を脱いだ。
「あげる…」
「な、何故にっ!?」
 ちなみに、ソックスハンターは非合法。
 普通は靴下云々の趣味は周囲にばれないように秘かに活動します。
「お詫びのしるし」
「全然わけわからんのじゃが?」
「でしょうね……まあ、自分が納得するためだけの勝手な行動だから気にしないで」
 そして素子は中村に向かって右手を差し出した。
「……一度貰った靴下は返さんばい」
「ふふ、それでこそ中村君だわ……じゃあね」
 
 同時刻、小隊職員室。
「……これが、最後のループですか。そう思うと感慨深いモノがありますね」
「フフフ……私が思うに、多分『あの人』にとって竜なんかはどうでも良かったんでしょうねえ」
「黒い月の消滅により新たな幻獣は生まれることはありません……もちろん、現状でも人類は不利に違いないのですが」
「……『あの人』が恋している限り人類は負けませんよ」
 白衣を翻し、男は自分の顔をタオルで拭った。道化の顔の下から、印象の薄い素顔が現れる。
「今日でお別れです、坂上先生……いや、名も知らぬ同志ですかね」
「岩田君…」
「あなたは見守るんでしょう、この世界を?」
「さよならを言うには…この世界に深く関わりすぎましたからね。こんな私を軽蔑しますか?」
「いいえ、むしろ羨ましいですね……希望に溢れたこの世界で生きていけるんですから」
「敢えて荒野を目指しますか…」
「……安穏とした時間を過ごすには、私は罪を重ねすぎましたから。まあ、実を言うと原さんが恐いんですけどね」
 そう言って、岩田は会心の笑みをこぼす。
 それこそ、坂上が一生忘れられないような……
 男の首が力無く垂れたのを見て、坂上はサングラスをかけ直してゆっくりと立ち上がった。
「もうすぐ夜明けだというのに……それを見ずに去るか…」
 3月3日……いや、既に3月4日となった熊本に、もうすぐ陽が昇る……
 
「おはようございます」
「あら、おはよう。今日も元気ね、感心するわ」
 ぺこり、と頭を下げてプレハブ校舎へと急ぐ田辺の後ろ姿を眺め、素子はため息をついた。
 そりゃあ、実際に年齢が高校生なら違和感はないだろうが、善行と原は違う。最初に善行が高校生として授業を受けているのを目撃したときは涙を流して大笑いしたものだった。もちろん、その後で自分の姿が善行にどう映るのかに思い至って冷たい汗を流したのだったが。
「大体なんで今更高校生なのよ……って何故なのかしら?」
 素子はふと考え込む。
 世界がループしている。それはつまり自分が望んだコトで……自分が高校生というと初めて善行と出会った頃の…
 素子の顔が真っ赤に染まり、キックの嵐が校門脇に立つ木の枝をはらっていく。
 恥ずかしさのせいだろう、攻撃力と速度が通常の15%増しといったところか。脚の届く範囲の枝と雑草を全て刈り終わって素子は大きく息を吐いた。
 軽い酸欠状態になっているせいか、妙に気分がハイになっていた。
「……そうね、やり直すというのはいいことかも知れないわ」
 間違ったと思ったらやり直す。
 悪い事をしたら償いをする。
 それは間違いなく大人の態度である。
 考えてみれば、あの男と別れたせいで髪を切り、する必要もなくしたくもなかったダイエットに成功し、素直でがんばりやだった性格が嫉妬深くなり……
 素子の歩く速度が少しずつ速くなっていく。
 まるで、すっぽかされることを知らずにデートの待ち合わせ場所へと向かった時のことのように。
「善行!やり直しを要求するわ!」
 一組教室の入り口でそう叫び、素子は善行に向かって歩いていった。
「え、やり直しって…?」
 困惑する善行の胸に向かって素子が飛び込んだ瞬間、善行の姿がかき消えた。誰もいない空間に突き出されたナイフを嘲笑うかのように、善行のモノとおぼしき眼鏡が床に跳ねた。
「やり直しって……こういうことですか?」
 教室の入り口付近から聞こえてきた善行の声に、素子は慌てて振り向く。
「……まだ、償いは終わってないわよ」
「これでは……足りませんか?」
 善行の指先が右目の傷をなぞった。
「だって、あなた避けようとしたじゃない」
 
 誰だって避けようとします。
 
 という無言のツッコミが教室中に充満するが、素子はじっとナイフを見つめていた。
 自分はあれから随分強くなったはずだった……今だって本気で刺そうとしたのに善行は無傷。
 自分一人が傷ついたというのに、男がのうのうと無傷でいることが許せない。
「……いや、だから私も傷つきましたって、ほら」
 と、右目の傷を指さす善行。
「……って、何で私の考えてることがわかるのよっ!」
「そりゃあ……」
 善行はポケットから替えの眼鏡を取りだし、素子の視線を避けるようにしてそれを付けた。
「何故でしょうね……自分で考えてみてください」
 優しく微笑む善行。
 その笑顔が、一瞬だけ素子の心をあの頃へと引き戻す。
 あの頃に戻るためには、一度全てを精算しなければいけない。そんな思いが素子の中に渦巻く。
「……こうしませんか?」
「何?」
「今から1ヶ月……あなたは戦闘中以外はいつでも私に襲いかかっても結構。ただし、1ヶ月以内に目的が果たせなかったときは……」
「……その時は?」
「あの時言えなかった私の話を聞いてもらいます……」
「……そう、後悔しない?」
「後悔なら……」
 善行は何かを言いかけて口をつぐみ、ずれてもいない眼鏡の位置を指先で調節した。
「何でもありませんよ……」
 そう呟いた善行の表情は、やはりどこか優しかった……
 
 
               原さんファイナルマーチ第1話完
 
 
 ここまで来ると、悪ノリの極致です。(笑)
 お願いですから真面目に突っ込まないでくださいね。

熊本市立図書館に戻る | 次の章へ>>