講師 | 小森陽一さん (「九条の会」事務局長・東京大学教授) |
とき | 2005年10月2日(日) 午後2時〜4時 |
ところ | ベイサイドポケット(横須賀芸術劇場内) |
主催 | 横須賀市民九条の会呼びかけ人 |
2005年8月12日〜13日
私のいる「在日韓国青年同盟(韓青)」は、今回みんなで韓国に行くことになりました。大勢で韓国に行くのは昨年秋に続き2回目です。
日本の各地から飛行機に乗り、ソウルで集合。まず韓国国内の青年団体「韓国青年団体協議会」と『コリア青年フェスタ2005』という2泊3日の合同キャンプに参加するため、会場へと向かうためバスに乗り込みました。
日本と韓国での同胞青年、しかも大人数同士での交流は初めて。まだ韓国語が十分に話せない韓青の仲間も多い中、最初はお互いちょっと緊張していましたが、そこはやはり韓国人同士!?ちょっとくらい言葉が不自由でも、この時代を生きていることへの思い、祖国への思いを肴にして焼酎とともに一晩語り明かせば、もう『チング(親友)』です。
夜の交流をはじめ、ゲーム大会、文化体験(陶磁器・仮面・おもち製作)、記念講演、お互いの文化公演などもりだくさんだったのですが、今回の目玉の一つとして、韓国・日本の各地方ごとの姉妹血縁がありました。神奈川県本部は光州地域(韓国の左下のほうです)の青年団体と姉妹血縁を結んだのですが、その中に「金剛山(クムガンサン)観光社」で勤めている人がいました。金剛山は北朝鮮側にある山で、韓国でも『金剛山も食後の景色』(日本で言うところの『花より団子』)ということわざで使われるほどの名勝地として知られています。まだまだ自由にとはいきませんが、希望する人ならば北側を訪れることができるようになっています。その人もちょくちょく行っているそうです。
13日のメインイベントでは、これから本国に住む青年と日本に住む在日韓国人青年とで、団結して交流も進めて行こう!平和な統一祖国を私たちの若い力で作って行こう!という決意を込めて、両サイドから代表者を出して伝統的な形式で模擬結婚式がおこなわれました。(その様子は、週刊誌「サンデー毎日」9/4号のトップに写真と記事がのり、9/24には韓国国営放送KBSのドキュメンタリー『青年よ!祖国統一の未来よ!コリア青年フェスタ2005』で放映されました)
14日
コリア青年フェスタの会場を離れ、バスに乗ること約1時間。イムジン河をはさみ、南側から北側を一望できる『統一展望台』へ。ほんの10年前までは「北朝鮮はこんなにひどい国で云々」だとか「いつまた攻めてくるか分からないので危険」といった反北教育のオンパレードだったそうですが、行ってみると緊張感もなく、敷地内には北朝鮮の曲が流れ、服や写真が展示され、むこうの名産品・工芸品まで売られる場所になっていました。スゴイ変化だ!
職員に変わりようのことを聞いたら「なに言ってるんですか、今は『6.15時代』ですよ!」とのこと。(『6.15』とは、2000年6月15日に南北両首脳がピョンヤンで会い、自主的・平和的に統一しよう、との合意をした『6.15南北共同宣言』のことです)
その後は8.15民族大祝典の開幕式に参加するためワールドカップ競技場へ。北・海外・南の順に入場行進。北朝鮮側の人たちも何百人か参加していました。私は韓青のビデオ撮影係だったので先頭のほうにもぐり込んでいたのですが、北側の人たちが会場に足を踏み入れた時の、観客席からの大声援がこれまたスゴイ!韓国の人たちの熱烈な歓迎ぶりがおなかにまで響いてきます。入場が終わり南北の地で採火した火を台にかざすと、花火とともに「統一は、なされた!」という垂れ幕がおり、会場はふたたび大熱狂。
北朝鮮側の一団は、スタジアムの特別に区分けされたところにいるわけでもなく、私たちのすぐそばに座っていました。そして6万5千人収容の競技場にいっぱいの人たちが朝鮮半島の描かれた統一旗をふり、「統一!統一!」と叫び、「京義線(南北にまたがる路線)に乗って、ソウルで会おう!ピョンヤンで会おう!」「ひとつになった私たちが平和を切り開こう!」と歌が歌われていました。
そして開幕式終了後には、国際試合にも出ているトップクラスの選手たちによる、南北での男子サッカー試合。南北どちらがチャンスだろうとピンチだろうと、全体で盛り上がり、全体でがっかりし、惜しみない声援が送られていました。声援は「テーハンミングッ(大韓民国)」ではなく「祖国!統一!」「私たちは一つだ!」スタジアム全体が両チームのサポーター状態。北も南もない、まさに「一つであること」を感じさせる空間でした。試合なんかせず一緒に1チーム作れば強いんだろうなあ。
試合終了後は、両選手が一緒に大きな統一旗を持ってグラウンドを一周していました。
15日
朝鮮半島では解放記念日であり、南北分断が始まるきっかけにもなった日です。この日は南・北・海外の代表者がそれぞれ演説をする本式典が午前中にありました。その開始前、自分たちが会場の前でたむろしていたら、北側の人たちが大勢、バスからゾロゾロ降りて会場に向かっているところに遭遇。すかさず「お会いできてうれしいです!」と声をかけあいました。今までだったら、どこからわいてきたんだ?というほどの人数の警察官が作る『人の鎖』で作られた道を通って近寄ることすら出来なかったのに。韓国の政府や人々の、北朝鮮に対する警戒心が一気になくなっているようです。
本式典が終わり、その後の公式行事まで時間があったので街を散策していたら、6車線の道路に突然車の通りがなくなったかと思うと、1時間位途切れない大行列。韓国全土からさまざまな団体(青年・学生・労働組合・女性・宗教など)が集まってものすごい人数(数万人?)のデモ行進がおこなわれていました。コリア青年フェスタで知り合った韓国青年団体協議会の人たちもいて、互いの健闘をたたえあいながら別れました。
16日
午前中は、若者たち数千名が一堂に集まり、『南・北・海外青年学生連帯のつどい』がおこなわれました。「私たちの力で自主的、平和的に統一を成し遂げよう!」と共同宣言が朗読されると、会場いっぱいの若者で熱気ムンムンの会場が『ドオー!』とうなりを上げます。その後は歌、踊り、楽器などの文化公演がおこなわれましたが、なんとその場の司会は、俳優のクォン・ヘヒョ氏!(『冬のソナタ』でキム次長役をしていた人です)クォン氏は市民運動に理解のある人で、北朝鮮にも行ったことがあるそうです。終了後、会場から出てきたところを発見し、しっかり記念撮影。快く応じてくれました。とってもいい人でした。
その後はオリンピック競技場にて、8.15大祝典の閉幕式がおこなわれ、その後女子のサッカー試合。結局男子は韓国が、女子は北朝鮮が快勝し、仲良く一勝一敗です。
この日は、仲間数名と青年団体協議会のOBの方の家に泊めていただき、大宴会でもてなされることに。在日韓国人のこと(国籍、外登証、歴史と今、名前、教育問題など・・・)は本国に住む人たちもあまり知らないようで、私の話をとても興味深く聞いていました。
17日〜18日
民泊させてもらった家を離れた後は、日本に戻る18日の昼までは自由時間。本屋で、日・韓・中の歴史学者が集まって編さんした「未来を開く歴史」の韓国語版を買いました。 スーパーでゴマの葉の缶詰を手にとってみると、葉っぱの原産地が『北韓(=北朝鮮)』。南北間で人・物・情報といったあらゆるものが流通しはじめているため、北朝鮮製のものが置いてあっても、違和感がなくなっているようです。
帰ってきて・・・
私(29歳)とそれほど年の変わらない人が、小学校の時、北朝鮮の人は頭にツノが生えていると本気で信じていたと言っていました。またほかの人は、北朝鮮の軍人を韓国の軍隊がやっつける絵を描いたら、大賞をとって先生にほめられたそうです。もちろん今ではそんなことはありません。
10年前までは想像もつかなかった、政府間・民間を問わない南北交流が、猛烈なスピードで進んでいます。鉄道は連結工事も進んでいますし、道路はすでに実用段階です。韓国企業の資本で北側に工業団地が作られ、北朝鮮の舞踊家が韓国の携帯電話のCMに採用されました。残念なのは、そういった「緊張から和解へ、分断から統一へ」という流れが日本ではそれほど報道されずに、「拉致!核!反日!」という偏った内容が多く伝えられていることです。
南北が平和的に統一して、38度線という地球上で最後の「冷戦の遺物」がなくなれば、朝鮮半島だけでなくアジア、ひいては世界の平和に大きく寄与するはず。一方、すぐとなりにいながら朝鮮半島への危機意識を煽る報道を流しつづける日本は、その平和への流れに乗れるのか、それとも?
そんなことを考えてしまいました。
いつになるかはまだ分かりませんが、南北の自主的で平和的な統一の日が確実に近づいてきていることを感じさせる、6泊7日でした。
私は、もうすぐ2歳になる1児の母です。
9月20日に小森さんを迎えて、プレ学習会を子育て中の母たちとつくりあいました。そこでの交流会で小森さんが語り手になるより、よき聞き手にとおっしゃっていたことで、いろいろ考えました。私は自分が知らなかったことを知ると、聞いたままを熱く語ることが多かったのです。でも、相手はひいてしまいがっかりすることが多くて、だんだん人に話すことができなくなりました。講演会にもたくさん誘いたい友人がいたのですが、絶対に関係が崩れない人だけしか誘えませんでした。
学習会で、日常の会話の中で自分が大事に思っていることを話せればいいのだと思いました。それには、相手との信頼関係がとても大切で、悩みや思いを聞いたり聞かれたりする関係を日常に作っていけばいいのだと思いました。でも、競争教育の中で育ち、人と深く関わらずに生活してきた私には、日常に信頼できる人間関係を作っていくのはとても難しいことなのです。
私はおやこ劇場という運動をしているのですが、そこに1,2回誘っただけでメールの返事が返ってこなくなったり、逆に誘いを断られてしまうと連絡がしづらくなって音信不通になったりします。人との関係がうまくいかなくなると、その人との関係も断ち切りたくなるのですが、今は断ち切らずに関係を続けていけるようにしていきたいと思っています。最初は困難できついのですが、連絡を取り合い、会う機会を増やして、もう一歩踏み込んだ関係になれたらいいなと思っています。
私には今、醜い部分も無様な姿も見せられる信頼する人たちがいます。今まで人に自分の醜い部分を見せることができなくて、うちにこもって人を恨んだりねたんだりしていましたが、関係がくずれない信頼する仲間がありました。かっこつける必要がないことを知りました。私の周りにあるたくさんの人間関係を少しでもそうなれるよう作っていきたいと思っています。
小森さんの講演の中で、2歳半からのなぜと思う子どもの感覚が大切だということや、やだという意思を持つことが、子どもの成長には大事なことを聞きました。自分の意思をもち始めるわが子に、ひとりではとても対応しきれないけれど、たくさんの大人たちが息子の「やだ」「なぜ」に付き合ってくれると思うので、とても心強いです。信頼する人たちの中で育つ息子の成長を私はとても楽しみにしています。そして、人間らしく成長してほしいと願っています。けれども、息子だけが人間らしく育っても、周りがそうでなければ、とても窮屈で自分を殺して生きていかなければなりません。また、人間信頼ができていないと私のような苦しみや困難を経験させることになります。そうならないために、教育基本法や憲法にそった社会になってほしい。息子が大人になる頃にはもう少しましな社会になっていてほしいと願っています。なのに、憲法9条がなくなってしまったら、私の願いとは裏腹に今よりももっと悪い社会になってしまうと思うと、いてもたってもいられません。私はあきらめたくありません。私にできることをできる範囲で9条を守る願いを広げていきたいと思います。そんなあきらめない私の姿を息子に見せていきたいと思います。
私は現在67歳です。終戦の時は小学校1年生の夏休みの時でした。突然学校によびだされ、全員でラジオ放送を聞き、戦争が終わった事を知りました。
私の姉と私は父の親戚にそれぞれ別々に疎開させられました。5歳の時でした。妹は親と一緒に生活することになり、空襲になると「位牌」を背負って防空壕へ避難したそうです。私は子供の多い家に預けられ食べるのも充分でなくひもじい思いを何回となく味わいました。小学校に入学してもノート・鉛筆・教科書もあまりありませんでした。 戦争が終わって父母のいる家に帰ってきました。教科書は戦争の関係しているところ、考え方の違うところは墨で消されていました。墨でぬられた個所が多かったので読むのにたいへんでした。
小学校のまわりは米軍の兵舎があり、環境はよくありませんでした。三度の食事は少なく、食べられない時もありました。食べられる時にたくさん食べておこう、そのくせが残り、飽食の時代でも体がいつも太っております。戦争中他の家にいたので食べることを一番最初に考え、どうしたら満足に食べられるか、そのことばかり考えておりました。
孫達にはこんな思いをさせたくないと思い、戦争への道につながる九条の改憲は絶対に許すことは出来ないと思っております。憲法の改憲は絶対に反対です。
40数年前原水爆禁止世界大会が京都で開かれた時、皆のカンパで参加しました。参加者に大きなバッチが渡され自慢するかのように、胸にぶるさげて通勤したら、そのバッチを見て、妻は声をかけてきた。それがキッカケで2人は交際が始まり結婚した思い出のバッチでもあります。今年は妻が長崎大会に、孫が広島大会へと原水爆禁止大会に参加しました。自分の子供たちには、平和のことについて伝えることはできませんでした。しかし孫は広島へ行き、何を学んできたかはまだわかりませんが、いつかは平和の課題を追及してくれるのではないかと考えております。私達は今の若い者が無関心なら、次世代へ目を向けて平和の課題・戦争の問題を語っていかなければなりません。戦争の体験は私達世代で終わりです。孫子の世代へ戦争の恐ろしさ・無意味さを伝えられるのか、私達に課せられた事ではないでしょうか。
憲法改憲反対・九条を守ろうと口では言えても通じないことがありますが、実体験をもとに語り、憲法九条改憲反対に向けて皆で進みましょう。
私は、ふだん年金者組合で活動しています。一緒に活動している仲間とは、九条改憲反対ですぐ話しが一致します。しかし、私と同世代でも「オレはもう死ぬから関係ないよ」という人もいます。又、36歳の嫁いだ娘に九条のことを話しましたが、「知らない」と言います。どの年代の人にでも話していけるよう学習していきたいです。
いま私は大学で心理学を勉強していますが、ある授業の中で、ベトナム戦争に出兵したアメリカ兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)について勉強しました。ベトナム戦争が終わって30年がたちますが、未だに戦争の後遺症で普通の生活を送れていない兵士が数多く要ること、その中でもPTSDの症状のひどい人は、街で暮らすことが出来ずに森の中で生活していることを知りました。また、戦争によって薬物中毒になる兵士が増え、今や一般の若者にまで薬物が浸透してしまっています。様々な犯罪も戦争の被害によって起こることも少なくありません。
また、私は8月に広島で行われた原水爆禁止世界大会に参加しました。そこで切に感じたのは、人種も、性別も、年齢も、置かれている立場もまったく違う世界中の人々が、ただ平和を求めている、という一点で手をつなぐことが出来るんだということでした。それまでは、いくら自分たちが、「戦争反対、憲法9条改悪反対」と声をあげたとしても、結局それはちっぽけなものでしかなく、世界は変わらないんだ、と半ば諦めていました。けれど、あの場は、「平和」そのものであり、あの場の熱気は、決して平和を諦めるものかという気持ちを起こさせました。
戦争で人と人、国と国が手を結ぶことは出来ないけれど、平和では手を結ぶことが出来るのです。平和を求め、戦争放棄を誓った憲法9条を変えようとする動きには声を大にして反対を唱えたいと思います。戦争が出来る国になってしまったら、自分の将来の夢さえも考えられなくなり、人間らしく生きていくことなんて到底出来ない世の中になってしまいます。私はこれからの世界を担っていく私たち青年の世代がもっと自分たちの生きていく社会のことに目を向け、自分たちの平和な暮らしを守るべく立ち上がらなければならないと思います。平和は当たり前にそこにあるのではなく、自分たちの手で作り守っていかなければいけないと思います。