歴史を歩く、歴史街道・古道を行く

聖徳太子の面影が残る斑鳩の里、美しい塔と仏像を訪ねてくてく歩く

聖徳太子がゆかりの斑鳩の里を行く

歴史街道目次


斑鳩の里を行くプロローグ

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 奈良市の南西、のどかな田園風景に美しい塔が点在する斑鳩は、聖徳太子が創建した世界で一番古い木造建築の法隆寺(世界文化遺産)を中心に広がる静かな山里である。
 聖徳太子一色に塗りつぶされたこの斑鳩の里の起こりは、推古天皇の時代に摂政として聖徳太子がこの地に斑鳩宮を置いたことに始まる。太子はこの地において仏教の布教、日本で始めての憲法制定など、太子の政治・文化・学問が花開いたのである。

 太子は推古天皇13年(605年)、飛鳥からこの斑鳩宮に移り住み、仏教の理念を政治に取り入れた国家統一に力尽くした。この太子の里には多くの寺院が建立され、日本を代表する仏教美術と文化遺産の名刹の法隆寺を始め、中宮寺・法起寺・法輪寺など聖徳太子ゆかりの古寺が点在する。
 桜が咲き始める春の一日、田園風景が広がる大和の古寺巡礼の道を歩いてみた。

             歴史街道てくてく歩きコース

        黒字ー交通機関利用コース 赤字ーてくてく歩きコース

JR京都駅乗車→JR奈良駅経由、法隆寺駅下車、徒歩スタート→法隆寺iセンター(観光案内所)→松並木参道→藤ノ木古墳→西里地区の街並み→法隆寺→
中宮寺→山背大兄王の墓所→法輪寺→法起寺→
「JR大和小泉駅」乗車→JR
奈良駅終点

         歩行距離 約12キロ  歩いた歩数17300歩                                  

 京都から斑鳩町へ

 1週間ほど泊まっていた京都烏丸通りの安ビジネスホテルをチェックアウトして、半月分の衣類が入った大きなスーツケースを抱え、「法隆寺」に行くべく地下鉄に乗りJR京都駅に向かった。まだ午前9時前なのに世界の観光都市「京都駅」は、春の桜の観光シーズン到来で、外国人も含め様々な人達で身動きできないくらい込み合っている。
 重いスーツケースをガラガラ押しながらホームを移動し、690円の乗車券を買い、なんとか京都駅8時50分発「奈良」行きの快速電車に乗ることが出来た。
 40分ほどで「奈良駅」に着く、ここで「法隆寺駅」行きに乗り換えるのだが、これから聖徳太子の里である「斑鳩」を歩き回るにはスーツケースが邪魔である。「奈良駅」構内のコインロッカーに旅行ケースごと預け身軽になると、9時40分発の関西本線大阪行きに乗りこんだ。あっという間の9時51分には「法隆寺駅」着いた!わずか11分の乗車時間である。

法隆寺駅から藤ノ木古墳へ

法隆寺南大門え続く参道の松並木

 きょうの予定は、聖徳太子の里である「斑鳩町」の法隆寺を中心に太子ゆかりの古寺をまわりながら飛鳥時代の仏教美術を訪ねて、てくてく歩きするつもりである。
 「法隆寺駅」に降り立つと、あいにく天気は小雨模様で桜の時期にしては少し肌寒い。先ずは斑鳩町の総合観光案内所である「法隆寺iセンター」に立ち寄り、斑鳩周辺散策に役立つパンフレットやウオーキングマップを手に入れるべく歩きだした。

 JR関西本線の踏切を渡り住宅街の中の道を法隆寺に向けて歩くこと20分、法隆寺の南大門えと続く参道の松並木が見えてきた。(右上画像)

6世紀末のものとされる「藤ノ木古墳」

 参道の入り口脇に観光案内所の「法隆寺iセンター」があるので立ち寄り斑鳩町の観光マップを手に入れることにした。
 マップ片手にセンターを出ると、法隆寺境内に入る前に昭和60年に未盗掘の朱塗りの石棺や6世紀末の土器類が発掘され、その名を全国的に知らしめた「藤ノ木古墳」に立ち寄ることにした。
 
 松並木の参道の西側住宅街に足を進めること10分あまり、住宅街の農地の中に直径50m高さ10mほどの小山がポツンとあるのが見えてきた。これが発見当時、歴史学会の話題をさらった「藤ノ木古墳」だった。
藤ノ木古墳の中から発掘された石棺


 まだ発掘調査中なのか青いビニールシートが雨よけにかけられている。古墳をとりかこむように田んぼの畦道のような小道があり、道路脇には説明板とともに古墳から発掘された家型石棺のレプリカが展示されていた。

歴史を感じさせる西里地区

 
 「藤ノ木古墳」からは法隆寺境内に入るため法隆寺西大門まで向かうのだが、「西里地区」と呼ばれる民家の町並みを抜けて行く。幅3メートルほどの細い道に沿って蔵を持つ立派な民家や低い築地塀が連なり、落ち着いたたたずまいを見せている。閑散として人通りの無い細い路地をぶらぶら歩いて行くのだが、この歴史を感じさせる町並み情緒がなんともすばらしい。
歴史を感じさせる街並みの西里地区

 
 この「西里」は飛鳥時代後期、法隆寺を中心にできた集落で「法隆寺」を守り続けてきた大工、瓦職人、左官、庭師などが近年まで代々住んでいたところである。 法隆寺とともに歴史を刻んできた町なのだ。
 時おり小雨がパラつくなか、西里の町並みを抜けていくと法隆寺の西大門に突き当たった。ここから世界最古の木造建築で日本で一番最初に世界文化遺産に登録された法隆寺の西院伽藍境内に入ることにする。

世界最古の木造建築物
   「法隆寺」西院伽藍

 現在、法隆寺は五重の塔、金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられ、境内には飛鳥時代をはじめとする各時代の粋を集めた建築物が軒を連ねている。たくさんの宝物類が伝来し国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約190件余りあり、極端なことを言えば伽藍のほとんどが国宝みたいなものだ。

西門の左側には国宝の西円堂 西円堂から見える国宝の五重塔 正面玄関の国宝南大門

 境内に入っていくと、修学旅行の学生達があちこちにグループに分かれてメモを取りながら参観している。まず国宝の西円堂を見て、いったん法隆寺の表玄関ともいえる南大門にまわり、そこから西院伽藍→東院伽藍と日本を代表する仏教芸術の文化遺産を見て歩くことにした。
 法隆寺縁起は聖徳太子の父である用明天皇の遺願を継いで607年に聖徳太子が建立した「斑鳩宮」の隣に薬師如来を本尊とする「斑鳩寺」として、聖徳太子と推古天皇が創建したのが始まりと伝えられている。
一分咲きの桜が咲いた回廊越に五重塔が見える


 南大門をくぐり抜けると、目の前に国宝の「中門」と、一分ほど咲いている桜の塀越しに国宝「五重塔」が目に飛び込んできた。
 回廊西側の拝観受付で1000円の拝観券を手にして西院の中心伽藍へ歩みを進めた。しかし1000円の拝観券は高い!いつも思うのだが日本国中ほとんどの寺が拝観料を取る、その代金がメチャ高いのである!名刹・古刹は訪れる人も半端な人数ではないのに、平気で500〜600円取る寺ばかりである。拝観人数から想定するとものすごい収入だ!しかも無税である、坊主丸儲けとはよく言ったものである!どうにも釈然としない気持ちでいつも拝観料を払っているのだが、私は仏に対する信心が薄いのであろうか?・・・・

西院伽藍の回廊(国宝) 西院伽藍の金堂(国宝) 西院伽藍の五重塔(国宝)

 法隆寺「東院伽藍」

西院伽藍から東院伽藍への通り


 西院伽藍の数々の国宝の仏教芸術を参観すると、次に塔頭寺院の塀に囲まれた広々とした石畳の通りをぬけ東院伽藍に向かう。
 東院伽藍は聖徳太子の斑鳩宮跡に739年聖徳太子を供養のために建立されたものである。
 ここには西暦622年に病気のため48歳で薨去した太子の霊を鎮めるために造られた「夢殿」(国宝)がある。
 八角円堂の木造建築で堂内には、太子の姿を写したという救世観音菩薩増(国宝)が安置されているのだが、秘仏で春と秋の一定期間しか公開されないため、残念なことに見ることができなかった。
聖徳太子の秘仏が安置されている国宝の夢殿


さらに夢殿の東側には太子の母の「穴穂部間人皇后」発願で創建された「中宮寺」がある。
 ここもついでに見学していこうとすると、受付があり別途拝観料500円が必要と書いてある。それを見た途端心変わりがして見るのをやめることにした。これからまだ何箇所も拝観料が必要な寺を見て歩かねばならぬのである。まともに全て払っていたら結構な額になる!現役を引退し無収入の身である、節約せねばならぬ!。

太子ゆかりの三重塔が
 美しい法輪寺・法起寺

 塔頭の塀に囲まれた狭い道を抜け法輪寺へ

 法隆寺の東伽藍を見終わり、次に法隆寺北側の田園地帯に位置する聖徳太子ゆかりの寺である法輪寺にむけ歩きだした。
 塔頭寺院の塀に囲まれた狭い道を通り住宅街を抜け20分ほど歩くと、のどかな田園風景が広がる中に「斑鳩三塔」のひとつである「法輪寺」の三重塔が見えてきた。 この寺院の建立者は、聖徳太子の長男・「山背大兄王」が太子の病気平癒を祈って建てられたと伝わる、ここも太子ゆかりの寺なのである。
田園の中の道を行くと法輪寺の三重塔が

 狭い境内をぐるっと一巡し拝観を済ませ、境内のベンチでしばし一服すると、同じく太子ゆかりの寺である「法起寺」にむかって田園の中の道を歩き出した。
 すると前方左手に小高い丘が見えてきた。道端の案内板には「伝・山背大兄王(聖徳太子の長男)墓所」と書かれているので立ち寄っていくことにした。丘の上に至る石段を登り墓所に入り御参りしたが、これが聖徳太子の長男の墓かと思うほど質素なもので、手入れがされず荒れ果てたものだった。
斑鳩三塔の一つ法輪寺の三重塔



 聖徳太子亡き後、時の大和朝廷内部では太子の皇子で長男である「山背大兄王」が跡を継いだのだが、西暦643年大和政権の権力を一手に握っていた大豪族「蘇我入鹿」との権力争いから、入鹿の急襲をうけ聖徳太子の血筋の一族はことごとく歴史の舞台から滅亡してしまったのである。
 その非業の死を遂げた皇子の「山背大兄王」の墓所(右下画像)を前に歴史の無残さを思い、再び田園の中の道を進むと、彼方に「法起寺の三重塔」が見えてきた。
非業の死を遂げた太子の長男の墓所


 
 この法起寺の場所は聖徳太子の岡本宮があった場所で、太子の遺言により長男・山背大兄王が寺に改めたと伝えられている。
 境内の三重塔は日本最古の西暦706年の建立で国宝に指定されたもので、法隆寺の五重塔、法輪寺の三重塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ斑鳩の田園風景を彩る無くてはならないものとなっている。
斑鳩三塔に一つ日本最古の法起寺の三重塔(国宝)

 
 法起寺を拝観し終えると帰途に着くべく、3キロほど先の「JR大和小泉駅」まで、田園の畦道のような道を東に向かって歩みを進めた。大和小泉駅からは荷物を預けてきた奈良駅までは電車で10分もかからない。奈良に着いたら事前にインターネット検索で探しておいた駅前にある一泊5500円の安いビジネスホテルに泊まることになっている。
1300年の歴史を感じさせる法起寺の三重塔



 
 40数年ぶりの高校の修学旅行以来の法隆寺であった。日本の古代史を彩った人物の中で聖徳太子ほど、全ての日本人が知っている有名人はいない。
 聖徳太子が推古天皇の摂政として、この斑鳩の地に斑鳩宮を建て飛鳥の宮殿との間を、今の言葉で言うと通勤しながら仏教の布教と国家統一のためのさまざまな政治改革をしたのであった。
 この聖徳太子一色に塗りつぶされた斑鳩の里を、法隆寺から法輪寺、法起寺と見て廻る内に、太子のあまりにも有名な華やかさとは裏腹に、聖徳太子亡き後の太子一族は、時の権力者「蘇我入鹿」により太子の弟や長男など一族滅亡の残酷な運命の歴史があったのである。斑鳩の歴史の光と影を味わった6時間ほどの歴史ロマンのてくてく歩きの旅であった。

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