歴史を歩く、歴史街道・古道を行く

歴史ロマンを求めて、日本の街道てくてく歩き紀行

宮本武蔵ゆかりの因幡街道を行く

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歴史街道目次


因幡街道を行くプロローグ


クリックすると詳細コース地図になります。
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 かって播磨国の姫路は西国と上方(京・大阪)を結ぶ主要街道が集まる交通の要衝であった。
 姫路を起点に、美作を経て山陰の因幡鳥取まで至る因幡街道は、山陰側では「上方往来」とも呼ばれ、瀬戸内海と日本海を結ぶ物流の道でもあった。
 街道の歴史は古く奈良時代には、風土紀にこの道のことが記されている。
 鎌倉時代には政変により隠岐に流された後鳥羽上皇が失意のうちに通り、時を経て同じく隠岐に流された後醍醐天皇は、この道を京へと駆け上り鎌倉幕府を倒し建武の政権を打ち立てたのである。
 江戸時代には松江藩や鳥取藩など参勤交代の大名行列が通った道でもある。
 山陰と山陽を貫く中国山地の山また山の旧街道を、宿場町として栄えた大原から剣豪・宮本武蔵の故郷「宮本村」を抜け、街道一の宿場町として栄えた平福まで歩いてみた。 街道歩きのガイドブックと国土地理院発行の2万5千分の1地図を片手に、街道歩きの起点となる大原駅に降り立つと、そこは宮本武蔵の面影を色濃く残す町だった。

             歴史街道てくてく歩きコース

        黒字ー交通機関利用コース 赤字ーてくてく歩きコース

JR大阪駅→JR姫路駅→智頭急行・大原駅下車(徒歩起点)→大原宿→宮本武蔵駅→武蔵の里(武蔵の生家跡→武蔵神社)→釜坂峠→大畠集落→豊福集落→平福宿(陣屋門代官所)→川端→宮本武蔵決闘の場)→智頭急行・平福駅(徒歩終点)→佐用駅→
上郡駅→JR姫路駅下車

          歩行距離 約16キロ  歩いた歩数24600歩

大阪駅から姫路経由で大原へ

 歴史街道歩きの拠点として、10日間宿泊していた大阪中ノ島のホテルを早朝6時20分にチェックアウトして、ホテルの地階から大阪駅まで接続している地下街を歩きだした。
 私の街道歩きの一人旅は、旅先毎にホテルを転々とするのではなく、一つのホテルを拠点としてそこから電車やバスを乗り継いで日帰り可能な目的地まで出かけて戻ってくる方式である。 今回もインターネットで様々なホテル情報を集め、駅に近い・インターネットの無料接続が可能・シャワートイレ付き・宿泊料1泊6000円以内の条件で、あれこれ検索の結果大阪駅より地下街を歩いて15分、しかも地下鉄駅の真上という好条件のホテルに決めたのだった。
 
 半月分の着替えとパソコンが入ったキャスター付きの旅行ケースを、早朝の地下街にガラガラ音を響かせながら引きずり大阪駅に着くと、キヨスクでおにぎりとペット飲料を買い大阪駅6時52分発山陽本線新快速電車に乗り込んだ。
 行き先は姫路市である、姫路で一旦下車しインターネットで4日間宿泊予約しておいた駅前のホテルに旅行ケースを預け、再び姫路駅から乗車して街道歩きの起点となる智頭急行の大原駅に向かうのである。

武蔵の里大原駅に着いた

街道歩きの起点、因幡街道の智頭急行・大原駅
 大阪駅で電車の座席に座るや、周りの人目も気にせず朝食のオニギリにかぶりついていると、ちょうど1時間で姫路駅に着いた。
 駅前のホテルに荷物を預け、再び姫路駅8時37分発、鳥取倉吉行きのスーパーはくと1号に乗車すると、50分ほどで旅の起点となる中国山脈の山間の小さな大原駅に着いた。
 下車客はわずか2人である、ホームに降り立つと、4月上旬の天候はうす曇で少々肌寒い、目の前の小さな駅舎には「武蔵の里大原町」(右上画像)と書かれた看板が掲げられていた。


旧因幡街道・大原宿町並み保存地区
 リュックを背負いガイドブックを脇に抱えての旅人スタイルで駅舎の写真を撮っていると、1人しかいない駅員が声を掛けてきた!「この町は宮本武蔵の出身地ですよ!」 駅員に向かって私が「これから武蔵の里を経由して釜坂峠を越えて平福町まで歩くつもりなのだが、どのくらい時間がかかるでしょうか?」と尋ねると、一瞬びっくりしたような顔をして「歩くのですか!本当ですか?」と聞いてきた。 
私が「それを目的に札幌から来ました」と答えると、駅員は感動的な表情を顔に浮かべ「へぇ〜札幌からですか」「ようこそこんな田舎まで、平福まで歩くのですか?へぇ〜」と言ったきり、私の質問に答えようとしない。あまり駅員と長話している時間がないので質問の返事を待たず駅をあとにして歩きだした。 

宿場町の面影が残る大原町

大原宿本陣 江戸時代の参勤交代大名の宿泊所
 駅から西に向かって国道373号線を渡ると家並みの向こうに因幡街道の旧道が南北にのび、美しい街並の大原宿が続いている。
 大原宿は鳥取藩32万石池田候の宿場として賑わった昔ながらの家並みがいたる所に残り、大原町街並保存地区として500メートルばかりの街並が、昔ながらの佇まいを守っている。
 数寄屋造りの御殿などを残す本陣(左画像)や長屋門などがある脇本陣(本陣に次ぐ宿泊所で大名や幕府の重臣が泊まった、建物などがよく保存され残っている。大原宿脇本陣 江戸時代高級武士の宿泊所




 これらの古い街並を眺めながら歩いていると、代表的な商家建築の軒下に「武蔵の里」と書かれた看板が掲げられている店がある。店内を覗き込むと地酒「武蔵の里」という清酒を造っている田中酒造という造り酒屋だった。
 特徴的な建物で二階屋根の軒下にみごとな袖壁が(別名「火がえし」火事の延焼を防ぐ)が付いている。歩いていると大原宿町屋のほとんどの軒下にこの袖壁がついている。

「武蔵の里」の造り酒屋・田中酒造
 古い家並みがつづく旧街道を通りぬけ再び国道373号線に合流し南に向かってしばらく歩くと、やがて国道をそれて左方向に入りこんでいく小道が見えてきた。
 その小道が剣豪宮本武蔵の故郷である宮本村へ続く旧街道である。30分ほど歩くと集落が始まり道の両脇に「武蔵の里」と書かれた「のぼり」がいたるところに立てられており、よほど「武蔵の里」をキャッチフレーズにして観光に力を入れているのがわかる。

大原宿を代表する建築様式の袖壁(火がえし)

武蔵の里の集落に着いた

 武蔵の里の集落に近づくと街道に平行して鉄道の智頭急行が走っている。鉄道に沿って歩いているとやがて人家の間から「宮本武蔵駅」が見えてきた。 
 平成6年にJRの赤字路線を受け継いで智頭急行という社名で発足した第3セクタノーの鉄道会社の駅である。
 全国で始めて人名がついた駅、なんとまぁ!そのものズバリ!「宮本武蔵駅」(左下画像)なのだ。
宮本武蔵駅二階が駅ホーム
 山陰と山陽を結ぶ中国山地の山間部のJRの赤字部分を受け継いだのだが、営業努力の結果全国の第3セクターにしてはめずらしい黒字経営をしているらしい。

 その強烈なインパクトの名前の宮本武蔵駅舎に立ち寄るべく駅に行くと、階上駅の小さな駅前広場にはいかにも武蔵の里をうたい文句にするだけあって、小さい頃の武蔵・お通・又八の遊ぶ姿の像があった。(下画像)

宮本武蔵駅前の武蔵・お通・又八の3人の像

 武蔵駅を後にして10分ほど歩くと武蔵の里の中心地に出た。
 ここ岡山県大原町宮本村は、二刀流の剣豪として諸国を巡り生涯を剣の道の道に生きた武蔵の出生地で知られるところで、かの有名な歴史小説作家吉川英治の小説はここ宮本村を舞台に始まる。

 里の中心地には武蔵が二刀流のヒントを得たという讃甘神社(左下画像)や武蔵の生家跡や記念碑、資料館などが並んでいる。NHKの大河ドラマの影響で脚光を浴び、本来静かな山里は武蔵一色に染まり日曜祭日などは結構人があふれるらしい。しかしきょうは旅行客らしき姿は私以外に誰もいない、ゆったりした気分で写真撮影ができた。

宮本武蔵がオンパレードの里

宮本武蔵駅のホーム壁には大きな武蔵の絵が
 武蔵の生家跡の道を挟んだ向かいに武蔵の幼少名をもじった「たけぞう茶屋」がある、誰もいない店内には名物「武蔵二刀流麺」と書かれたメニューが貼り出されていたので店の女将らしき人にどんな麺なのか聞くと、何と!うどんとソバを2膳の箸で食べると言うではないか。言われてみるとナルホド二刀流だ!
 昼食には少々早い、「武蔵二刀流麺」なるもに食指が動いたが、店の中を覘いただけで女将にゴメンナサイを言って店を出た。
宮本武蔵の幼少名のたけぞう茶屋

里の中心を抜け、武蔵の姉、お吟の嫁ぎ先で町一番の大きい茅葺き屋根の住宅である平尾家の横の道を歩き、ゆるい坂道を登って行くとすぐ右の山の斜面に「武蔵神社」が見えてきた。 鳥居をくぐり石段を登って行くと、神社の拝殿には眼光鋭い武蔵の画像が掲げられ、拝殿の傍の墓地には、武蔵の養子・宮本伊織が武蔵終焉の地である熊本より分骨して建てたという武蔵の墓と、その両親の平田無二斎夫婦の墓があった。

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神社の境内で二刀流を開眼した 宮本武蔵の史跡のオンパレード 武蔵野里の中心部
武蔵の姉お吟の嫁ぎ先平尾家 宮本武蔵神社 神社にある武蔵と両親の墓

釜坂峠を越えの旧因幡街道

 釜坂峠へ登る街道から振り返ると武蔵の里が見える
日本一の剣豪と言われる武蔵の墓の前で手を合わせ街道に戻ると、ここからは武蔵の里とお別れして釜坂峠越えの木立の中の坂道となった。
 登り坂道の街道から振り返ると山に囲まれたのどかな武蔵の里が見える。
 10分ほど歩みを進めると右手の山の斜面に武蔵の父平田無二齋によって上意打ちによって討ち取られた「本位田外記之助」の墓があった。

 徐々に峠道の勾配がきつくなるなか息が上がってきた。ちょっとひと休みしたいと思い始めたところで、「峠の一貫清水」と言われ、昔の旅人が喉を潤した湧き水があった。由来は銭一貫文を払う値打ちがあるほどうまい水ということらしい。

旅人が喉を潤した釜坂峠の一貫清水

 ここで休息をかね喉を潤し、持参のペットボトルの水を補給したが、それほどうまい水という実感はなかった。
 ここからはきつい勾配の草深い山道へと変わり、車も通れぬ徒歩でしか越えられない本格的な峠道になってきた。
 武蔵も関が原の戦いのあと故郷へ帰るのにこの峠を越え、お通とともに宮本村を出ていくときもこの峠を越えていったのだ。
 幾多の歴史上の人物がこの美作(岡山県)と播磨(兵庫県)の国境の釜坂峠道を越えて行ったことだろう。

木立の中を釜坂峠へ登って行く旧因幡街道
 こんな歴史の由来に思いを巡らせながら急勾配の坂道を息を切らせながら登って行くと、疲れも少々軽くなってくる。
 やがて峠の頂上に近くまでくると山道は鬱蒼たる竹林の中を通る旧因幡街道に変わった。
 隠岐に流された後醍醐天皇が再起を期して船上山での戦いで鎌倉幕府に勝利して京の都へ凱旋するときにもこの道を通り、山陰から山陽にぬける参勤交代の大名行列も幾度となく通った歴史の峠道なのである。

峠を越え因幡街道を平福宿へ

釜坂峠・竹林の中を通る旧因幡街道
竹林を抜け峠の頂上を過ぎると美作(岡山県)の県境をぬけ、播磨(兵庫県)に入っていく。
 急坂を下ると谷あいの比較的広い道に出たが、平福宿方面へは右に行くのか左に行くのか判らなくなってしまった。
 幼くして両親を亡くした武蔵も養母が住む平福宿へこの峠道を越えて向かっているのだが、T字路でどちらにいってよいのかわからない。国土地理院発行の2万5千分の一の地図と磁石を取り出し見比べるのだが、あせっているせいか自分の位置が分からない。しかたない、はるか彼方に見える農家に訊ねるべく道を左にとると再び歩きだした。

峠を下ると谷あいの道路に出た、ここで道に迷う

 農家の玄関口に立ち何度か「ごめんください」と声をあげても返事が無い!留守のようである、あきらめ道に戻ると、さらにはるか先で道路工事している作業員が見えたので、そこで道を聞くべくそちらに向かうことにした。
 街道脇の田畑の境界には、延々といたる所に網が張られている珍しい風景が続く。
 北海道では考えられないイノシシよけの防護網だ!

釜坂峠を下ると谷あいの手入れされた美しい棚田

 やっと工事の作業員に道を聞くことが出来た。平福宿まではいま歩いている道の方向で良いと言う。この先1時間ほど歩き大畠という集落を過ぎ、しばらく行き豊福という所で分岐して道を左に曲り、ひたすら真っ直ぐ進むと平福宿に至ると教えてくれた。
 作業員との話の合間に、私が目の前の山の釜坂峠を越えてきたこと、ここから更に平福宿まで歩くことに4名の作業員は手を休め興味深く聞いていたが、さすがに私が札幌からこの街道を歩く為に来たことを知ると何と物好きなという表情でへぇ〜と声を上げた。
田畑はイノシシ避けの防護網で囲まれている

 再び歩くこと1時間、そろそろ疲れもたまり腹も空いてきた、どこかで休息を兼ね昼食をとらねばならない。 姫路駅のキヨスクで買ってきたおにぎりがリュックの中に2個残っている。大畠の集落を過ぎると街道脇に道路工事用コンクリートブロックが積み上げられている、このブロックに腰掛ておにぎりにかぶりつくことにした。

因幡街道の宿場町平福

因幡街道で最も栄えた平福宿の入り口

 街道歩きの終点、因幡街道随一の宿場町として栄えた平福宿に近づいてきた、街並が始まる入り口に「宿場町平福」のガイド灯が建っている。
 街並とともに、遠く山頂に崩れた石垣が見え、城跡がある山が目に入ってきた。 平福の里全体を見下ろす立派な山容の利神山で、山頂の朽ちかけた山城の石垣は南北朝時代に別所氏が築いた利神城である。 関が原の戦い後、姫路城主池田氏の甥が入封して本格的な城下町を建設したのだが、幾多の変遷をへて江戸時代には街道随一の宿場町となった。
因幡街道随一栄えた平福宿の街並
 
 この平福宿の街並は佐用川に沿って1.2キロほど続き江戸時代には本陣、脇本陣、宿屋12軒があり、博徒も含めて72の業種があったとガイドブックに記されている。
 旧街道に沿って街並を歩くと、格子戸・なまこ壁や連子窓、豪華なうだつの上がる家など、よく保存された家並が途切れることなく続く。
 古い街並の安らぎを与える情感に浸りながら歩いて行くと江戸時代の元禄年間から醤油屋を営む「たつの屋醤油」のたて看板と醤油蔵が目に飛び込んできた。

この町にも武蔵の面影が残る

元禄時代から創業の「たつの屋」醤油
 さらに歩みを進めていくと、武蔵の養母がこの平福宿の豪農に再婚したことから、武蔵が養母を慕って平福まで来て幼少時代養育された「田住邸」や本陣跡、旧街道から国道に出ると道の駅があり、その隣には陣屋門・代官所跡などの史跡が次々と現れる。
 街道随一の宿場町として栄え、そのまま時の流れを止めたしまったような街だ。

古い家並みが続く旧街道をそれて国道373号線に出ると観光案内所を兼ねた「道の駅宿場町ひらふく」がある。

利神城廃城後、旗本直轄領になった代官所陣屋門

 平福宿の街歩き観光マップをもらうため立ち寄り、休息のため奥の喫茶食堂でアイスコーヒーを注文しようとすると、注文取りの女店員の話す言葉のイントネーションが少しおかしい。 もしかしてと思い、中国語で「貴女は中国人ではないですか?」と聞くと、はっとした顔をして「貴方も中国人か」と聞き返してきたではないか!
 こんな田舎町で中国語の話す人間の出現がよほど嬉しかったらしく、私に矢継ぎ早に中国語で語りかけてくる。中国からこの町へ嫁いできたらしい。

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町を見下ろす利神山の廃城 武蔵の養母の再婚先田住家 佐用川の川端に蔵屋敷が並ぶ
かっての刑場跡に供養の六地蔵 武蔵決闘の場にある記念碑 近畿の駅100選の平福駅

 再び旧街道に戻り歩き出し佐用川の川端へと下りてみると、背丈ほどの石垣の上に、大小の蔵屋敷が整然と立ち並ぶ独特の川端風景が目に入る。川端に座敷を設けた土壁の川屋敷や土蔵群、石垣のところどころにぽっかりと口を開けたくぐり戸は家の中から川端へ抜けられる造りになっているらしい。
平福宿独特の景観「川屋敷、川座敷」が並ぶ


 街並も途切れようするところまでくると佐用川に架かる金倉橋があり、橋のたもとに六体の地蔵と石碑がたっていた。
 金倉橋の周辺はかって江戸時代に処刑場があった場所で六地蔵はその供養のため建てられたらしい。金倉橋たもとに石碑がある。武蔵が13歳のとき新刀流の達人有馬喜兵衛に初勝負をいどみ、一刀のもとに倒したとされる 宮本武蔵決闘の場の記念碑であった。

智頭急行ワンマンカーの車内、乗客は3人だった

 平福宿の街歩きも終え、岡山・兵庫方面の街道歩きの拠点とした姫路に戻るべく、智頭急行「平福駅」に向かうと、宿場町の風情にマッチしたような景観の駅舎だ。入り口には武蔵の人形と近畿の駅百選と書かれた旗がかかげられている。
 立派な駅舎なのだが無人駅である、ホームに立つと平福からの乗客は私一人だけである。1時間に1本の運行頻度の15時35分発の1両編成のワンマンカーが入ってきたので乗り込むと、きれいな車内には3名の乗客がいるだけだった。 
                                 終わり。


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