「……いくら世界がループするからって、我々までもが同じように行動をループさせる必要があるとは思えませんが」
 いかにも興味なさそうにそう呟き、岩田は組んだ両手の指を絡ませあいながら言葉を補った。
「……まあ、茶番は嫌いではないですけどね」
「茶番……ですか。そうやって自らを貶める言葉を選ぶ必要はないでしょう」
「……ぼかぁ、運命に従順なマゾヒストだったことは一瞬たりともありませんよ」
 何か言いたげな坂上の視線から顔を背け、岩田はほんの少しだけ遠い目をして言葉を付け足した。
「私も、好きで傍観者の立場をとっているわけではないんですよ」
「私達は力を合わせるべきでしょう……知っていることがあるなら…」
「話しても無駄だと思うんですけどね……大体、あなたに話してどうにかなるのなら、私自身がどうにかしてるとは思いませんか?」
 岩田は一旦言葉を切ると、サングラスの向こうを透かしてみるように坂上の目をじっと見つけて言った。
「……もしくは、あなた自身が戦場に立つことで」
 微かな沈黙。
 それは訪れたときと同じような唐突さで、坂上が口元に小さな笑みを浮かべた瞬間に消え去った。
「……私は、この世界の住人ではありませんので」
「フフフ……私に言わせれば、あなたも充分に道化ですよ、坂上先生」
「数え切れないほどのループを経ましたが、今でも忘れられないんですよ……闘神とも思えたあなたの姿が」
「……」
「……あの時、何故決戦に背を向けたんです?」
 岩田は坂上にわびるようにほんの少しだけ目を伏せた。
「つまり……私は弾劾されているわけなんですか?」
 岩田は一旦言葉を切り、何気ない風に自分の手のひらを見つめた。
 かつて本当の意味で一度だけ戦ったその手には、見えない汚れがこびりついている。他の絢爛舞踏と同じく、舞台から引き下がるしかできなくなった手。
「ソロモンの財宝、ミノスの迷宮……人が褒め称えるのは1人の成功者ですけどね。1人の成功者の陰には数え切れないほどの落伍者がいるはずなんです」
「……あなたは、成功者でありながら逃げた」
「……」
 岩田は無言で坂上を見た。
「竜といえども、あなたには勝てなかったはずだ……私がそう確信するぐらい、あなたはただ強かった」
「……照れますね」
「いや、今この瞬間だってあなたは」
「……道化の化粧は似合いませんか?」
 岩田が指先で頬のペインティングをそっと拭うと、模様がまるで涙のように滲んだ。
 あの日以来、岩田は戦場に立っていない。
 いつのループも整備兵として日々を過ごし続けた姿は、坂上の脳裏に刻み込まれた鬼神を思わせる姿からはかけ離れたモノであっただろう。
 何かを窺うような坂上の視線が頬に突き刺さる。
「あなたが竜を倒せば…」
 岩田の口元に、自嘲めいた笑みが浮かぶ。
 坂上のいう竜など数え切れないほど殺した……もちろん、そんなことは言うつもりはない。
「人は、誰もが竜になる資質を持っています……いや、竜になれるからこそ人なのか」
「……」
 不可解な呟きに対して坂上は沈黙で答えた。
「それなのに……その逆の資質を持つ存在は非常に希でして」
 岩田は小さく微笑むと、坂上の視線を誘う様に右手を開いて目の前でひらひらと振って見せた。
「何か…?」
「最近、手慰みに覚えたんです……」
 岩田のしなやかな指が一本ずつ折りたたまれた。そして、再び開いた瞬間、坂上は岩田の手の中に一本のリボンが出現するのを目の当たりにした。
「……同調技能ですか?」
「ただの手品ですよ……種も仕掛けもある」
 穏やかな笑みを浮かべ、岩田は左手の袖の中を示して、そこに隠しポケットがあるのを坂上に見せた。
「リボンですか……また新しいギャグでも思いついたんですか?」
「萌さんをね、驚かせてみようと思いまして」
「……ああ、プレゼントですか。きっと…あの娘は喜びますよ」
 坂上は、リボンを付けた石津の姿を想像しようとして、何かに気がついたように顔を左右に振った。
「話を逸らそうとしてますか?」
「あなたの話なら、最初から見当はずれですよ……感謝して欲しいぐらいです」
「……?」
「ある世界で通用したやり方が他の世界で通用するなどとは考えてませんよね?」
 揶揄するような口調についに我慢ができなくなったのか、坂上は握りしめた拳をテーブルに叩きつけた。
「これ以上無為な時間を……いや、消えていく彼らを見ていたくないんです!」
 数え切れないほど繰り返された自己紹介、日常の中で育まれる感情の全てを置き去りにして繰り返される春。
「……所詮は他人でしょう、あなたにとって」
 そう呟いた瞬間、坂上が突き出した拳を岩田の右手が受け止めていた。
「他人だと…?」
「他人でなければ……あなたが、忘れないでいてあげればいいだけの話でしょう。自分の弱さをすり替えて他人を責めるのはお門違いだと思いますが」
 厚化粧の下に隠された哀しい微笑み……岩田の口元にそれが微かに浮かび上がったのをみて、坂上は恥じ入るように腰を下ろした。
「昔……ずっと考えていたことがあるんです」
「……?」
 坂上の気勢をそぐように、岩田はしなやかな人差し指をピンッと立てて呟いた。
「何故、ここの世界はループするのかと」
「……答えは出たんですか?」
 坂上の問いには答えず、岩田はただ淡々と喋り続ける。
「たとえば、この僕が世界のループを望んでいるとしたら……いや、僕だけじゃなく複数の存在がそれを望んでいるとしたらそれは世界の選択なんですかねえ?」
「……その考えは傲慢なうえに無意味でしょう」
「何故?」
「その命題を成立させるためには、世界がループしている事を知った上で歴史のやり直しを強く願う存在が複数必要です……私の知る限り、この世界の存在でかつループそのものを知る存在はあなただけの筈だ。そして、あなたがそれを望むのもおかしな話です」
「……へえ、僕が世界のループを望むのはそんなにおかしな事ですか」
 岩田が小さく微笑んだのを見て、坂上は眉を吊り上げた……が、不満そうな表情で押し黙っているだけだ。
 岩田は、そんな坂上をからかうように努めて明るい声を出した。
「視野が狭くはありませんか?」
 そう、かつて自分が瀬戸口に言われた台詞だ。
 その台詞の意味が理解できるまでに随分と時間を費やした。また、彼がそんな助言をしてくれた理由を理解するまでに何度ループを繰り返したことか。
「僕ぁ……ループを知ることで視野が広がりましたよ」
 全てを見透かすような瀬戸口の紫色の瞳……それもその筈、彼は全てを見透かしていたのだから。
「第一、速水君が竜を倒したことを忘れたんですか?その後、世界はどうなりました?」
「……あの時は、芝村さんが竜の手によって殺されましたから」
「速水君が世界をループさせた……と、思ってるんですか?」
「……そう思ってた時期もありました」
 速水が絢爛舞踏となってから既に20数ループ……注意深く仮面をかぶって生きてきた少年にとって、直情タイプの坂上を欺くことなど造作もない。
「わからない……何もわからないんです。私が居た世界とは何もかも違う」
 坂上は拳をぎゅっと握りしめて項垂れた。
「あなたが戦いを放棄した竜は原さんだった……そして、速水君が倒した竜は狩谷君……ループの度に竜が変わるのならば、竜自身が世界をループさせるはずもない」
「……だったら、竜以外の誰かが救いを望んでたんでしょうね」
 ふと、何かに気が付いたように坂上が顔を上げた。
「ある存在の願いが世界をループさせているとしたら……」
「その願いに沿うような結末でしか未来への扉は開かれないでしょうね……でも、それが我々の望む結末であるとは限らない」
「だったら、この世界に救いはないのですか?」
 坂上の眉間に刻まれた深い皺が震えている……何度となく否定してきた言葉をついに口にしてしまった事に対する自分への怒りなのか、それとも悔恨なのかはわからない。
「……あまり愉快ではない考えですね」
 覚えの悪い教え子を諭すような涼しげな微笑みを浮かべ、岩田は目を閉じた。
「古き神々、時の流れを司る世界樹、千年に一度現世に現れる代理人……」
「……」
「私には……未来を語る資格がない」
 そう呟くと、岩田は音もなく立ち上がった。
「……ところで、僕ぁ人間的に未熟でしてね」
「?」
「自分だけが重い荷物を背負っていると勘違いしている人間には意地悪をしたくなる性質なんですよ」
「……」
 岩田の後ろ姿が溶け込むように闇の中に消え、坂上は大きくため息をついた。
 闇の中に視線を向ける。
 夜明け前が一番暗い……そんな使い古された言葉が頭をよぎるが、決してそうではないことを坂上は知っていた。
 今、夜が始まったばかりではないと断言できる理由もない。
 
「……お待たせしました、萌さん」
「……そう…ね」
 太陽の光をあまり好まない少女との逢い引きはいつも闇の中。
 ただ、月明かりと星明かり……太陽光に比べればささやかすぎる光の下の少女は、はっと息を呑むほどに美しく感じる。
 萌は澄んだ瞳を岩田に向け、そしてすぐに目をそらして俯いた。
「誰と……」
「え?」
「何でも…無いわ」
 背後から岩田の手によって優しく抱きしめられて、萌は身体を強ばらせた。
「僕ぁ、二股かけるほど器用な性格はしてませんよ」
 軽くウエーブのかかった髪の毛に顔を埋めて岩田は囁く。
「……知ってる」
「おや、とうとう私達は電波オンリーな仲に…」
 闇の中でさえそれとわかるほど少女の頬が赤くなり、岩田は小さくため息をついた。
「……何かあったんですか?」
「……ごめん…なさい」
 少女は岩田の手を振りほどくと、恥じ入ったように身を縮こまらせた。
「ちょっと…不安に…なった…の」
「不安…ですか?」
「あなたが……どうして、わ、私を……す、す、好きになってくれたのか…ひゃぁっ」
 あらためて岩田に抱きしめられて、萌はくすぐられたようなおかしな悲鳴を上げた。先ほどよりも、顔が真っ赤になる。
「最初はね、打算だったんですよ……軽蔑してくれて結構ですが」
「……」
 何も言わずにただ岩田の腕をぎゅっと握りしめる萌。
 そんな少女の姿が、たった1つだけ与えられた玩具に執着する子供のように思え、岩田は広大な記憶の海から小さな記憶を拾い出した。
「あなたが世界を救ってくれる……そう思ってた時期がありまして」
「……?」
「ああ、これでは何を言ってるかわかりませんね……どう説明したらいいのか」
 困った表情を浮かべた岩田の顔を覗き込み、萌は小さな手でその頬を挟み込んだ。
「萌…さん?」
「私を…見て…」
 いつもと同じ、途切れるような呟き。
 その中に、どこか切羽詰まったものが混じっている。
「時々…そんな目をする……不安になるの……あなたが、私以外の……誰かを…見てる気がして」
「……すいません」
 ごまかしてしまえばいい……そう思いながらも、正直にならざるを得ない。
 かつて、少女が竜の手によって殺されたとき岩田は世界を救う資格を無くした。そして、自分が資格を無くしたと知ってからも、記憶は竜を殺すことを強制した。
 その修羅道から脱出できたのは……観察者の、坂上の希望に満ちた視線のおかげだった。かつて自分が少女に向けたものと同種の視線が、岩田の心を凍りつかさんばかりに冷えさせた。
 だから、坂上は岩田が戦いを放棄したことしか知らない。
「……」
 黙り込んだ岩田の身体を萌がぎゅっと抱きしめた。
「忘れないで……私は、あなたが好き」
「ええ、忘れません…」
 季節が幾度も巡り、誰もがそれを同じ名前で呼んだとしても…そこにあるのは違う春。
「あなたが…この世界で生きていくことに…意味を…与えてくれた」
 怒りも憎しみもどこか地平の彼方に置き去ってきたような少女の姿が、全てを許す女神の心から発したモノではなく、ただ世界そのものをあきらめていただけということに気付いた季節があった。
 それは。遠い昔。
「もし、僕が…っと、何でもないです」
 少女を愛した自分を後悔したくはない。
 あの季節を共に過ごした少女ではないとしても、なおも愛さずにいられない激情は今も生々しく息づいている。
「僕ぁ…自分がもっと冷静な人間だと思ってました」
「……私…あなたを…恐い人と…思ってた」
 初対面で一時間ほども少女を追いかけ回した事を言っているのか。
 ループするたびに襲われる恐怖を少女に語っても、おそらく本当の意味で理解はしてくれないだろう。
 新たな始まりを告げる季節に自分が求めて止まない少女が存在するのを知った瞬間……笑いたいような、泣きたいような感情が岩田を襲う。
「怖がらせるつもりはなかったんですが…」
「ずっと…恐かった……今も…だけど」
「おや?」
「どんどんと…私の中に……割り込んでくる……から」
 この少女に意味を与えた自分……別な言い方をすれば、自分は世界そのものに意味を与えられるほど大きくはなかったと言うことか。
「夏は好きですか?」
「……嫌い」
 萌は、少し考えるような顔をして呟いた。
「でも……これまでの夏には…あなたが……い、いなかったから」
「夏も秋も冬も好きになれる時が……きっと来ると思いますよ」
「……?」
 その季節に、自分がいなかったとしても…
「おっと、忘れるところでした…」
 岩田は芝居気たっぷりに恭しく立ち上がり、一礼と同時に隠しポケットからリボンを取りだして見せた。
 もちろん、萌の目には何もない空間からそれが突然出現したように映っただろう。
「……ぁ」
 萌が、頬を赤らめて小さく微笑む。
 それは、たとえるなら月の光のような優しい微笑み。
 岩田にとっては、それですら眩しすぎる。
 少女は、世界を救えなかったかもしれないが……少なくとも、自分という存在をどこかで救ってくれたのかもしれない。
「……に…似合う……かしら?」
「ええ、とっても…」
 恥ずかしげに目を伏せた萌の髪に結ばれたリボンが風に揺れる。
 いずれ訪れるであろう別離のために……いや、訪れなければならない別離に備え、岩田はこの光景を網膜に焼き付けた。
 
「……おい田辺、俺の授業中に安眠を貪ろうたあ良い度胸じゃねえか」
「……」
「田辺…?」
 またいつものように『すいません』を連発しながら机ごとひっくり返る姿を想像していたのだが、ピクリとも反応しない。
「おーい、マッキー……あ」
 机に突っ伏した田辺の身体を軽く揺さぶっていた新井木が、口元に手をやった。
「どうした?」
「本田先生、マッキーってば寝てるんじゃなくって気を失ってるみたい」
「そういえば、さっき『うーん…』なんて呟いていたような気が…」
「……体力ないのに、猛烈に授業を受けたりするから」
「おめーらは自習してろ……」
 本田はため息混じりに呟くと、付き添いを志願する新井木を制止し、田辺の身体を軽々と抱き上げた。
「……」
「どーしたの、先生?」
「いや、何でもない……」
 本田は心配そうな表情を浮かべた新井木に向かって首を振り、そして原を呼んだ。
「原、すまんが手伝ってくれ…」
「えー、どうして僕じゃ駄目なのさ?」
「……普段の行いの差だと思うけど?」
 原はにこりとも笑わずに呟くと、新井木の頭を軽く撫でた。
 
「……いやだな、戦争は」
 本田の背中から、やりきれない想いが滲み出している。
「田辺に何の罪がある……東原にしたってそうだ」
「……」
「人間は、モノじゃないだろう……好き勝手に身体をいじくられて、失敗したら仕方ねえって……」
「私達はクローンですよ、先生」
「武器じゃねえぞ」
 原は田辺の身体に布団をかぶせながら冷めた口調で呟く。
「前線にしろ後方支援にしろ、兵器の一部となり幻獣と戦う……私達は武器ではなくメカの一部にすぎませんよ」
 本田は怒りも露わに原を振り返り……静かに肩を落とした。
「……後は任せる」
「ええ、任されます」
 本田は入り口で立ち止まり、小さく呟いた。
「……メカの一部が、涙を流すのか?」
「不良品なら流すでしょうね……」
「……そうだな、田辺も俺も、そしてお前もみんな不良品だ」
 本田はそう呟き、丸くなっていた背中をしゃんと伸ばして出ていった。
 そして、原はベッドの上の田辺を振り返る。
 白いシーツに広がる青い髪、田辺にとってそれは幸運ではなく不幸の象徴だと原には思われた。
「……起きてるんでしょう?」
「……ごめんなさい」
 原は小さくため息をつき、傍らの椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「何故謝るの?」
「それは、その…ごめんなさい…」
 原は肩をすくめ、窓の外のサンドバッグを見つめながら呟いた。
「何故、倒れるまでトレーニングするの?」
「……どうして?」
 原は小さくため息をつき、不思議そうな表情を浮かべた少女に視線を向けた。
「部下の行動を把握するのは上司のつとめだもの…」
 屋上、詰所、司令室をはじめとして、この街のありとあらゆるデートスポットに張り巡らされた盗聴器が、はたして上司のつとめなのかどうかともかくとして……つまりはそういうことである。
「空腹時の鍛錬は筋肉を分解してグリコーゲンを作り出し、回復を待たないトレーニングは筋肉をやせ衰えさせる……典型的なオーバーワークだって事は百も承知でしょう?」
 普段の優しくたよりになる上司のそれとは違う、言い逃れを許さない口調と視線に観念したように田辺はぽつりと呟いた。
「私……誰も傷つけられないぐらい弱くなりたいんです」
 じっと手を見つめる田辺から目をそらし、原は素っ気なく呟いた。
「私は強くなりたいと願ったクチだから」
「子供の頃……可愛くて抱きしめた子猫をつぶしてしまったことがあるんです」
「……別に、あなただけの経験でもないでしょう」
「……強化クローンって恐いですよね。こんな細い指が……コンクリート片を握りつぶすことができるんですから」
「……」
「私は……力なんて欲しくない」
 悲しげに呟いた田辺の首に、原の指先が食い込む。
「……」
「……」
 無言のまま微笑みすら浮かべた田辺の顔色が酸素欠乏の兆しを見せ始めた瞬間、原は手の力を緩めた。
「ケフッ、ゴフッ……」
「田辺……生きてる人間は抵抗するものよ」
 目尻に浮かんだ涙を拭い、呼吸を整え田辺は笑った。
「私が抵抗すれば、はずみで原さんを殺してしまうかも知れません……私、すごくドジですから」
 田辺の言葉の裏に隠された言葉を解さないほど原は鈍くはない。
「私に、そんななめた口をきける人間はこの世界に数人といないわね」
「……でも、事実ですから」
 原は小さくため息をつき、そして呟いた。
「……本当に強くなれば殺さずにすむわ」
「人間は不完全な生き物ですから……多分、誰かを殺してしまう能力なんてない方が良いんです」
 レンズの向こう側で、田辺の瞳がやわらかく微笑んでいた。
「……馬鹿ね」
「ええ、施設……で力を与えられてから、そう生きようと決めましたから」
 田辺は小さく微笑み、自分の前髪を愛おしげに指で撫でる。
「決めたんです」
「施設の人間全員を殺して脱出した人間がこの小隊にはいるけどね……あの一族もそれを知っていながら、誰も鈴をつけようとは……ああ、つけようとしてるのかもね、あの御姫様を使って」
 田辺は最初誰のことかわからなかったようだったが、『お姫様』という言葉で見当が付いたらしかった。
「そうですか……速水さんも施設育ち……」
「殺さず、傷つけず……そんな虫のいい生き方ができる世の中ではないからね」
「あきらめるのはいつでもできます…」
 田辺はじっと天井を見つめたまま淡々と呟き始めた。
「でも……原さんが強くなりたいと願ったように、人は自分の理想に近づいていけるなにものにも代え難い不思議な力を持ってます……いいえ、持ってる筈なんです」
 そこで一旦言葉を切ると、田辺は原に向かってにっこりと微笑みながら言った。
「だから……明日はきっといい日です」
 ふと神様の存在を信じてみたくなるような瞬間があるとしたら、まさに今こそがその瞬間なのかも知れなかった。
「……フフッ」
「わ、私…何か変なことを言いましたか?」
「変ね。すこぶるつきの変人よ、あなたってば」
「アホとか馬鹿とかグズとかドジでのろまな亀とかカラミティジェーンとか言われたことはありますけど、変人ってのは初めてです」
「……結構酷いこと言われてきたのね、あなた」
「こんな時代ですから……鬱積した不満のはけ口ってのは弱者に向かいます」
 穏やかな、いや、あまりに穏やかすぎる表情と口調に、原の眉が微かに揺れた。
「田辺……あなた?」
 原が浮かべた表情を見て、田辺は小さく首を振った。
「買いかぶりです……私、そんなに優しくないですよ」
 善意も、悪意も、全てを包み込んでしまうような穏やかな微笑みから目を背け、原は小さく呟いた。
「……そういうことにしときましょうか」
「ええ」
 青い髪を微かに揺らして頷いた瞬間、足音と共に扉が開かれた。
「田辺、大丈夫か?」
 入り口に現れた人物を見て、原は小さく口笛を吹いた。
「……へえ、ちょっと意外」
「おいおい、血も涙も無いようなことを言わないでくれよ。知り合いが倒れたら見舞いぐらいはするさ……特に女性はな」
 意地悪い笑みを浮かべた口元を手で隠し、原は田辺と瀬戸口を交互に見つめる。
「……部下の把握が不十分だったわね」
 田辺は意味が分からないのか無表情、瀬戸口は何気なさそうに前髪の乱れを手櫛で整えたりしているが……二人の間に微かに漂う独特の雰囲気を感じ取り、原は心のメモ用紙に5121小隊の人物関係を新たに書き加えた。
「さて、私は裏マーケットに盗聴器でも買いに行こうかしらね…」
「おいおい、これ以上どこに仕掛けるつもりだ原女史」
「……仕事に熱心と言って欲しいわね」
「じゃあ、俺が無限の愛をばらまいていることも承知してるわけだ…」
 数々の女性を魅了してきた瀬戸口の笑みに対抗するためなのか、原は冷たい笑みを浮かべた。
「瀬戸口君、全てを愛せる人間はね、きっと本当の意味では誰も愛してないのよ」
「……自分の尺度で人間を測ろうとするもんじゃない」
 ふ、と瀬戸口の表情が変化した……いや、変化したと言うよりは別物の雰囲気を滲ませ始めたというべきか。
 穏やかな、いや穏やかすぎる笑みがかえってうそ寒いものを見るものに与えてしまう。
「……取り消してもらおうか」
「価値観の相違ね」
 瀬戸口の笑みをまともに受け止めながら笑う……瀬戸口の浮かべるそれとは別種の、獰猛な肉食獣を思わせる笑み。
「あ、あの…二人とも何を、キャアッ!」
 ベッドから起きあがろうとした田辺が転げ落ちた瞬間、二人の脳天にも金ダライが命中した。
 
「さて、送っていこうか?」
「あ、あの、ののみさんは?」
「ののみは、速水と一緒さ…父親としては、まあ安心できる相手だな」
 瀬戸口は肩をすくめて笑った。
「あ、そういえば瀬戸口さん……頭、大丈夫ですか?」
「……もう少し言葉を選んでくれないか」
「ご、ごめんなさいっ!」
 瀬戸口は頭をさすりながら苦笑する。
「まあ、大丈夫なんだが……金ダライってのはなかなか痛いもんだな」
「無防備な状態で攻撃を食らうと、どんなに鍛えていても無駄ですから……っと、そこの角を右です」
「はいはい……」
 カンカンカンカン…
 燃え上がる炎を見つめる人々の顔が赤く染まっている。
「おい、まさか……」
「……お父さん、お母さん」
 呆然としたまま呟かれた言葉に、瀬戸口は慌てて野次馬をかき分けながら現場へとすすんでいった。
 それからどれぐらいの時間が経ったのか、
「……田辺」
 瀬戸口の囁きに我を取り戻したのか、自分の家が炎上する光景を呆然と眺めていた田辺はゆっくりと振り返った。
「……瀬戸口さん」
「不幸中の幸いと言っていいのかわからないが、ご家族は無事みたいだ」
「そうですか…」
「近所の空き地にテントを立てて、キャンプしてるらしい…これは弟さんからの伝言だ」
 そう言って瀬戸口は田辺に紙切れを渡し、敢えて笑った。
「たくましいご家族だな」
「慣れてますから」
 何でもないことのように小さく微笑んだ田辺を見て、瀬戸口は何かに圧倒されつつ、なんとも言えない懐かしさに包まれた。
 その懐かしい感覚を振り払うように、敢えて真実を告げる。
「……多分、『放火』だ」
 ちょうど家族が外出中に出火したため無事だったのだが……現在消火活動にあたっている人間の証言から放火であることはほぼ間違いないらしい事を話したが、それでも田辺は何でもないように微笑んだ。
「戦争中ですから……多分、不満をぶつける相手が欲しかったんでしょう」
「何故、田辺が…」
「いろいろありますから……例えばこの青い髪は軍関係の人間に見られますし、この家も国からの支給です…」
 田辺は一旦言葉を切り、少し悲しげな視線を瀬戸口に向けた。
「妬まれる条件は揃ってますから」
「あ……」
 瀬戸口は口元を押さえた。
「……ひょっとして、女子校の生徒とかに」
「いや、それはないんですけど……瀬戸口さん、誰にも深入りしてないみたいだし」
「……」
 困ったように俯いた瀬戸口の耳に、どこか達観したような田辺の呟きが聞こえてきた。
「問題は……誰かが幸運であると言うことが、周囲の不幸の上に成り立っているという事象が多すぎることなんです。上手くいかないのは私のせいだ……と、考えるのは楽ですから」
「……それは違うだろう?」
「ですから……もしそんな力が存在するとしても、個人の幸運を願うことは無意味ですよね。人の手に余る力を与えられた者は……多分、それだけで使命があるんですきっと」
 田辺は小さく首を傾げ、穏やかに笑った。
「私は、ただ許すだけ……いえ、許そうと思うだけです」
 固い決意を秘めた視線が瀬戸口を見る。
「ですから、そんな辛そうな顔をしないで下さい……私は、瀬戸口さんも許します」
「許すって……」
 話の飛躍についていけなかったのか、それとも心秘かに思っていたことを言い当てられた同様なのかは分からないが、瀬戸口にしては珍しく間抜けな表情を浮かべている。
「瀬戸口さんは、誰かの面影を求めてののみさんや私に近づいたんでしょう……しかも、そのことに罪悪感まで感じて」
「おいおい、俺は……」
 困惑の表情を浮かべる瀬戸口に、田辺はそっと首を振った。
「子供だと思っているかも知れませんが……ののみさんは女です」
 ののみの名を出され、瀬戸口は小さく口を開けた。
「……そうか、俺が思っていたよりもののみの精神感応力はずっと強かったわけか」
 視線を逸らした瀬戸口の肩に、田辺の手がそっと置かれた。
「田辺…?」
「……ずっと、心に水分を与えてこなかったんですね」
「そんな資格はない」
「あなたは悪くない…などという気休めは言いません」
 レンズ越しに見える綺麗な瞳に、瀬戸口の胸が四方に跳ねる。
 無邪気な……などという安っぽい言葉では語る事はできない。
 数限りない人間の醜さに遭遇してきながら、その無垢さを失わなかった少女の価値を理解できる存在がどのぐらいいるのか。
「瀬戸口さん自身が自分を許せないと思っていたとしても……私は、あなたを許します」
 低い嗚咽の声を聞いて瀬戸口は顔を上げた。
 が、目の前の少女が泣いているわけでもなく、もちろん周囲にそんな人物がいるでもない。
 田辺の手が、母親のように瀬戸口の背中に回され、優しく、心臓のリズムに合わせてとんとんと背中を叩きだす。
 遠い昔、同じようにしてくれた人がいた。
 瀬戸口はいつの間にか跪いている自分に気付き、そしてこぼれる嗚咽が他ならぬ自分が発していることに気付く。
 かつて、瀬戸口が犯した罪。
 長きに渡って己を責め続けてきた罪を、たかだかこの世に生を受けてから十数年の少女がそれを許すという滑稽さは承知していた。
 ただ、『気にするな』という言葉ではなく、瀬戸口に罪があることを前提として『許します』という言葉を使った少女の優しさに少なからず救われたのだ。
 優しく、背中を叩き続けていた手を握る。
「……?」
「スィー・マ・シャリーム……」
「はい?」
 聞き慣れない言語を耳にしてきょとんとした田辺に向かって、瀬戸口はゆっくりと首を振った。
「ビー・アンガ・アルジャム」
「え…と?」
「いや、わからないならそれでいい」
 瀬戸口はどことなく寂しげな、それでいて何か吹っ切ったような不思議な笑みを浮かべた。
 
「東原、動いちゃ駄目だよ」
「うん」
 相手が速水がであることに安心感を覚えるのか、髪の毛を触られながらののみは気持ちよさそうに目を閉じた。
「すぐ終わるからね…」
「ねえねえ…あっちゃんは1人でしてるの?」
「うん……まあ、黒く染めてるから多少雑でもわかりにくいしね」
「ののみの髪の毛は……根元が青くなるとすごく目立っちゃうから」
「そうだね…」
 速水は慣れた手つきで、ののみの青い髪の毛に染料を馴染ませていく。
「ののみね、こうしてあっちゃんに髪の毛を染めて貰うたびに思うの…まきちゃんはえらいって…」
「うん、そうだね…」
 集団を構成する異質分子への過度なまでの攻撃……青い髪は、それだけで攻撃対象にされた。
「ちがうのよ、あっちゃん」
「え、何が?」
「ののみはね、髪の毛を染めないまきちゃんを誉めてるんじゃないの……」
 自分の心をののみに読まれたのを悟って、ののみの髪の毛に触れる速水の手がいっそう優しさを増した。
「そうだね、彼女は僕とは違う」
「……あっちゃんを責めてるわけじゃないのよ」
「……幸運に恵まれても、本当に欲しい物は手に入らないんだよ」
 そう、本当に欲しい物は与えられるのではなく自らの手でつかみ取らねばならない。
「あっちゃんは正しいけど間違ってるの……多分、あっちゃんはそれを知るためにここに来たのよ」
「そうかも…知れないね」
 速水はそう呟いて目を閉じた。
 かつて、自由を得るために施設内の人間を皆殺しにした記憶が甦る。
『この処理で、あなたには常に強運が付いて回ることになるわ…良かったわね』
 速水に対してモルモット以上の価値を認めなかった研究員がふと漏らした言葉……それは、速水の中から失敗したときに対するためらいを無くさせた。
 ためらいさえなければ、自分を見殺しにするか、それとも他人を皆殺しにするか……答えの分かり切った選択だった。
 あの時、速水は何かから解き放たれ、別の何かに捕らわれた。
 全てが終わり、炎上する施設を背にして何かを振り払うように走り続けた夜……そう、あの夜の月は眩しかった。
 そんな速水にとって、ののみの存在は眩しく映る。
「東原はえらいな……僕は田辺さんよりも、東原の方がえらいと思うよ」
 青い髪、そして成長しない身体……その上、人の心の中が読める能力……そして、自分と同じように研究施設出身である以上、いろんな事があった筈だった。
「あのね、ののみはえらくないの……」
「どうして?」
「ののみには生まれつき負の感情がないの……だから、ののみはえらくないのよ」
「……」
 ののみは、天使のような笑みを浮かべたまま穏やかに囁いた。
「あっちゃんが怒る必要はないのよ……でも、誰かのために怒ることのできる人は、みんなきっと優しいの……ののみは、人間じゃないからえらくもないし、優しくもないの」
「君は…人間だよ」
 ……僕よりずっと。
 そんな言葉をのみ込む。
「えへへ……だからあっちゃんは優しいのよ。ううん、ここにいる人はきっとみんなみんな優しいの」
「うん……そうだね。この小隊のみんなは優しいよね」
 速水の言葉を聞いて、ののみは自分が誉められたように微笑んだ。
「あ、でもね…まつりちゃんが言ってたのよ。優しい人の言うことは信用したら駄目なんだって。優しい人は優しいから嘘をつくって……そして、本当に優しい人は地獄におちちゃうんだって……そんなの変だよねえ?」
「……」
「ののみ、優しい人はきっと天国にいけると思うな。そうしたら天国は優しい人ばっかりになって、まるで天国のように……あれ?」
 自分の台詞がどこか変なことに気づき、ののみは首をひねった。
「ののみ、どこで間違ったのかなあ?」
「さあ、どこだろうねえ……でも、間違ってないかも知れないよ」
 ののみの言葉が正しいのであれば、この小隊は天国以外の何ものでもない。
「……そう言えばこの前、ヨーコさんに絵本を読んでもらっていたね」
「……悲しいお話だったのよ」
 ののみは難しい顔から一転して表情を曇らせた。
「おなかを空かせた旅人のために、自分を食べて元気を出してくださいってみずから火の中に飛び込んだウサギのお話だったの……」
「そうなんだ…」
「でもその旅人は実は神様で、心優しいウサギを月の神殿に葬ってあげたの……だから、月にウサギはいるんだってお話だったんだけど、あっちゃんはどう思う?」
「……神様は、どうしてウサギを助けてあげなかったのかな?」
「そうよね、ののみもそう思うの!」
 納得がいかないのか、頬をぷうっとふくらませるののみ。
「ののみは…優しい人が死ななきゃいけないうんめーなんて認めないの」
「そうだね、僕も認めたくないな……っと、ごめん」
 速水の指がくすぐったかったのか、ののみは幼い身体をくねらせた。
 しかし、速水に『動いちゃ駄目』と言われていたことを思い出したのか、おとなしく椅子の背に身体をもたれかけさせる。そして、外見の幼さには似つかわしくない大人びた表情を浮かべると、ののみは独り言を呟くときのような淡々とした口調で囁いた。
「……げんじゅーは、人の負の感情から生まれるのよ。だから、ののみは対げんじゅー兵器として作られたの……げんじゅーはね、人がいないと存在できないから、ののみの存在は、げんじゅーをげんじゅーたらしめる拠り所を消失させてしまうんだって」
「……そうなんだ」
「でも、ののみは失敗作なの……げんじゅーがいなくなるって事と世界を救うって事は全然べつの事らしいの」
「……」
「なんかね、みんながののみのようになるわけにはいかないんだって……無垢なる魂は、人じゃなくってただのばけものなんだって…」
 戦場で数多の修羅場をくぐった速水でさえぞっとする、感情を喪失したののみの声が後に続く。
「ののみね、ばけものなんだよ…」
 この場に瀬戸口がいたならばどうしただろうかと思いながら、速水は黙ってののみの髪の毛を染め続けた。
 否定も、肯定も、そして無言さえも少女を傷つけることになる現実に対する怒り。
 それがかつて瀬戸口を竜にしたのだろうか……もちろんそれは速水の推測に過ぎないが、それを本人に聞くことはためらわれる。
「…ごめん」
「ふぇ。何であっちゃんが謝るの?」
「僕はね、もう資格を無くしてしまったから……いや、ここに来たときから元々資格なんて無かったのかも知れない」
「しかくって何の?」
「さあ、なんだろうねー?」
 青く美しい髪の毛がすっかり染料の下に隠れた頃、ののみは小さな寝息を立てていた。
『げんじゅーはね、泣きながら怒っているの……ののみがね、慰めてあげようとするとみんな消えちゃうのが悲しいなあ…』
 速水はののみの言葉を思い出しながら、瀬戸口がいつもそうしているようにそっとののみの側から離れた。
 睡眠時、ののみは力のコントロールができない。それゆえ、速水や瀬戸口のような存在は少女の側にいるべきではなかった。
「月にウサギがいる……か」
 速水が見上げる夜空には2つの月。
 ふと気配を感じ、首を傾けた速水の頬をかすめた小石が壁にぶつかって割れた。
「……お疲れさん」
「瀬戸口……避けられなかったらどうするのさ」
 闇の中に佇む、一対の紫の瞳が小さく揺れた。
「ははっ、それが避けられないような奴は舞踏を名乗れんよ……とはいえ、気配を感じて避けるようじゃ舞踏の名前が泣くがね」
「……まあ、舞踏と言ってもピンからキリまであるからね」
 身をかわした後、何故自分がそうしたのか考えるぐらいでなければ竜には勝てない。もちろん、瀬戸口は速水の腕が落ちたわけではない事を知っていてからかっているに過ぎないのだが。
 虎は虎であるから強いように、舞踏は舞踏故に強い……そこに、理由などあろう筈がない。
「それに、僕は世界を救えないし……だから、ぽややんなパイロットでいいのさ」
 瀬戸口は速水の前髪を撫で、口元に小さな笑みを浮かべた。
「ふふ、よりによって芝村なんかに…」
「芝村は弱者を救うためにある」
「へえ、そうかい」
「舞がそう言った……だから僕はそれを信じることにした、それだけさ」
「……まあ、俺もあの姫さんのことは嫌いじゃない」
 自己の生命や地位より弱者を守ることを重んじ、それを実践した少女の言は重い。
 芝村という一族の純粋な部分が結晶化された少女……それはひどくいびつな存在だ。だが、速水や瀬戸口にとってそれは嫌悪するよりも好意の対象となり得た。
 なぜなら、彼ら自身がこの世界においていびつな存在であるから。
「ずっと、自分のためだけに戦ってきたからね……誰かのためだけに戦おうとする舞の姿が眩しかったよ」
 春という季節自体が夜気を濃密にしているのだが、速水の浮かべた笑みが空気そのものに質感を与えたように瀬戸口は思えた。
「……あの夜の月のように」
「お前さんが決めたことだろう……俺が口出す筋合いはないね」
 そう呟いた瀬戸口の表情に、暗い陰が走った。
「人のため……か」
「瀬戸口…?」
「覚えておけ速水……そういう奴から殺される」
「耳が痛いよ」
 以前の記憶を刺激されたのか、速水は唇の端をちょっとつりあげた。
「あの時のことを後悔はしているさ……でもね、狩谷を殺した事じゃないよ。舞を守れなかったことを後悔してる」
「……お前のお姫さんはまごうことなき英雄だよ、断言してもいい」
「皮肉かい?」
 瀬戸口は小さく微笑み、足下の小石を拾い上げて空に向かって高く放り投げた。
「いや、事実だ……」
 速水もまた足下の小石を拾い上げ空に向かって投げあげた……と、ガチッという音をたて、落ちてきた小石が弾かれる。
「ただ……英雄は血を流しすぎる」
「……」
「血を流すと言うことは、指の間から砂がこぼれるように救われない存在を多少なりとも作る事だ」
「……それは、瀬戸口自身の言葉じゃないね」
「ああ…」
 瀬戸口は嘆息するように呟いた。
「……本当に馬鹿な人だった」
 
 
              蒼き髪の乙女…前編完
 
 
 長くなり過ぎというか……キャラ云々じゃなくて『眼鏡娘に対する思い入れ』のせいか、これでもかこれでもかと練り直したり、世界観をいじったりしてる内にどんどんとまずいことに。(笑)
 多分、中編を書いてそのまま投げ出すに清き一票。(自分で言うな)

前のページに戻る