三国志街道を行く



危ないホテルの一夜が明けた!

 四川省の片田舎「広元市」の3ツ星ホテル(広元では最高級のホテル)で旅4日目の朝を迎えた。刺激的で危ないホテルの一夜が過ぎ、無事に朝を迎えほっとした。 何が刺激的で危ないのかというと!昨夕このホテルに到着直前のバスの中で、添乗員H女氏が私達に注意を呼びかけたのである!
 彼女いわく「今晩と明日連泊する広元のホテルは、少し危険です」「夜中に皆さんの部屋に女性から電話がかかって来ます!内容は性的サービスを含んだマッサージへのお誘いです!」「特に男性の部屋には波状攻撃で断っても次から次へと電話がかかります!」「時には直接部屋まで来てドアをノックするので絶対開けないようにお願いします!」何と!このような恐ろしいことを平然と言ったのである。

 貧しい農村地帯の40万都市の最高級ホテルの宿泊客はマッサージ嬢の彼女達からみれば、最高の商売(売春)相手なのだ。
 ホテルとサービス嬢が結託していて、宿泊客の中から男性客のルームナンバーがホテルのフロントから彼女達に筒抜けになっているのだ。 おそらく近郊の農村から豊かさを求めて街に出てきて身を売っているのだろう!その証拠に、ホテルの全部屋のバスルームの洗面台の上に、中国語で「これは無料です、あなたと家族の安全のためにご使用ください」と書かれたカードと一緒にゴム製品が2個置かれている。これじゃ日本の連れ込みホテルと一緒じゃないか!(私は連れ込みホテルなんて知らない!噂に聞いただけである)

 この名もない田舎町に外国人が来るのは、「三国志おたく」のごく少数の物好きな日本人ぐらいで、宿泊客の大半が中国人の共産党幹部・政府関係者・大企業の出張社員である。
 これらの中国人宿泊客相手の商売が堂々と摘発されずに行われているのである。 間違いなく市政府・警察も暗黙の了解(賄賂をもらって見逃している)をしているのが歴然としている!。

 ロビーや廊下を派手な格好をしたそれらしき女性がうろちょろしている。この情景を見て、私は波状的にかかってくるという電話攻勢に安眠出来ぬ恐れがあるので、昨夜は部屋の壁から電話線を引抜き電話が一切通じないようにしてベットインした。 夜中に2回、部屋のドアがノックされたが無視していたらそれっきりだった!

出発前の朝の散策

 そんなわけで、危ない夜を過し何とか無事に朝をむかえた、今日の出発時間は遅めの9時となっているので、時間つぶしにホテルから少し歩いたところの公園に散歩に行った。
 公園の広場でさまざまな人達が自分なりの朝の運動している。その中でひときわ目立つ30名ほどの女性グループがラジカセの音楽に合わせ、二人のリーダーを先頭に、一糸乱れぬ振る舞いで腰をくねらせダンスをしている。

 あまりに見事なのでそばに行きジィーと見ていると、気になるのか女性達も踊りながら私をチラチラ見ているではないか。
 私の服装が年齢以上の若作りなので中国人でないことが分ったらしい。
そのうち私の視線を意識しすぎたのか?彼女達数人の足並みが乱れ始めたので、私が微笑むと彼女達も照れ笑いを返してきた。

 散歩を終えホテルに戻ると、昨日までのバスとガイドが出発地の成都に帰り、交替の大型バスが、明日向かう予定の陝西省「漢中市」より来て、ガイドとともに玄関口に待機していた。
 まだ出発に時間があるので、ホテル前の食品スーパーで冷えたミネラルウォーターを1本買ったら1元(13円)で超安い!さらにホテル前の道端に男性2名の靴磨きがいたので靴磨きをしてみると、何と!これも1元(13円)の料金で日本の靴磨きより丁寧だった。

広元近郊の観光へ出発

 
バスはホテルを出発した。最初の観光は2000年の歴史があるという「昭化古城」に向かう、農村地帯の農道を走り集落の道端にバスは停まった。古い石碑がこの場所が三国志の史跡であることを証明している。
  ここから畑のあぜ道をしばらく歩くと別な集落とともに城壁が見えて来た、2000年前の漢時代にここに関所がつくられ、三国時代に張飛と馬超が一騎打ちした場所としても有名な城だ!
 
 現在は城壁のみが残り、城内はタイムスリップしたかのような、明・清時代の古い住居がそのままの姿で残り、住民がのんびりと暮らしている。
 M氏は古城内の情緒ある生活情景がお気に召したようでじっくり観察している。
 たっぷり時間をかけ城内の古住宅街をぶらつきながら、孔明が自分の死後の後継者に指名した「費偉」の墓を見て、昼食のためいったん広元市内に戻りレストランに入った。
 
 昼食後、広元市郊外の嘉陵江(漢水に流れ込む大河)に沿った国道の片側斜面の崖に石窟寺院がある「広元千仏摩崖窟」に向かった。急斜面の崖に掘られた400以上の石窟の中に、北魏〜清時代にかけ1300年間にわたって延々と彫られた、7000体もの仏の彫像が立ち並んでいるを見学した。
 しかし多くの石窟で文化大革命の破壊により首や手足をもがれた仏像がいくつも散見された。
 いくら毛沢東の指図といえども、何という事をしたのかと、いう暗然たる気持ちになった!。あまりにも大きい革命による負の遺産が歴然と残っているのに言葉をなくす。        

その6へつづく