柳 井 を つ く っ た 一 族

豪  族

や       な        い       し 

                
           

           楊井氏が先祖供養のため建立した佐藤忠信・継信兄弟供養

はじめに
 柳井市忠信・新生地区には、佐藤忠信・継信兄弟のものとされる供養塔が存在し、代々地域の人々に伝承され供養されてきました。
 この供養塔の真偽を訪ねるうち、平安末期から中世末まで柳井をつくり発展させてきた豪族楊井氏の存在に行き当たりました。
 しかし、柳井に於ける楊井氏の記録は、「誓光寺・寺伝」及び『玖珂郡史』による代田八幡宮での活躍以外は乏しく、その存在すら忘れられているようです。 少し疑問を抱いて、他所に多く在る楊井氏の記録を尋ね、以って顕彰・供養とすると共に、隠れた柳井の歴史を垣間見れればと考えています。

                                     平成18年10月作成    令和2年07月更新

     

    目 次

     
一、旧多々野(忠信・新生)に残る遺跡・遺物

      二、楊井氏家系図

      三、旧楊井(柳井)新庄域年表

      四、楊井庄と楊井氏

       五、『柳井市史』の記述と柳井に楊井氏の記録が存在しない考察

         ◎『柳井市新庄地区史』

      六、周防国源平合戦の佐藤忠信と豪族楊井氏

         ◎佐藤忠信

      七、佐藤忠信供養塔(石祠)について

         ◎忠信供養塔の偽の一面について

      八、柳井の地名命名について

      九、平生の上七遠隆を柳井に持って来た事について

      十、古墳・楊井氏五輪塔・義経・佐藤兄弟石祠案内図

        
◎著者メールアドレス

            
          正念寺情報


一、旧多々野(忠信・新生)に残る遺跡・遺物

 柳井市忠信・新生地区には、弥生後期の多々野遺跡2か所、古墳後期の多々野古墳1基、鎌倉から室町末期までの五輪塔群約65基、室町末期から江戸初期と思われる石祠(覆い屋)3基が存在している。
 これ等の遺跡・遺物は、正念寺を中心に半径200m以内の限られた区域に集中し、時間的にも弥生・古墳・平安(古文書)・鎌倉・室町末までと一つの流れの中にあり、同じ集団の存在を窺がわせている。

          
           多々野古墳(横穴式円墳)                      古墳の副葬品
                                            

        元禄二年(1689)、岩政次郎右衛門による              須恵器の平瓶1、壺1、平根式鉄鏃4
      長溝工事の際、天井部、前面は破壊されて            槍鉋 1、鞘金具片 1、
      おり、全長、高さは不明である。                    水路確保で破壊された為、副葬品も
      旧柳井域の古墳は、現 光市島田川流域               消失、古墳の規模にしては少ないそ
      周防を本拠とした周防国造のものとされる              うである。
      茶臼山古墳は別格として、その他の古墳は
      全て自然消滅不明となっており、現在確認            *現在正念寺に保管されている。
      できる古墳は多々野古墳ただ1基で、貴重
      である。              

         
             地域5か所に点在する五輪塔群、 地中には、まだ多く埋まっていると思われる。

          
           佐藤兄弟と伝わる供養塔                  源義経と伝わる供養塔

       
   両供養塔は、自らの一族が義経・佐藤兄弟とかかわった、源氏ゆかりの一族である
         事を残すために祀ったものであるが、主体は
楊井氏先祖の供養塔と思われる。

二、楊井氏家系図  「大内家臣団」カワベマサタケHP  「萩藩閥閲録」  「山陽小野田HP」  「大明譜」

 楊井新左衛門ー楊井直俊ー楊井定俊ー楊井広俊ー楊井盛俊ー楊井俊衡ー楊井仲衡ー楊井豊衡
                                           
(1190頃)            ¦
 --------------------------------------

 ¦
楊井久衡(左近将監?)ー楊井季衡ー楊井忠衡ー楊井忠武(1333)-楊井太郎正衡
                                  ¦              ¦
                                  ¦           
(代々)----楊井郷直(1555)
                                  ¦ 
                                楊井三郎武衡ー楊井八郎盛衡ー楊井藤五郎備前教氏

                                                            ¦
 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 ¦
楊井孫七縫殿盛時
     ¦
楊井縫殿盛友ー楊井但馬行盛ー楊井豊前則盛ー楊井修理進長盛ー楊井但馬備中祐盛ー楊井筑後元祐

 ¦    ¦
 ¦   楊井弥七修理進国盛ー楊井弥七修理進但馬春盛ー国久ノ子万寿弥七右京允但馬武盛(毛利へ)
 ¦                     ¦                     ¦     ¦
 ¦                     --楊井飛騨守国久ーーー   (代々)-----楊井三之允春勝(山陽小野田)
 ¦
楊井勘解由左衛門盛綱ーー楊井隠岐盛康ーー楊井隠岐正盛ーー楊井七郎正泰ーー楊井与右衛門正長
                           ¦                                        ¦
                           ¦         ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           ¦         ¦
                           ¦         楊井三右衛門正親ー楊井仁右衛門(23代1555頃)
                           ¦
                           ーーー楊井主悦正実
                           ¦
                        ーーー楊井雅楽正貞ー楊井庄左衛門正忠ー楊井庄五郎正勝

 *家系図不在  鞍掛山合戦、 本郷築地屋敷大将・杉家家老・楊井若狭、討死 『周東鞍掛山合戦』

 *家系図不在  鞍掛山合戦、 楊井弥二郎、和睦の為人質になっていたが、御庄にて斬首。
                      または毛利方と戦い討死。 「防長将星録HP」

                           

三、旧楊井(柳井)新庄域年表

時代 西暦 領 主 通史及び柳井市史の出典
楊井氏関係の出典と訳
弥生
300
周防氏 多々野遺跡 海抜2~10m 場所=新庄新生、土師器、須恵器片出土
弥生
300
周防氏 多々野遺跡 海抜27~30m 場所=新庄新生、土師器、須恵器片出土
古墳
550
周防氏 多々野古墳 海抜29、7m 場所=新庄新生、須恵器、鉄鏃、槍鉋、鞘金具出土
平安 1169 蓮華王院 「1169~1171、楊井庄となる」
   『平生町史』

 「嘉応年中自り、蓮華王院御領、楊井庄立加を被る。 楊井新領是也(乃至)地頭職者、楊井太郎之を知行す
   『内閣文庫所蔵・周防国古文書』
   『鎌倉遺文・僧源尊重申文案』

平安 1185 蓮華王院 周防国と源平合戦
 「正月六日の条、参河守(範頼)九国へ向かい、九郎半官(義経)を以って四国(屋島)へ遣は被る所也」        『吾妻鏡』

 「一月二十六日の条、周防国住人宇佐那木上七遠隆、兵粮米を献ず。之に依りて参州(範頼)纜を解き豊後国へ渡る」  『吾妻鏡』

*範頼は1月初旬周防国から赤間関に到着。彦島へ渡ろうとするも兵糧米を切らし、兵の士気も落ちた為、12日周防国に引き返し、上七遠隆等より兵糧米・兵の支援を受け、26日再び豊後に向った。 『吾妻鏡(意)』









 当寺先祖は、
「村上天皇よりの村上源氏にして、中古内海に覇を称えたる武将にして、参州源範頼平家追討の折、(1185年1月)楊井氏に帰したるものにして、爾来この楊井に居を構えて開基永真に至るものなり」と、この時周防国楊井には楊井氏が存在し、柳井を治めていたことを表している。
    『誓光寺伝・由来記』

柳井に於ける、豪族楊井氏の記録は、上記『誓光寺伝・由来記』の他は存在せず、他所に多く在る記述と比較すれば、余りに不自然である。
 思うに、1555年大内氏と共に毛利氏に敗れ、1601年岩国領となった時、徐々に消され忘れ去られたと推測される。

 この中、楊井氏の記録が誓光寺にのみ残った理由は、同寺記録に
「誓光寺第六世教宗(江戸初期)は、三河の人で徳川家康のご内儀〈於梶の方〉の実兄である」とある。

 憶測ではあるが、誓光寺住職が家康の内室の実兄であれば、他よりの圧力は及び難く、唯一誓光寺のみ楊井氏の記録が残ったとも考えれる。

*毛利一族吉川氏は、1601年から岩国領主として、岩国から楊井まで知行したが、明治元年になって初めて大名を許された。
 現在柳井で行われている「大名行列」は、これを祝う事から始まったと思われる。

平安 1185
蓮華王院 周防国源平合戦 『吾妻鏡』
 「四月二十一日の条、梶原景時が飛脚鎮西より参着す(乃至)次に周防国源平合戦之時、白旗一流、中虚于出現し、終わりに雲の膚に収まり畢」と記し、その後義経の非道を願えている。

『風土注進案・池の浦合戦』
 上記
「吾妻鏡の白旗一流」を引き、その後池の浦の事等、物語的に記している。成立は1841年で、出典としては乏しいか?
『吾妻鏡』
 源義経、屋島の戦いの後、2月下旬から3月22日にかけ大嶋津、楊井に滞在、この間周防国源平合戦を経て、兵船の集結を待ち、壇ノ浦へ向かう。

 *上記約1ヶ月滞在の間、義経の郎党佐藤忠信と当地の豪族楊井氏の間に、血縁が生じたと推測される。
 詳細は後述「佐藤忠信と楊井氏」及び「佐藤忠信供養塔について」にて。
平安 1232 蓮華王院 『柳井市史』
 「楊井庄所見」として『東大寺文書・三ノ四』与田朝兼と楊井庄境の論争の文が引用してある。
 
 確かに左記貞永元年(1232)の『東大寺文書』には、楊井庄の文が出てくる。

 しかし『東大寺文書』を収集整理した『鎌倉遺文』、『内閣文庫所蔵・周防国古文書』には、寛元二年(1244)
の記述に「嘉応年中(1169~71)、楊井庄立加」とあり、『市史」出典の「楊井庄」所見より63年も前から「楊井庄」存在した記述がある。(平生町史はこの説をとる)

 『市史』が単なる学術書であれば、
「所見」という表現も意味を成すが、歴史書であることを思えば、「楊井庄立加」の方が重要で、同所に収集されているこの文が『市史』に掲載されなかった理由が解せない。

 *憶測ではあるが、文中に
「地頭職は楊井太郎、之を知行す」とあり、楊井氏の存在を肯定できなかった『市史』としては、「楊井庄地頭楊井太郎、楊井庄を知行す」は掲載出来なかったかも知れない。

平安 1250 蓮華王院















1332『島津家文書』
 
「島津貞久、楊井庄地頭に補任」
『市史』は「詳しいことは不明」と記している。

 楊井の領主を、大和王権時代は周防国造、平安・鎌倉時代は蓮華王院、室町時代は大内氏、と固定している『柳井市史』としては、大内氏関係以外の「島津貞久、楊井庄地頭」は認めがたく、詳しいことは不明としたものと思われる。
 この文書が仮に事実とすれば、蓮
華王院は、
島津氏を楊井庄代官にすることにより、この頃勢力を増した楊井氏に対し、影響力を維持しようとしたとも考えられる。
いずれにしても、島津氏楊井庄地頭はあり得ない。
 
『吾妻鏡・3月1日の条』
 
「閑院殿造営雑掌目録」の中、「西鱸(外壁・縁側のような物)五丈、楊井左近将監跡」とあり、当時の楊井氏は、京都中央に名を連ねるほどに栄えていた事が推測される。
* 家系図中第九代、楊井久衡と断定した書もある。『古代氏族系譜集成』

*楊井左近将監は、武蔵国埼玉郡私市村あたりに居住した、楊井(やぎい)氏の説もあり、熊谷市あたりでは、これを主張している。
 左近将監については、「やない」「やぎい」共に、確固たる根拠は存在しないようである。




*『瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会、戦いの路としての瀬戸内海(水軍)』HP
 
「南北朝時代(1336~1392)には、伊予水軍は南朝方につき、浅見(海)氏は平郡島(楊井氏)へ』
 と言い、現在の柳井市平郡は、楊井水軍の領域であったことを記している。
 負けた側の歴史・記録は多く残らないが、調べていけばそれなりに出て来る。

*現在の柳井市伊保庄、上関町、平生町(旧熊毛半島)は、旧柳井域ではなく、その先にある平群島は、旧柳井であった。以後現在も柳井であることを思えば、始まりは平群島楊井水軍からと思われる。

*現在の郷土史研究家諸氏による、瀬戸内海水軍の記述の多くには、楊井水軍の名が出て来ない。
 しかし、後述の『大明譜』には、楊井郷直が遣明船の護衛として乗船し、海賊を撃退したこと等が出てくる。
 これ等から推測すれば、楊井氏は海上貿易等のため、水軍としての力量も有し、活躍していた事が見て取れる。

室町 1358 蓮華王院 「大内弘世、山口(周防・長門)を統一」
 『大内家臣団』HP




   楊井武衡ーー楊井正衡ーーー
   (1333)  ¦
          ー楊井武衡ーーー
                  ーーー
                   ーーー 
「楊井三郎武衡、大内弘世の傘下へ」
 『大内家臣団』HP
 * 長子太郎正衡を避け、三男三郎武衡を周防国人協力者として大内傘下に入れている事に注目すべきである。

(楊井庄在住 藤原姓楊井氏本家)楊井郷直へ  (1555頃)
(閥閲録中、楊井庄在住藤原姓楊井氏本家)
(閥閲録中、楊井庄在住別家藤原姓楊井氏)
(閥閲録中、楊井庄在住多々良姓楊井氏)

 *当地忠信・新生は、旧小名「多々野」と言い、「多々良」と同義語である。 して見れば、多々良姓楊井氏は、元楊井庄在住 本家の可能性がある。

室町 1360 蓮華王院 「楊井宮本代田八幡宮領、神田壱十九反大」と記録される
 
『三浦家文書』 『柳井市史』

『代田八幡宮社伝』
 「代田八幡宮は天長十年(833)、黒杭から宮本に遷して、吾田八幡宮また神和の八幡宮と称し、後に代田八幡宮と改称する。 吾田神社は神和から宮本の鷺の森大明神の地に遷座する」

 
「この頃周防楊井本庄は蓮華王院が領する」
 『柳井市史』『三浦家文書』
「代田八幡宮、往古ハ八月十八日御祭、御神幸ノ節 楊井右京ト申ス大禄ノ士、神輿ノ御供勤メ被ル」
『玖珂郡志』

 上記の年代は不詳であるが、中世の早い時期から、楊井氏が代田八幡宮の行事を主宰していた事が見て取れる。

 *
「1555年以降、楊井氏離散の後、現在の地頭代行列となる」
(柳井市史・信仰生活担当、伊藤芳江 意)

室町 1454 蓮華王院 「廿日市の鋳物師から楊井金屋の面々への詫び状」
『柳井市史』

 *『市史』はこの時から大内時代と記するが、下記
「楊井庄代官職補任状」を見る限り、領主はまだ蓮華王院であった。

室町 1467 蓮華王院 「仁保弘有、楊井庄代官職に補任される」『柳井市史』

『山口文書館所蔵三浦家文書』
 
「蓮華王院領周防国楊井本庄代官職事
 右当庄者為当院燈油料天下安全之御祈祷厳重之勅願所也於年貢者毎年五拾貫文幷五箇年一度段銭等任契約之旨無懈怠可有沙汰無不法之儀者不可有改動之沙汰仍補任之状如件
応仁元年卯月七日  行辨判
仁保上総介殿」


*半済法
 
荘園の税を荘園領主と守護大名が折半する事を定めた、幕府の法令。『フリー百科事典』
 楊井庄に半済法が適用されたとは思われないが、代官の手数料は楊井氏から徴収した楊井庄寺納米の半額?
この補任状は、それまで伊陸の高山寺が代官職にあったが、多年沙汰をせず、年貢徴収を怠った為、之を改易し、代わって大内重臣仁保弘有を代官として妙法院(蓮華王院の代務)の年貢料50貫文と5年に1度の段銭を徴収納付する旨契約し、文中「無懈怠可有執沙汰」(けたいなきようさたとりあるべし)と代官から土地の名主に沙汰を執るよう要請し、之を守らない時は改易する旨契約している」(柳井市新庄地区史・谷林博意)

 *仁保弘有が、妙法院に沙汰を執らない時は改易するの意もある。

 また、この文書は3通からなっており、2通目は、妙法院から大内家老陶氏に報告され、3通目は、陶氏から妙法院に対し、この事はお館(大内氏)も承知している旨返書を送っている。

 『市史』及びその著者は、之を以って楊井庄は大内氏及び仁保弘有が知行していたとしているが、文面を見る限り、楊井庄領主は蓮華王院であった。

 なお、当庄は事実上の支配者・地頭である楊井氏によって、蓮華王院に寄進という形をとり、少量の寺納米・名義料を納め安泰を図った事は、楊井庄と与田末松名田の賦課率を比較すれば明らかである。
 
楊井庄の賦課率は、末松名田の6分の1、及び届出面積は10分の1であった。 即ち楊井庄の賦課率は、他の庄の60分の1であった事となる。

* 1360年に書かれ、三浦家に残る『三浦家文書』、先の代官「高山寺」から入手したものか?

以上の如くで、平安末期から鎌倉初期に周防国が東大寺領になった時も、その後大内氏が周防長門を統一した後も、後白河法皇の勅願寺・天下安寧の祈祷所であった蓮華王院は別格であった。
 即ち朝廷と直結する三十三間堂の荘園楊井庄は、東大寺、大内氏と雖も思い通りにならなかったのである。
室町 1467 蓮華王院 「大内政弘、楊井港より出陣」
『経覚私要抄』
(奈良興福寺の管主の日記)

*奈良に居ながら、京都、山口の出来事を日記に記したもので、内容は又聞きの又聞きと思われる。
 詳細も雑で、事実と合致しない所が多々あるが、楊井から乗船した事は事実である。

「楊井は大内氏の東門で、良き軍港であった」『柳井市史』
 応仁の乱時、大内政弘が楊井港より大軍を率いて上京した記録が残っている。
 この文を以って『市史』は
「楊井は大内氏の東の良き軍港であり、また楊井は大内氏により開かれ発展せしめられた」の意で記されている。

 しかし、当時の楊井港は浪速から大輪田泊、牛窓、鞆、尾道、厳島、楊井、上関、富田、門司と瀬戸内海運の要港の一つであり、既に大船も停泊できる程に開かれていた。
 その中、主従に近い関係であったにせよ、大内氏と楊井氏の関係が良好であった為、楊井を難なく利用できたと考えられ、先の仁保弘有代官職補任の如く、楊井庄領主はまだ蓮華王院であり事実上の支配者は楊井氏であったと思われる。

 また、当時の大内傘下の海賊・水軍は、楊井(柳井)、平郡島(楊井氏傘下・前述)、屋代島(現大島)以外は安芸の水軍が主力であった。
 その為、大内氏上京には本来富田(徳山)乗船が妥当である所、安芸水軍に近い事と港の規模の上から楊井乗船が必然となっていた。

 『経覚私要鈔』
「海賊衆先陣
ノウエ
(野上)、クラハシ(倉橋)、クレ(呉)、ケコヤ(警固屋) 其外九州面々、五月十日、山口出陣、六月二日、周防野上(徳山)マテ御付候、  同三日、屋内(楊井)ト申在所マテ出陣、同十三日、乗船一定候、社(屋代)ノ嶋陸(久賀)マテ 御付候」 

 
ノウエ=(野上衆)==広島県福山野上、能美、
 
クラハシ(倉橋衆)==広島県音戸、倉橋島、
 
クレ==(呉衆)===広島県呉、
 
ケコヤ=(警固屋氏)=広島県呉、

 その上で、後述の『玖珂郡志』『戊子入明記』『大明譜』等を見て行けば、事実上楊井を治め発展させたのは、楊井氏であることが見て取れる。

室町 1468 蓮華王院  「遣明船」の記入あり」
 『柳井市史』『戊子入明記』

  豊前・和泉丸 = 将軍家

  豊前・宮丸   = 細川家

  豊前・寺丸   = 大内使船
     
 楊井に「楊井宮丸700斛」と遠洋に耐える大船が存在していた。『戊子入明記』
 当時遣明船を出した将軍家・有力寺社・守護大名等は、自前の船を持っていたわけではなく、瀬戸内の有力商人や豪族の船を借り上げ、遣明船としていた。

 遣明船の記録によれば、
    ① 700斛 ~ 1500斛
    ② 500斛 ~ 2500斛の2説がある。
 して見れば、
「楊井宮丸700斛」は、楊井の船名、豪族に合った船の大きさ、後述「楊井郷直遣明船乗船」の記録からして、楊井氏の船と見るのが妥当と思われる。

室町 1477 蓮華王院  「周防守護代陶弘護、大内政弘を楊井に迎える」
『陶弘護肖像讃』『市史』
 弘護の法事の時に作られた掛け軸の讃である。
 応仁の乱時、細川家に対し劣勢の中、山口に帰る政弘を、弘護が楊井まで出迎えた事を讃じたものである。事実と思われる。

室町 1482 蓮華王院  「杉八郎重祐、楊井新庄代官職に補任される」『萩藩閥閲録』

*荘園制度の崩壊
 守護大名(後の戦国大名)による荘園の侵略は、応仁の乱以後、徐々に加速され、太閤検地により、終焉する。

 即ち、約100年を掛けてゆっくりと進んだものである。

 弱体の荘園領主を持つ荘園は、早くに守護大名の物となった。
 一方蓮華王院楊井庄のように、朝廷と直結し、力を持っていた荘園は、時間をかけ徐々に弱体化させられ、最後には戦国大名の物となった。
 しかし、その頃には、戦国大名も終わりとなる者が多かった。
 先の仁保弘有と同じく、蓮華王院の代官ではあるが、任命権者が大内氏であることを思えば、楊井氏の上に大内氏の圧力が徐々に強まって来たと推測される。

 この前後、文明三年(1471)大内政弘が妙喜寺に楊井庄の一部を寄進した文書が出て来るが、文中
「玖阿(珂)郡、柳(楊)井庄」と誤字がある。
 この時代「柳」の字を使うことは有り得ず、かなり後(1600年代)に書かれた文書と思われる。

 次いで、永享四年(1432)、文明十年(1478)に大内氏が興隆寺に与田保の一部を寄進した文、或は家臣に伊陸、日積、伊保庄の一部を与えた文書が多々出て来る。『柳井市史』

 これ等は合併後の、現在の柳井市の一部であり、『市史』の記述は正しいし、むしろよく調べてある。

 しかし、当時は蓮華王院領楊井庄の隣接地域即ち他国で、領主も異なり、中世楊井庄とは無関係である。
 当時の背景を知らない一般の人は、「中世楊井庄大内氏支配」を素直に受け入れ、誤認する恐れもある。
 真実を伝えるためには、時代背景など丁寧に説明し、正しい歴史を伝えるべきと考える。
室町 1482 蓮華王院
 右、『柳井市史』にあり。 
 「『正仁記』に「防州楊井新庄の名が見える」
『新庄地区史』 
 「正仁記」は大内氏家臣の日記で、楊井氏の占有地であった新庄に、大内氏の影響力が及んで来たことを推測させる文である。
室町 1492 蓮華王院
大内氏
 右、『柳井市史』にあり。  楊井助次郎盛友、大内政弘に家臣として縫殿允の官名を所望する」
『萩藩閥閲録』(閥閲録中、別家藤原姓楊井氏)

*楊井氏家系図の上では、別家藤原姓となるが、
初めて大内家臣の記述が出て来る。 この頃より、別家は協力者周防国人から大内家臣に組み込まれていったようである。

室町 1511 蓮華王院
大内氏
 右、『柳井市史』にあり。  「楊井弥七国盛、大内義興から修理進に推挙される」
『萩藩閥閲録』(閥閲録中、別家藤原姓楊井氏)

室町 1529 蓮華王院
大内氏
 「白井光胤、大内義隆から楊井新庄20石を賜る」
『岩波文庫』 『柳井市史』

 この頃、新庄に於いて他国の武将が大内氏から給地を貰っている処を見ると、新庄は大内氏時代となっていたようである。
室町 1531 蓮華王院
大内氏
 右、『柳井市史』にあり。  「楊井修理進長盛、大内義隆から美和庄内10石、粕屋郡内5石、宇佐郡内の1部を宛がわれる」
『萩藩閥閲録』(閥閲録中、別家藤原姓楊井氏)

室町 1538 蓮華王院
大内氏
 右、『柳井市史』にあり。  「楊井但馬守春盛、弟の楊井飛騨守国久の子、楊井万寿武盛を養子として所帯を譲る」
『萩藩閥閲録』(閥閲録中、本家藤原姓楊井氏)

室町 1545 大内氏  「山本禅正忠房勝、大内義隆から楊井庄内64石7斗を給地として賜る
 『柳井市史・閥閲録』
 この頃、楊井本庄も大内氏が自由にしていたことが見て取れ、いよいよ大内時代となる。
 領主大内氏、地頭楊井氏か。

室町 1547 大内氏  「楊井郷直、遣明船に乗船」 『周東歴史物語』

 「郷直は天竜寺の僧策彦に随行す。 この船天文十六年二月二十一日山口発船。 これ等の船は長さ二十三尋、帆柱十三尋云々」
 その他乗組員の氏名、積荷の数量、海賊撃退の詳細等を記している。 
 天龍寺妙智院所蔵 『大明譜』(楊井郷直著)

 牧田諦亮編
 『策彦入明記の研究』上巻298頁

 *郷直は船の貸主と警護を兼ねていたようである。

室町 1555 大内氏
毛利氏
 「陶清隆、厳島合戦で滅亡、楊井氏も陶方の水軍として宇賀島水軍(現大島)と共に出陣、毛利方と戦い敗れた」
 『周東歴史物語』

室町 1555 大内氏
毛利氏
 「楊井氏本家、杉氏と共に鞍掛山合戦で滅亡」
 『柳井市新庄地区史』
 *主力は毛利に下り、その他は離散したが、滅亡はしていない。

 *
「玖珂郡本郷築地屋敷の大将、杉家家老、楊井若狭討死」 『鞍掛山戦記、松岡睦彦資料』

 *
「楊井弥二郎、毛利方との和睦のため人質となっていたが、岩国道御庄で斬首」。 一方、「御庄で毛利方と戦い討死」の説もある。『防長将星録』

室町 1557 毛利氏 右、『柳井市史』にあり  「楊井武盛、毛利に下り、養父の遺跡地秋吉別府の内30石を安堵される」
 『萩藩閥閲録』 (閥閲録中、本家藤原姓楊井氏』

室町 1557 毛利氏 右、『柳井市史』にあり。  「楊井隠岐守某、玖珂郡南桑の内、8貫を給地として安堵され、南桑に居住した」
 『萩藩閥閲録』(多々良姓楊井氏)

 *『閥閲録』の記載は
「元楊井庄に居住した矢野氏が後に楊井姓を名乗った」と記している。

 しかし、楊井氏の本拠地(現忠信・新生地区)の小名・旧名は、(多々野)即ち(多々良)と同義語である。
 して見れば、戦後の禄高の扱い等合わせて勘案すれば、負けた側の配慮から、『閥閲録』の作成時、楊井氏を隠して、元矢野姓と口述したものと推測される。

 その出典は、『閥閲録』の
「藤原姓、多々良姓、両楊井氏共に楊井領家(楊井を治めていた)の記述である。

江戸
1601 吉川氏  「楊井庄、岩国領主吉川領となる」  『柳井市史』

江戸 1625 吉川氏  「楊井庄から柳井庄へと字が変わる」
 『市史・熊野検地・坪付帳』
 下記の文の如くまだ変わっていなかった。本藩の熊野氏が楊井を検地した時、楊と柳を誤認。最初は単なる勘違いとして記入した事に始まった思われる。

江戸 1639 吉川氏 右、『柳井市史』にあり。

* 『市史』は、複数名が担当別に記述していて、整合性がとれない箇所がある。その中、右及び下記の記述が正しいように思われる。
 「代田八幡宮石鳥居には、「右檀那当國楊井住長谷川浄感、寛永十六歴三月吉日」の銘があり、1639年当時、一般にはまだ「楊井」の字が使われていた」
『柳井市史・信仰生活・伊藤芳江述』
江戸 1652 吉川氏  「楊井から柳井の字に統一される」
『旧藩時玖珂町村制度概略』
 『柳井市史・別項』
 
 歴史に適った記述と思われる。 楊井から柳井へと字が変わった事は、当地に豪族楊井氏の記録が一切残っていない事と関連する。 このため変わった時期は正確であった方が良いと思われる。
江戸 1666 吉川氏  柳井地名命名の根拠、般若姫伝説・柳と井戸の柳が存在する湘江庵が開基。 湘江庵の長弁が亡くなった年が正式開山となっている」意。
 『柳井市史』
 湘江庵開山当時、「般若姫伝説・柳と井戸」はまだ出来ていなかった。
江戸 1700 頃 吉川氏

 「般若姫伝説・柳と井戸」誕生。
 般若姫伝説は、近松門左衛門(1653~1724)が、大分県大野郡の
「連城寺縁起」の民話『真名野長者物語』(後に般若姫伝説が生まれる)と義経元服の次第を著した幸若舞の詞章『烏帽子折』を基に、歌舞伎の台本として『用明天皇職人鑑』を著し、全国に大流行した。

 これが基となり「炭焼き行者」「草刈山路」「真野長者」「般若姫伝説・柳と井戸」へと広がったものであるが、それぞれの土地の話として全国に、特に瀬戸内に多く残っている。
 詳細は「柳井の地名命名について」にて。

江戸 1668
番外  前述、毛利に下り美祢郡秋吉別府の一部を知行した、別家藤原姓楊井武盛の玄孫?に当たる「楊井三之允春勝は、山陽小野田舟木代官として、寛文年間(1688)に近世最大規模の開作と言われる高泊開作を主宰し、「外は蓑でも内は三之允」という口碑を残している」 
 「山陽小野田市・HP」

 優秀な一族は何処に行っても優秀ということか。

                            

四、
楊井庄と楊井氏

 柳井に於ける楊井氏の記録は、『誓光寺寺伝・由来記』の他殆ど存在しないが、『東大寺文書』 『内閣文庫所蔵・周防国古文書』 『吾妻鏡』 『萩藩閥閲録』 『玖珂郡志』 『大明譜』と他所には多くの記述が存在する。

 平安1169~71年、柳井は楊井氏によって後白河法皇の勅願寺・蓮華王院三十三間堂に寄進され、蓮華王院領楊井庄として立荘、これを楊井太郎が知行した。『内閣文庫所蔵・周防国古文書』『鎌倉遺文・僧源尊重申文案』
 
 また、楊井の地が楊井氏によって寄進され楊井庄となった事は、1360年の『三浦家文書』の中身を見れば理解される。
 この中、楊井庄とその他の庄の賦課率(楊井庄は他の庄の60分の1=賦課率6分の1、届出面積10分の1)を比較すれば、明らかである。

 
『山口文書館所蔵・三浦家文書』
   『蓮華王院領楊井本庄田目録』
      「蓮華王院御領周防国柳井本上四ヵ里方  合田数 三十五町六反半内
      
(乃至)
      以上 公物 六十九石八升 内加徴米 六石  竝公物 六十三石八升

  
    天平十五年十月」 

    *この頃、他の庄の賦課率が約50%であったのに対し、楊井庄は 0,85%であった。


 以上の如く少量の名義料を納め、後白河法皇の威光を後ろ盾とし、何者といえども楊井庄に手を出せなくさせたのである。

 平安1185年、「源氏に於ける平氏追討のおり、村上源氏の末裔で、瀬戸内海に覇を称えた誓光寺の先祖は、同年1月楊井氏に帰属し、以後楊井に住み着いた」『誓光寺寺伝』とあり、当時の楊井氏は楊井を知行すると共に、水軍も保有していたことが見て取れる。

 平安1185年 2月~3月、義経一行は屋島と周防国源平合戦を経て、壇ノ浦へ向う 約1ヶ月の間、楊井周辺に滞在した。
 この間、楊井氏は奥州藤原氏同族 佐藤忠信の血縁を受け、以後藤原姓を名乗ったと推測される。(詳細は後述「佐藤忠信と楊井氏」にて)

 鎌倉1250年、朝廷の建造物
「閑院殿の建立時、楊井左近将監、西鱸5丈を寄進」『吾妻鏡・閑殿院造営雑掌目録』とあり、京都中央にも一定の役割を担う程に栄えていた事が見て取れる。


 室町1358年、楊井氏家系図中 12代楊井武衡は、この頃周防・長門を平定した朝鮮王朝の末裔、多々良姓大内弘世の傘下に入る。 『大内家家臣団・kawabemasatakeHP』 『萩藩閥閲録・楊井武衡家系図』
 この時、長子太郎正衡を避け、三男三郎武衡を大内弘世の直属の家臣ではなく、周防国人(在地の事実上の領主で協力者)として傘下に入れ、大内氏からの完全支配を避けた。
 その後、本家楊井氏は大内氏と何らかの縁を結び、多々良姓楊井氏をも名乗り、盤石の安泰を図った。

 室町1360年、
「代田八幡宮神田分免除」の記録が現存している。『三浦家文書』   
 この
「代田八幡宮の行事を楊井氏が主宰」していた。『玖珂郡志』  
 即ち楊井の氏神、代田八幡宮を主催していたと言うことは、楊井は楊井氏により運営されていた事が見て取れる。

 室町1467年、『戊子入明記』に
「楊井宮丸700斛」とあり、自前の大船を以って遣明船に参加し、また独自に明、朝鮮貿易を行っていた事が、下記『大明譜』の文に依っても窺がえる。

 室町1467年
、「郷直は天竜寺の僧策彦に随行す」と遣明船の規模、積荷、人員、海賊撃退等の出来事を詳しく記載しており『大明譜』『周東歴史物語』、 船の貸主と護衛を兼ねていた事、また当時の記録等からして自らも取引をしていた事が推測される。
 *倭寇と言われ、一部豪族の水軍が、時として海賊も行っていた記述が残る中、楊井氏がそうであったかは不明である。

 室町1555年、厳島合戦の時、楊井氏は陶軍として大嶋水軍(現大島)と共に参戦、毛利軍に敗れ、続いて周東鞍掛山合戦で、杉軍と共に戦い敗退、遂に楊井に於ける楊井氏の時代は終わる事となった。
 その後、残った主力は毛利に下り、その他は姓名を変えて、商業や農業に帰したものと思われる。

 この間、平安から室町末まで、蓮華王院や大内氏と付かず離れずの良好な関係を維持し、それらを後ろ盾として自らは表に出る事なく、瀬戸内の要港として、また商業・貿易の拠点として楊井を発展せしめたのである。

 その後、楊井は46年間の毛利領を経て、1601年岩国領となり、1652年楊井の字も柳井と改められ、柳井の地名命名も「般若姫伝説・柳と井戸」として作られた。
 これに依り楊井を創り発展せしめた豪族楊井氏の歴史は、ここ柳井に限っては見事に消し去られ、忘れ去られていった。 それ以降は純粋な商人の町柳井として、江戸、明治、大正、昭和初期と隆盛を極めたが、・・・現在に至っている。


                           

五、『柳井市史』の記述と柳井に楊井氏の記録が存在しない考察

 
『柳井市史』作成の基となったとされる『柳井新庄地区史』には、豪族楊井氏の事が多く出て来る。
 然るに『市史』に於ける楊井氏の記述は、
「大内政弘の家臣として、延徳四年(1492)五月十三日楊井助次郎盛友が縫殿允の官名を所望した文書が所見で、「先祖代々楊井に居住した」『閥閲録106楊井神兵』。

 次いで1511年、1531年、1538年、1557年の楊井氏大内家臣の記録を引き、その後、藤原姓、多々良姓、別家藤原姓の家系図を紹介の後、結びとして「楊井氏は柳井地域内に知行地を持っていないが、柳井に大内時代から居住した旧族であるので、その家系の一部を『萩藩閥閲録』『萩藩譜録』に依って紹介した次第である」
と『市史』2000頁余りの中、わずか1ページで終わっている。
 (大内氏は、平安時代からの旧族であるが、大内時代と言えば一般的に中世を指す)

 この中、「楊井氏は柳井に知行地を持っていないがの主張は真実とは言い難い。 
 嘉応年中(1169~1171)、楊井は蓮華王院に名目寄進され楊井庄となり、実質
「地頭職は、楊井太郎之を知行す」と楊井を支配していた事は、『内閣文庫所蔵・周防国古文書』や中世楊井の寺納米賦課率及び『玖珂郡志・楊井右京』の文等で明らかである。

 『萩藩閥閲禄』や『譜禄』或いは山口文書館から楊井氏知行地の古文書が出て来ない。また大内氏から領地を拝領していない等の理由で、楊井氏は楊井に知行地を持たないとする事は、一見正しい主張のように見えなくもない。
 然し楊井は、古来より楊井氏が実質支配していた所で、大内氏からの知行地拝領は無用である。あえて大内氏からの知行地拝領云々を主張すれば、歯車は合わないように思われる。
 (閥閲録の楊井氏家系図に藤原姓楊井氏楊井領家、多々良姓楊井氏楊井領家と出て来る事を見落としているか?或いは学術的に削除されたものか?)

 既に『周防国古文書』で明らかな如く、論は待たないと思われるが、『大内家臣団』kawabemasatake氏HPの中、1358年大内弘世の傘下に入った楊井三郎武衡は、大内家臣ではなく、上下関係を有する
「周防国人」(在地の事実上の領主で協力者)として記録されている。 これ等の事も加味して知行地の解釈をすべきように思われる。

 それもさることながら、『柳井市史』作成の基となったとされる『柳井市新庄地区史』に、楊井氏の事を多く書いた谷林博氏が、『市史』の編纂主任であった事を聞くと、その中楊井氏の記述がわずか1ページは理解出来ない。

 そこで、『柳井市新庄地区史』の楊井氏関係の全文を紹介しょう。 一、二疑問を抱く点もあるかと思われるが、近年の柳井に於いて、楊井氏を発見 、顕彰せんとした先駆者の著であることに異を挟まない。

 ◎『柳井市新庄地区史』 谷林博著
 「周防国は鎌倉時代に入って東大寺の造営料の領地となり、文治2年(1187)院庁の下文を以って大勧進俊乗坊重源が、その管理に当たる事となった。
 荘園制度は貴族や豪族などによって、奴隷の労働力と財力を以って、未開の開発を行った。 楊井庄は当時の豪族楊井氏の占有地であった事は言うまでもない。

 然しながら荘園を完全に確保するために、中央の有力な貴族や寺社の権力を頼む必要があった。 楊井氏が今日その蓮華王院に即ち三十三間堂の領地として寄進されていた。

 蓮華王院は後白河天皇の勅願寺として創立されたものである。 後に源平両氏の政権争いの間、後白河法皇は三十余年も絶大な権力を握っていた。
 蓮華王院を領主とすることは、楊井氏にとって安泰であったのみでなく、後世に見られるように次第に支配権を拡大していくのに都合がよかった。

 そして荘園は名実共に地頭の支配下にあるものと、表面的には権門の領地となっているが、実権は現地地頭が握っているものとがあった。
 楊井庄は蓮華王院に寄進しているが、地頭として荘園の経営にあたっていた。 そして着々と自己勢力の拡張を図っていた。


 余田、新庄は水道の閉塞によって新規開発の土地ができた。 これらの新田に対しては、本来地頭課徴米を禁じてあったが、収穫は事実上地頭の楊井氏の収入となり、財力を蓄積させたことは推測に難くない。(乃至)

 一方、白潟も古くは東大寺の領地であったが、後に楊井庄に併合されている。
 『玖珂郡志』によると
 「白潟ハ往古南都春日ノ領地ノ処、一年百姓中徒党シテ、奈良ヘ年貢収納仕リ候不ニ付テ、催促ノ使者一人刀ヲ差シ中間六人奈良ヨリ差越候、白潟ノ者右ノ七人ノ者ヲ殺害ニ及ビ、其印ニ五輪ヲ七ッ立テ置キ、今里ノ内九兵衛ト云者藪ノ門ニアリ、七人ミサキ申伝フ」とある。
 之は白潟が東大寺から分離して、楊井庄に所属することとなった事を示すものである。 租税の催促に来た南都の者を、農民の力だけで殺害されて領主がそのままに捨て置くとは思われないが、背景に楊井氏がいて支援していたものと解される。

 白潟村に対する東大寺の課税が過酷であった事は、余田末松名田に関する古文書の二町六反に対して、二十六石を納付すべき規定であった事からも推定できる。
 之に反して、楊井庄に於いて農民に対する年貢が比較的軽かった事は、蓮華王院に納付する貢物から見て推測することが出来る。
 之が何を意味するかと言えば、楊井庄に編入させる政策的な手段であった事を見逃す事は出来ない。 このようにして楊井氏は室町期に入り隆盛を極めたが、之は鎌倉時代から周辺に侵略していった例が見られるものである。
(乃至)

 
 それにしても楊井庄三十六町歩の田地は余りにも少ない。当時としては、恐らく十倍の耕地があったものと容易に推測されるし、またこれに対する定公物すなわち寺納米が六十四石とは軽すぎる。
 前述の末松名田が二町六反に対して、二十六石の寺納米が定められていることに比例すれば三百六十石となるからである。
 この疑問は楊井庄が蓮華王院とあるのは名目上のことで、名義料として納付するものであることを考えれば氷解する。

 新庄地域の新田は勿論免税地であったから、現地に於ける実権を握る者は年々著しい富を蓄積することが出来た。それは楊井氏が多数の家の子郎党を養い、大船を造る余裕をもち、海外にまで勇躍した理由が了解される。

 この時代には、楊井庄は敢えて権門に依って庇護されなければならない必要はなくなった。楊井一族の実勢力に依って充分保有し得た。

 また、永い伝統で楊井庄は依然蓮華王院の領地としての名目をなした方が便宜であった。どうしても新庄一体は明確に区別して置くことが、後日の紛議を免れるという理由に出たことは明らかである。


 新庄は開発当初から蓮華王院などと間接的であった。楊井氏は新庄は自分達のものであるという観念から政治的、経済的に重点はむしろ新庄に移されていたと思われる。
(乃至)

 
 そして荘園制度にかわって、彼らの一円領が地方分権的な支配をされるようになった。このような情勢において、楊井氏も大内氏の支配下にあった。(乃至)

 楊井庄に関して陶氏の家臣、仁保上総介が新たに代官職に補せられた補任状が残っている。
(乃至)
 この補任状の文句の中に「無懈怠可有執沙汰」とあるのは、代官から名主である楊井氏へ、沙汰を執らすことの意である。
 この時代から楊井新庄に関して、名実ともに楊井氏の支配下に置かれた事が窺がわれる。
(乃至)

 楊井氏は最後の当主であった郷直が大内氏と共に運命を共にして弘治二年ついに滅亡してしまった。
 その時、岩政家の先祖 元晴も楊井氏に従事して弘治三年七月十八日、鞍掛山に於いて戦死している。その子長清は姓を改めて京都に亡命して、武田法眼について医術を学び、岩政掃部亮と称した。晩年になって、帰郷し新庄に於いて治療に当たった事が岩政家の記録に見える。
(乃至)
 以上、現存する諸記録によって中世までを述べたものである」 以上。

 

 返って、柳井市史』の中、楊井氏の記述が何故微小となったか思案すれば、

 一つには、谷林氏が『市史』の完成を見ずして没しておられる事。

 二つには、それまでの柳井では考えられない楊井氏の存在(新説)を唱えた為、当時の一部学者及び歴史研究家との軋轢で、阻害されたものか。

 三つには、谷林氏没後『市史』の編纂をされた学者方々が、『萩藩閥閲禄』の楊井に於ける室町時代大内家臣による楊井庄代官職の文書、及び室町末期の同家 家臣団楊井庄一部知行の文に依り、柳井に於ては、室町の1時期以外は楊井氏は不在であったと解釈されたものと思われる。

 思えば、『市史』の記述者を柳井以外に求めた事。 また、『市史』の「中世」担当学者が、「山口県文書館専門研究員」の肩書を持ち、江戸時代に萩藩士の調書や文書によって制作された『萩藩閥閲録・萩藩附録・享保11年(1728)完成』、その他大内、毛利氏関係を中心とした「山口文書館」に残る古文書、及び正史(中世の山口県は大内氏)の概念を基に同様の解釈をされたものと考えられる。

  *正史(中世大内氏)の立場をとっても両家楊井庄支配の時間的差は大きい。

      楊井氏ーー1169~1467(楊井庄立加から仁保弘有代官職補任まで)298年間

      大内氏ーー1467~1555(仁保弘有代官職補任から大内氏滅亡まで) 88年間

 (大内氏は、守護大名として徐々に楊井庄を自領として行ったのであるが、事実上領主となったのは1529年楊井新庄の一部を家臣に与えた時から、1555年滅亡までの26年間、楊井庄では10年間である。
 これに対し、楊井氏の楊井知行は、立庄から大内支配後、毛利へ下る(1557年)まで、細々とではあっても続いており、事実上388年間、家系図でいけば、510年余りとなる。)


 返って、楊井庄中世大内氏の立場をとられた所を思案すれば、楊井氏は楊井という限られた地域の小豪族で、戦いを以て領土を拡張した形跡は見えず、戦功の記録といえば、後に大内家臣となった別家楊井氏の記録(閥閲禄)以外存在しない。

 即ち 自ら表に出る事無く、朝廷に直結する蓮華王院や大内氏を後ろ盾として楊井を知行していた為、他の豪族に比べ、支配者としての古文書類が残っていない。 然れば、「正史」の立場をとられても、仕方のない一面を残す。


 その上で、歴史を語る時、実証が第一であることは言うまでもない。 しかし、余りにも古文書実証主義に偏ったなら、真実は見えて来ないのではなかろうか?古文書は通常勝者に都合よく書かれ、都合よく残された物が多い事は万人の認めるところである。
 地域の歴史を検証する時、時代背景やその地域の置かれた立場等を考慮し、徹底した探求と執着を離れた、愛着と柔軟性が不可欠と思われる。

 次いで、1555年大内側杉氏と共に周東鞍掛山で毛利氏に敗れ、その後、明治まで三百十余年にわたって毛利氏及び岩国領主の支配を受け、柳井は商人の町として生き残らざるを得なかった。
 言い換えれば、岩国領主から何らかの圧力があったと考えられる中、負けた側として、また商人として生き残るため為政者に配慮し、自ら楊井氏の事は忘れ去り消し去ったであろう事も楊井氏不在の一因と考えられる。

 時は過ぎ、柳井の歴史関係者方々の大半が、自ら楊井氏を否定し拒絶された事を思えば、歴史の難しさと怖さを新たにさせられる。

 歴史は、著名な学者が唱えた説、及び権威ある書物に一度掲載されると、それを見直すにはそれ以上の権威か 計り知れないエネルギーを要する。
 現在、楊井氏の事はかなり知られて来たようであるが、広く公認されるのは何時のことか。 将来『柳井市史』の記述が、ネックとならないよう願うものである。

                          

六、周防国源平合戦の佐藤忠信と豪族楊井氏

 周防国源平合戦は正史には出て来ない。 これに依り、周防以外の歴史研究家では、否定する方々も存在する。
 しかし鎌倉の歴史書『吾妻鏡』には周防国源平合戦の記述があり、出典の優位性・信用性からして、否定は無理であり、どう論じても事実である事に変わりはない。
『吾妻鏡』
 
「正月六日の条、参河守(範頼)九国へ向かい、九郎半官(義経)を以って四国(屋島)へ遣は被る所也」
『吾妻鏡』
 「一月六日の条、周防国住人宇佐那木上七遠隆、兵粮米を献ず。之に依りて参州(範頼)纜を解き、豊後国へ渡る」
『吾妻鏡』
 「梶原景時が飛脚鎮西より参着す(乃至)次に周防国源平合戦之時、白旗一流中虚于出現し、暫く御方の軍士眼前に見て、終わりに雲の膚に収まり畢」(四月二十一日の条、景時、鎌倉へ報告の書簡)
『吾妻鏡』
 「元暦二年三月二十一日。甚だ雨、廷尉(義経)平氏を攻めんが為、壇ノ浦へ発向せんと欲する之処、雨にて延引す。爰に周防国在庁船所五郎正利、当国船奉行の為に依て数十艘を献上す」
『吾妻鏡』
 
「元暦二年三月二十二日、廷尉数十艘の兵船を促し、壇ノ浦を差し纜を解くと云々。昨日より乗船をあつめ計り廻らすと云々。三浦介義純、この事を聞き、当国大嶋津に参会す」

 以上の如くで、周防国源平合戦があった事は論を待たない。 続いて文中、大嶋津について周南市は徳山の大島を主張し、『吾妻鏡』を翻訳した歴史家は、防府としている。 また、山口県の歴史学者三坂圭治は、日程的にも徳山辺りでなければ壇ノ浦に間に合わないと解説されているようである。 しかし、これも『吾妻鏡』を以ってすれば、この疑問は解決される。

 上記出典を読んでいけば、正月六日の条、頼朝の命を受け範頼は九州へ、義経は屋島・周防国・壇ノ浦へ向かった。 その中、範頼は1185年1月 、赤間関(下関)まで行き彦島を攻めようとしたが、兵糧を切らせて12日周防国まで引き返した。 そこで宇佐那木の上七遠隆から兵糧米の献上を受け、26日再び九州に向った。

 考えるまでもなく遠隆は熊毛郡平生の人である。 もしも大嶋が徳山であったなら、範頼が引き返したことを遠隆は知らない所となり、兵粮米の献上は不可となる。 これに依り大嶋津は屋代島(現大島)・旧熊毛半島(含平生・当時は島)・楊井近辺であることは明らかである。

 一方義経は、2月19日屋島で勝利し、2月下旬から3月上旬にかけ、周防国でも勝利した。 その後壇ノ浦の決戦に備え、兵船・兵の集結を待つ為、3月22日まで楊井周辺に滞在した。 この間佐藤忠信と当地の豪族楊井氏の間に血縁が生じたと推測される。       

佐藤忠信

 
佐藤忠信(1161~1186。25、27、30幾歳の説あ柳井の豪族楊井氏り)、平安末期の武将。 陸奥信夫庄司・佐藤元治の子で、同族・奥州藤原三代秀衡の家臣、藤原忠信とも言う。
 源義経とは義兄弟。
「奥州での義経の妻は、忠信の妹」 『奥州デジタル文庫』

 義経が、平家追討の旗揚げをした兄頼朝の下へ参陣する時、秀衡より兄継信と共に同行を命じられ、後に義経郎党四天王と言われる程に活躍した。

 奥州平泉以降、義経に従い1184年1月宇治で源義仲を破り、同2月一の谷で平家を撃破、明けて1185年2月19日屋島で勝利、この時、兄継信は義経に代わって矢を受け戦死した。

 その後、同2月下旬から3月上旬にかけ、周防国源平合戦にも勝利し、大嶋・楊井周辺で暫く滞在して、軍船・兵の集結を待ち、同月22日に壇ノ浦へ向かい、同24日遂に平家を滅亡させた。

 同年4月、京都に帰った義経及びその郎党が、頼朝の許可なく後白河法皇から官位を得たため、同10月頼朝と義経が対立、鎌倉から送られた刺客を忠信が中心となり撃退した。

 同11月、都落ちする義経に同行し、九州に向うとするも船が難破し、一行は離散。 翌1186年9月、吉野を経て宇治で義経と別れ、京都中御門・東洞院に潜伏するも、粕谷有季に密告され、奮戦の後自刃した。 以上『吾妻鏡』
*武蔵坊弁慶について
  義経と言えば弁慶が通説であるが、出典と成り得る歴史書には、その名が出て来ず、歴史研究家の多くは弁慶の存在を否定している。 
 『吾妻鏡・1185・十一月三日の条、義経都落ち』の所で、「佐藤忠信、伊勢三郎、片岡八郎等の末尾に、弁慶法師」と唯一その名が出て来るが、史家の多くは、『義経伝説』が流行した後に書かれたものであろうとしている。 
 してみれば、弁慶は存在したかも知れないが、『義経伝説』成立の過程で、徐々に大きく膨らんできた物語的空想人物像と思われる。

 一方、当時の楊井氏は旧族で、かなりの勢力を有していた事は前述の如くである。 村上源氏の末裔・水軍であった誓光寺の先祖は、源平合戦の最中、周防国の楊井氏に帰属した。『誓光寺寺伝』  また、『内閣文庫所蔵・周防国古文書』の
「嘉応年中、楊井庄立加、地頭職は楊井太郎之を知行す」の文に依りこれを推測できる。

 前掲の如く、当地多々野(忠信・新生)には、正念寺を中心に半径200m以内に弥生遺跡2か所、多々野古墳1基、鎌倉から室町末期までの五輪塔群約65基、佐藤継信・佐藤忠信・源義経のものとされる供養塔(石祠)3基が混在している。
 

 
これが何を意味しているかと言えば、弥生から古墳、平安(古文書)から鎌倉・室町末期までの遺跡・遺物が、一つの場所にひとつの流れとして切れ目なく存在しており、同じ集団、同じ一族の物である事を窺がわせている。
 また、旧柳井域で、これだけの流れ、及び量の遺跡・遺物の存在は他に類を見ない。

        
        地域の人々により整備された多々野古墳        佐藤兄弟石祠に納められている一石五輪塔


                   
            真下の森の中に在った義経供養塔               地域五か所に点在する五輪塔群
                                                     地中にはまだ多く埋まっていると
                                                 思われる

        

 なおこの地(下図中央印が2っ並んでアザラシの頭のように見える所)は、当時の楊井湾(現中馬皿、下馬皿、北町)及び旧楊井水道(柳井市街地から新庄、田布施、平生まで)及び外海(現柳井湾)の三方が見渡せ、有事の際は直ちに出動できる戦略上の要衝であった。

    

 この図は、ひと昔前の柳井の郷土史家神田継治氏作図の『古代周防島海乃図』の上に、現在その多くは確認できないものの、山口県及び柳井市に残る、柳井・新庄域の弥生・古墳時代の遺跡・古墳を重ね合わせたものである。
 当地は古代から人類が住み着き、細く深く入りこんだ当時の柳井湾(中央、細く入りこんだ二股の所)は天然の良港でもあった。
 源平時には、多くの軍船が長期係留でき、中世には瀬戸内の要港として恵まれた地形でもあった。



 前述、周防国源平合戦後、義経一行が楊井近辺に滞在した時、佐藤忠信と豪族楊井氏の間に血縁が生じたと推測されると記したが、その根拠は楊井氏の家系図から窺がうことが出来る。

楊井氏家系図
楊井新左衛門ー楊井直俊ー楊井定俊ー楊井広俊ー楊井盛俊ー楊井俊衡ー楊井仲衡ー楊井豊衡
                                         (1190頃)            ¦

 -------------------------------------------ー
 ¦
楊井久衡ー楊井秀衡ー楊井忠衡ー楊井忠武(1333)ー楊井太郎正衡---(代々)---楊井郷直(1555)
(左近将監?)                   ¦
                            楊井三郎武衡ー楊井八郎盛衡----(代々)----(閥閲禄の家系図へ)

                                                 『大内家臣団HPkawabemasatake』

 上記楊井氏の家系図は、平安から室町末期まで23代の中、13代までを表したものであるが、12代楊井忠武(1333)から1代約23年として6代逆算すれば、源平合戦直後に行き当たる。
 この6代
楊井俊衡を境に楊井氏の名が、佐藤忠信と同族藤原三代に因んで、衡の字が忠武を挟んで8代続いている。 楊井氏はこれを期に藤原姓を名乗ったと考えられる。

七、佐藤忠信供養塔(石祠)について

 佐藤忠信と楊井氏の関係については上述の如くであるが、今一つ当地には佐藤継信・忠信兄弟及び義経供養塔が存在する。この祠には、佐藤家の家紋「源氏車紋」と源氏の家紋「笹りんどう紋」が施され、地域の人々により供養、伝承されてきた。
 この供養塔が、源平合戦から約400年後に建立されているのは何故?の疑問については、以下の推測が成り立つ。
 平安末期から中世末期まで楊井を創り発展させてきた楊井氏は、1555年大内氏と共に毛利氏に敗れ、楊井を追われる事となった。
 1601年、岩国領となり楊井氏の痕跡が消えていく中、当地に残った楊井氏の縁者・残党が、自らの一族が由緒ある藤原姓で、源氏ゆかりの一族である事を残すため、今まで祀ってきた五輪塔に加え、義経・継信・忠信、義兄弟夫婦の石祠を建立し、一石五輪を納め、身内には明らかで岩国藩には解らぬよう、密かに源氏の家紋「笹竜胆」と佐藤家の家紋「源氏車」を施したものと思われる。

 古くから当地の人々に「ただのぶさん」として供養されてきたが、内実は豪族楊井氏に比重が置かれたものと考えられる。
 なお義経・継信・忠信三者の供養塔が存在するのは何故?の疑問については、忠信の子にとって義経は義理の伯父『奥州デジタル文庫』に当たり、継信は伯父、忠信は当然父に当たる為と考えられる。


       
      義経供養塔に納められている宝篋印塔に、               源氏の家紋「笹竜胆紋」
      密かに刻み込まれている「笹竜胆紋」


       
     佐藤兄弟の供養塔に密かに刻み込まれた                 佐藤家の家紋「源氏車紋」
                  「源氏車紋」


                           
◎忠信供養塔の偽の一面について
 佐藤兄弟石祠の立証は、数百年前の事を考慮すれば、石祠・家紋・家系図で良しと思われる。
 しかしあえて非を称えれば、1に物証、2に典拠、3に論証の中、物証、論証は申し分ないのではと思われるが、典拠については『吾妻鏡』『楊井氏家系図』からの推測の他無く、十分とは言い難い。
 しかし、今認定されている他の歴史・遺構・遺物が、全て典拠を持つかと言えば、恐らく少数と思われる。 その中、忠信石祠の真実性はかなり高いと思われる。

 その上で、是非を論ずれば、柳井の歴史観に想いを致さねばならない。
 1600年代末、大分の「連城寺縁起・民話」を基に小説「烏帽子折」が作られていた中、 これを基に近松門左衛門(1653~1724)が、歌舞伎の台本として「用明天皇職人鑑」を著した。
 これが全国に大流行して「真野長者」「炭焼き長者」「草刈山路」「般若姫伝説」と発展したのであるが、中でも「般若姫伝説」は一層流行して、夫々の地に融合した物語りとして定着し、特に瀬戸内に多く残されたようである。

 この中、「般若姫伝説・柳に井戸」を柳井地名命名の根拠として、戦前まで学校でも教えていた如く、歴史を物語りで語るところが、少し強い?土地柄のようである。

 これ等の事を考え合わせれば、当時、建立百数十年の楊井氏の供養塔を、武田出雲(~1747)他3名共作の人形浄瑠璃「義経千本桜の中、狐忠信」の大流行に乗じて、豪族楊井氏の石祠を「狐ただのぶさん?」とした事も、小なりと雖も考慮せざるを得ない。
 しかし、この時は石祠及び宝篋印塔に刻まれた紋や、藤原姓楊井氏の衡の字の否定に苦慮する事となる。

                            

八、柳井の地名命名について

 柳井の地名命名については、歴史上明らかな所で、平安時代 後白河法皇の勅願寺、蓮華王院三十三間堂の荘園、楊井庄となった。その後約380余年を経た1555年毛利領となり、1601年江戸初期岩国領となった。 次いで1652年、字も楊井から柳井と改められ、地名も柳井組となった。 その後柳井村、柳井町を経て平郡、阿月、伊保庄、伊陸、日積、大畠と合併して、現在の柳井市となっている。

 広く歴史研究家・郷土史家の地名命名の説を挙げれば、以下の5説に大別される。 その中、当地歴史研究家に於いては2、3、4、の説が挙げられている。

1、「三十三間堂の荘園楊井庄」となり、之を以って楊井(柳井)の地名の始めとする。

2、「般若姫伝説・柳と井戸」により、柳井の地名が出来た。

3、「当地に楊枝(柳)が多く在った」ので柳井となった。

4、「楊は枝が上を向くので、岩国領主に配慮して、枝が下を向く柳の字に変えた」

5、「古代からの一族、楊井氏」によって楊井となり、後に柳井の字に変えられた。

1、三十三間堂の説

 楊井庄の領主となった蓮華王院は、平安末期後白河法皇が、自らの頭痛治癒の為、生薬である楊枝(楊)の木を以って本堂を建立せしめたものである。
 この三十三間堂の楊枝を以って、立庄時の当地が楊井庄と名付けられ、地名も楊井となったとする説である。
 
(当時の楊井氏が名義上楊井庄として寄贈したものであれば、楊井の地名はそれ以前から有ったと思われる)

2、般若姫伝説の柳と井戸の説
 物語を長く語り継ぐ等、夢と心の文化を大切にする柳井としては、観光をも含め 価値ある説である。 一方、物語や前述「中世大内時代」という固定観念に執すること無く、真実の歴史を探究することも、永い将来柳井の益と考える。

 前述したごとく 般若姫伝説の起源は、近松門左衛門が大分の『連城寺縁起』の民話『真名野長者物語』(後に般若姫を含む)と 義経元服を描いた幸若舞の詞章『烏帽子折』を基に『用明天皇職人鑑』という歌舞伎の台本を著し、大流行させた。 その後全国に広まり、各地の物語として名も筋も変えつつ 、定着した中の一つである。

 この中、立命館アジア太平洋大学 金賛會教授の研究に依れば、「『連城寺縁起』は、546年韓国の僧 蓮城がこの地に寺院を建立した。 その後『真野名長者』の民話が生まれたが、その源は僧 蓮城の出身地 韓国全羅北道 益山市 石旺洞、百済国二十四代蓮城王(479~501)=武王の『武王物語』が基となっている」(要約) 
 
 
その中、「1、炭焼き誕生 2、神のお告げ 3、姫君下向 4、結婚・黄金発見 5、黄金送り 6、亀・弥勒の出現 7、長者 8、寺院建立等、『真名野長者物語』と『武王物語』を対比させ、その共通点を明らかにしている。 その他、麻那=真名の共通点(真名長者は韓国の麻那国の事)、その名前からして王族で製鉄集団であろうこと等」細やかに検証している。(要約)

 
続いて、「『連城寺縁起』を含む後の『真野長者物語』は、百済僧蓮城が蓮城寺開山時、郷里の王族の『武王物語』を持ち込み、其れが日本の朝廷と結びつけた『真野長者物語』へと発展したものである。 なお今日の『真名野長者物語』は、1700年代前半、蓮城寺僧祐旻(ゆうびん)が創作したものであると。(要約) 『真名野長者物語と韓国の炭焼き行者』 HP

 『真名野長者伝説』の研究は、少数の大学および地方行政歴史部門でもされているが、上記 金賛會教授の説は、時代背景や歴史的検証もされており、最も有力な説と思われる。

 かくの如く 、これ等の伝説は年代、題名、あらすじ等数多く存在するが、総じて1700年代前半、近松門左衛門が『用明天皇職人鏡』を著した後に、多くが創作されたと見るのが、妥当な見方と思われる。

 本題「般若姫伝説・柳と井戸」を要約すれば、大分の般若姫の所に、後の用明天皇が下向し姫と夫婦になった。 この橘豊日皇子は、皇位継承の為 先に京都に呼び戻され、後に般若姫が京都に向う中、国崎半島のすぐ前の姫島近くで遭難し、同島で静養した。
 この時、楊枝を逆さに挿したら大木になったという、「逆さ柳」の伝説を残し、その後祝島、上関を経て柳井に立ち寄り、井戸の側に楊枝を挿したら、また大木に成ったという「柳と井戸伝説」(楊と柳は別物)を残した。

 
その後、大畠の瀬戸で再び遭難し、乗組員に多数の犠牲者が出た為これを悲観し、私の亡き後は向かいの山(現平生の般若寺の地)に葬ってほしいと言い残し、自ら入水して命を絶ったというものである。

 他方 『蓮城寺縁起』では、姫は豊後水道で遭難 帰らぬ人となっており、 その他 近松門左衛門の物語、大畠の瀬戸(鳴門の瀬戸)伝説、何れにも柳井の事は出て来ない。 

 また、「柳と井戸伝説」のある湘江庵の正式開山は、開基 長弁が亡くなった1666年としている。 
 以上の事 及び近松門左衛門の年齢等も加味して推測すれば、姫島の「逆さ柳の伝説」を参考に出来上がったと考えられる「柳と井戸伝説」は、1700年代前半以降の事と思われる。

 次いで楊井から柳井に字が変わったのは、1643年の岩国領検地『享保増村記』の中、楊井庄から柳井組に変わっており、その後之を修正した『旧藩時玖珂町村制度概略』(1552)に
「本村は岩国領にして、柳井組に属し・・・」から柳井の字に統一された。『柳井市史、別項』

 以上の如く見ていくと、伝説が出来る前に楊井から柳井に字が変わった事が見て取れるが、
楊井の本家本元である楊井氏の名が、以後見事に消え去った事、必然であったにせよ、この伝説と何らかの関連を窺がわせるものである。

 また、他に多く在る楊井氏の記述が、柳井では『誓光寺寺伝』を除いて一切存在せず、余りにも不自然で、岩国領主の統治上の都合が働いたのでは?と思わざるを得ない。

*般若寺の創建について
 般若寺は、般若姫伝説の如く 用明天皇時に創建された。(同寺HP)  しかし、伝説の成立が江戸時代(1700年代)とすれば、同寺の創建年代を否定する事となり、今これを意図するものではない。

 般若とは仏教で智慧を意味し、伝説の有無にかかわらず、般若寺は仏教に叶った寺号である。 また同寺の石鳥居等に刻まれた建立年号は、1700~1800年代が多いいようである。 しかし、釣鐘は鎌倉から室町の作との書を読んだことがある。 して見れば、この時代に創建されたと推測するのも一つの見方かと思われる。

 

3、柳が当地に多く在ったので柳井となったの説
 自然の柳は??「柳と井戸伝説」が出来た以後増やしたと思われるが、川筋、公園もそれなりで、その他にも多く在るとは思われない。


4、楊の枝は上向きの為、岩国領主に配慮して、枝が下向きの柳の字に変えたの説
 神田継治氏が、二、三、の説と共に選び取られた説で、柳井の人々が自ら変えたという説であるが、岩国領主のお膝元岩国ならいざ知らず、遠く離れた楊井の地で、そこまでへりくだる必要があったか?いささか疑問である。

 当地は既に楊井氏によって海外貿易港として開かれ、商都の態も成していた。 また当時の岩国領主吉川氏が、柳井商人を岩国に連れ帰り、柳井町と名付けて住まわせている記録や、楊井氏の居宅の門を、岩国のお寺に移設した説も残っている。

          

             岩国の歴史町名を表した柳井町の標識とその建物。建物は古くはあるが、
             かなり後の物と思われる。  
                                        
       
   
          岩国の古地図、左上の橋が錦帯橋。                     現在は岩国1丁目
          地図にはないがその先が岩国城。                       中心部である。
          赤(寺院)を含む6軒の区画が柳井町。            
       

柳井商人の貿易を含む先進的ノウハウや実力を、岩国に根付かせようとの意図があったと考えられる。
 裏を返せば、当時の楊井は重要視されており、楊井商人や民の力量は高く評価されていた事となる。

 その状況下で、楊井の民が上を向く楊の字をわざわざ下を向く柳の字に変えなければ成らない程、消極的精神状態に落いったり迫られたとは推測しがたい。
 やはり、他にそれ相当の理由があったと考えるべきで、ここでも楊井氏が残した影響力を無視する事は出来ない。


5、楊井氏が、古代から当地を治めて居たので楊井となり、後に柳井の字となった。
 我が国では、多くの場合豪族の姓が地名となるか、或いは豪族が地名を姓としている。
 楊井の地名に就いては、三十三間堂の説も有力と思われるが、当地を三十三間堂に寄進した楊井氏の方が歴史は古い。
 して見れば、楊井氏が当地を三十三間堂に寄進する事により楊井庄となり、後に岩国領となって、字も改め名を柳井組とし、柳井町、合併を経て、現在の柳井市に至ると見るのが、歴史にかなう無理の無い見方であろうと思われる。


九、平生の上七遠隆を柳井に持って来た事について
 当地一部郷土史家により、楊井に豪族が不在の為、平生の上七遠隆を楊井に迎え、柳井の歴史が語られていた。
 その根拠とする処は、『玖珂郡志』の中、新庄の説明をする文に依る。

 「一、城山。林ト云所ニ之有。イカナル故名付ケン、知レル人ナシ。山伏墓一本アリ、シャクシャウ杯之有。」

 「一、「東鑑」
(吾妻鏡)元暦二年(1185)正月二十六日、周防国住人上七遠影(隆)兵糧米献。此城主カ」

 即ち、「林という所に、城山という地名があるが、どんな理由で付けられたのか誰も知らない。 新庄近江守に聞くと、山伏の墓が1基あり、錫杖杯も在るとの事。 『吾妻鏡』の元暦二年正月二十六日の記録に、周防国住人上七遠隆が、兵粮米を献上したとあるから、若しかしたらこの人が、城山の城主かも知れない」と、『玖珂郡志』の著者・広瀬喜運が想像している。

 之を以って、新庄字・佐保を宇佐保と読み、また城山を宇佐木城と解釈して、楊井は平生の上七遠隆が支配していたとしている。

 然し、新庄・字・佐保(しんじょうあざさを)は、元
「字・佐尾」『郡志』の字であって保(ほ)ではない。 即ち字は地名の小字を表し、宇佐木保(うさなぎほ)の保は国衙領を表したものである。 また、字(あざ)を宇(う)と読んだことは、単なる勘違いと思われるが、承知の上であれば、如何にも乱暴である。
 
 また、城山の地名は何処にでもあり、必ずしも城が築かれていたとは限らない。 子供の遊び場として付けられたのもあれば、その他の理由で付けられたものもある。

 次に、緩やかな丘陵地の中途にある城山の地に、仮に築城しても、戦略的に殆ど意味を成さず、実の所は修験道者の住居跡と理解した方が、正しいように思われる。

 何れにしても、『内閣文庫所蔵・周防国古文書・僧源尊重申文案』の
「嘉応年中、楊井庄地頭楊井太郎之知行」の文、及び『誓光寺・寺伝・由来記』の「誓光寺の先祖、源平争乱時楊井氏に帰属する」の文等で明らかな如く、本来論を待たない性質のものである。

 然るにこのような主張が出て来る所以は、柳井に誓光寺以外、楊井氏の記述が存在しない事、及び当地の歴史研究家諸氏が、『市史』の記述に沿って楊井氏の存在を否定して来た事、若しくは知らなかった事に依るものと思われる。

◎旧柳井域に於ける、その他の石祠・五輪塔群


      
                            楊井氏、岩政氏主従の五輪塔
   岩政次郎右衛門の顕彰碑が在る新庄佐保に、1600年代黒杭から忠信、新生を通って新庄に至る
   長溝工事の際、次郎右衛門が先祖の主家である楊井氏の五輪塔を持ち帰って安置したものが残っ
   ている。今では忘れ去られ、無常を漂わせている。


      
     新庄大祖積蔵寺の門前にある石祠。中は無い         積蔵寺墓地にある五輪塔群、後に一般に
     ものの昔は旧参道に計3基存在したとの事で        流行した小五輪及び本来の積蔵寺の物を、
     ある。何れも忠信石祠と同じく旧楊井水道を見       除いてその他は、楊井一族ゆかりの物と
     下し、水軍楊井一族の思いが窺がわれる。         思われる。
            

                        

十、古墳・楊井氏五輪塔・義経・佐藤兄弟石祠案内図

   

                    
   

        

   出典

      『柳井新庄地区史』                     『柳井市史』

      『鎌倉遺文』 「内閣文庫周防国古文書631」      『萩藩閥閲録・譜録』(市史・中世)

      『吾妻鏡』HP                         『戊子入明記』(市史・中世)

      『玖珂郡志』                          『風土注進案』(市史・周東歴史物語)

      『大内家臣団』HP                      「代田八幡宮石鳥居」(市史・信仰生活)

      『閑院殿造営雑掌目録』(吾妻鏡)             『三浦家文書』(市史・中世)

      『周東歴史物語』                        『陶弘護肖像讃』(市史・中世)

      『大明譜』(周東歴史物語)                  『熊野検地・坪付帳』(市史・近世)

      『誓光寺寺伝・由来記』HP                  『防長将星録』HP

      「山陽小野田市」HP                     「奥州デジタル文庫」HP

      『平生町史』                          「般若姫伝説」(市史・伝説)

      『真名野長者物語』と『韓国の炭焼き長者』HP     「旧大畠町HP」


      資料提供    伊藤幸司 (山口県立大学国際文化学部日本史研究室准教授)

                     
        
著者  山口県柳井市 柳井 4872-2(忠信) 浄土真宗 正念寺

             
 
◎著者メールアドレス seisin@snow.plala.or.jp

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    柳井市柳井4872-2       
正念寺情報    (0820-23-5244)


               
 
       正念寺から150m、標高10メートル、海が見え柳井市街地が一望できる。
      東向き日当たり良好な素晴らしい墓地です。

              
          エホバの証人会館下にある、正念寺墓地            永代供養、共同供養塔

         
         正面奥は工事中、随時完成予定            墓地から一望できる柳井市街地


 楊井氏の五輪塔の一部が存在する正念寺墓地に、念願の永代供養塔、共同供養塔が完成いたしました。
これからお墓を建てられない方々、将来家名が絶えると思われる方々の永代供養墓として、また忠信の阿弥陀様として、人々に愛されることを願っています。