旧満州・中国東北三省を行く


夜の大連と妖しい大連美人

大連の日本料理店や居酒屋が集まった飲食街

 昨夜は北方の香港といわれる大連の繁華街を一人で散策途中、和服姿でたたずむ小姐に引き込まれるように日本料理店に入ってしまった。
 店内客はほとんどが現地中国人のようで、大きな声で談笑する中国語だけしか聞こえてこない。
 中国において日本料理といえば高級料理の代名詞で、政府や企業関係の接待に使われることが多いのだが、店内にはけっこう若い男女のペアも散見される。
 大連夜の繁華街

 彼女に自分のステータスを誇示するために見栄を張ってデートに来ているのだろうか?カップルのテーブルの上をさりげなく見てみると、あまり高そうな料理は並んでいない、飲み食いよりも会話に夢中になっている。
 夕食直後で腹いっぱいだったが、生ビールジョッキ2杯と肴としてうなぎの蒲焼を食べ、日本では考えられない安い料金46元(690円)を払いタクシーで午後10時 ごろホテルに戻った。すると案の定、ホテルロビーには妖しげな大連美人がたむろしている。
私が泊まった日本人の利用がい多いホテル
      
 彼女達の熱い視線をあびつつ、部屋に戻るべくエレベーター前に行くと何と!ひと目で現地日本人(企業駐在員か?)とわかる背広姿の中年男性2人が大連美人同伴でエレベータ前で待機しているではないか!
 同伴の女性は肌もあらわなタンクトップ姿でモデルのようなすばらしい美人である。日本に妻子を残し単身赴任で青春を謳歌しているのであろうか?・・
 私も老いたりとはいえ、かってその道でずいぶん高い授業料を払った身である。このような場面を見るとどうしても羨望と嫉妬心が芽生え気になってしょうがない。これが噂の大連美人の現地妻なのだろうか?いい歳にな っても、いまだ煩悩の火が消えていない我が身が恥ずかしい!
 エレベーターが来て彼らと一緒に乗り込むと、彼らは日本料理店とクラブバーなどがある3階で降りていった!自室に入る前に軽く一杯寄り道するのだろうか? どうしても気になるのである!。

マッサージへのお誘い

 22階の自室にもどりシャワーを浴び眠りに入った途端、枕元の電話が鳴った! 添乗員が夕食後単独行動をとった私が部屋に帰ってきたかどうかの確認の電話だろうと思い受話器をとると何と!女性の声で妙なイントネーションの「マサジ!マサジ、キモチイイ!」という声が流れてくるではないか。
 日本語の「政次(正次)」マサジ、マサジと名前を呼んでいるようにしか聞こえない! マッサージをマサジと発音しているのだ! しか し意味は理解できた、「部屋にマッサージに部屋に行ってもいいか?きもちいいよ!」と一生懸命片言日本語で言っているのだ。
 夜中に一人部屋の男性宿泊客にかかってくるマッサージ勧誘の電話である、ただのマッサージではない!この種のマッサージは、キモチイイかもしれないがとても疲れるのである。
 ホテル周辺のビル街

 先ほどのエレベーター前で大連美人を同伴した日本人駐在員の姿が脳裏によぎった! 思わずいくらだ?と料金を聴いてみたい気がしたが、日本で私の中国病治療がうまくいくことを願いつつ帰国を待っている「老婆」(中国語でラオポーと発音し、日本語で女房の意味)がいる。
 揺れ動く思いを吹っ切り、大きく一声「不要(ブーヤオ)」と言って受話器を置いた。

大連駅方面へ歩いていく途中の古い電車通り
 再び眠りに入ると、たいした時間をおかずに、また電話が鳴った!うんざりして受話器を取り上げると、ま たしても「マサジ、マサジ」の連呼である。 冗談でない!今夜は一晩中こんな電話がかかってくるのだろうかと思いつつ受話器を切ると、何と!30分ぐらいして、またしても3回目の電話が鳴った。

 一昨年の三国志史跡巡りの旅では、四川省奥地のホテルで似たような電話攻勢に頭にきたことがあった。その時はとうとう電話線を部屋の壁から引き抜いたが、このホテルは4星ランクであまり無茶をすると、あとで弁償といわれたら高そうである。
 バスルームからバスタオルを持ってきて電話をぐるぐる巻きにして、電話が鳴っても無視することにして3度目の眠りについたら、4回目の電話は鳴らなかった。

早朝のホテル周辺模様

 そんな一夜が明け、健康的な二日目の朝を大連のホテルでむかえた。 今日の旅程は朝9時ホテルを出発すると、旅順まで行き日露戦争の戦跡を観光することになっている。午後からは大連に戻り市内観光後、大連発9時42分発夜行寝台列車で「黒龍江省のハルピン」に向かうのである。
高層ビルから一歩裏に入ると廃墟のような住居が

 早朝覚醒症の私にとって9時ホテル出発は時間が有り余りすぎる。
 朝食前にホテル周辺をウオーキングするべく早朝の5時半にホテルを出た。
 ホテル周辺の圧倒するような高層ビル街を通り過ぎ大連駅の方面へ歩いて行くと、あたりの状況は一変してきた。
 高層ビル街から一歩裏通りに入ると、そこは崩れかけたような集合住宅が密集している住宅街だった。
一般庶民はまだこのような住宅街で暮らす

 路地に足をおそるおそる踏み入れてみると、日本では想像もつかないような廃墟のような住宅から人々が次々に出入りし、路上の一角では屋台で朝食をとっている人、路上を掃除している人、体操をしている人など中国らしい生活のいったんが垣間見えた。
 急速に発展しつつも華やかな現代中国の表通りと裏通りの極端なギャップに光と影を見たような気がした。
 住宅街路上の露店での朝食風景

 まいど中国に来て感動することがある。どこの街角でも早朝6時を過ぎたころから、すでに小中学生がリュックを背負って学校に通いだしているのである。
 小学校の玄関前では親に見送られた学童達が次々校門の中に消えていくのである。
 こんな早い時間に授業は始まらないはずだ。早くいく理由は、授業が始まる時間まで自習するのである。

 中国において教育にかける情熱と努力は日本の比ではない。 時過ぎ出したころから親に見送られ学童が
日本では学力低下が著しいが、すでに国際的な学力調査では中国や韓国に大きく追い抜かれたと聞いたが、このような光景を見る限り本当であろう。
   
 早朝の散歩を終えホテルに戻り朝食を済ませるとバスの出発時間が迫っていた。
 きょうのメイン観光である日露戦争最大の激戦地である旅順軍港に向かってバスは出発した。

旅順での日露戦争の戦跡

 広瀬中佐が閉塞船を沈めた旅順港の入り口

 市内を抜け高速道のような快適な自動車道を1時間ほど走ると、旅順の街に入った。意外と緑豊かな清掃が行き届いたきれいな街で、軍港都市なので幹部軍人が住む高級住宅が整然と建ち並んでいる。
 最初の旅順観光は、日露戦争での旅順攻防戦で旅順港陥落の直接の引き金になったロシア軍の「東鶏冠山堡塁」陣地の見学である。

日本軍によって爆破された要塞の穴と無数の銃弾跡

 べトンで固められた分厚い壁のトーチカが連なる陣地には、日本軍の決死隊によるダイナマイトで爆破された大きな穴や無数の銃弾の跡が、往時の激戦を物語るように生々しく残っていた。
 大勢の中国人観光客も来ているのだが、何よりびっくりしたのはロシア人観光客が結構きているのである。

ロシア軍の地下要塞跡
 彼らもここがロシア軍と日本軍が激戦したことを十分理解しており、要塞で日本語ガイドの説明を聞いている私達に好奇の視線を浴びせてくる。
 日本軍の累々たる屍でいっぱいになった塹壕跡が見学通路になっており、中国人・ロシア人観光客と一緒に巨大な要塞を見て回った。


激戦203高地古戦場

 次はかの有名な203高地古戦場の見学である。 203高地の上り口に着くと大勢の駕篭かきがたむろしている。
 くやしいことに、見た目にあまり若くない私達がバスから降りると、絶好のお客だとばかりにワーっと言い寄ってくる。
 彼らに歩くから必要ないと言いつつ、無視してゆるい坂道を登ぼりだすと何と!私達の後ろをどこまでも着いて来るではないか! 
 必ず途中で「へばる」だろうと期待して後ろを着いて来るのである。
203高地の登り口に客待ちする駕籠かき

 ここは老いたりといえど日本男児である!意地になっても「へばる」わけにはいかない! 炎天下、汗を拭きつつ20分ほど歩くと標高203 mの砲弾の形をした慰霊碑が建っている203高地頂上に着いた。 
 待ちかねたように片言日本語を話す売店のオバちゃんたちがペ ット飲料を売りこもうと一生懸命声をかけてくる。


 203高地の頂上にくると砲弾の形をした慰霊碑が建っていた。ここが今から100年前の1904年〜1905年にかけての日露戦争で、乃木軍団長の指揮の下、旭川の第7師団を中心に1万6千余の戦死者をだした日露戦争最大の激戦地なのである。

 過激な発言になるが、何の戦略・戦術もなくむやみやたらに
203高地頂上の砲弾形慰霊碑
突撃ばかり繰り返し、死屍累々たる将兵の屍を築 いた無能な指揮官「乃木将軍」の帰国を、英雄として呼の声でむかえ、後には軍神として祀った当時の日本の国民感情が、戦後生まれの私にとって、どのように理解しようとしても、理解の域をこえるものだ。
 どれだけ多くの兵士の親を泣なかせたかを考える時、どう考えても乃木将軍は愚将だとしか思えな いのだが!・・・・
 今は、この古戦場もあたり一面欝蒼とした草木と山々にかこまれ、静寂さのはるか彼方には霞がかかった旅順の街が見えるだけであった。

旅順港を見下ろす203高地砲台
  

水師営売店の日本語を学ぶ店員 

 次の見学は、203高地争奪戦がロシア軍降伏のかたちで終息をむかえ、ロシアの将軍ステッセルと乃木将軍など両国の代表が会見を行った場所の「水師営会見所」である。
 飾り気のない質素なあばら家でちょっと拍子抜けしたが、建物の中にいた老人(80歳半ばの男性中国人)の日本人とかわらぬ流暢な日本語での説明には驚かされた。
日露両国代表が会見した水師営会見所
 ざっと見学を終えたところで、昼食時間となった。
 場所は水師営会見所に隣接した海鮮レストランで取り終えたのだが、たっぷりと昼食時間をとったため、このあと大連に戻るバスの出発時間までまだ30分ほどもある。
 レストランを出ると敷地内に小さな観光売店がある。
 中を覘くと客が誰一人いない店内では5人の小姐がひまそうにしている。 見るべき物も無いのですぐ店外に出て旅仲間と時間つぶしの談笑をしていると、売店から二人の小姐(店員)が出てきて私に向かって近づいてきた。

日本語を学ぶ売店の女店員

 すると私に手に持っている紙を私に差し出し何と!たどたどしい日本語で話し出した。「スミマセン、マチガエタ、ナオス!ナオス!」と言っているように聞こえる!
 紙を見ると日本語で「羽毛布団のすぐれた理由」とタイトルが書かれ、その下に箇条書きでなぜ羽毛布団がすばらしいかを書いているようなのである。
 どうも日本語で書かれた羽毛布団のパンフレットの下書きようにみえる。 よく読んでみると意味不明な箇所が多くパンフ として使えるようなシロモノではない。
 店員が私の表情を見ながら、たどたどしい日本語で一生懸命私に「マチガエタカ?、ナオス、ナオス!」と言ってボールペンを差し出すではないか!
 あどけない顔に必死の形相で私の表情を窺い見るのである。どうみても20歳そこそこの年齢にしか見えない。
 
 私が彼女にむかって中国語で「中国語でもう一度話しなさい、おじさんは中国語を少し話せる」というと、彼女はパッと明るい顔になり堰を切ったように中国語で話し出した。 一瞬私は焦った!マズイ全然聴き取れないのである!かっこつけて中国語を話せると言ったものの、彼女の早口中国語では半分も聴き取れないではないか! 途中で彼女の話 をさえぎり、彼女に言った「ごめんなさい!貴女の中国語話すのが早い!ゆっくりもう一度言ってください」!と。

 結局、彼女が言うにはこのようなことだった。売店の店員をしながら日本語を学んでいる。友人の知り合いの寝具会社から日本語のパンフレットを作るので手伝ってくれと頼まれた。作ってみたが自信がないので日本人のオジサンにみて貰い、間違えている箇所を教えてほしい。
 そのようなことで、彼女の頼みを聞き、パンフ原稿の添削を始めたが、間違いばかりで全面的な手直しが必要である。 けっこう時間がかかり途中でバスの出発時間がきてしまった。

 すでに私以外の全員がバスに乗り私が戻ってくるのを待っている。私はやむなく彼女にむかって「ごめん!出発時間がきたのでバスに戻る」というと、彼女は必死になって「お願いします、最後まで添削してください」と言うや、何と!バスに向かって走り出し乗車口で待機している中国人ガイドと何か話しだした。

 すると笑顔で戻ってきて「まだ大丈夫です、 バスは出発しません!」と言うではないか! 添乗員にバスの出発を待ってほしいと交渉してきたのである。
 すると中国人添乗員がバスから降り私に近づいてくると「佐藤さん、あとどのくらい時間必要ですか?」と聞いてきた。 私があと10分ほどと言うと分かりましたというやバスに戻っていった。
 
 やっと添削が終わりパンフを彼女に渡しバスに戻ろうとすると、彼女がちょっと待ってと言いながら売店に駆け込むや、手に民芸品を持って戻ってきて何と!「ありがとうございました、日本語の勉強になりました、これお 礼です」といいながら私に差し出すではないか! 
 この好意に私は感動した!安給料(おそらく月給1万円ぐらいであろう)の店員をしながら、少しでも豊かさを目指し日本語を学んでいる向上心旺盛な女店員。
 こんな民芸品を自腹でプレゼントしてくれる心意気、うれしいではないか! 私は感動の面持ちで彼女に「日本語の学習がんばって」と言うやバスに駆け戻った。

 バスに乗り込むや、私と女性店員やりとりをバスの窓から見ていたのだろう!旅仲間から拍手が湧き上がった。何とも面映い!
 バスは大連市内に向かって走り出した。21時42分発ハルピン行きの夜行寝台車に乗るまで、大連市内の観光だ。

その4へつづく