柳 井 を つ く っ た 一 族

                               豪 族

                  や    な    い    し     

            柳井(楊井)氏

               
               楊井氏が先祖供養のために建立した佐藤忠信・継信兄弟供養塔

始めに
柳井市忠信・新生地区には、佐藤忠信・継信兄弟のものとされる供養塔が存在し、代々地域の人々により伝承供養されてきました。
この供養塔の真偽を訪ねるうち、平安末期から中世末まで、柳井をつくり発展させてきた豪族楊井氏の存在に行き当たりました。
しかし、柳井に於ける楊井氏の記録は、「誓光寺・寺伝」及び『玖珂郡史』の中、代田八幡宮での活躍以外は乏しく、その存在すら忘れ去られているようです。少し疑問を抱いて、他所に多くある楊井氏の記録を訪ね、隠れた柳井の歴史を垣間見れればと思います。
                              平成18年10月作成    令和3年7月更新

                 
目次
  一、旧多々野(忠信・新生)に残る遺跡・遺物

  二、楊井氏家系図

  三、旧楊井(柳井)新庄域年表

  四、楊井庄と楊井氏

  五、『柳井市史』の記述と柳井に楊井氏の記録が存在しない考察

     ◎『柳井市新庄地区史』

  六、周防国源平合戦の佐藤忠信と豪族楊井氏

     ◎佐藤忠信

  七、佐藤忠信供養塔(石祠)について

     ◎忠信供養塔の真偽について

  八、柳井の地名命名について

  九、平生の上七遠隆を柳井に持ってきた事について

  十、古墳・楊井氏五輪塔、義経・佐藤兄弟石祠案内図

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     正念寺情報

                 

一、旧多々野(忠信・新生)に残る遺跡・遺物
柳井市忠信・新生地区には、弥生後期の多々野遺跡2ヵ所、古墳後期の多々野古墳1基、鎌倉から室町末期までの五輪塔群約65基、室町末期から江戸初期と思われる石祠(覆屋)3基が存在している。
これ等の遺跡・遺物は、正念寺を中心に半径200m以内の限られた区域に集中し、時間的にも弥生→古墳→平安(古文書)→鎌倉→室町末までと、ひとつの流れの中にあり同じ集団の存在を窺わせている。

            
          多々野古墳(横穴式円墳)               古墳の副葬品
      元禄二年(1689)、岩政次郎右衛門による長    須恵器の平瓶1、壺1、平根式鉄鏃4、槍鉋1、
      溝工事の際、天井部や前面は破壊されており、   鞘金具片1、
      全長や高さは不明である。            水路確保で破壊された為副葬品も消失、古墳
      旧柳井域の古墳は、現 光市島田川流域周防    の規模としては少ないそうである。
      を本拠とした周防国造のものとされる茶臼山
      古墳は別格として、その他の古墳は全て自然     *現在 正念寺に保管されている。
      消滅不明となっており、現在確認できる古墳
      は多々野古墳ただ1基で、貴重である。


            
            地域5ヵ所に点在する五輪塔群、地中にはまだ多く埋まっていると思われる。

            
    
        佐藤兄弟と伝わる供養塔             源義経と伝わる供養塔

       両供養塔は、自らの一族が義経・佐藤兄弟と関わった、源氏ゆかりの一族であることを
       残すために祀ったものであるが、主体は楊井氏先祖の供養塔と思われる。


二、楊井氏家系図 「大内家臣団」  カワベマサタケHP   『萩藩閥閲録・譜録』 
             「山陽小野田HP」 『大明譜』

 楊井新左衛門ー楊井直俊―楊井定俊ー楊井広俊ー楊井盛俊ー
楊井俊衡ー楊井仲衡ー楊井豊衡
                           
(1190頃)        ¦
      
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
     ¦

   楊井久衡(左近将監?)ー楊井秀衡ー楊井忠武(1333)ー楊井太郎正衡
                     ¦           ¦
                     ¦         (代々)ーーーーー楊井郷直(1555)
                       ¦
                    楊井三郎武衡ー楊井八郎盛衡ー楊井藤五郎備前教氏
                                   ¦
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 ¦
 ¦ー楊井孫七縫殿盛時
 ¦   ¦ 
 ¦  楊井縫殿盛友ー楊井但馬行盛ー楊井豊前則盛ー楊井修理進長盛―楊井但馬備中祐守ー楊井筑前元祐
 ¦   ¦
 ¦  楊井弥七修理進国盛ー楊井弥七修理進但馬春盛ー国久子万寿弥七右京允但馬武盛(毛利へ)
 ¦                 ¦           ¦
 ¦             楊井飛騨守国久(毛利へ)ーー(代々)ーー楊井三之允春勝(山陽小野田)
 ¦
 ¦ー楊井勘解由左衛門盛綱ー楊井隠岐盛康ー楊井隠岐正盛ー楊井七郎正泰ー楊井与右衛門正長
                     ¦             ¦
                     ¦      ーーーーーーーー
                     ¦     ¦
                     ¦     楊井三右衛門正親ー楊井仁右衛門
                     ¦
                     ¦ー楊井主悦正実
                     ¦
                     ¦ー楊井雅楽正貞ー楊井庄左衛門正忠ー楊井庄五郎正勝
    
 *家系図中不在  鞍掛山合戦、本郷築地屋敷大将・杉家家老・楊井若狭討死 『周東鞍掛山合戦』
 *家系図中不在  鞍掛山合戦、楊井弥次郎、和睦の為人質となるも御庄にて斬首。
                         または毛利方と戦い討死。 『防長将星録HP]
三、旧楊井(柳井)新庄域年表

時代 西暦  領主  通史及び柳井市史の出典  楊井氏関係の出典と其の訳
 弥生  300  周防氏  多々野遺跡 海抜2~10m  場所=新庄新生   土師器・須恵器片出土
 弥生  300  周防氏  多々野遺跡 海抜27~30m
 場所=新庄新生   土師器・須恵器片出土
 古墳  500  周防氏  多々野古墳 海抜29,7m  場所=新庄新生   須恵器・鉄鏃・槍鉋・
           鞘金具 出土
 平安 1169 蓮華王院   「1169~1171楊井庄となる」『平生町史』
「嘉応年中自り、蓮華王院御領、楊井庄立加を被る。楊井新領是也(乃至)地頭職者、楊井太郎之を知行す」
『東大寺文書』
『内閣文庫所蔵・周防国古文書』
『鎌倉遺文・僧源尊重申文案』

 平安 1185 蓮華王院  周防国源平合戦(範頼・義経)
「正月六日の条、駿河守(範頼)九国へ向かい、九郎判官(義経)を以って四国(八島)へ遣は被る所也」
『東鑑』

「一月二十六日の条、周防国住人宇佐那木上七遠隆、兵粮米を献ず。之に依りて参州
(範頼)纜を解き豊後国へ渡る」『東鑑』

*範頼は1月初旬、周防国から赤間関に到着。九国に渡ろうとするも兵糧を切らし、兵の士気も落ちたため、12日周防国に引き返した。そこで上七遠隆等より兵糧米の献上を受け、26日再び彦島の対岸豊後国に向かった。
『東鑑』(意)
当寺先祖は、「村上天皇よりの村上源氏にして、中古内海に覇を称えたる武将にして、参州源範頼平家追討の折、(1185年1月)楊井氏に帰したるものにして、爾来この楊井に居を構えて開基永真に至るものなり」
『誓光寺伝・由来記』

この時周防国楊井には楊井氏が存在し、柳井を治めていたことを現している。

*柳井に於ける豪族楊井氏の記録は、上記『誓光寺伝・由来記』の他は存在せず、他所に多くある記述と比較すれば、余りに不自然である。
思うに、1555年大内氏と共に毛利氏に敗れ、1601年岩国領になった時、楊井氏に関することは排除の方向へ、その後徐々に忘れ去られたと推測される。

この中、楊井氏の記録が誓光寺のみに残った理由を思案すれば、同寺記録に「誓光寺第六世教宗(江戸初期)は、三河の人で徳川家康の内儀〈於梶の方〉の実兄である」とある。
憶測ではあるが、誓光寺住職が家康の内室の実兄であれば、他よりの圧力は及び難く、唯一誓光寺に楊井氏の記録が残ったかと思われる。

*毛利一族吉川氏は、1601年から岩国領主として岩国から柳井まで知行したが、明治元年になって始めて大名を許された。
現在、柳井天神祭で行われている「大名行列」は、これを祝う事から始まったと思われる。

 平安 1185 蓮華王院  周防国源平合戦(義経)
「元暦二年三月二十一日。甚だ雨、廷慰(義経)平氏を攻めんが為、壇ノ浦へ発向せんと欲す。爰に周防国在庁船所五郎正利当国船奉行の為に依りて数十艘を献上す」『東鑑』

「元暦二年三月二十二日。廷慰数十艘の兵船を促し、壇ノ浦を差し、纜を解くと云々。昨日より乗船を集め計り廻らすと云々。三浦介義純、この事を聞き、当国大島津に参会す」
『東鑑』

「四月二十一日の条、梶原景時が飛脚鎮西より参着す。
(乃至)次に周防国源平合戦之時、白旗一流中虚于出現し、暫く御方の軍士眼前に見て、終わりに雲の膚に収まり畢ぬ」と記し、その後義経の非道を願えている。  
 『東鑑』


『風土注進案・池の浦合戦』
上記「東鑑の白旗一流」を引き、その後池の浦のこと等、物語的に記している。成立は1841年で、火の無いところに煙は立たぬの喩のごとく、真実を内包しているとも思われるが、出典としては弱い面があるか。

 『東鑑』
源義経、屋島の戦いの後、2月下旬から3月22日にかけ周防国源平合戦を経て、大嶋や楊井に滞在、この間兵船の集結を待ち、壇ノ浦へ向かう。

*上記約1か月滞在の間、義経の郎党佐藤忠信と豪族楊井氏の間に、何らかの縁が生じたと推測される。楊井氏一流の処世術と思われるが、詳細は後述「佐藤忠信と楊井氏」及び「佐藤忠信供養塔について」にて。


 鎌倉 1232 蓮華王院  『柳井市史』
「楊井庄所見」として『東大寺文書・三の四』与田朝兼と楊井庄境の論争の文引用。
 確かに『東大寺文書』貞永元年(1232)の記述に楊井庄の文が出てくる。

然し、その『東大寺文書』を収集整理した『内閣文庫・周防国古文書』や『鎌倉遺文』には、寛元二年(1244)の記述に「嘉応年中(1169~71)楊井庄立加」とあり、『市史』出典の「楊井庄所見」より63年も前から「楊井庄」が存在した記述がある。(『平生町史』はこの説をとる)

『市史』が単なる学術書であれば、「所見」という表現も意味をなすが、歴史書である事を思えば「楊井庄立加」の時期が重要で、同所に収集されている文が『市史』に掲載されなかった理由が解せない。

*憶測ではあるが、文中「地頭職は楊井太郎、之を知行す」とあり、中世楊井氏不在の立場を取る『市史』としては、『楊井庄地頭楊井太郎、之を知行す」は掲載できなかったかと思われる。

 鎌倉 1250 蓮華王院  









*1332『島津家文書』
島津貞久、楊井庄地頭に補任
『市史』は「詳しいことは不明」と記している。
出典は山口文書館?

楊井の領主を、大和王権時代は周防国国造、平安・鎌倉時代は蓮華王院、室町時代は大内氏と固定している『柳井市史』としては、大内氏関係以外の「島津貞久、楊井庄地頭」は認めがたく、詳しいことは不明としたと思われる。

この文書が仮に事実とすれば、蓮華王院は、島津氏を楊井庄代官にする事により、この頃勢力を増した楊井氏に対し、影響力を維持しようとしたとも考えられる。
いずれにしても、島津氏楊井庄
地頭であれば、あり得ない。
 『東鑑・三月一日の条』
「閑院殿造営雑掌目録」の中、「西鱸(外壁・縁側のような物)五丈、楊井左近将監跡」とあり、当時の楊井氏は、中央に名を連ねるほど栄えていたことが推測される。
*左近将監は、家系図中第九代、楊井久衡と断定した書もある。『古代氏族系譜集成』

*また、楊井左近将監は、武蔵国埼玉郡私市村あたりに居住した楊井(やぎい)氏の説もあり、熊谷市あたりでは之を主張している。
左近将監については、「やない」「やぎい」共に確固たる根拠は存在しないようである。

*『瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会・戦いの路としての瀬戸内海』HP
南北朝時代(1336~1392)には、伊予水軍は南朝方につき、浅見(海)氏は、平郡島楊井氏へ』と言い、現在の柳井市平郡は、楊井水軍の領域であったことを記している。

*現在の柳井市伊保庄、上関町、平生町(旧熊毛半島)は、旧柳井域ではないが、その先の平郡島は旧楊井であった。現在も柳井である事を思えば、始まりは平郡島楊井水軍からと思われる。

現在の郷土史家諸氏による「瀬戸内海水軍」の記述の多くには、楊井水軍の名が出て来ない。
しかし、後述の『大明譜』には、楊井郷直が遣明船の護衛として乗船し、海賊を撃退したこと等出て来る。

また厳島合戦には、陶方の水軍として参戦している。『周東歴史物語』
これ等から推測すれば、楊井氏は海上貿易等の為、水軍としての力量も有し活躍していたことが見て取れる。

 室町
(南北)

1358 蓮華王院  「大内弘世、山口(周防・長門)を統一」『大内家臣団』HP




    楊井忠武ーー楊井正衡ーーー
    (1333)   ¦
            楊井武衡ーーー
               ¦ーーー
                 ¦ーーー
 「楊井三郎武衡、大内弘世の傘下へ
 『大内家臣団』HP
*長子太郎正衡を避け、三男三郎武衡を周防国人協力者として大内傘下に入れている事に注目すべきである。

(楊井庄在住 藤原姓楊井氏本家)ー楊井郷直へ

(閥閲録中、楊井庄在住藤原姓楊井氏本家)
(閥閲録中、楊井庄在住別家藤原姓楊井氏)
(閥閲録中、楊井庄在住多々良姓楊井氏)

*当地忠信・新生は、旧小名「多々野」といい、「多々良」と同義語である。してみれば、多々良姓楊井氏は、元楊井庄在住本家の可能性もある。

 室町
(南北)
1360 蓮華王院  「楊井宮本代田八幡宮領、神田壱十九反大」(写し)と記録される。
『三浦家文書』『柳井市史』

『代田八幡宮伝』
「代田八幡宮は天長十年(833)、黒杭から宮本に遷して、吾田八幡宮また神和の八幡宮と称し、後に代田八幡宮と改称する。吾田神社は神和から宮本の鷺ノ森大明神の地に遷座する

この頃周防楊井本庄は蓮華王院が領する
『柳井市史』『三浦家文書』

 「代田八幡宮、大古ハ八月十八日御祭、御神幸ノ節 楊井右京ト申ス大禄ノ士、神輿ノ御供勤メ被ル
『玖珂郡史』

上記の年代は不詳であるが、中世の早い時期から、楊井氏が代田八幡宮の行事を主催していたことが見て取れる。

*「1555年以降、楊井氏離散の後、現在の地頭代行列となる
(柳井市史・信仰生活担当。
 県立山口女子大学教授、伊藤芳江 意)
 室町 1454 蓮華王院  「廿日市の鋳物師から楊井金屋の面々への詫び状
『柳井市史』

*中世(室町期)の楊井大内時代としての最初の記述で、金屋町が存在した書状1通であるが、歴史上左程の意味を持つとも思われない。

『市史』はこの時代から大内時代と記するが、下記「楊井庄代官職補任状」を見る限り、領主はまだ蓮華王院であった

 室町



































1467 蓮華王院  「仁保弘有、楊井庄代官職に補任される」
『山口文書館所蔵三浦家文書』
「蓮華王院領周防国楊井本庄代官職事
右当庄者為当院燈油両天下安全之御祈祷厳重之勅願所也於年貢者毎年五拾貫文幷五箇年一度段銭等任契約之旨無懈怠可有沙汰無不法之儀者可有改動之沙汰仍補任之状如件
応仁元年卯月七日  行辨判
仁保上総介殿」

「島津貞久楊井庄地頭補任」と同じく、この頃勢力を増した楊井氏に対し伊陸の高山寺では妙法院の年貢徴収が困難となった為、それが可能な大内家臣仁保弘有を代官としたものである。

『市史・中世の楊井』の記述は、「大内時代の楊井」として大内氏楊井庄支配に関連する古文書が大半を占めているが、意に反して楊井庄楊井氏支配の古文書と成り得るものが多く在る。

前掲
「島津貞久楊井庄地頭職補任」
「仁保弘有楊井本庄代官職補任」
後出
「楊井庄田目録(写し)」
「杉重祐楊井新庄代官職補任」
『戊子入明記・楊井宮丸700斛』
『閥閲禄106楊井神平の供述』
等の文が之に当たる。

この補任状は、それまで伊陸の高山寺が代官職にあったが、多年沙汰をせず、年貢徴収を怠ったため之を改易し、代わって大内重臣仁保弘有を代官として、妙法院(蓮華王院の代務)の年貢50貫文と5年に1度の段銭を徴収納付する旨契約し、文中「無懈怠可有執沙汰」(懈怠なく沙汰執るあるべし)と、代官から土地の盟主に沙汰を執るよう要請し、之を守らない時は改易する旨契約している
(柳井市新庄地区史・谷林博意)

また、この文書は3通から成っており、2通目は、妙法院から大内家家老陶氏に報告され、3通目は、陶氏から妙法院に対し、この事はお館(大内氏)も承知の旨返書を送っている。

『市史』の著者は、之を以って楊井庄は大内氏及び仁保弘有が知行していたとしているが、文面を見る限り領主は蓮華王院、代官は仁保弘有、事実上の支配者は地頭の楊井氏であった。

当庄は楊井氏によって、蓮華王院に寄進という形をとり、少量の寺納米と名義料を納め、事実上の支配と安泰を図った事は、楊井庄と末松名田の賦課率を比較すれば明らかである。

楊井庄の賦課率は、末松名田の6分の1,及び届け出面積は10分の1の記録が残っている。
即ち楊井庄の賦課率は他の荘園の60分の1であった。

以上の如くで、平安末期から鎌倉初期に周防国が東大寺領になった時も、その後大内氏が周防長門を統一した後も、後白河法皇の勅願寺・天下安寧の祈禱所であった蓮華王院は別格であった。

その後、足利幕府6代将軍義教にも護持された三十三堂の荘園楊井庄は、大内氏と言えども思い通りには成らなかったのである。

室町 1467 蓮華王院  「大内政弘、楊井より出陣
『経覚私要抄』
(奈良興福寺管主の日記)

奈良にて京都、山口の出来事を日記にしたもので、内容はまた聞きと思われる。詳細も雑で合致しない処も見られるが、楊井から乗船したことは事実のようで、他にも大内氏が楊井を経由した記録が残っている。

之により「楊井は大内氏の東門で、良き軍港であった
『柳井市史』
 応仁の乱時、大内政弘が楊井港より大軍を率いて上京した記録が残っている。
この文を以って『市史』は「楊井は大内氏の東の良き軍港であり、また楊井は大内氏により開かれ発展せしめられた」の意で記されている。

しかし、当時の楊井港は、浪速から大和田泊、牛窓、鞆、尾道、厳島、楊井、上関、富田、門司と瀬戸内海海運の要港の一つであり、既に大船も停泊できる程に開かれ利便性に優れていた。

その中、主従に近い関係であったにせよ、大内氏と楊井氏の関係が良好で在った為、楊井を難なく利用できたと考えられ、先の仁保弘有代官職補任の如く、楊井庄領主は蓮華王院であり、大内氏の影響力はあったにせよ、楊井の支配者は楊井氏であったと思われる。

また、大内傘下の海賊・水軍は楊井(柳井)平郡島(楊井氏傘下・前述)、屋代島(現大島)以外は安芸(現広島)水軍が主力であった。
そのため、大内氏上京には本来多々良(現防府)や富田(現徳山)乗船が妥当である所、安芸水軍に近いことと港の規模の上から楊井港乗船が必然であったと思われる。

『経覚私要抄』
「海賊衆先陣 ノウエ(野上)クラハシ(倉橋)クレ(呉)ケコヤ(警固屋)其外九州面々、五月十日、山口出陣、六月二日、周防野上(徳山)マテ御付候、同三日屋内(楊井)と申在所マテ出陣。同十三日、乗船一定候、社(屋代・大島)ノ嶋陸(久賀)マテ御付候

ノウエ==(野上衆)=広島県福山野上、能美
クラハシ=(倉橋衆)=広島県音戸、倉橋島
クレ===(呉衆)==広島県呉、
ケコヤ==(警固屋氏)広島県呉、

その上で、後述『玖珂郡史』『戊子入明記』『大明譜』や前述の出典等を見て行けば、事実上楊井を治め発展させたのは楊井氏であることが見て取れる。

 室町 1468 蓮華王院  「遣明船」の記入あり
 『戊子入明記』 『柳井市史』 

 豊前・和泉丸  = 将軍家

 豊前・宮丸  = 細川家

 豊前・寺丸  = 大内使船
 楊井に「楊井宮丸700斛」と遠洋に耐える大船が存在していた『戊子入明記』
当時遣明船を出した将軍家、有力寺社、守護大名等は、自前の船を持っていたわけではなく、瀬戸内の有力商人や海上にも強い豪族の船を借り上げ遣明船としていた。

遣明船の記録によれば、
 ① 700斛 ~ 1500斛
 ② 500斛 ~ 2500斛の2説あり。

してみれば、「楊井宮丸700斛」は、
1に楊井の船名。
2に豪族に合った船の大きさ。
3に出典が『戊子入明記』(遣明の記録)。
4に後述「楊井郷直遣明船乗船」の記録からして、楊井氏の船と見るのが妥当と思われる。

 室町 1477 蓮華王院  「周防守護代陶弘護、大内政弘を楊井に迎える
『陶弘護肖像讃』『市史』

弘護の法事の時に作られた掛け軸の讃である。
応仁の乱後、弘護が山口に帰る政弘を、楊井まで出迎えた事を表したものである。過大な表現を用いることが常ではあるが、事実と思われる。

 
 室町 1482 蓮華王院
大内氏?
 「杉八郎重祐、楊井新庄代官職に補任される
『萩藩閥閲禄』『柳井市史』

*荘園制度の崩壊
守護大名(後の戦国大名)による荘園の侵略は、応仁の乱以後徐々に加速され、太閤検地により終焉する。
即ち、約100年をかけてゆっくりと進んだものである。

弱体の荘園領主を持つ荘園は、早くに守護大名の物となった。

一方、蓮華王院領楊井庄のように朝廷と直結、力を持っていた荘園は、徐々に弱体化させられ、最後は戦国大名の物となっていったが、其の頃には戦国大名も終わりと成る者が多かった。
 先の仁保弘有と同じく、蓮華王院の代官であるが、任命権者が大内氏である事を思えば、楊井氏の上に、大内氏の圧力が徐々に強まって来たと推測される。

その前後、文明三年(1471)大内政弘が母親の菩提を弔うため、別邸跡に建立した妙喜寺に、楊井庄の一部を寄進した文が出てくる。
然し文中、「玖阿(珂)(楊)井庄」と誤字がある。この時代、(柳)の字を使う事はあり得ず、妙喜寺も変遷している事を思えば、内容、実施の可否に灰色の一面を残す。

次いで、永享四年(1432)、文明十年(1478)に大内氏が興隆寺に与田保の一部を寄進した文、或いは家臣に伊陸、日積、伊保庄の一部を与えた文書が出てくる。『柳井市史』
これ等の文は、合併後の現在の柳井市の一部であり、『市史』の記述は間違いとは云えない。

しかし、当時は蓮華王院領楊井庄の隣接地域、即ち他国で領主も異なり、室町期楊井庄とは無関係である。
当時の歴史的背景を知らない人々は、「室町期楊井庄大内氏支配」をそのまま受け入れ、記憶する事となる。
真実を伝える為には、時代背景等丁寧に説明し、正しい歴史を伝えるべきである。

 室町 1482 蓮華王院
大内氏?
 
 右、『柳井市史』にあり。 『正仁記』に「防州楊井新庄の名が見える」 
『新庄地区史』

『正仁記』は、大内氏家臣の日記で、楊井氏の占有地であった新庄に大内氏の影響力が及んできた事を推測させる文である。

 室町 1492 蓮華王院
大内氏?
右、『柳井市史』にあり。   「楊井助次郎盛友、大内政弘に家臣として縫殿允の官名を所望する」『萩藩閥閲禄』
 (閥閲禄中、別家藤原姓楊井氏)

*楊井氏家系図の上では、別家藤原姓となるが始めて大内家臣の記述が出てくる。この頃より、別家は協力者周防国人から大内家臣に組み込まれていったようである。

 室町 1511 蓮華王院
大内氏?
右、『柳井市史』にあり。
楊井弥七国盛、大内義興から修理進に推挙される」『閥閲禄』
 (閥閲禄中、別家藤原姓楊井氏)

 室町 1529 蓮華王院
大内氏
  「白井光胤、大内義隆から楊井新庄20石を賜る
『岩波文庫』『柳井市史』
 この頃、新庄に於いて他国の武将が大内氏から給地を貰っているところを見ると、新庄は大内氏時代になっていたようである。

 室町 1531 蓮華王院
大内氏
 右、『柳井市史』にあり。  「楊井修理進長盛、大内義孝から美和庄内10石、糟屋郡内5石、宇佐郡内の一部を宛がわれる
『閥閲禄』  (閥閲禄中、別家藤原姓楊井氏)

 室町 1538  大内氏  「山本禅正忠房勝、大内義隆から楊井庄内64石7斗を給地として賜る」『柳井市史・閥閲禄』  この頃、楊井本庄も大内氏が自由にしていたことが見て取れ、いよいよ大内時代となる。
領主大内氏下記を見る限り地頭楊井氏も健在か

室町 1547  大内氏   楊井郷直、遣明船に乗船」『周東歴史物語』
郷直は天龍寺の僧策彦に随行す。この船天文十六年二月二十一日山口発船。これ等の船は長さ二十三尋、帆柱十三尋云々
その他乗組員の氏名、積み荷の数量、海賊撃退の詳細等記している。
天龍寺妙智院所蔵『大明譜』(楊井郷直著)
『策彦入明記の研究』上巻298頁 牧田諦編

*郷直は船の貸主と護衛を兼ねていたようである。

 室町 1555 大内氏
毛利氏
  陶清隆、厳島合戦で滅亡、楊井氏も陶方の水軍として宇賀島水軍(現大島)と共に出陣、毛利方と戦い敗れた」『周東歴史物語』

室町  1555 大内氏
毛利氏 
  楊井氏本家、杉氏と共に鞍掛山合戦で滅亡
『柳井新庄地区史』

*主力は毛利に下り、その他は離散したが滅亡はしていない

 室町 1557 毛利氏 右、『柳井市史』にあり。 楊井武盛、毛利に下り養父の遺跡地、秋吉別府の内30石を安堵される」『萩藩閥閲禄』
(閥閲禄中、本家藤原姓楊井氏)

 室町 1557 毛利氏 右、『柳井市史』にあり。 楊井隠岐守何某、玖珂郡南桑の内8貫を給地として安堵され、南桑に移住した
『萩藩閥閲禄』(多々良姓楊井氏)

*『閥閲禄』の記載は「元楊井庄に居住した矢野氏が後に楊井姓を名乗った」と記している。
しかし、楊井氏の本拠地(現忠信・新生地区)の小名は、(多々野)即ち(多々良)と同義語である。
してみれば、戦後の禄高の扱い等併せて勘案すれば、負けた側の配慮から、『閥閲禄』作成時、楊井氏を隠して元矢野姓と口述したと推測される。
その根拠は、『閥閲禄』の『藤原姓、多々良姓共に、楊井領家(楊井を治めていた)」の記述である。

安土 桃山 1601  吉川氏 楊井庄、岩国領となる
 『柳井市史』
 
 江戸 1625  吉川氏 楊井庄から柳井庄へと字が変わる
『市史』『熊野検地・坪付帳』
下記の文の如く、まだ変わっていなった。萩本藩の熊野氏が楊井を検地した時、楊と柳を誤認。
最初は単なる勘違いとして記入したことに始まったと思われる。

 江戸 1639  吉川氏 右、『柳井市史』にあり。

*『市史』は複数名が担当別に記述されている為、整合性のとれない個所がある。その中、右及び下記の記述が正しいように思れる。

代田八幡宮石鳥居には、右檀那当國楊井住長谷川浄感、寛永十六歴三月吉日」の銘があり、1639年当時、一般にはまだ「楊井」の字が使われていた
『柳井市史・信仰生活・伊藤芳江述』
 江戸 1652  吉川氏 楊井から柳井の字に統一される
『旧藩時玖珂町村制度概略』
『柳井市史別項』

 歴史に適った記述と思われる。楊井から柳井へと字が変わったことと、当地に楊井氏の記録が残っていないことは幾何かの関連が有るように思われる。
この為、変わった時期は正確でありたい。

 江戸 1666  吉川氏 柳井地名命名」の根拠、般若姫伝説。 その舞台である、柳と井戸が存在する湘江庵。 湘江庵の長弁が亡くなった年が、正式開山となっている」『柳井市史』

湘江庵開山当時、般若姫伝説・柳と井戸」はまだ出来ていなかった。 
江戸 1700
以降
 吉川氏  
般若姫伝説・柳と井戸」誕生
般若姫伝説は、近松門左衛門(1653~1724)
が、大分県大野郡の『蓮城寺縁起』の民話「真名野長者」を基にして、歌舞伎の台本『用明天皇職人鑑』を著した。之が「炭焼き行者」「草刈り山路」「般若姫伝説」等に変わりつつ全国に広まり、夫々の土地の話として定着し、特に瀬戸内に多く残っている。
詳細は「柳井の地名命名について」にて。

         
江戸 1668  番 外    前述、毛利に下り美祢郡秋吉別府の一部を知行した別家藤原姓楊井氏・楊井武盛の玄孫?にあたる
「楊井三之允春勝は、山陽小野田舟木代官として、寛文年間(1688)に近世最大規模の開作と言われる高泊開作を主催し、「外は蓑でも内は三之允」という口碑を残している
「山陽小野田市」HP

                  

四、楊井庄と楊井氏
柳井に於ける楊井氏の記録は、「誓光寺寺伝・由来記』の他 殆ど存在しないが、『東大寺文書』「内閣文庫所蔵・周防国古文書』『東鑑』『大明譜』『萩藩閥閲禄・譜録』『玖珂郡史』と他所には多くの記述が存在する。

平安1169~71年、柳井は楊井氏によって後白河法皇の勅願時・蓮華王院三十三間堂に寄進され、蓮華王院領楊井庄として立荘、之を楊井太郎が知行した。『東大寺文書』『内閣文庫所蔵・周防国古文書』『鎌倉遺文・僧源尊重申文案』
また、柳井の地が楊井氏によって寄進され楊井庄となった事は、仁保三浦家に残る1282年作成の楊井庄賦課率(写し)を見れば理解される。 
他の庄と比較すれば、楊井庄の賦課は6分の1、届け出面積は10分の1、即ち楊井庄の賦課率は他庄の60分の1であった。
パーセントで言えば他庄の賦課率が約50%であったのに対し、楊井庄は0.85%となる。

『蓮華王院御領楊井本庄田目録』(写し)
蓮華王院御領周防国楊井本庄四ヵ里方 合田数三十五町六反半内(乃至)以上 公物六十九石八升 内課徴米六石幷公物六十三石八升 天平十五年十月」『山口文書館所蔵・三浦家文書』
*三浦家(仁保弘有)が蓮華王院領楊井庄代官に補任されたのは、1467年である。上記目録の天平十五年は1282年に当たる。即ち185年前に書かれたもので、本来三浦家の文書で無い物が三浦家に残っている事は、先の代官伊陸の高山寺より入手した物か?『市史』の掲載は間違いではないが、知行云々の問題を残す。真実の歴史を伝えるためには、背景の説明も必要と思われる。
以上の如くで、少量の名義料を納め、後白河法皇の勅願寺の威光を後ろ盾とし、楊井庄には何者も手出し出来なくさせたのである。

平安1185年、「
源氏に於ける平氏追討のおり、村上源氏の末裔で、瀬戸内海に覇を称えた誓光寺の先祖は、同年1月楊井氏に帰属し、以後楊井に住み着いた」『誓光寺寺伝』とあり、当時の楊井氏は楊井を知行すると共に水軍も保有していたことが見て取れる。

平安1185年、2月末から3月22日、義経一行は屋島の戦、周防国源平合戦を経て、壇ノ浦へ向かう約1ヶ月の間、楊井周辺に滞在した。この間、楊井氏は奥州藤原氏同族 佐藤忠信と何らかの縁を結び、以後藤原姓を名乗ったと推測される。(詳細は、後述「佐藤忠信と楊井氏」にて)

鎌倉1250年、朝廷の建造物
「閑院殿の建立時、楊井左近将監、西鱸5丈を寄進」『東鑑・閑院殿雑掌目録』とあり、中央にも一定の役割を担う程に栄えていたことが推測される。

南北朝1358年、楊井氏家系図中 12代楊井武衡は、この頃周防・長門を平定した朝鮮王朝の末裔、多々良大内氏の傘下に入る。『大内家臣団・kawabemasatakeHP』『萩藩閥閲禄・楊井武衡家系図』
この時、長子太郎正衡を避け三男三郎武衡を大内弘世の直属の家臣では無く、周防国人(在地の事実上の領主で協力者)として弘世の傘下に入れ、大内氏からの完全支配を避けた。
その後、本家楊井氏は大内氏とも何らかの縁を結び、多々良姓楊井氏も名乗り、盤石の安泰を図った。

南北朝1360年、「
代田八幡宮神田分免除」の記録が存在する『三浦家文書』
この「
代田八幡宮の行事を楊井氏が主宰する」『玖珂郡史』
即ち、楊井の氏神である代田八幡宮を主宰していたことは、楊井は楊井氏により運営されていた事が見て取れる。
室町1467年、『戊子入明記』に
「楊井宮丸700斛」とあり、船名、船の規模、当時の遣明船の背景等により、楊井氏の船と思われる。
同年、「
郷直は天龍寺の僧策彦に随行す」と遣明船の規模、積み荷、人員、海賊撃退等の出来事を詳しく記載している。『天龍寺所蔵・大明譜』
これらは、楊井郷直が船の貸主と護衛を兼ね、平素は海洋の活躍も兼ねた一族であった事が見て取れる。
『周東歴史物語』には「
1601年以降、岩国高台寺に移設された山門は、中国風であるが海外貿易に活躍した楊井氏の居宅の遺物ともいう」とある。

室町1555年、厳島合戦の時、楊井氏は陶軍として 大嶋水軍(現大島)と共に参戦、毛利軍に敗れ続いて周東鞍掛山合戦で、杉軍と共に戦い敗退、遂に楊井における楊井氏の時代は終わることとなった。
その後、残った主力は毛利に下り、その他は姓名を変えて商業や農業に帰したと思われる。

この間、平安から室町末まで蓮華王院や大内氏と付かず離れずの良好な関係を維持し、それらを後ろ盾として自らは表に出ることなく、瀬戸内の要港としてまた商業・貿易の拠点として楊井を発展せしめたのである。
その後、楊井は46年間の毛利領を経て1601年岩国領となり、1652年字も楊井から柳井と改められ、柳井の地名命名も「般若姫伝説・柳と井戸」として作られた。
これに依り、楊井を創り発展せしめた豪族楊井氏の歴史は、ここ柳井に限り見事に消し去られ忘れられていった。それ以降は、純粋な商人の町柳井として、江戸、明治、大正、昭和初期と隆盛を極めたが、・・現在に至っている。

                  

五、『柳井市史』の記述と柳井に楊井氏の記録が存在しない考察
柳井市史』作成の基となったとされる『柳井新庄地区史』には、豪族楊井氏の事が多く出てくる。
然るに『市史』に於ける楊井氏の記述は、「
大内政弘の家臣として、延徳四年(1492)五月十三日楊井助次郎盛友が縫殿允の官名を所望した文書が所見で、「先祖代々楊井に居住した」『閥閲禄106楊井神兵』。 
次いで、1511年、1531年、1538年の楊井氏が大内氏の家臣となった記録を引き、次に藤原姓、別家藤原姓、多々良姓、の家系図を紹介の後、結びとして「楊井氏は柳井地域に知行地を持っていないが、柳井に大内時代から居住した旧族であるので、その家系の一部を『萩藩閥閲禄』『萩藩譜録』に依って紹介した次第である」と『市史』約2000頁×2の中、わずか1ページで終わっている。
*1492以降、大内氏の家臣となったのは別家藤原姓楊井氏である。

まず、上記記述を案ずるに、自らの出典『閥閲禄106=先祖代々楊井に居住した。楊井神兵』の文を客観的に検証すべきである。

次いで、「
楊井氏は大内時代からの旧族」の記述はどう論じても無理である。周防大内時代と言えば、室町時代のみであり、之に対し「先祖代々楊井に居住した」は平安時代まで検証されている。
また「
大内時代からの旧族」の記述は、下記『周防国古文書』等の出典否定を意味する事に留意すべきである。

次に、「山口文書館」での「所見」もさる事乍ら、「楊井氏は柳井に知行地は持っていないが」の主張は之も事実と異なる。 前掲の如く、嘉応年中(1169~1171)楊井は蓮華王院に名目寄進され楊井庄となり、実質「地頭職は楊井太郎之を知行す」と楊井を支配していたことは、「内閣文書所蔵・周防国古文書』や「中世楊井の寺納米賦課率」及び『玖珂郡史・楊井右京』の文等で明らかである。

『萩藩閥閲禄・譜録』やその他山口文書館から楊井氏楊井知行の古文書が出て来ない、或いは大内氏から領地を拝領した文書が出て来ないとの理由で、楊井氏は柳井に知行地を持たないとすることは、山口文書館のみの検証で言えば正しいと言える。
然し、楊井は古来より楊井氏が実質支配した所で、大内氏からの知行地拝領は無用であり、古文書が出て来ないのはある意味当然とも言える。
楊井庄に於いて、あえて大内氏からの知行地を云々しょうとすれば、室町末期・大内氏滅亡寸前の一時期に限られるが、やはり無かったのではあるまいか。

上記の記述もさる事乍ら、『柳井市史』作成の基となったとされる『柳井新庄地区史』に、楊井氏の事を多く書いた谷林博氏が、『市史』の編纂主任であった事を聞くと、楊井氏の記述がわずか1頁は理解出来ない。
そこで、『柳井新庄地区史』の中、楊井氏関係の全文を紹介しょう。多少疑問を抱く点もあろうかと思われるが、近年の柳井において、楊井氏を発見 顕彰せんとされた先駆者の稀有な書であることに異を挟まない。

◎『柳井市新庄地区史』  谷林博著
周防国は鎌倉時代に入って東大寺の造営料の領地となり、文治2年(1187)院庁の下文を以って大勧進俊乗坊重源が、その管理に当たる事となった。
荘園制度は貴族や豪族などによって、奴隷の労働力と財力を以って、未開の開発を行った。 楊井庄は当時の豪族楊井氏の占有地であった事は言うまでもない。
然し乍ら荘園を完全に確保するために、中央の有力な貴族や寺社の権力を頼む必要があった。 楊井氏が今日その蓮華王院に即ち三十三間堂の領地として寄進された。
蓮華王院は後白河法皇の勅願寺として創立されたものである。 後に源平両氏の政権争いの間、後白河法皇は三十余年も絶大な権力を握っていた。
蓮華王院を領主とすることは、楊井氏にとって安泰であったのみでなく、後世に見られるように次第に支配権を拡大していくのに都合がよかった。
そして荘園は名実共に地頭の支配下にあるものと、表面的には権門の領地となっているが、実権は現地地頭が握っているものとがあった。
楊井庄は蓮華王院に寄進しているが、地頭として荘園の経営にあたっていた。 そして着々と自己勢力の拡張を図っていた。
余田、新庄は水道の閉塞によって新規開発の土地ができた。 これらの新田に対しては、本来地頭課徴米を禁じてあったが、収穫は事実上地頭の楊井氏の収入となり、財力を蓄積させたことは推測に難くない。
(乃至)

一方、白潟も古くは東大寺の領地であったが、後に楊井庄に併合されている。
『玖珂郡史』によると
「白潟ハ往古南都春日ノ領地ノ処、一年百姓中徒党シテ、奈良ヘ年貢収納仕リ候ニ付テ、催促ノ使者一人刀ヲサシ中間六人奈良ヨリ差越候、白潟ノ者右ノ七人ノ者ヲ殺害ニ及ビ、其印ニ五輪ヲ七ッ立テ置キ、今里ノ内九兵衛ト云者藪ノ門ニアリ、七人ミサキ申伝フ」とある。
之は白潟が東大寺から分離して、楊井庄に所属することとなった事を示すものである。 租税の催促に来た南都の者を、農民の力だけで殺害されて領主がそのまま捨て置くとは思われないが、背景に楊井氏がいて支援したものと解される。
白潟村に対する東大寺の課税が過酷であった事は、余田末松名田に関する古文書の二町六反に対して二十六石を納付すべき規定であった事からも推定できる。
之に反して、楊井庄において農民に対する年貢が比較的軽かった事は、蓮華王院に納付する貢物から見て推測することが出来る。
之が何を意味するかと言えば、楊井庄に編入させる政策的な手段であった事を見逃す事は出来ない。このようにして楊井氏は室町期に入り隆盛を極めたが、之は鎌倉時代から周辺に侵略していった例が見られるものである。
(乃至)

それにしても楊井庄三十六町歩の田地は余りにも少ない。当時としては、おそらく十倍の耕地があったものと容易に推測されるし、また之に対する定公物即ち寺納米が六十四石とは軽すぎる。
前述の末松名田が二町六反に対して、二十六石の寺納米が定められていることに比例すれば三百六十石となるからである。
この疑問は楊井庄が蓮華王院とあるのは名目上のことで、名義料として納付するものであることを考えれば氷解する。
新庄地域の新田は勿論免税地であったから、現地に於ける実権を握る者は年々著しい富を蓄積することができた。それは楊井氏が多数の家の子郎党を養い、大船を造る余裕を持ち、海外にまで勇躍した理由が了解される。

この時代には、楊井庄は敢えて権門に依って庇護されなければならない必要はなくなった。楊井一族の実勢力に依って充分保有し得た。
また、永い伝統で楊井庄は依然蓮華王院の領地としての名目をなした方が便宜であった.
どうしても新庄一帯は明確に区別して置くことが、後日の紛議を免れるという理由に出たことは明らかである。
新庄は開発当初から蓮華王院などと間接的であった。楊井氏は新庄は自分たちのものであるという観念から政治的、経済的に重点はむしろ新庄に移されていたと思われる。
(乃至)

そして荘園制度にかわって、彼らの一円領が地方分権的な支配をされるようになった。このような情勢において、楊井氏も大内氏の支配下にあった。
(乃至)

新庄に関して陶氏の家臣、仁保上総介が新たに代官職に補せられた補任状が残っている。
(乃至)
この補任状の文句の中に「無懈怠可有執沙汰」とあるのは、代官から名主である楊井氏へ、沙汰を執らすことの意である。この時代から楊井庄に関して、名実ともに楊井氏の支配下に置かれたことが窺われる。
(乃至)

楊井氏は最後の当主であった郷直が、大内氏と共に運命を共にして弘治二年ついに滅亡してしまった。
その時、岩政家の先祖元晴も楊井氏に従事して弘治三年七月十八日、鞍掛山に於いて戦死している。その子長清は姓を改めて京都に亡命して、武田法眼について医術を学び、岩政掃部亮と称した。晩年になって、帰郷し新庄に於いて治療に当たった事が岩政家の記録に見える。
(乃至)以上、現存する諸記録によって中世までを述べたものである」以上

『柳井市史』の中、楊井氏の記述が何故微小になったかの考察
1には、『柳井市史』編纂主任の谷林氏が『市史』の完成を見ずして没しておられる事。

2には、それまで柳井では考えられない楊井氏の存在(新説)を称えたため、当時の一部学者や其れに倣った郷土史家との軋轢で、疎外されたものか。

3には、谷林氏没後『市史』の編纂をされた学者方々が、『萩藩閥閲禄・譜録』によって、室町時代大内氏家臣による楊井庄代官職の文書、及び室町末期同家家臣団楊井庄の一部知行の文に依り、楊井氏は楊井において居住はしていても知行地を持たない為、不在と解釈されたと思われる。

思えば、『市史・中世』の記述者を柳井以外に求めた事。また担当学者が、「山口文書館専門研究員」の肩書を持ち、江戸時代に萩藩士や町民の調書や文書によって作成された『萩藩閥閲禄・譜録、享保11年(1728)完成』を第一とされた事。その他大内、毛利関係を中心とした「山口文書館」に残る古文書、及び「室町時代の山口県は大内時代」の概念を基に解釈されたものと考えられる。

*室町時代大内氏の立場をとっても両家の楊井庄支配の時間的差は大きい。

  楊井氏ーー1169~1467(楊井庄立庄から仁保弘有代官職補任まで)298年間
       1169~1555(楊井氏鞍掛山敗戦まで入れると)      386年間
                                                   
  大内氏ーー1467~1555(仁保弘有代官職補任から大内氏滅亡まで) 88年間 

大内氏は、守護大名として徐々に楊井庄を自領として行ったのであるが、事実上の領主となったのは1529年楊井新庄の一部を家臣に与えた時から1555年滅亡までの26年間、楊井庄では17年間、大内氏支配か否か灰色期間を入れても80年余りである。
これに対し、楊井氏の柳井支配は、立庄から大内氏支配を経て毛利氏へ下る1557年まで、細々の一時期も入れると
388年間、家系図で行けば600年以上となる。

返って、室町期の楊井庄大内時代の立場を取られた処を思案すれば、楊井氏は楊井という限られた地域の小豪族で、戦いを以って領地を拡張した形跡は見えず、戦功の記録といえば、後に大内家臣となった別家楊井氏の記録(閥閲禄)以外存在しない。
即ち 自ら表に出ることなく、朝廷に直結する蓮華王院や大内氏を後ろ盾として楊井を支配したため、他の豪族に比べ、支配者としての古文書類に乏しい。然れば、室町期の楊井庄大内時代の立場を取られても致し方ない一面を残す。

その上で、歴史を語る時、実証が第一であることは言うまでもない。しかし、余りに古文書実証主義に重きを置いたなら、真実は見えて来ないのではなかろうか? 古文書は通常勝者に都合よく書かれ都合よく残された物が多い事は万人の認める処である。
地域の歴史を検証する時は、時代背景や地域の置かれた立場等を考慮し、徹底した探求と執着を離れた愛着と柔軟性が不可欠と思われる。

次いで、1555年大内側杉氏と共に周東鞍掛山合戦で毛利氏に敗れ、その後明治まで三百十余年に亘って毛利氏及び岩国領主の支配を受け、柳井は商人の町として生き残らざるを得なかった。
言い換えれば、岩国領主から何らかの圧力があったと考えられる中、負けた側としてまた商人として生き残るため為政者に配慮し、自ら楊井氏の事は忘れ去り 消し去ったであろうことも、楊井氏不在の一因とも考えられる。
時は過ぎ、柳井の歴史関係者方々の大半が、自ら楊井氏を否定し拒絶された事を思えば、歴史の難しさと怖さを新たにさせられる。
歴史は、著名な学者が唱えた説及び権威ある書物に一度掲載されると、それを見直すにはそれ以上の権威か計り知れないエネルギーを要する。
現在、楊井氏の事はかなり知られてきたようであるが、広く公認されるには至らず、将来『柳井市史』の記述がネックとならないよう願うばかりである。

               

六、周防国源平合戦の佐藤忠信と豪族楊井氏
周防国源平合戦は正史には出て来ない。 之により周防以外の歴史研究家では、否定する方々も存在する。
然し、鎌倉の歴史書(日記)『東鑑』には、周防国源平合戦の記述があり、出典の優位性や信用性からして否定は無理であり、どう論じても事実である事に変わりは無い。
正月六日の条、三河守(範頼)九国へ向かい、九郎判官(義経)を以って四国(屋島)へ遣は被る所也」『東鑑』

一月六日の条、周防国住人宇佐那木上七遠隆、兵粮米を献ず。之に依りて参州(範頼)纜を解き、豊後国へ渡る
『東鑑』

梶原景時が飛脚鎮西より参着す(乃至)次に周防国源平合戦之時、白旗一流中虚于出現し、暫く御方の軍士眼前に見て、終わりに雲の膚に収まり畢」『東鑑』

元暦二年三月二十一日。甚だ雨、廷慰(義経)平氏を攻めんが為、壇ノ浦へ発行せんと欲する之処、雨にて延引す。爰に周防国在庁船所五郎正敏、当国船奉行の為に依りて数十艘を献上す」『東鑑』

元暦二年三月二十二日、廷慰数十艘の兵船を促し、壇ノ浦を差し纜を解くと云々。昨日より乗船をあつめ計り廻らすと云々。三浦介義純、この事を聞き、当国大嶋津に参会す」『東鑑』

以上の如くで、周防国源平合戦があった事は論を待たない。続いて文中、大嶋津について周南市は徳山大島を主張し、『東鑑』を翻訳した歴史家は防府としている。また、山口県の歴史学者三坂圭治は、日程的にも徳山辺り出なければ壇ノ浦に間に合わないと解説されているようである。しかし、之も『東鑑』を以てすれば、この疑問は解決される。

上記出典を見て行けば、正月六日の条、頼朝の命を受け範頼は平家の退路を断つため九州へ、義経は屋島から周防国を経て壇ノ浦へ向かった。その中、範頼は1185年1月赤間関(下関)迄行き九国に渡ろうとしたが、兵糧を切らせ兵の士気も落ちた為12日周防国まで引き返した。そこで宇佐那木の上七遠隆から兵糧米の献上を受け、26日再び九州に向かった。
考えるまでもなく、遠隆は熊毛郡平生の人である。もしも大嶋が徳山であったなら、範頼が引き返した事を遠隆は知らない処となり、兵糧米の献上は不可となる。

上七遠隆について『平生町史』は「文治三年(1187)周防は奈良東大寺領となり、俊乗坊重源により多々良(現防府)に東大寺別院・阿弥陀寺が建立された。その阿弥陀寺に鉄宝塔(国宝:鎌倉時代)が存在する。その鉄塔に寄付者10名が刻まれ、その中に上氏姓の名がある。上氏の記録は之のみで、一時急速に成長し、すぐに滅した一族であろう」と記している。

何故『平生町史』を取り挙げるかと言えば、源平当時上七遠隆が、阿弥陀寺鉄宝塔の銘により、多々良辺りにも存在したのではないかとの疑問に答える為である。この疑問の答えは時間差にある。
源平合戦は1185年、阿弥陀寺建立は1187年、鉄宝塔鋳造は1197年で兵粮米献上の12年後となる。 1185年当時、島で小国であった平生の上七遠隆が防府や徳山辺りまで勢力を伸ばしていたとは考え辛い。以上により、大嶋津は周防国源平合戦の舞台であった屋代島(現大島)か、若しくは旧熊毛半島(含む平生・当時は島で大島とも言った)周辺、即ち楊井近辺一帯であったと言える。

一方、義経は2月19日屋島で勝利し、周防国合戦でも勝利した。その後壇ノ浦の決戦に備え、兵船・兵の集結のため、2月下旬から3月22日の約1ヶ月間、楊井周辺に滞在した。この間奥州藤原一族で義経郎党四天王の佐藤忠信と当地の豪族楊井氏の間に何らかの縁が生じたと推測される。


◎佐藤忠信
藤忠信(1161~1186。25・27・30幾歳の諸説あり) 平安末期の武将。陸奥信夫庄司・佐藤元治の子で、同族・奥州藤原三代秀衡の家臣、藤原忠信とも言う。
義経とは義兄弟。「奥州での義経の妻は、忠信の妹」『奥州デジタル文庫』

義経が、平家追討の旗揚げをした兄頼朝の下へ参陣する時、秀衡より兄継信と共に同行を命じられ、後に義経郎党四天王といわれる程に活躍した。

奥州平泉以降、義経に従い1184年1月宇治で源義仲を破り、同2月一の谷で平家を撃破。明けて1185年2月19日屋島で勝利、この時兄継信は義経にかわって矢を受け戦死した。

その後、同年2月下旬から周防国源平合戦を経て、大嶋・楊井周辺で暫く滞在し軍船・兵の集結を待ち、3月22日壇ノ浦へ向かい、同24日遂に平家を滅亡させた。

同年4月、京都に帰った義経及びその郎党が、頼朝の許可なく後白河法皇から官位を得たため、同10月頼朝と義経が対立、鎌倉から送られた刺客を忠信が中心となり撃退した。(頼朝は、頭角を現した兄弟や家来を多く失脚させている)

同11月、都落ちする義経に同行し、九州に向うとするも船が難破し一行は離散。翌1186年9月、吉野を経て宇治で義経と別れ京都中御門・東洞院に潜伏するも、粕谷有季に密告され、奮戦の後自刃した。『東鑑』
武蔵坊弁慶について
義経と言えば弁慶が付き物であるが、出典と成り得る歴史書にはその名は出て来ず、歴史研究家の多くは弁慶の存在を否定している。
東鑑・1185・十一月三日の条、義経都落ち』の処で、「佐藤忠信、伊勢三郎、片岡八郎の末尾に、弁慶法師」と唯一その名が出てくるが、史家の多くは『義経伝説』が流行した後に書かれたものであろうとしている。してみれば、弁慶は存在したかも知れないが、『義経伝説』成立の過程で徐々に大きく膨らんできた物語的空想人物像と思われる

返って、前掲の如く当地多々野(忠信・新生)には、正念寺を中心に半径200m以内に弥生遺跡2か所、多々野古墳1基、鎌倉から室町末までの五輪塔群約65基、佐藤継信・佐藤忠信・源義経の物とされる供養塔(石祠)3基が混在している。
これが何を意味しているかと言えば、弥生から古墳、平安(古文書)から鎌倉・室町末までの遺跡・遺物が、一つの場所にひとつの流れとして切れ目なく存在しており、同じ集団、同じ一族の物である事を窺わせている。
また旧柳井域で、これだけの時間的流れ、遺跡遺物の存在は他に類を見ないと思われる。

            
      地域の人々により整備された多々野古墳      佐藤兄弟石祠に収められている一石五輪塔

                  
         真下の森の中に在った義経供養塔         地域5か所に点在する五輪塔群
                               地中にはまだ多く埋まっている
                               と思われる

下図は、一昔前の柳井の郷土史家神田継治氏作成の『古代周防島海乃図』の上に、現在その多くは確認出来ないものの、山口県及び柳井市の記録に残る、柳井・新庄域の弥生・古墳時代の遺跡・古墳を重ね合わせたものである。

       

当地(中央●印が2つ並んでアザラシの頭のように見える所)は、当時の楊井湾(現、中馬皿・下馬皿・北町)及び旧楊井水道(柳井市街地から新庄、田布施、平生まで)及び外海(現柳井湾)の3方が見渡せ、有事の際は直ちに出動できる戦略上の要衝であった。
また、細く深く入り込んだ当時の柳井湾(中央、細く入り込んだ二股の所)は天然の良港でもあり、源平合戦時には、多くの軍船(現在で言えば小舟)が長期係留でき、中世には瀬戸内の要港として恵まれた地形でもあった。

前述義経一行が、屋島の戦いの後周防国源平合戦を経て、楊井周辺に滞在した時、佐藤忠信と豪族楊井氏の間に何らかの縁(血縁)が生じたと推測されると記したが、その根拠は1に楊井氏の家系図から。2に忠信兄弟・義経供養塔から窺う事ができる。

楊井氏家系図

楊井新左衛門ー楊井直俊ー楊井定俊ー楊井広俊ー楊井盛俊ー楊井俊衡ー楊井仲衡ー楊井豊衡
                             (1190頃)      ¦
   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  ¦
楊井久衡ー楊井秀衡ー楊井忠衡ー楊井忠武(1333)ー楊井太郎正衡ーー(代々)ーー楊井郷直(1555)
(左近将監)                     ¦
                            ー楊井三郎武衡ーー(代々)ーー閥閲禄の家系図へ

                  『大内家家臣団HPkawabemasatake』  

上記楊井氏の家系図は、平安から室町後期まで23代の中13代までを表したものであるが、12代楊井忠武(1333)から1代約20年として7代逆算すれば、源平合戦直後に行き当たる。
この6代楊井俊衡を境に、楊井氏の名が佐藤忠信と同族 藤原三代に因んで、衡の字が忠武を挟んで9代続いている。また、これを機に楊井氏は藤原姓を名乗ったと考えられる。

前述の繰り返しともなるが、楊井氏の処世述には見るものがある。
平安嘉応年中には、自らの領地を後白河法皇の勅願寺蓮華王院に名目寄進し、蓮華王院からの絶大な庇護を図った。
源平合戦時には、奥州藤原氏同族佐藤忠信との縁を得て名門藤原姓の楊井氏を名乗った。
南北朝大内氏台頭時には、長子正衡を避け三男武衡を直属の家臣ではなく、周防国人協力者として大内弘世に差し出し、大内氏との安泰も図った。
その後、多々良姓の大内氏と何らかの縁を結び、多々良姓楊井氏をも名乗り、盤石の安泰を図った。
自ら表に出ることなく、周囲と良縁を結び無駄な戦いを避け、安泰を図りつつ領地を守り、海運貿易にも力を入れ、楊井(柳井)を創り発展させた有能な一族である事が見て取れる。

七、佐藤忠信供養塔(石祠)について
佐藤忠信と楊井氏の関係については上記の如くであるが、今一つ当地には佐藤継信・忠信兄弟の他に源義経供養塔が存在する。
この祠には、佐藤家の家紋「源氏車紋」と源氏の家紋「笹りんどう紋」が施され、地域の人々により供養・伝承されて来た。

この供養塔が、源平合戦から400年余り後に建立されているのは何故かの疑問については、以下の推測が成り立つ。
平安末期から中世末期まで、楊井を創り発展させて来た楊井氏は、1555年大内氏と共に敗れ楊井を追われる事となった。
1601年、岩国領となり楊井氏の痕跡が消えていく中、当地に残った楊井氏の縁者・残党が、自らの一族が由緒ある藤原姓で、源氏ゆかりの一族である事を残す為、今まで祀って来た五輪塔に加え、義経・継信・忠信義兄弟夫婦の石祠を建立し、一石五輪塔を納め、身内には明らかで岩国領主には解らぬよう、密かに源氏の家紋「笹竜胆」と佐藤家の家紋「源氏車」を施したものと思われる。
古くから、当地の人々に「ただのぶさん」として供養されて来たが、内実は豪族楊井氏に比重が置かれたものと考えられる。
なお、義経・継信・忠信三者の供養塔が存在する疑問については、楊井氏と忠信の子にとって義経は叔父『奥州デジタル文庫』に当たり、継信も伯父、忠信は当然父に当たる為で、楊井氏の子孫に於いてもその思いであったと推測される。

           
  
     義経供養塔に納められている宝篋印塔に、        源氏の家紋「笹竜胆紋」
       密かに刻み込まれている「笹竜胆紋」

           
      佐藤兄弟二基の供養塔に密かに刻み込まれた           佐藤家の家紋
            「源氏車紋」                   「源氏車紋」

                

◎忠信供養塔の真偽について
石祠の立証は、数百年前の事を考慮すれば、石祠・家紋・家系図で可と思われる。
その中、敢えて非を称えれば、1に物証、2に典拠、3に論証の中、物証・論証は可と思われるが、典拠については『東鑑』『楊井氏家系図』からの推測の他なく、十分とは言い難い。
しかし、現在認定されている他の歴史・遺構・遺物が全て典拠を持つかと言えば、おそらく少数と思われる。その中、忠信石祠の真実性は高いのではないかと思われる。

今一つには、柳井市の歴史観に想いを致さねばならない。
前述、1700年代大分の『蓮城寺縁起』の民話「真名野長者」を基に、近松門左衛門(1653~1724)が歌舞伎の台本として『用明天皇職人鑑』を著した。
これが全国に流行して、「炭焼き行者」「草刈山路」「般若姫伝説」と発展したものであるが、中でも「般若姫伝説」は大流行して、夫々の地に融合した物語として定着し、特に瀬戸内に多く残されている。
この中、「般若姫伝説・柳と井戸」を柳井地名命名の根拠として、一昔前まで学校でも教えていたようで、歴史を物語で語る土地柄?の一面がある。

これ等の事を考え併せれば、当時楊井氏の供養塔を、武田出雲(~1741)他3名共作の人形浄瑠璃「義経千本桜の中、「狐忠信」の大流行に乗じて「狐ただのぶさん?」とした事も、小なりと雖も考慮せざるを得ない。
しかし、この時は石祠及び宝篋印塔に刻まれた紋や、藤原姓、衡の名乗り等の否定に苦慮するのではあるまいか。
また、もしも「狐忠信」としたのであれば、その人々が楊井氏の歴史や藤原姓・衡の名乗り等を知っていたとは考え難い。

                  

八、柳井の地名命名について
柳井の地名命名については、歴史上明らかな処で、平安時代 後白河法皇の勅願寺、蓮華王院三十三間堂の荘園として楊井庄となった。その後約380年を経て1555年毛利領となり、1601年に岩国領となった。次いで、1652年字も楊井から柳井へと改められ、地名も柳井組となった。その後、柳井村、柳井町を経て阿月、伊保庄、伊陸、日積、大畠と合併して現在の柳井市となっている。
広く歴史研究家・郷土史家の地名命名の説を挙げれば、以下の5説に集約される。その中、当地歴史研究家に於いては2,3,4,の説が挙げられている。

1,「三十三間堂の荘園楊井庄」となり、之を以って楊井(柳井)の地名とする。

2,「般若姫伝説・柳と井戸」により、柳井の地名が出来た。

3,「当地に柳が多く在った」ので柳井となった。

4,「楊は枝が上を向くので、岩国領主に配慮して枝が下を向く柳の字に変えた」

5,「古代からの一族、楊井氏」に依って楊井となり、後に柳井の字に変えられた。

1,三十三間堂の説

楊井庄の領主となった蓮華王院は、平安末期後白河法皇が自らの頭痛治癒の為、生薬である楊の木を以って本堂を建立せしめた。
この三十三間堂の楊を以って、立庄の当地が楊井庄と名付けられ、地名も楊井となった説である。
当時、楊井氏が名義上領地を寄進したものであれば、楊井の地名はそれ以前から在ったか、楊井氏の物であるから、楊井庄と名付けられたと思われる。


2,般若姫伝説・柳と井戸の説

物語を永く語り継ぐなど、夢と心の文化を大切にする柳井に於いては、観光をも含め価値ある説である。
一方、物語や「室町期の柳井、大内時代」という固定観念に固執すること無く、真実の歴史を探求することも、永い将来柳井の益と考える。
前述の如く般若姫伝説の起源は、1700年代近松門左衛門が、大分の『蓮城寺縁起』の民話『真名野長者』を基に、『用明天皇職人鑑』という歌舞伎の台本を著した。その後、種々名を変え筋も変わって流行した中の一つが、「般若姫伝説」である。特にこの伝説は広く流行し、各地の物語として定着、瀬戸内に多く残っているようである。
この中、立命館アジア太平洋大学 金賛會教授の研究に依れば、「
『連城寺縁起』は、546年韓国の僧 蓮城がこの地に寺院を建立した。その後『真名野長者』の民話が生まれたが、その源は僧 蓮城の出身地韓国全羅北道増山市石旺洞、百済国二十四代蓮城王(479~501)=武王の『武王物語』が基となっている」(要約)

その中、「
1,炭焼き誕生 2,神のお告げ 3,姫君下向 4,結婚・黄金発見 5,黄金送り 6,亀・弥勒の出現 7,長者 8,寺院建立等、『真名野長者物語』と『武王物語』を対比させ、その共通点を明らかにしている。 その他、麻耶=真名の共通点(真名長者の真名は韓国の麻耶国の事)、その名前からして王族で製鉄集団であろう事」と細やかに検証している。(要約)

続いて、
「『蓮城寺縁起』を含む後の『真野長者物語』は、百済僧蓮城が蓮城寺開山時、郷里の王族『武王物語』を持ち込み、それが日本の『真野長者物語』へと発展したものである。なお今日の『真名野長者物語』は、1700年代前半、蓮城寺僧祐旻(ゆうびん)が創作したものである」
(要約)『真名野長者と韓国の炭焼き行者』

『真名野長者の研究は、少数の大学及び一部地方行政歴史部門でもされているが、上記 金賛會教授の説は、時代背景や歴史的検証もされており、最も有力な説と思われる。

かくの如く、「真野長者」から発展した伝説は多く存在し、年代、題名、あらすじ等異なるが、総じて1700年代前半、近松門左衛門が『用明天皇職人鑑』を著した後に創作されたと見るのが妥当な見方と思われる。

本題「般若姫伝説・柳と井戸」を要約すれば、大分の般若姫の所に、後の用明天皇が下向し姫と夫婦になった。この橘豊日皇子は、皇位継承の為先に都に呼び戻され、後に般若姫が都に向かう途中、国崎半島のすぐ前の姫島近くで遭難し、同島で静養した。
この時、楊枝を逆さに挿したら大木に成ったという「逆さ柳の伝説」を残し、その後祝い島、上関を経て柳井に立ち寄り、井戸の側に楊枝を挿したらまた大木に成ったという「柳と井戸伝説」を残した。
その後、大畠の瀬戸で再び遭難し、乗組員に多数の犠牲者が出た為これを悲観、また龍神の怒りをおさめる為もあり自ら入水、運よく助けられるも絶食する。最後に私の亡き後は向かいの山(現平生般若寺)に葬ってほしいと言い残し、命を絶ったと云うものである。

他方蓮城寺民話の一説には、姫は豊後水道で遭難し帰らぬ人となっており、他の地域大畠の瀬戸(鳴門の瀬戸)伝説など、何れも柳井の事は出て来ない。
また、「柳と井戸伝説」のある湘江庵の正式開基は、開基長弁が亡くなった1666年としている。
以上の事及び近松門左衛門の年齢等加味して推測すれば、姫島の「逆さ柳の伝説」を参考に出来上がったと考えられる「柳と井戸伝説」は、1700年代前半以降に出来たと思われる。

次いで、楊井から柳井に字が変わったのは、1643年の岩国領検地『享保増村記』の中、楊井庄から柳井組に変わっており、その後、これを修正した『旧藩時玖珂町村制度概略』(1652年)に、「本村は岩国領にして、柳井組に属し・・・」から柳井の字に統一された。『柳井市史・別項』

以上の如く見ていくと、伝説が出来る前に楊井から柳井へと字が変わった事が見て取れるが、以後楊井の本家本元である楊井氏の名が、見事に消え去った事を思えば、般若姫伝説が一役買った事も否めない。
同時に、他所に多く在る楊井氏の記述が、柳井では『誓光寺寺伝』を除いて一切存在せず、余りにも不自然で岩国領主の統治上の都合も働いたのではないかと思える。

*般若寺の創建について
般若寺は、般若姫伝説の如く用明天皇時に創建された。(同時HP)  しかし、伝説の成立が江戸時代(1700年代)とすれば、同寺の創建年代を否定する事となり、今これを意図するものではない。
般若とは、仏教で智慧を意味し、伝説の有無に関わらず仏教に適った寺号である。 また同寺の石鳥居等に刻まれた建立年号は、1700~1800年代が多いようである。しかし、釣鐘は鎌倉から室町の作との書を読んだことが有る。して見れば、この時代に創建されたと推測するのも一つの見方かと思われる。


3,柳が当地に多く在ったので柳井となったの説
自然の柳は??「柳と井戸伝説」が出来た以後増やしたと思われるが、川筋、公園もそれなりで、その他多く在るとは思われない。

4,楊の枝は上向きの為、岩国領主に配慮して、枝が下向きの柳の字に変えた説

神田継治氏が、2,3,の説と共に選び取られた説で、楊井の人々が自ら変えたと言う説であるが、岩国領主のお膝元岩国ならいざ知らず、遠く離れた楊井の地でそこまでへりくだる必要があったか?いささか疑問である。
当地は、既に楊井氏に依って海外貿易も可能な瀬戸内の要港として開かれ、商都の態も成していた。
また、当時の岩国領主吉川氏が、柳井商人を岩国に連れ帰り、柳井町と名付けて住まわせてた記録や、楊井氏の居宅の門を岩国のお寺に移設した説も残っている。


           
        
岩国の歴史町名を表した        建物は2階土蔵風で、古くはあるが
        
柳井町の標識              
かなり後の物と思われる。

           
         
岩国の古地図、左上の橋が錦帯橋。           場所は現在の岩国1丁目
         地図にはないがその先が岩国城。            当時の中心部である。
         赤(寺院)を含む6軒の区画が柳井町。
         錦帯橋の通りである。

柳井商人の貿易を含む先進的ノウハウや実力を、岩国に根付かせようとの意図があったと考えられる。裏を返せば当時の柳井は重要視されており、楊井商人や民の力は高く評価されていた事となる。
その状況下で、楊井の民が上を向く楊の字をわざわざ下を向く柳の字に変えなければならない程消極的精神状態に陥ったり、迫られたとは推測し難い。
やはり、それ相当の理由が在ったと考えるべきで、ここでも楊井氏が残した影響力を無視する事はできない。

5,楊井氏が、古代から当地を治めて居たので楊井となり、後に柳井の字と成った。
わが国では、多くの場合豪族の姓が地名となるか、或いは豪族が地名を姓としている。
楊井の地名については、三十三間堂の説も有力と思われるが、当地を三十三間堂に寄進した楊井氏の方が歴史は古い。
して見れば、楊井氏が当地を三十三間堂に寄進する事により楊井庄となり、後に岩国領となって字も改められ、名も柳井組とし、柳井町、合併を経て、現在の柳井市に至ると見るのが歴史にかなう無理のない見方であろうと思われる。

九、平生の上七遠隆を柳井に持って来た事について

約20年前まで、一般的には『市史』の著述を信じ柳井に豪族は不在と思われていた。その中、忠信・新生の五輪塔・石祠その他の遺跡・遺物を説明するため、当地の一部郷土史家は平生の上七遠隆を柳井に迎え、その歴史が語られていた。
敢えて採りあげる事もないかと思われるが、柳井に於いて楊井氏の事がまだ一般化・認知されていない今日、後々の為に真相を明らかにして置くことも必要かと思われる。

平生の上七遠隆を柳井に迎える根拠は、江戸時代の国学者・広瀬喜運著『玖珂郡史』の中、新庄を説明する文による。
一、城山、林ト云所ニ之有。イカナル故名付ケン、知レル人ナシ。新庄近江守ニ聞クト山伏墓一本アリ、シャクシャウ杯之有。
一、『東鑑』(吾妻鏡)元暦二年(1185)正月二十六日、周防国住人上七遠影()兵糧米ヲ献。此城主カ

即ち、「
林という所に、城山という地名があるが、どんな理由で付けられたか誰も知らない。新庄近江守に聞くと、山伏の墓が1基あり、錫杖と杯が有るとの事。 また『東鑑』の元暦二年正月二十六日の記録に、周防国住人上七遠隆が兵粮米を献上したとあるから、若しかしたらこの人が城山の城主かも知れない」と、『玖珂郡史』の著者広瀬喜運が想像している。
之を以って、新庄・字・佐保を( しんじょう ・うさほ) と読み、また城山を宇佐木城と解釈して、楊井は平生の上七遠隆が支配していたとしている。
然し、新庄・字・佐保(しんじょう・あざ・さを)は、元「字・佐尾」即ち『郡史』の字(あざ)であって宇佐保の宇(う)ではない。
即ち、字(あざ)は地名の小名を表し、宇佐木保(うさなぎほ)の保は国衙領を表したものである。また、字(あざ)を宇(う)と読んだことは単なる勘違いと思われるが、承知の上であれば如何にも乱暴で、後世に歴史を誤らせる要因ともなる。

また、城山の地名は何処にでも在り、必ずしも城が築かれていたとは限らない。子供の遊び場として付けられたものもあれば、その他の理由で付けられたものもある。
また、新庄城山の地と 城としての整合性を考えれば、緩やかな丘陵地に築城しても戦略的に殆ど意味をなさず、実の所は修験道者の住居跡と理解した方が正しいように思われる。

何れにしても再々ではあるが、『内閣文庫所蔵。周防国古文書・僧源尊重申文案』の「
嘉応年中、楊井庄地頭楊井太郎之知行」の文、及び『誓光寺寺伝・由来記』の「村上源氏の末裔 誓光寺の先祖、源平争乱時楊井氏に帰属する」の文等で明らかな如く、本来論を待たない性質のものである。
然るにこのような主張が出てくる所以は、柳井に誓光寺寺伝以外楊井氏の記述が存在しない事、及び当地の歴史研究家諸氏の多くが、『市史』の記述に沿って楊井氏の存在を否定した事、若しくは知らなかったことに依ると思われる。

◎旧柳井・新庄域に在る、その他の石祠・五輪塔群
           
                    
楊井氏、岩政主従の五輪塔群
       岩政次郎右衛門の顕彰碑がある新庄佐保に、1600年代黒杭から忠信・新生を通って新庄に至る
       長溝工事の際、次郎衛門が先祖の主家である楊井氏の五輪塔を持ち帰って安置したものが残っ
      ている。今では忘れ去られ、無常を漂わせている。

           
      新庄大祖積蔵寺の門前にある石祠。中は無い    積蔵寺墓地にある五輪塔群、後に一般に流行
      ものの昔は旧参道に計3基存在したとの事で    した小五輪及び本来の積蔵寺の物を除いて、
      ある。何れも忠信石祠と同じく旧楊井水道を    その他は、楊井一族ゆかりの物と思われる。
      見下し、海運・楊井一族の思いが窺われる。

                   

十、古墳・楊井氏五輪塔・義経・佐藤兄弟石祠案内図

        

       
        

                   

 
出 典
 『柳井新庄地区史』                『柳井市史』

 『鎌倉遺文』「内閣文庫周防国古文書631」    『萩藩閥閲禄・譜録』(山口文書館・市史中世)

 『吾妻鏡』                   『戊子入明記』(天龍寺所蔵・市史中世)

 『玖珂郡史』                  『風土注進案』(山口文書館・市史・周東歴史物語)

 『大内家臣団』HP                 「代田八幡宮石鳥居」(市史・信仰生活)

 『閑院殿造営雑掌目録』(吾妻鏡)        『三浦家文書』(山口文書館・市史中世)

 『周東歴史物語』                  『陶弘護肖像讃』(山口文書館・市史中世)

 『大明譜』(天龍寺所蔵)            『熊野検地・坪付帳』(山口文書館・市史近世)

 『誓光寺寺伝・由来記』HP             『防長将星録』HP

 「山陽小野田市HP」                「奥州デジタル文庫HP」

 『平生町史』                  「般若姫伝説」(市史・伝説)

                           「旧大畠町HP]

  資料提供   伊藤幸司  山口県立大学国際文学部日本史研究室教授


              著者    正念寺     山口県柳井市柳井忠信4872-2
          
             著者メールアドレス    
seisin@snow.plala.or.jp

                         
目次に返る
                   
                          
正念寺情報
                   
    電話 0820-23-5244


                         
        
正念寺から150m、標高10m、東向きの高台にあり、海が見え
      柳井市街地が一望できる。日当たり良好な素晴らしい墓地です。

                
        
エホバの証人会館下にある、正念寺墓地         永代供養、共同供養塔

            
         
正面奥は工事中、随時完成予定           墓地から一望できる柳井市街と海

楊井氏の五輪塔の一部が存在する正念寺墓地に、念願の永代供養塔・共同供養塔が完成しました。
これからお墓を建てられない方々、将来家名が絶えると思われる方々の永代供養墓として、また忠信の阿弥陀様として、人々に愛されることを願っています。