静かに目覚め始めた街並を、やわらかな春の日差しが照らしはじめている。
 春とはいえまだ冷ややかな風を頬に受けながら、未央は少し遠回りになる道を歩いて学校に向かっていた。
 この道の途中に速水の住む下宿がある。
 壬生屋はある下宿の前で立ち止まり、多目的結晶で現在の時刻を確認した。大きく深呼吸を繰り返してドアの前に立ち、ドアベルのスイッチに視線を向ける。
 この一週間はこれの繰り返しだ。
「まだ眠ってるでしょうね・・・。」
 未央はもう一度時間を確認して、静かに首を振った。
 どこか自分に言い聞かせるような口振りである。
 そうやって5分ほどドアの前に佇んでいただろうか、未央は逃げるようにそこから立ち去った。
 学校の教室に着いてみると時刻は7時半。
 昨日と同じ時間に家を出て、同じ道のりを選んだのにほんの少しだけ昨日よりも遅い。
 未央はみんなより一時間以上学校に早く登校し、その空いた時間は教室の掃除をする。時には士魂号の整備にまわることもあるが、それは前日の戦闘などで大ダメージを受けた日に限られてのことだ。
 ゴミクズをゴミ箱に捨て、教室の床をざっと拭く。それらを終えると、未央はため息をついて額の汗を拭った。
 時刻は7時50分。
 これから誰かがやってくるまでは、本当に静かな時間帯になる。
 未央は自分の席に座って、ちょっと履物の鼻緒をいじくった。
 いつもは足袋だけなのだが、未央もれっきとした女の子である。ちょっと気分を変えて違うものを履いてみたくなることだってあるだろう。
「ちょっと心配だけど、これで大丈夫かしら?」
 未央は首を傾げながら履物を手に取った。
 普段から履き慣れていないので、どうすればいいのかわからないのである。でも履かないわけにもいかないので、未央はそっとその履物に足を通した。
 トントントン・・・
 プレハブ校舎の階段を上ってくる足音。
 未央は時刻が8時前という事を確認したにもかかわらず、確信に近い予感をもって、階段の方を眺めていた。
 多分あの足音は速水さん。
 それは、恋する少女に特有の思いこみだったのかもしれない。が、その足音の主は事実速水その人だった。
 どきどきしながら未央は立ち上がった。つい、視線を逸らすように窓の外の方を向いていしまったが、速水は未央の存在に気がついて笑った。
「あ、おはよう壬生屋。」
 いかにも何気ない風を装い、速水に向かって歩き出しながら挨拶を返そうとした。
「おはようございま・・・きゃっ!」
 やはり履物の鼻緒の具合がおかしかったらしい。
 未央はバランスを崩して前につんのめる。
「危ない!」
 未央を支えようとして伸ばされた速水の手に、必死になってしがみつく。だが、まだ乾いていなかった教室の床は思ったより摩擦抵抗が少なく、2人ともあえなく床の上にもつれ合いながら転がる羽目になった。
 それでも、未央をかばうためにとっさに身体をひねった速水の行動はさすがという他はないだろう。
 未央の下敷きになった速水が声を出す。
「あたたた・・・だ、大丈夫?」
 未央はと言うと声も出せない。
 首筋に感じる暖かい空気の流れ。胸元に押しあてられた速水の手のひら。潔癖性の未央にとって身体を硬直させるには充分すぎるほどの条件がそろっていた。
 それは自分のおかれた状況に気がついた速水にとってもそうだったらしく、ぎくりと身体を硬直させてぴくりとも動かない。
 お互いの心音が聞こえるほどに高まっていく緊張感。
 既に2人の血圧と心拍数は危険な領域まで高まっていた。
「うわっ、ふ、2人とも何してるの!」
 血圧と心拍数、さらに倍。(笑)
 歴戦の下仕官でもこれほどの動きはできまいとも思える体さばきで、2人は教室の壁際まで跳びずさった。教室の端と端に別れた2人だったが、その視線は同じ方向に向けられている。
 もちろんその方向にいるのは、にやにやと嫌な笑い方をしながら2人の顔を交互に眺めている新井木である。
「2人は・・・」
「違いますっ!」
 新井木が言い終えるよりも先に、真っ赤な顔をした壬生屋が叫んだ。
「私が転びそうになったのを速水さんが助けてくれただけなんです!私達は決してその様な関係ではありません!」
 とにかく反論する時間を与えないぐらいに一気にまくし立てた。しかも息継ぎ無し。なかなかの肺活量であると言えるだろう。
 ほとんど人間はその迫力に押されて多分納得してしまっただろう。(その場は)
 だが、相手は天下の新井木勇美ちゃんである。そのぐらいで引き下がるわけが・・・もとい、ますますファイトを燃やすのが当然だ。
 とりあえず、新井木はにやにやと笑った。
 あの『奥様戦隊善行』もかくやと思うほどのいやらしさに満ちている。
「でも、壬生屋さんから押し倒すなんて、ちょっと見直しちゃったなあ。」
 未央が顔を真っ赤にする。
 どうやら潔癖性の割には、そんな知識や連想をしてしまうようだ。
「不潔です!」
「あはっ、何が不潔なの?ボク子供だからわからないや。壬生屋さんはさすがにお姉さんなん・・・」
 新井木は突然逃げ出した。
 壬生屋の艶のある黒髪がゆっくりと広がっていくのを見たからである。怒髪天をついた壬生屋にかなう人間はいない。
 ただ、全力疾走の新井木に追いつける人間もいないので、未央は追うのをあきらめた。
 単に、速水が近くにいることを思い出したからと言う意見もあるが。
 未央はため息を吐きながら近くの椅子に腰掛け、鼻緒の切れた履物から普段の足袋に履き替えようとした。
 袴の裾から白いふくらはぎが現れる。
「うわっ、みっ、壬生屋っ・・・」
 どこかうろたえた様な速水の声を耳にして、未央はそちらを振り返る。
 速水の頬が赤い。
「どうかしましたか?」
「な、なんでもないっ!」
 教室の外へとかけだして行った速水の姿を見送ってから、未央はゆっくりと足袋を履いた。
 
 さて、午前中の授業は、一組と二組を交えた合同での戦闘訓練。
「壬生屋、相手をしてくれないか?」
 組む相手がいなかった速水は、プレハブ校舎の階段に腰掛けていた未央に声をかけた。高い位置から見ると人の動きが良くわかると、身体の空いている人間はそこで休憩するように本田に言われていたからである。
「・・・ええ、かまいませんよ。」
 未央は、仲むつまじく会話を楽しんでいた遠坂と田辺の隣をすり抜けて地面に降り立った。
 軽く足場を確かめる。
 今は亡き兄がその動作を見ていたら、『未熟者』と口を出したであろう。
 戦闘中に足場を確かめる時間などあるはずもない。
「じゃあ、行くよ。」
「・・・はい。」
 未央が呼吸を整えるのを待って、速水の身体がふっと前へ。その勢いのまま、軽く左拳を突き出してくる。
 もちろん牽制のためであるが、未央の目から見るとその動作は不用意に過ぎた。
 未央は軽く右足を引いて、右腕を回転させながらそれを外にはじく。
 それもただはじくだけではなく、肘から先をねじり込むように受け流している。そして速水の体勢が前へ崩れた所を、未央は身体を回転させながら左手で速水の左手首をつかみ、そのまま右足で後ろ回し蹴りをはなつ。
 それをしゃがみ込んでよけようとした速水は・・・悲鳴を上げた。
「くすくす・・・ただの蹴りだと思ったんですか?」
「み、壬生屋っ、いたい、いたいよ。」
 速水の左腕と、左手首が完全に極(き)められていた。
 未央の蹴りがフェイントだったことを身体で理解させられ、速水は素直に負けを認めた。
「ふふっ。パイロットとしての技量はともかく、白兵格闘ではまだまだ速水さんには負けません。」
 未央は速水の左腕を解放してやりながら微笑んだ。
「やっぱり壬生屋は凄いなあ。・・・武芸百般これに通ずって言うのかな?」
「そう誉められるとちょっと複雑ですね。私も年頃の女の子ですから・・・」
 きーんこーんかーんこーん・・・。
「よーし、それまで!」
 間延びした本田の声に、めいめいが楽しそうに微笑みながら頷いていた。
 戦争中とはいえ、やはり昼休みというのは心を和ませるものらしい。
「1つ、私からの提案です。一緒に昼ご飯でも食べませんか?」
「うむ、任せておけ!」
「うん、いいよ。」
「はは、はいっ!」
「そうですね、わかりました。どこで食べましょうか?」
 食堂で昼食を取るということになり、田辺、遠坂は二組の教室に、若宮、速水、未央は一組の教室に向かう。
 そして各自が弁当箱を持って食堂へ。
 速水を先頭に、各自弁当を抱えて階段を下りていく。
「あっ。」
 壬生屋の手が慌てて田辺の背中に向かって伸びたが、ほんの少し間に合わなかった。
 平和な風景を切り裂くような悲鳴。
「きゃあああっ!」
 例によって、田辺が足を踏み外して階段を落下していく。当然のように前を歩く若宮と速水を巻き込んで・・・。
 田辺の後ろを歩いていた未央は、その光景から目をそらした。もちろん、未央が目をそらしたからといって事故が防げる訳もないのだが。
 どんがらがっしゃあんっ!という古くさい擬音と共に、田辺のすまなさそうな声が聞こえてくる。
「ご、ごめんなさいっ!2人とも怪我はありませんか?」
「うむっ、大丈夫だ!俺は身体の頑丈さが誇りだからな。」
「でも・・・」
 速水はそう呟いて地面にまき散らされたお弁当を見つめた。
 そこに遠坂と未央が慌ててやってきた。
 遠坂は田辺を抱きしめるようにして怪我がないかを確認する。一見クールだが、1つのことに集中すると周りが見えなくなるタイプの男である。
「・・・田辺さん、怪我はありませんか?」
「はい・・・」
 遠坂は整った眉をこころもちつり上げて、地面を眺めた。
「すぐ後ろを歩いていながらあなたを救えなかったなんて・・・僕は自分が許せませんよ。」
「そ、そんな・・・・遠坂さんのせいでは・・・。」
 2人の周りにぽわぽわとした空気が集まっていく。
 どうやら2人の世界へと突入しつつある彼らを無視して未央は速水達に聞いてみた。
「あ、あの・・・私焼きそばパンを持ってますが・・・。」
「それは速水にやってくれ。俺の胃袋は鋼鉄製だから、このぐらいは全然平気だ。」
 そう言って、若宮は『おそろしい弁当3人前』を拾い集めた。
「でも、いいの?」
「二ヶ月は大丈夫と言っても、早めに食べるにこした事はないですし・・・」
 そうして若宮と速水、未央の3人は食堂の中へと足を向けた。
「あ、若宮君、ちょっといいかしら?」
「は、原さん!何でしょう!」
 若宮の様子を眺めていたのだが、若宮は原に頼まれるままに資材を肩に担ぎ始めた。どうやらすぐには終わりそうもない作業の様だ。
 速水と未央は軽く頷いて椅子に座り直した。
「先に食べようか・・・」
「そうですね。」
 そっとお弁当を速水の方に差し出す未央。
「え?」
「私・・・いつもお弁当だから、たまには違うものを食べてみたいんです。」
 そう言って、焼きそばパンを軽く振った。
「じゃあ、今度僕がお弁当を作ってあげるよ。」
「ふふっ、楽しみにしてますね。」
「僕より、中村の方が上手だよ。」
「聞いた話だと、中村さんの味付けは凄く甘いそうですよ。・・・太って、じゃなくて戦闘に不自由な体型はそのせいかもしれませんね。」
 ・・・なにげにひどい表現を使う未央である。
「これ、おいしいよ。壬生屋って料理が上手なんだね。」
「ふふっ、自分のお弁当だとちょっと気合いが入らないんですけどね。」
 ちょっと赤くなりながら未央は速水の視線から顔を逸らした。
「じゃあ、誰かのために腕をふるった料理はもっとおいしいのかな・・・。」
「くす・・・その時は緊張して失敗するかもしれません。」
 未央は無意識に自分の指先を見つめた。
 速水に食べて貰うことを想像しながら作ったお弁当だったが、その想像が現実になるとはあまり期待していなかった。
 恵まれた運と、ほんの少し思い切った結果だと未央は思う。
 
「いやー、すまんすまん・・・。」
 若宮が食堂に戻ってきたときには既に2人とも食事を終えていた。それを見ても別段気を悪くするでもなく、若宮は白い歯をみせて微笑んだ。
「さて、俺も昼飯に・・・」
「おやおや、先客か。」
 瀬戸口とののみがお弁当箱を抱えて入り口に立っていた。
「あ、瀬戸口。大丈夫だよ、僕たち3人だけだから。」
「そうか、じゃあお邪魔することにしようかな・・・。」
 テーブルを囲んで、瀬戸口、若宮、速水、ののみ、未央の5人が向かい合う。
「タカちゃん、お弁当の交換なの。」
「おいおい・・・何のために朝交換したんだ?」
「うー、実はついののみの好きなものばかり入れちゃったの・・・。」
「・・・しょうがないなあ。」
 瀬戸口は優しく微笑みながら、ののみの弁当を返してやる。さらに自分の弁当を開いて、ののみの耳元で囁いている。
「ほら、欲しいものがあれば食べろよ。」
「うわー、タカちゃんのお弁当にもののみの好物が一杯だよ!」
 未央はそんな2人を微笑んだまま見つめていた。やがて瀬戸口がその視線に気がついて未央に聞いてくる。
「何だ?いつもの台詞がとんでくるかと思ったが・・・。」
「ふふっ、2人共幸せそうですもの・・・それなら多分・・・いいんじゃないですか。」
「・・・お前さんの言葉には刺があるな。」
 瀬戸口が軽く右目をつぶった。
 何のことかさっぱりわからず、ぽややんと微笑む速水とにこにこと微笑むののみ。若宮は、と言うと食欲を満足させることだけに集中していた。
「じゃあ、僕たちは先に行くよ。」
 先に食事を終えていた速水と未央は食堂を後にする。
 今日は土曜日なので午後からずっと仕事である。それだけに、昼休みが終わるぎりぎりまで休んでいたいと思っていたのは1人だけではなかったようであった。
 滝川が頭をかきながらプレハブ校舎前にいた仲間達に呼びかける。
「おーい、今度の日曜みんなで遊びに行こうぜ。」
 ちなみにその場にいたのは、滝川、速水、未央、森の4人である。
「まあ、たまにはいいんじゃないですか。」
「うん、いいよ。」
「わかりました。」
「よしっ、じゃあ日曜の朝9時に校門前に集合だからな。」
 未央はやたら楽しそうな滝川を見る。そして森と、速水の姿を見た。そうしてそっとため息をつく。
 ・・・速水さんと2人きりなら楽しいのに。
 それが未央の偽らざる心境であった。
 
 そして土曜日。
「お前ら、遅刻するなよ。」
 そう言い残して7時に滝川が帰っていく。
 どうやら明日に備えて万全の体調で臨むつもりのようだった。
「パイロットならもっと違う状況でそうして欲しいものだが・・・ちゃんと仕事をしているのか、あいつは。」
 呆れたように舞が呟く。
 誰に聞いたわけでもないが、滝川がずっとぶつぶつ喋りながら作業をしていたのでわかってしまっただけの事である。
「まあ、明日出撃がなければいいのだがな・・・。」
 少し照れたように呟く舞の言葉は、照れ隠し以外の何物でもない。
「都合が良ければ芝村さんも一緒にどうですか?」
 と、これは未央の言葉。
「いや、私は明日用事がある。」
 そう言って、舞は微笑んだ。
「それに私が行けば滝川の奴が嫌がるだろうからな・・・。」
「そうかな?」
 相変わらず速水はぽややんとしていた。その雰囲気が周りの人間を随分救っているのだが、本人にその自覚があるのかないのか・・・。
 それからさらに数時間。
 速水と舞が作業をうち切った。
「壬生屋はまだ帰らないの?」
「明日は遊びですから、出来るだけ仕事をしておきます。やり残したことがあっては心から楽しめませんし。」
「ふん、滝川の奴に是非聞かしてやりたい台詞だな・・・。」
「まあ、あまり無理しないでね。」
 そうして未央は残った仕事に取りかかった。
 そして翌日の朝。
 未央が校門前に行くと、既に滝川と速水はそこにいた。
「後は、森だけだな・・・」
 そう呟いて、滝川は時刻を確認した。
 8時50分。
 まだ時間的には余裕がある。
 どどどど・・・・
 ものすごい足音に反応して滝川は振り向いた。校門の方から森が勢いよく走ってくる。
「そんな急がなくてもまだ・・・」
「滝川さんっ!」
 森は朝っぱらから何やらとてつもなく慌てているようであった。
「昨日ちゃんと仕事しましたかっ?」
 そう叫んでものごっつい表情で速水と未央を見る。
 2人ともなんとなく滝川に視線を向けた。
「士魂号2番機が故障してます!」
「え?」
「遊んでいる暇なんてないですっ!私が2番機の担当になったからには常に最高の状態を・・・」
 などと言いながら森は滝川の身体を引きずっていった。
 もちろん呆気にとられたのはその場に残された2人である。
「えーと・・・どういうこと?」
「・・・2人とも仕事をするということではないでしょうか?」
 何気なく2人は空を見上げた。
 雲1つない快晴である。
「滝川がチケット持ってたんだよね・・・」
「あの状態の滝川さんにチケットを貰いに行くのはさすがに気が引けますね。」
 繰り返すが快晴であった。
 未央はぽつりと呟いた。
「私、このために朝の5時まで仕事をしてたのに・・・。」
 一旦言葉を切って、速水の顔を見つめる。
 薄化粧で目立たないものの、未央の目の下に微かなくまが見えた。それを見てしまっては、さすがに『帰ろうか』とは言えない速水である。
「どこか2人で散歩にでも行こうか?」
「散歩・・・ですか。じゃあ、公園の方にでも行ってみましょう。」
 
 春の陽気の中、公園のベンチに腰を下ろしてぼんやりとするのもなかなか今の戦乱の世の中では贅沢である。
「速水さん、日本茶ですけど飲みますか?」
「うん、ありがとう。」
 未央が手渡したお茶を口に含んだ。
 香りの強い茶である。
「本当なら、野点(のだて)でもするところでしょうけど・・・」
「いや、それはどうかと思うよ。」
 大真面目な未央に対して、速水は苦笑いしながら応えた。
「たまにはこうやってのんびりするのもいいですね。」
「うん、そう言ってくれると嬉しいな。」
 ぽかぽかとした陽光が照りつけているが、決して暑いというわけでもない。心地の良い風がいい仕事をしている。
 そうしてしばらく・・・
 ぽすっ。
 左肩に重みを感じて、速水は未央の方を振り返った。
「壬生屋・・・?」
 未央は目を閉じていた。規則正しい呼吸が繰り返されている。
「寝ちゃった?」
 未央は何も答えない。
 時折長いまつげがぴくぴくと動いているところを見ると、今一番気持ちのいい状態に違いないと速水は思った。
 おそらくは昨夜はほとんど眠っていないのだろう。
「・・・ゆっくり休むと良いよ。」
 速水は優しく微笑んで、そのまま寝かせておくことにした。こうしてぼんやりと過ごすのも悪くはない。
 そうこうしているうちに速水の方もなんだか眠くなってきた。
「んー、僕も寝ようかな。」
 そう呟いて目を閉じた。
 気分的には一瞬である。
 だが、次に速水が目を開けたときには空が茜色へと変わりつつあった。
「あれ?」
「あ、目が覚めましたか?」
「え?」
 自分の真上から未央の声がするので、速水は少し混乱する。すぐに自分が横になっていたことに気がついた。
 目の前に優しく微笑んだ未央の顔がある。
「そろそろ起こそうかな、と思ってたんですけど。」
「あれ?」
 自分の頭が何やら柔らかいものの上に乗せられている。慌てて起きあがろうとした速水の頭を、未央の手がそっと押さえ込んだ。
「くすくす。慌てて起きると顔と顔がぶつかりますよ・・・。」
 からかうように笑う未央だが、頬の辺りが少し赤い。
「えーと・・・・ひょっとして膝枕してくれてる?」
「あのままだと、寝違えてしまいそうでしたから・・・。」
「ごっ、ごめんっ!」
 そう言って起きあがろうとした速水の頭が、再度押さえ込まれる。
「だから、ゆっくりと起きてください。お姉さんの言うとおりにした方がいいですよ。」
 穏やかに微笑む未央の言うとおりにゆっくりと体を起こした。
 そこはベンチではなく、芝生の上だった。
「ベンチ・・・?」
 首をひねった速水に、未央は顔を赤くする。
「さ、さすがに、こんな物陰じゃないと恥ずかしくて・・・」
「お、重くなかった?」
「さあ、忘れました・・・。」
 未央はそう呟いて西の空を見上げた。
 艶のある黒髪が風になびいている。夕日に照らされた未央の横顔が、速水の胸をどきっとさせる。
「あ、壬生屋・・・」
「はい・・・なんですか?」
 少し間延びした返事。
 潤んだような蠱惑的な瞳に見つめられ、速水の鼓動はますます高まっていく。
「そ、そろそろ帰ろうか?」
「・・・・・・そうです、ね。」
 未央は目を伏せてそっと呟いた。
 そして次の日の朝。
 未央はにやにやと笑う善行から話しかけられた。
「壬生屋さん、いい記念写真が撮れたんですけどいりますか?」
 その写真を見て未央の顔が真っ赤になった。
 今にも唇が触れ合わんばかりに顔を接近させた、未央と速水の写真である。しかも、膝枕。
 未央は黒髪をざわざわと揺らめかしながら善行を睨んだ。
「ど、どういうつもりですか?」
「いや、私は写真が趣味でして・・・ただの偶然です。まあ、パイロットには死にたくない理由が1つでも多い方がいいですから。」
 そう言って善行は写真とネガを未央の手に握らせた。
「新井木さんに見つかる前に処分した方がいいと思います。」
 そう言い残して立ち去った善行を、未央は真っ赤な顔のまま見送った。
 
 士魂号1番機・・・重装甲仕様。
 その武骨さが目立つ機体を見上げる未央に速水が声をかけた。
「あんまり根をつめると良くないよ。少し顔色も良くないみたいだし。」
 そう言って紅茶の缶を未央に手渡す。
「日本茶の方がいいんだろうけど・・・」
「いえ、お茶の神髄は心にありますから。」
 未央がにっこりと微笑むと、速水もまたほっとしたように微笑んだ。そしてどちらともなく2人はその場に腰を下ろした。
「壬生屋の機体はいつも傷だらけだね・・・」
「私が未熟ですから。」
 そう呟いた未央に向かって速水は首を振った。
「壬生屋はいつも突撃するから・・・それも幻獣達に集中攻撃されるのを承知で。」
 未央は首を少しだけ傾げて微笑んで見せた。
「愚かだとお思いですか?」
「優しいと思うよ。」
「速水さんは・・・時々訳の分からないことを言いますね。」
「いつも激戦の中に身を投じる・・・そのおかげで助かる人がいる。この傷は壬生屋の無器用な優しさの証明だと僕は思ってる。」
 未央はじっと速水の顔を見つめ、そして小さく笑った。その反応が意外だったのか、速水は怪訝そうな瞳を未央に向けた。
「私はそんな優しい人間ではありませんよ。」
 未央は遠い目をしてハンガーの天井を見上げた。
「壬生の血には以前の力はもうありません。私はね・・・それしかできないんです。決して優しいからではありません。」
「死ぬよ?」
「戦いですから。それに、何かを守って死ぬことは壬生の生き方です。」
「それで・・・いいの?壬生屋には・・・好きな人・・・なんかいないのかな?」
 2人の間の空気がややぎこちないものになる。
 こんな事聞くんじゃなかったという表情をしている速水に、未央は笑いかけた。
「・・・いますよ。」
「あ、そうなんだ。僕の知ってる人かな?」
「さて、どうでしょうか?」
「あ、ごめん・・・詮索するつもりじゃ・・・」
 顔を赤くして頭をかく速水。
 そんな速水の様子を見て、未央は秘かにため息をついた。
「(・・・鈍い人ってある意味犯罪です…余計な苦労ばっかりしなくちゃいけないし。)」
「あ、やっぱり紅茶は嫌だった?」
 とにかく別の話題を求めて、速水は未央の手に握られたままの紅茶の缶を見てぎこちなく笑ったのに対して未央も笑みを返した。
「いいえ、後でゆっくり飲みます。」
 
 朝起きたときから身体が何となくだるかった。
 おそらく多少の熱も出ているはずだったが、未央はいつも通り学校にいって授業を受けていた。
「おい、壬生屋。顔が赤いが熱でもあんのか?」
「さあ、頭がボーっとして気持ちはいいですけど。」
「帰れ!」
 本田が教室の入り口を指さした。
「そんな大げさな、休めば治ります。」
 ゆっくりと首を振る壬生屋に対して、委員長の善行が口を挟んだ。
「ここしばらく戦闘はありませんよ。あったとしても大した規模では無いでしょうから身体を治してください。」
 と、ここで善行は一旦言葉を切り、言葉を継ぎ足した。
「まあ、1人で帰らせるのも物騒ですからね。授業が終わるまで詰め所で休ませてはどうでしょう?」
「それもそうだな……んじゃ、石津!」
「……私1人じゃ、無理。」
 萌は首を振る。そうは言っても一の生徒で医療技術を持っているのは萌と祭、後は速水の3人しかいない。(天才はのぞいて)
「じゃあ、速水も。」
「……速水君なら、大丈夫。」
 結局、未央は速水の肩をかりて整備員詰め所に連れて行かれた。
 簡易ベッドの上に横たわった未央の顔は、さっきよりも赤かった。
「あれ、熱上がっちゃったかな?」
 そう言って未央の額にのばしかけた手を萌が引きとめた。
「な、何?」
「私が診る…。」
 そして萌は、額にうっすらと汗をかいた未央をじろじろと眺めて少し首を傾げた。
「壬生屋さん…とりあえず、お薬飲む?」
「はい、お願いします。」
 未央は萌に手渡された薬とコップの水を飲み、少しせき込んだ。
「大丈夫、壬生屋?」
「すいません、薬飲むのって苦手で……もう一杯お水下さい。」
 萌は水さしを傾け、未央の持つコップに水を注いだ。未央はその水を飲み干し、ほっとため息をつく。
 こういう薬には多少の気分の問題もあるのだろう、未央の表情は心なしか穏やかなものとなる。そうするとなんとなく安堵したような雰囲気が部屋の中にも流れる。
 未央と萌、速水の3人はまあ仲の良いグループだが、あまり共通の話題がない。第一、3人とも口べたな部類に入るため会話は弾まない。
 黙っているのも居心地が悪いのか、未央はしきりと水を飲み、速水は薄暗い部屋の中をきょろきょろと見渡し、萌は落ち着かない様子で自分の部署の仕事をしたりしていた。
 やがてそれに耐えられなくなったのか、萌が「ちょっと用事が…」と言い残して部屋を出ていった。
 2人きりになった瞬間、何故か部屋の空気が一変したように未央は感じた。だが速水も何となくそう感じているらしく、妙にそわそわとして落ち着かない。
 薄暗い部屋に2人きり。
 未央は何となくここが勝負所だと判断した。
「……いいものですね、こういうのって。」
「そ、そう?」
 未央の熱っぽく潤んだ瞳と赤い顔にどきどきしながら、速水は天井を見た。
「病気の時、誰かが側にいてくれる……いいものと思いませんか?」
 ふと、速水の表情が未央の手の届かない遠いものに変化する。
「……ごめん、良くわからない。僕はずっと…施設にいたか……?」
 手の上にそっと未央の手が重ねられ、速水はびっくりして未央の方に視線を向けた。
「ごめんなさい……嫌なことを思い出させるつもりは…」
 申し訳なさそうにうなだれ、未央はきゅっと速水の手を握った。
 手のひらから伝わる自分のものではない体温に速水は何となく心が安らいだ。
「いや、もう昔のことだから…別に……」
「もし速水さんさえ良ければ……その、えーと…速水さんが倒れたとき私が側に…」
 最後まで言い切ることが出来ずに、未央は顔を真っ赤にしてうつむいた。が、さすがに鈍い速水もそんな反応をされたら続きは言われなくてもわかる。
「あ、うん…その時はお願いするよ。」
 ……もとい、やっぱり速水君でした。
「どうしたの、壬生屋。大丈夫?」
 がっくりとうなだれ、身体をプルプルと震わせている未央の様子を不審に思い、速水は壬生屋を揺さぶった。
 その結果、ただでさえ力の抜けていた未央の上体はバランスを崩しベッドの上に横たわり、速水はその勢いのまま未央の身体に覆い被さるような体勢になってしまった。
 速水の右手と未央の左手は握りあっており、速水の左手は未央の右肩を押さえつけているようなとてつもなく誤解を招く体勢である。ちなみにこの前とは上下逆の体勢。
 白いシーツの上に広がった黒髪が未央の白い肌を一層際だたせていて速水は未央の顔から目が離せない。未央は未央でいろんな理由から速水から目を離せないでいる。
 2人ののどが何かをのみ込む音が同時に部屋の中に響く。
 きーんこーん……
 授業の終わりを告げるチャイムの音に、2人は弾かれたように距離をとった。そして、ぎこちない笑みを浮かべて笑いあう2人。
「ご、ごめん……」
「いえ…わざとじゃないのはわかってます。」
 ……犯罪級にまで鈍いことも含めて。
「えと…しばらく1人で大丈夫かな?」
「……大丈夫です。というか、1人にしておいてください。」
 今までにない突き放すような冷たい口調に、速水は表情を強ばらせる。そしてもう一度だけ「ごめん。」と呟いて詰め所を出ていった。
 それを確認して、未央はベッドの上に再び身を横たえた。次の授業がそろそろ始まる時間だが、大分体調は良くなったとはいえ、授業に参加する気は全くおきなかった。
 そうしてしばらくすると、未央は身体をむくりと起こし、心の中にわき上がる激情を罪のない枕とベッドにぶつけ始めた。
「大体あんなに鈍いのは犯罪です!」
 枕をバシバシと叩きつけ、ここぞとばかりに不満をぶつけ始めるともう止まらない。
「これほどまでにあからさまなモーションをかけているというのに、速水さんときたらもう!」
 枕を『誰かの首』に例えるように両手でぐぐっと握りしめる未央。そしてまたベッドにばんばんと叩きつけ始める。よっぽどのストレスが溜まっていたに違いない。
 だが、ねじが切れたように突然その動きが止まり、未央は枕を抱いてぽつりと呟いた。
「でも、速水さんのこと好きだから仕方がないですよね……」
 ミシッ。
 ばっ!
 光沢のある黒髪をうねらせて未央は入り口の方を振り向いた。
「ご、ごめん……心配で、つい…」
 未央は顔をこれ以上はないぐらいまで真っ赤にし、震える指先で速水の顔を指さしたまま叫んだ。
「きっ、きっきっきっきっ……聞きましたねっ?いや、聞いたはずですっ!」
「ううん、聞いてないっ、僕はなんにも聞いてないっ!」
 顔だけでは足りずに両手も使って必死に否定する速水。だが、その慌てぶりが既に嘘の証明であった。
「ふふ、そうですよね……こんな時代遅れな格好をして、口うるさい女の告白なんて聞きたくもないですよね。」
「違うっ!聞いてないっていうのはそういう意味じゃなくてっ……」
 速水は慌てて自分の口をふさいだが遅かった。
 黒髪をざわざわと波うたせた未央は、既に鬼しばきの鞘を払っている。
「やっぱり聞いてるじゃないですかっ!」
「ごめん、聞くつもりはなかったんだけど…」
「やっぱり私なんかの告白は聞きたくないんですねっ!」
 泥沼である。
 逆上した女性(に限らないが)は理屈が通用しないくせに、こちらの理論のあげ足を取るのが異常に上手い……事が多い。(あくまで一般論です。)
 今の未央を止める事が出来る魔法の言葉はただ一つであり、幸運にも速水はその言葉を知っていた。
 身に迫る命の危険が、速水の心から遠慮や羞恥心を全て取り去っていたのである。
「ぼ、僕も壬生屋のこと好きだから…」
 未央の動きがぴたりと止まった。
 錆びついた機械が動くように、未央の首がゆっくりと速水に向けられる。
「……嘘。」
「嘘じゃないよ、ずっと言えなかったんだ。断られるのが怖くって。」
 そして速水は照れたように間抜けな言葉を付け加える。
「め、迷惑だったかな?」
「………」
「………」
 その後は2人とも言葉にならなかった。
 ただお互いに赤くなったり視線を逸らしては見つめ合ったりするだけであった。
 
 HRの時間、本田が不機嫌そうな表情で教室の中を見渡して口を開いた。
「速水に壬生屋。最近仲がいいそうだが、隠れてチューなぞしとらんだろうなあ?」
 くすくすという笑い声が教室のあちこちであがり、真っ赤になる速水と未央。
 熊本の空は今日も青く晴れていた。
 
 
                   完
 
 
 これだけおいしいキャラだというのに何故か人気の方はいまいちらしい未央嬢の登場です。やっぱり性格的に舞とかぶってるあたりがその理由でしょうか?それとも服装がエセ巫女さんというマニアックさが敬遠されたのでしょうか?(笑)
 僕なんか、舞よりも未央の方が好きですけどね。あの潔癖性の性格と裏読みする耳年増ぶりの落差が最高です。いや、巫女さんはどうでもえーねん。(笑)
 んー、やっぱり世界設定もなんもかんもほったらかしてラブコメというのも心が和むものですねえ。(笑)しかも、何か枚数多い様な気がしますが私は気にしません。
 本当なら、ラストからさらにラブラブファイヤーな日常生活を書こうと思ってたなんてことは秘密ですし。
 まあ、前置きはこのぐらいにしまして………この話の裏バージョンがあります。
 女性に夢を持っている人は読まない方がいいでしょう。と言ってもそんなきつい訳じゃないですけど。(笑)
 覚悟は出来ましたか? では…『壬生屋愛の裏日記』へ

前のページに戻る