1972年石膏デッサン(闘士)
高校の3年間美術クラブに所属し放課後は毎日毎日ほぼ毎日、石膏デッサンをしていた気がする
夏休みも冬休みも春休みもデッサンしていた木がするからほぼ1年中だ。
学校で出来ないときは、家の畳の上でも描いていた。
そんな中の2枚「アリアス」と「闘士」を描いたものである。
受験もまじかなったある日、顧問の先生が突然言い出した「宇賀地、お前彫刻科を受験しろ」
「はい、でも先生、私、彫刻作ったことありません」
「うん、このレモンを作れ」と言って油土とレモンを渡された。
レモン1個作って藝大を受験した。
不合格だった。
1年先輩がある予備校へ行っていたので、そこで1年浪人、もちろん彫刻科に入学。
今度は毎日毎日デッサンと粘土で頭部を作った。
学生同士でお互いにモデルになり乍、お互いに顔を作るのである。
浪人していると、仲間から色んな情報をもらった。
「彫刻科を出てもなかなかたべていけないらしい・・・」「工芸とかデザインの方が仕事になるらしい・・」
それを聞いた私は母に言った。
「もう1年浪人して今度は工芸で受験するよ・・・・・」
「なにをバカなこといっているんだ!今までやってきたのだから受けるだけでもうけなさい!
「でも、もう皆、願書出しちゃったよ・・・・・・・」「締切はまだでしょう!まだ間に合うから!」
「じゃ受けるだけだよ・・・・うけるだけだからね・・・・・・・」
その後すぐ母はオートバイを飛ばして、私の卒業した高校へいった。
幸い、もとの担任の先生がいたから、すぐにも願書を書いて貰って私の所へ送ってくれた。
私は無事、藝大の彫刻科を受験することが出来た。
そして、受けた彫刻科に合格。工芸の道へと進むことはなかった。
あの時、何が何でも受からなくちゃと力んでいたら、ひょっとして落ちていたかもしれないと後で思った。
母の気の済むように受けるだけうけるんだから・・・・・・と妙にサバサバ、リラックスして臨むことができたのが
良かったのかもしれないと後で気がついた。そんな気持ちだったから、ちじこまらずに実力以上の力」
が出せたのかもしれないと思う。それにしても母の決断と行動力はすごい!今の私が往復3時間かかって通学した道を、
すぐにオートバイを飛ばして行ってくれた、母のお陰である。
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