柳 井 の 基 礎 を 築 い た 一 族

楊井氏が先祖供養のため建立した、佐藤継信・忠信兄弟供養塔
去る平成17年、義経の郎党で義兄弟でもある佐藤継信・忠信兄弟のものと言われる石祠の擁壁が崩壊した。
修復の間、その真偽を探求する中、この地には半径300メートル以内に、弥生遺跡、古墳、五輪塔、石祠など多数存在することを知り、ついに豪族楊井氏(やないし)に辿り着いた。
調べていく中、古代から中世まで、長期にわたり柳井を治め、柳井の基礎を築いた一族であったことを知り、その顕彰の為現在知り得る所を記すものである。
平成18年 10月
平成20年 10月 更新
平成23年 7月 更新
平成24年 5月 更新
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目 次
一、楊井本庄、楊井新庄に関わった主な豪族、武士年表
二、多々野(忠信・新生)に在る、古墳・五輪塔・石祠の主について
(イ)楊井氏の家系図「大内家臣団」kawabemasatakeHP
(ロ)楊井氏と奥州藤原・佐藤忠信
◎佐藤忠信石祠の偽の一面について
三、楊井庄に関わったとされる、宇佐那木上七遠隆の真偽について
(イ)平生の上七遠隆を楊井庄に持ってくる根拠
1、『吾妻鏡』
2、『玖珂郡志』
3、『風土誌』
(ロ)平生の上七遠隆を柳井に持ってくる問題点
1、『吾妻鏡』の意味するところ
2、『玖珂郡志』の意味するところ
3、『風土誌』の欽慶寺旧在所、宇佐保の意味するもの
(ハ)上七遠隆と楊井氏の力関係
1、古墳の所在で予想される古代の勢力図
2、姓で推測される豪族の大きさ
四、楊井氏の軌跡
(イ)『柳井市新庄地区史・柳井本庄と新庄』谷林博著
(ロ)古代よりの一族、楊井氏
◎『柳井市史』に於ける、楊井氏の記述について
◎柳井に於いて楊井氏が肯定されなかった一理由
五、柳井の地名命名について
六、忠信・新生地区、楊井氏・義経・佐藤兄弟の古墳・五輪塔・石祠案内図
巻末 著者 メールアドレス
◎柳井市忠信正念寺情報
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| 西暦 | 時代 | 武士名 出来事 |
| 500〜600 | 古墳 | 多々野古墳が築かれる(楊井氏か) |
| 1169 | 平安 | この頃、柳井は楊井氏により三十三間堂に寄進され、蓮華王院領楊井庄となる。 『平生町史、柳井市新庄地区史』 「嘉応年中〜蓮華王院御領楊井庄、地頭職者楊井太郎之を知行」 内閣文庫所蔵『周防国古文書・僧源尊重申文案』 |
| 1185 | 平安 | 村上源氏の末裔 白潟山誓光寺の先祖、楊井氏に帰属する。 『誓光寺、寺社記・由来記』 |
| 1244 | 鎌倉 | この頃楊井氏全盛 『周東歴史物語』楊井太郎、楊井庄地頭の文(1169楊井広俊?盛俊?) 『東大寺文書、柳井市史』 |
| 1332 | 鎌倉 | 島津貞久、楊井庄地頭に補任される。(柳井市史は懐疑的) 『島津家譜』 |
| 1332 | 鎌倉 | 楊井父子、北条時直に従い 伊予にて南朝方土井道増・得能道綱と戦い戦死する。 『周東歴史物語』 |
| 1358 | 室町 | 楊井武衡、大内弘世の傘下に入る。 「大内家臣団」 |
| 1360 | 室町 | 大禄の士、楊井右京、代田八幡宮御神幸 神輿の御供勤め被る。『玖珂郡志』(1350頃、楊井右京允但馬守武盛か?) |
| 1414 | 室町 | 杉民部丞重茂、跡地をその子 杉熊王丸頼明に相続させる。 『永田秘録杉家証文』 |
| 1467 | 室町 | 大内重臣 仁保弘有、妙法院庁より楊井庄代官に補任される。 『三浦家文書』 |
| 1470 | 室町 | 仁保弘有、適子護郷に家督を譲る。 『三浦家文書』 |
| 1483 | 室町 | 杉彦八郎重祐、楊井新庄代官職に補任される。『萩藩閥閲録』 |
| 1492 | 室町 | 楊井助次郎盛友、大内政弘より 家臣として縫殿允の官命を賜る。 『萩藩閥閲録』 |
| 1511 | 室町 | 楊井弥七国盛、大内義興から修理進に推挙される。 『萩藩閥閲録』 |
| 1513 | 室町 | 楊井修理進長盛、大内義隆から美和庄内10石、粕谷郡内5石、宇佐郡内の一部を宛がわれる。 『萩藩閥閲録』 別家 藤原姓 楊井氏家系図 楊井豊前守某ーー楊井修理進長盛ーー楊井助十郎備中守但馬守 『萩藩譜禄』 |
| 1538 | 室町 | 楊井但馬守春盛、弟 楊井飛騨守国久の子、楊井万寿武盛を養子として所帯を譲る。 『萩藩譜録』 藤原姓 楊井氏 家系図 楊井三郎武衡ーー楊井八郎盛衡ーー楊井藤五郎備前守教氏ー 楊井弥七縫殿允盛時ーーー楊井助次郎縫殿允盛友ーーー 楊井助次郎修理進弥七国盛 | | 楊井飛騨守国久 | | ー----------------- | 楊井弥七修理進但馬守春盛ーーー楊井万寿弥七右京允但馬守武盛 『萩藩譜録』 |
| 1545 | 室町 | 山本禅正忠房勝、大内義隆より楊井庄64石7斗の給地を賜る。 『萩藩閥閲録』 |
| 1547 | 室町 | 楊井郷直、大内義隆の遣明船に警護役として同行する。 『大明譜』 |
| 1555 | 室町 | 楊井氏、厳島合戦で陶晴隆に従い 毛利に敗れる。 『周東歴史物語』 |
| 1556 | 室町 | 楊井郷直、大内氏と運命を共にして滅亡。 『柳井市新庄地区史』 |
| 1557 | 室町 | 新庄の岩政元晴、楊井氏に従事して周東鞍掛山で戦死する。 『岩政家文書』 |
| 1557 | 室町 | 楊井隠岐守某、毛利から玖珂郡山代南桑に、8貫の給地を貰い居住したという。 『萩藩閥閲録』 多々良 姓楊井氏 家系図 矢野勘解由左衛門ーー矢野弓助、 楊井隠岐守某ーー楊井市助隠岐守某ーー楊井七郎某 *矢野弓助は毛利家臣であり、「やない」と「やの」をどこかで混同して閥閲録に記録したものと思われる。 |
| 1557 | 室町 | 楊井弥七武盛、毛利に降り、養父春盛の遺跡地、美祢郡秋吉別府の内、30石を毛利隆元から安堵される。 『萩藩閥閲録』 |
| 1600 | 江戸 | 楊井津、岩国藩の直轄地となり、以後当地に豪族、武士、歴史に現れず。その後、字も楊井から柳井へと変えられる。 |
| 1668 1720 |
江戸 | 楊井三之允春勝、小野田舟木代官として、高泊開作を主管し完成させる。「山陽小野田市HP」 先祖代々楊井に居住した。 『萩藩閥閲録 106楊井神平』 |
*『萩藩閥閲録・譜録』は、楊井氏が大内傘下に入った1358年以降の記録のみで終わっている。
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二、多々野(忠信・新生)に在る、古墳・五輪塔・石祠の主について
(イ)楊井氏家系図「大内家臣団」kawabemasatakeHP
| 姓 氏名 |
| 藤原姓楊井氏 |
| 楊井新左衛門ーー楊井直俊ーー楊井定俊ーー楊井広俊ーー (太郎?『東大寺文書』) 楊井盛俊ーー楊井俊衡(1185頃)−−楊井仲衡ーー楊井豊衡 ーー楊井久衡(楊井左近將監、久衡?秀衡?『吾妻鏡』) ーー楊井秀衡ーー楊井忠衡ーー楊井忠武(1333)ーーー 楊井太郎正衡(1350年代)−-−本家・楊井郷直(1550年代) | (3男は分家して大内傘下へ) 楊井三郎武衡(1350年代)−−楊井盛衡ーー楊井教氏ーー 楊井盛時ーー楊井盛友ーー楊井行盛ーー楊井盛行ーー 楊井盛則ーー楊井長盛ーー楊井祐盛ーー楊井元祐 (時代が下り、閥閲録の記録では本家となっている) ◎楊井若狭、楊井弥二郎、(1576年 周東・鞍掛山で戦死) (郷直系列の本家か) |
| 別家藤原姓楊井氏 楊井盛友の子、楊井国盛ーー楊井春盛ーー楊井国久ーー 楊井武盛(1557 毛利家臣へ)−−楊井春俊 |
| 楊井三之允春勝 |
| 楊井神平、楊井七兵衛(萩藩にて) |
| 多々良姓楊井氏 楊井盛時の子、楊井盛綱勘解由左衛門ーー楊井盛康ーー 楊井正盛ーー楊井正康ーー楊井正長ーー楊井正親ーー 楊井仁右衛門 |
| 楊井正盛の子、楊井正実ーー楊井正貞ーー楊井正忠ーー楊井正勝 |
注 上記年表、家系図は、現在調べ得たもの 及び提供を受けたものを、重ね合わせて記したものであり、未だ完璧とは言えないまでも、楊井氏の存在、器量を知る上では十分な資料と言える。
*最初に出て来る楊井新左衛門より数えて12代目の楊井忠武(1333)、この忠武から6代遡れば、1185源平合戦の時代に行き当たる。
その時を境に、以後約250年間、忠武を挟んで9代にわたり「衡」の字が続いている。 これは、奥州藤原氏同族 佐藤忠信の血縁を受けた楊井氏が、藤原3代を意図して名付けたと推定される。
*楊井氏が大内傘下に入る時、適子を避けて第3子武衡を入れている事は注目すべきである。
また「大内家臣団」の中、侍大将及び先手組に名を連ねているのは、別家藤原姓楊井氏の楊井国久、武盛親子である。
これが何を意味するかと言えば、楊井氏が大内傘下に入る時、全面的に支配される事を避け、一定の距離を保っていた事が窺がわれる。
また、後述の楊井郷直は、『萩藩譜録』にも『大内家臣団・楊井氏家系図』にも出て来ない。
郷直は『大明譜』で実在が確認されており、今後の研究課題である。
その他 現岩国市周東町、岩国市錦川上流にも楊井氏の末裔が存在し、『萩藩閥閲録・譜録』より古い年代の家系図も存在する事から、未だ詳細な解明には至っていないが、おそらく鎌倉時代あたりから、楊井のみならずその周辺地域にも勢力を伸ばしていたものと思われる。
(ロ)楊井氏と奥州藤原・佐藤忠信
今から820数年前、源氏と平家の戦いがあった。 その中、瀬戸内海に於ける合戦は以下の如くである。
1184年2月 7日 一の谷の合戦
1185年2月19日 屋島の合戦
1185年3月 中旬 周防の国合戦
1185年3月22日 義経大島津を出発
*当時は、現在の大島郡、室津半島、柳井市沿岸を含めて大嶋の国と言ったという説がある。 この説に依れば柳井(中馬皿・下馬皿)が大嶋津ともなるが、現大島ゆかりの人々は納得しない。
しかし、私見を以てすれば、大島であれ柳井であれ大差はないように思える。 大嶋出発から壇ノ浦の決着までの所要日数にも問題があり、『吾妻鏡』そのものにも問題があるように思われる。
八百数十年前の記述の詳細は、不備があって当然であり、又今日細部の検証も不可能であれば、今は大所より論じて、「義経3月中旬過ぎ楊井、大嶋沖出発」とでも言うべきか。
この中、周防の国合戦は正史には出て来ない。 しかし鎌倉の歴史書『吾妻鏡』には、周防の国源平合戦が記されており、源義経、源範頼、三浦義澄、上七遠隆等の名も出て来る。
また、当時は島であった室津半島には、平家神社、平家坂、平家塚、皇座山等平家ゆかりのものや地名が多く残っている。
しかして『新平家物語』を著した吉川英治は、当地を取材して次のように記している。
「源氏は楊井津に入った。今日源氏の水師は、以前平氏がいたという島末から、楊井津の裏へかけて、万波とも見える白旗をなびかせ、まもなく、軍勢の一部は、続々と上陸しだしていた。梶原の隊は楊井津の寺や民家へ、義経は一里ほど南の平生へ宿営した。」と
同書は単なる歴史小説である。しかし、周防の国源平合戦に就いて、整合性を以って論じられた物は無く、又、之といった歴史学者も見当たらない中、綿密な取材と熟慮の末書かれた同署は、完璧とは言えないまでも歴史書に値する書と思われる。
今から三十数年前、私が縁あって柳井市忠信 正念寺に逗留していた時、寺院に隣接する祠の調査といって二人の方が見えられた。
当時何も知らない私は、ただ案内しただけであったが、今思うとそのお二人が吉川英治氏と谷林博師であった。
現在、私がその祠の主解明に奔走しており、奇遇といえば奇遇である。その後、祠、五輪塔の主の解明には至ったが、お二人とのご縁を思い、より一層の顕彰を誓うものである。
この1185年2月下旬から3月上旬の間に、義経一行は楊井津(当時の楊井津は、現中馬皿・下馬皿「柳井市史・地名」)周辺に上陸した。
この間、当地の豪族楊井氏と義経の義兄弟 佐藤忠信の間に、血縁が生じ子孫が残ったと推測される。
その理由として
一、
当地には、多々野、新生の弥生遺跡2か所、古墳後期の多々野古墳1基、鎌倉時代以降からの五輪塔約60基、室町後期から江戸初期と思われる石祠(一石五輪塔・宝篋印塔入り覆家)3基が在る。
この中、石祠1基が佐藤忠信の物である事が伝承され、当地の地名も忠信(ちゅうしん)となっている。

道路面に保存されていた多々野古墳 多々野古墳の副葬品須恵器の壺と鉄鏃
等現在、正念寺本堂に保管されている

22年、地域の人々により整備された多々野古墳 古墳横に建てられた説明版
現柳井域で、原型が確認できる古墳は、柳井市向山の古墳前期・茶臼山古墳(現存)、伊保庄大段の古墳中期・大段古墳(移設復元)、伊保庄上八の古墳後期・上八古墳(移設復元)、新庄新生の古墳後期・多々野古墳の4基である。
この内、現光市小周防を本拠とした周防国造の物とされる茶臼山古墳は別格として、楊井庄・楊井新庄、即ち合併前の純柳井域で、原型が確認出来るのは多々野古墳ただ1基である。
純柳井の豪族として、また先祖として 柳井市民には貴重な存在と言える。
二、
当地には、古代より楊井氏という豪族が存在し、この豪族は藤原姓と多々良姓を名乗っている。『萩藩閥閲録』『柳井市史』
先ず藤原姓に就いて、前述の反復となるが、藤原姓楊井氏家系図の中、最初に見える新左衛門より、数えて12代目 楊井忠武(1333)から、1代約24〜5年として6代逆算すれば、1185年源平合戦の最中、義経一行が楊井に上陸した頃に行き当たる。
この6台目楊井俊衡を境に、楊井氏の下の名が 忠武を挟んで9代にわたり、約250年間「衡」の字が続いている。 之は、義経の義兄弟 佐藤忠信と血縁を結んだ楊井氏の子、即ち忠信の子が、父と同族である奥州藤原三代にあやかって名付けたものと推測され、これを期に楊井氏が藤原姓を名乗ったものと思われる。
又、多々良姓楊井氏に就いては、二つの事が推測される。 一つには精錬関係で多々良姓を名乗ったのではないか?
二つには、中世の山口県下で絶大な勢力を誇っていた大内氏は、朝鮮王朝の末裔と称して、初めの頃は多々良大内氏を名乗っていた。
後に楊井氏は大内氏の傘下に入っているので、この事に依る何らかの理由で、多々良姓楊井氏を名乗ったのではなかろうか?
1、精錬関係の場合
当地で精錬等が行われた痕跡は今の処発見されていない。推測するに、奥州藤原氏は鉄により栄えた一族である。してみれば、佐藤忠信との繋がりで奥州鉄との関連が考えられ、当地で鉄関係の仕事をしていた事も考えられる。
また、別家藤原姓 楊井春盛の知行地 美祢郡秋吉別府からは、昔の精錬跡が発見されており、この地に於ける鉄との関連は深く、当地で鉄を扱っていた事も考えられる。
2、多々良大内氏との関係の場合
当時の多々良大内氏は大豪族であり、この一族と楊井氏が何らかの血縁に在ったことも考えられる。
多々良大内氏も楊井氏も、共に海外貿易を営んでいた事等考えれば、共通する所は多かったように思える。
他方、太古から近世まで、名のある武将の大半は 源氏、平氏、藤原氏姓を名乗り、血統が大きくその勢力の後ろ盾となっていた。
このため佐藤忠信の血縁を受けた楊井氏は藤原姓を名乗り、その上、大内氏とも何らかの関係を結び、多々良姓をも名乗ったと推測される。
ちなみに当地(忠信・新生)の小名は、「タダノ」であり「タタラ」と同義語である。してみれば、この説が正しいのではあるまいか。
何れにしても、以上二つの事により、楊井氏が唯単に楊井庄の土豪ならず、かなりの英知と力量を有した豪族で在った事が窺がわれる。
なお重複するが、多々野は多々良の宿語(柳井市史・地名)であり、小名 多々野、即ち現在の忠信・新生地区に多く在る五輪塔の主は、地域名に於いて多々良姓楊井氏であり、佐藤忠信の関係に於いて藤原姓楊井氏である。
前述3基の石祠(覆い家、下に写真掲載)は、佐藤忠信の子供にとり、叔母・義経夫婦(義経の奥州に於ける妻は 忠信の女姉妹「奥州デジタル文庫」)と伯父の継信夫婦、そして父母である忠信夫婦の夫婦墓となっている。
この様な事をするのは、時代的背景 即ち柳井に楊井氏を除いて他に武士豪族が見当たらないこと等考慮すれば、忠信の血を引く 楊井氏の末裔以外は考えられないとの結論に至る。
なお、この供養塔の主が、義経、継信、忠信の夫婦墓である事は、前書「通称ただのぶさん」で詳細した如く、法篋印塔および石祠に刻まれている、源氏の家紋「笹竜胆」と佐藤家の家紋「源氏車」で明らかと言える。

すぐ下の森に在った義経供養塔 17年地域の人々により移設修復された

石祠に納められている一石五輪塔 佐藤継信、忠信兄弟供養塔
この3基の供養塔は、義経・継信・忠信3者の夫婦墓として、忠信の血を引く楊井氏の末裔が建立した物であるが、主体は、やはり楊井氏にあったと思われ、楊井氏が先祖供養のため建立したと理解する方が自然である。

源氏の家紋「笹竜胆」 佐藤家の家紋「源氏車」

義経供養塔に納められている宝篋印塔 佐藤兄弟供養塔に、刻み込まれた
その側面に密かに刻み込まれている 「源氏車紋」
「笹竜胆紋」
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◎佐藤忠信石祠の偽の一面について
大よそ歴史を明かす時、一に物証、二に典拠、三に論証の三点が揃わなければその真実性が高いとは言えない。 そこで忠信石祠の検証をすれば、
1、物証
佐藤継信・忠信の物とされる二つの石祠、その祠に刻まれている佐藤家の家紋「源氏車」、之と関連した、源義経の物とされる祠の存在。その祠に納められている宝篋印塔に刻まれた源氏の家紋「笹竜胆」
2、典拠
『吾妻鏡』
周防国源平合戦の記述があり、大嶋(当時に於いては、現大島、柳井沿岸部、室津半島を含む)付近に義経一行が滞在した事。
3、論証
同石祠は、佐藤忠信と言う昔からの伝承があり、当地の地名も忠信(ただのぶ)から忠信(ちゅうしん)となっている。
古老の話に依れば、自分が子供の頃は此処は「ただのぶ」と言っていたとの事である。
また、当地の豪族楊井氏が、源平合戦以後 藤原姓楊井氏を名乗り、同時に同氏の下の名も、忠信と同族である奥州藤原三代に因んで「衡」の字を使い、以後忠武(1333)を挟んで九代、約250年間この名が使われている事。
これに依り忠信の血縁を受けた楊井氏の子孫が、代々五輪塔を祀った。その後1600年代 楊井庄が岩国藩領となり、豪族としての地位と楊井氏色を抹消される中、先祖供養のため五輪塔から一石五輪塔に作り替え、自らの先祖が由緒ある源氏のゆかりと藤原一族である事を残す為、笹竜胆紋と源氏車紋を刻んだ石祠を施したとするものである。
大昔の事は以上3点で十分と考えられるが、しかし、物証を除いて典拠・論証は状況証拠でしかないと言われれば、強く反論出来ない一面を残す。
まして五輪塔から石祠に作り替えられた年代が、今から400年前とすれば、その後、武田出雲が作った人形浄瑠璃『義経千本桜中、狐忠信』(1747初演)が大流行した年は、約150年後となる。
また、当地柳井に於いては、1600年後半、歌舞伎の台本として作られた、近松門左衛門(1653〜1724)作『用明天皇職人鑑』を基に発展した「般若姫伝説」が大流行した。
この伝説の中「柳と井戸伝説」を柳井地名命名の根拠としているが如く、歴史を語る時多くを物語で語る土地柄である。
以上の事を考え合わせれば、建立百数十年に満たない楊井氏の石祠を、狐忠信の大流行に便乗して、佐藤忠信の祠と名付けたことも、小なりと雖も排除できない。
三、楊井庄に関わったとされる、宇佐那木上七遠隆の真偽について
(イ)平生の上七遠隆を楊井庄に持ってくる根
柳井の歴史を見聞する時、中世以降に就いては詳細とも思えるが、それ以前に就いては霧中の感がする。
特に中世の楊井(柳井)をリードし、柳井発展の基礎を築いた楊井氏に就いては、その感を一層深くする。
現在、歴史を語れる一部郷土史家に依れば、柳井(忠信、新生)及び新庄(大祖・佐保)に在る五輪塔・宝篋印塔・石祠は、平生の上七遠隆及びその息の掛かった者、或いは佐藤忠信関係で、奥州武士の物との事である。
しかし、他所から豪族武士を迎えていたのでは、中世柳井の歴史は永久に闇である。 依ってここでは、平生でも殆ど知られていない、宇佐那木の上七遠隆(こうひちとうたか)に就いて多くを割く事とする。 しかして、遠隆を柳井に迎える根拠は以下の如くである。
1、『吾妻鏡』
同書に、源氏に依る平家追討の折、豊後に渡る途中の源範頼に、上七遠隆が兵糧米を献上した事が記されている。
この一行が唯一最大の根拠として、当時の楊井庄の歴史が語られている。
2、『玖珂郡志』
上記一、を補佐する第二の根拠として、同書新庄邑編に
「一、城山。林ト云所ニ之有。イカナル故名付ケン、知レル人ナシ。「山伏墓一本アリ、しゃくしゃう杯之有」
「一、「東鑑」(吾妻鏡)「元暦二年(1185)正月廿六日、周防住人上七遠景(隆)兵糧米献。此城主カ」
城山という名が、林という所に在るが、どんな理由で付けられたか誰も知らない。新庄近江守に聞くと「山伏の墓が1基あり、しゃくじょう杯も在る」と。
『吾妻鏡』に、1185年1月26日に周防の住人 宇佐木の上七遠景が兵糧米を献じたとあるから、若しかしたらこの人が城主ではないか?と 玖珂郡志の著者
広瀬喜運が想像している。
3、『風土誌』
更に、上記一、二、を補助するものとして
同誌に新庄富尾の欣慶寺が創設された時、堂宇は宇佐保に在ったが度々の火災のため、第三世慶珍の代、宝永2年(1705)に 現在の寺地に移転したと在る。
以上3点を主な根拠として、当地楊井庄、新庄は、平生の上七遠隆の支配下に在った事が定説化されている。
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(ロ)平生の上七遠隆を柳井に持ってくる問題点
1、『吾妻鏡』の意味するところ
同書に「周防國人宇佐那木上七遠隆、兵粮米ヲ献ズ。之ニ依テ参州(源範頼)纜(ともづな)ヲ解キ、豊後國ヘ渡ル云々」とある。
即ち、源氏に依る平家追討時、豊後に渡る途中 食糧に窮した源範頼に、上七遠隆が兵糧米を献上したと在る。
一方、表には出て来ないが、当地には楊井氏が存在しており、その言い伝へも伝承されている。
柳井の大坊、白潟山 誓光寺に
「この村上姓の治源は、萬多親王(新撰姓(新撰姓氏録)に第一の皇別第六十二代村上天皇よりの村上源氏にして、中古内海に覇を称えた武将にして、参州源範頼
平家追討の折(1185、1月)楊井氏に帰したるものにして、爾来この楊井に居を構えて、開基眞永に至りたるものなり。今に家紋は源氏の紋所竜胆車(りんどうぐるま)であるによっても、その月影を偲ぶことができる。云々」『誓光寺、寺社記・由来記』との記録がある。
これを現 誓光寺住職 村上智真氏に尋ねた処、その様に伝承しているとの事であった。
この伝承を聞く時、この地方には『吾妻鏡』に出て来る 上七遠隆が居ながら、村上源氏の末裔である誓光寺の先祖は、上七遠隆では無く 何故か楊井氏に帰属している。
この事は、楊井氏もこの地方に一大勢力を張っていた事を意味する。即ちこの地方には平生に上氏、楊井(柳井)には楊井氏が存在していた事となる。

白潟山 誓光寺、 本堂屋根に光っている村上源氏の家紋 「笹竜胆」
思うに 1185年1月に、上氏は範頼に食糧で、 3月周防の合戦時には、楊井氏は義経に武力で協力したのではあるまいか。 或いはその両方であったかも知れない。 然るに、何故上七遠隆のみ鎌倉の歴史書に残ったか考えてみる必要がある。
瀬戸内海源平合戦の逐一を鎌倉に報告したのは、義経のライバル梶原景時である。してみれば、義経の功名に繋がる事、或いは義経よりの武将に就いては、鎌倉に多く報告されなかった可能性がある。
特に楊井氏に於いては、佐藤忠信が当地に血縁を残すほどの関係であった為、一族を挙げて義経に協力したと考えられ、削除された可能性は之また 濃厚と思われる。
また、今日に於いても楊井氏建立の義経供養塔が残っている程であれば、当時の景時にとって、楊井氏は到底好意の持てる相手では無かったはずである。
一方、景時のみならず、後に逆賊となった義経及び協力者の記録は、鎌倉の役人が『吾妻鏡』に記録する際、多く書かなかったことは万人の思う処である。
また、楊井氏にしても、義経逆賊以降は、そのゆかりの者の血縁として追討される恐れもあり、隠せるだけ隠したであろ事は推測に難くない。
此の事は、後々の楊井氏の生き様として現れており、重要な意味を持つ事と成る。
他方、今一つ重要な意味を持つ事がある。 前掲『内閣文庫所蔵・周防国古文書(東大寺文書)』で明らかな如く、当地はこの時既に楊井庄として、三十三間堂の荘園となっており、楊井氏の介在、存在を示している。
以上の事により、現室津半島に上七遠隆、旧柳井域には楊井氏が存在していた事は明らかであり、疑いようのない事実である。
2、『玖珂郡志』の意味するところ
前記本文掲載の如く、郡志を記した広瀬喜運は、林という所に城山という名があるが、その訳は誰も知らない。
ただ当地の役人に聞くと、「山伏の墓と錫杖が在った」と書いている。 続いて『吾妻鏡』に上七遠景(隆)の名が見えるから、ひょっとしたら此の人が此の城の城主かも知れない」と想像している。
岩国藩の藩士であった著者は、1802年同書を著しており、『吾妻鏡』から見れば、かなり後の人である。
そんな中、楊井氏も既に200年前、岩国政権下に於いて一部離散したり、商業、農業に帰して、豪族として存在して居なかった為、著者の頭に浮かば無かったと思われる。
何れにしても、上七遠隆の名が唯思い付きで書かれている事は、文面を素直に読めば明らかである。
なお、当地郷土研究家の一部で主張されている「林の城山は七遠隆の出城」の説は、戦略的に見て成り立たない論ではあるまいか。
当時に於いて柳井域を押さえようとすれば、楊井湾入り口、楊井津(当時は中馬皿)及び旧楊井水道入り口が、最も重要である。
もし地元 楊井氏では無く、平生の上七遠隆が楊井本庄・新庄を押さえようとすれば、この三方向が見渡せ、なおかつ速やかに出動出来る多々野(現忠信・新生、櫛が峰中腹)でなければならない。
当地に在る五輪塔群は、これを如実に実証しており、旧楊井水道しか見渡せない なだらかな丘地である新庄・林に出城では、戦略上無意味である事は誰が見ても明らかである。
思うに新庄林に在る城山(明治以降の小名には之が無い)の名は、出城等の意味はなく、単なる山伏行者の住まいで在ったか、その墓地であった可能性が大と言える。
唯、城山と言う名は何処にでも有り、その実は皆無に等しいが、何時か誰かが陣を敷いた事が在ったかも知れず、城山の名に於いて、之を全く否定するものでは無い。
3、『風土誌』の欣慶寺旧在所、宇佐保の意味するもの
同誌・欣慶寺の処に、同寺はもと宇佐保に在ったが、1707年 現在の地 富尾に移したと在る。 この宇佐保を 当時の対岸 佐保の地とし、宇佐木保と解釈して、平生の上七遠隆が楊井庄・新庄を支配していたと言う大きな根拠としている。
しかし、旧名 新庄の宇佐保(うさほ)、即ち現在の佐保(さを)の名は、元 佐尾の字であり『柳井市史・地名』、『玖珂郡志』にも 佐尾とある。
『柳井市新庄地区史』を書いた谷林博もその中で、
「佐保=保の時代があるが、保(ほ)の意味とは関係なく不明である。村絵図には佐保村(さをむら)と記入されており、かなりの民家があったようである」と記している。
* 佐保(佐尾)に於いて、保(国衙領)の時代は無かった。
以上の如くで、いま新庄の宇佐保(うさほ)を解釈する時は、字(あざ)佐保(さを)と読むべきである。 調べる所、新庄に於いて「うさほ」の名は何処にも見出せない。
江戸時代は佐尾『郡志』、明治に入って37年の調査以降、字(あざ)佐保(さを)となったものと考えられる。
宇(う)と字(あざ)は、これ以降 何時の時にか取り違えられたものであるか、或いは後人の誤解釈であろう。
また『玖珂郡志・欣慶寺』に
「留尾、水月山欣慶寺。禅宗、洞泉寺末。開山、珍公。昔ハ唯今ノ寺ヨリ東ニ当テ、佐保ニ有雖云々ーー宝永2年(1705)此所ニ再興也」とあり、現在地富尾より東の佐保に在ったと記している。
この文を素直に読めば、東方向 平生の宇佐木保に在った事は明らかで、著者が佐保と佐尾を書き間違うはずもなく、また富尾から東が、逆方向である現在の新庄・佐保(さを)に当たる事も無い。
又欣慶寺が出来たのは、最古で計算しても1500年代前半で、正式開基は1605年である。 之に対し、楊井庄・新庄の名は平安の古文書で明らかであり、「防州楊井新庄」の名も1478年『正仁記』にも見え、庄即ち蓮華王院の荘園となっている。『新庄地区史』
これが何を意味するかと言えば、宇佐木保の保(保は国衙領)の役人が、荘園領主を後ろ盾にし、その地を実行支配している地頭が居る所を更に支配する事は、力量の上から不可能であった。
当時の国の役人では、荘園は相手が大き過ぎて手が出せなかったのである。
元々時代錯誤で論をなさない主張であり、宇佐木保が楊井庄・新庄を支配する事は、どう考えても無理であった。
* 欣慶寺伝には、単純に字佐保(あざさを)に在ったとの記録も有るようで?、これを全く否定するものではない。 然し、この時は宇佐那木保とは無関係となり、論其の物が成り立たない事となる。
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(ハ)上七遠隆と楊井氏の力関係
1、古墳の所在で予想される古代の勢力図

上図は、神田継治氏作図の『古代周防島乃海の図』の上に、現在その多くは確認出来ないものの、山口県及び柳井市の記録に残る、柳井・新庄域の弥生・古墳時代の遺跡・古墳を重ね合わせた物である。
図の如く、楊井庄・楊井新庄に於いて、古代・中世に早くから開けたのは、馬皿・下馬皿を中心に、楊井川(当時は楊井湾)を挟んだ両岸と旧楊井水道を挟んだ新庄と対岸の旧宇佐(大祖側)である。
また、古代に於いて現大祖が楊井圏か、宇佐木圏かは不明として、中世には楊井庄圏に入っている。
一方、現平生の大野本郡、宇佐木保も古代より開けた地域である事は言いまでもない。
その上で宇佐木の上七遠隆の勢力・力量を推測するに、宇佐木保のすぐ側には大野本郡があり、大野七郎遠正が存在して居た。
『平生町史』に依れば、この両者は同族ではないかと推測しているが、大野遠正より上七遠隆が大きかったとは推測し難い。
本郡の名の上からも歴史上の活躍(無法ぶり)からも、大野遠正の方が遥かに大きかったようである。
2、姓で推測される豪族の大きさ
『平生町史』に依れば、宇佐木の上七遠隆は、地名を名乗っている(姓を地名としている)と書かれているが、詳しく見ていけば異なると言える。
即ち、宇佐那木(地名)上(姓)七(七男)遠隆(名)となり、正確には地名を姓としているとは言い難い。それ故、正しくは「うさなぎのこうひちとうたか」と呼び、宇佐木の次に(の)が入るのである。
その点、大野七郎遠正は、大野(地名)七郎(七男)遠正(名)となり、これは完全に地名を姓としている。
楊井氏も又然りである。 楊井(地名)太郎(長男)仲衡(名)となり、これも地名を名乗っているか、或いは姓が地名となっている。
ついでに、与田保(現余田)の源の藤原朝俊は、『柳井市史』に依れば与田朝俊を名乗っている。
(藤原姓楊井氏と同族であった可能性もある)
以上の点に於いて、当時の名のある豪族は地名を姓とするか、或いは姓が地名となる中、上七遠隆は少し異なると言える。
地名を姓として名乗らないから、大野氏及び楊井氏に比べ、社会的勢力、力量が劣るとは言えないが、少なくとも大野氏、楊井氏に比べ、勝っていたとは言い難い。
今一度『平生町史』を引用すれば、
「大野氏、上氏は同族の可能性があり、この両者は現室津半島(当時は島)の海域を領域とする、海賊的性格の濃厚な武士ではなかろうか」と記している。
また「建久八年(1197)東大寺大勧進として当時周防の国務に携わっていた俊乗房重源が周防の阿弥陀寺に寄進した鉄塔の銘に大檀那国史留守所として、多々良(大内)氏ら14氏と共に、上氏の名を連ねている。
この鉄塔の銘に国衙在庁の一員として現れる上氏を、宇佐木保の上氏に結び付ける事の出来る確証はないが、その可能性は濃いと考えられる。
上氏が国衙在庁であったことを示す微証は、この鉄塔の銘のみであり、これより以前に於いても、また以後に於いても、上氏姓の者を周防国衙の在庁官人の中に見出すことはできない。
おそらく上氏は内乱の展開過程の中で急激に成長を遂げ、源平合戦が終息して幕府が成立した当初国衙在庁の一員(宇佐木保の地頭)に登用されるが、その後何らかの事情により没落したのではなかろうか」と記している。
以上要約すれば、宇佐那木の上七遠隆の社会的地位及び力量は、、源平合戦の最中に功を挙げ、国衙領宇佐木保の役人・地頭まで登りつめたが、僅かな期間で失脚したと見るのが妥当な見方で、其れ以上でもそれ以下でもなかったと言える。
思うに上氏は、急速に国衙庁の役人まで登りつめ、短期をもって没落したが、後世に名を残した。
片や楊井氏は、領地を三十三間堂に寄進という形をとり、自らは表に出る事なく、実質楊井庄を4〜500年に亘守り抜き、楊井発展の基礎を築いたが、ここ柳井に於いては未だに無名である。
両者の評価は人夫々であろうが、現在の我々に何かを示唆しているように思えてならない。
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四、楊井氏の軌跡
(イ)『柳井市新庄地区史・柳井本庄と新庄』谷林博著
同書は、参考書また論文としても貴重かつ稀有な存在である。よって同書の中、楊井氏に関する箇所を其のまま引用する。
「周防国は鎌倉時代に入って東大寺の造営料の領地となり、文治2年(1187)院庁の下文を以て大勧進俊乗坊重源が、その管理に当たる事となった。
荘園制度は貴族や豪族などによって、奴隷の労働力と財力を以て、未開の開発を行った。楊井庄は当時の豪族楊井氏の占有地であった事は言うまでもない。
然しながら荘園を完全に確保するために、中央の有力な貴族や社寺の権力を頼む必要があった。
楊井氏が今日その蓮華王院すなわち三十三間堂の領地として寄進されていた。
(楊井庄は、この時すでに 楊井氏により三十三間堂に寄進という形がとられていた)
蓮華王院は後白河天皇の勅願寺として創立されたものである。 後に源平両氏の政権争いの間、後白河法皇は三十余年も絶大な権力を握っていた。
蓮華王院を領主とすることは、楊井氏にとって安泰であったのみでなく、後世に見られるように次第に支配権を拡大していくのに都合がよかった。(乃至)
そして荘園は名実共に地頭の支配下にあるものと、表面的には権門の領地となっているが、実権は現地地頭が握っているものとがあった。
* 国衙領・保の地頭(名実共に地頭が支配)の場合、国史が替わればその人の好き嫌いその時の都合で地頭を替えられる危険を孕んでいた。
楊井庄は蓮華王院に寄進しているが、地頭として荘園の経営に当たっていた。そして着々と自己勢力の拡張を図っていた。
余田 新庄は水道(旧楊井水道)の閉塞によって新規開発の土地ができた。これらの新田に対しては、本来 地頭課徴米を禁じてあったが、収穫は事実上地頭の楊井氏の収入となり、財力を蓄積させた事は推測に難くない。(乃至)
一方、白潟も古くは東大寺の領地であったが、後に楊井庄に併合されている。
『玖珂郡志』によると
「白潟ハ往古南都春日ノ領地ノ処、一年百姓中徒党シテ、奈良ヘ年貢収納仕リ候不ニ付テ、催促ノ使者一人刀ヲ指シ 中間六人 奈良ヨリ差越候、白潟ノ者右ノ七人ノ者ヲ殺害ニ及ビ、其印ニ五輪ヲ七ッ立テ置キ、今里ノ内九兵衛ト云者藪ノ門ニアリ、七人ミサキ(みさきは旅で変死した人の霊、人に憑いて死海に引き込む)申伝フ」とある
これは白潟が東大寺から分離して、楊井庄に所属することになった事を示すものである。 租税の催促に来た南都の者を、農民の力だけで殺害されて領主がそのままに捨て置くとは思われないが、背景に楊井氏がいて支援したものと解される。
白潟村に対する東大寺の課税が過酷であった事は、余田末松名田に関する古文書の二町六反に対して、二十六石を納付するべき規定であった事からも推定できる。
之に反して、楊井庄に於いて農民に対する年貢が比較的軽かった事は、蓮華王院に納付する貢物から見て推測することが出来る。
これが何を意味するかと言えば、楊井庄に編入させる政策的な手段であった事を見逃す事は出来ない。
このようにして楊井氏は室町期に入り隆盛を極めたが、これは鎌倉時代から周辺に侵略していった例が見られるものである。(乃至)
それにしても楊井庄三十六町歩の田地は余りにも少ない、 当時としては、恐らく十倍の耕地があったものと容易に推測されるし、またこれに対する定公物すなわち寺納米が六十四石とは軽すぎる。
前述の末松名田が二町六反に対して二十六石の寺納米が定められているのに比例すれば、三百六十石となるからである。
この疑問は楊井庄が蓮華王院とあるのは名目上のことで、名義料として納付するものであることを考えれば氷解する。
新庄地域の新田は勿論免税地であったから、現地に於ける実権を握る者は年々著しい富を蓄積することが出来た。 それは楊井氏が多数の家の子 郎党を養い、大船を造る余裕をもち、海外にまで雄飛した理由が了解される。
この時代には、楊井庄は敢えて権門に依って被護されなければならない必要はなくなった。楊井一族の実勢力に依って充分保有し得た。
又、永い伝統で楊井庄は依然蓮華王院の領地としての名目をなした方が便宜であった。どうしても新庄一帯は明確に区別して置くことが、後日の紛議を免れるという理由に出た事は明らかである。
新庄は開発当初から蓮華王院などと間接的であった。 楊井氏は新庄は自分達のものであるという観念から政治的、経済的に重点はむしろ新庄に移されていたと思われる。(乃至)
そして荘園制度にかわって、彼らの一円領が地方分権的な支配をされるようになった。このような情勢に於いて、楊井氏も大内氏の支配下にあった。(乃至)
楊井庄に関して陶氏の家臣、仁保上総介があらたに代官職に補せられた補任状が残っている。(乃至)
此の補任状の文句の中に「無懈怠可有執沙汰」(けたいなきようさたとりあるべし)とあるのは、代官から楊井庄の名主である楊井氏へ、沙汰を執らすことの意である。
この時代から楊井新庄に関して、名実共に楊井氏の支配下に置かれた事が窺がわれる。(乃至)
楊井氏は最後の当主であった郷直が 大内氏と共に運命を共にして弘治二年(1556)ついに滅亡してしまった。
その時,岩政家の先祖 元晴も楊井氏に従事して弘治三年七月十八日、鞍掛山に於いて戦死している。
その子長清は姓を改めて京都に亡命して、武田法眼について医術を学び、岩政掃部亮と称した。 晩年になって、帰郷し 新庄に於いて治療に当たったことが岩政家の記録に見える。(乃至)
以上、現存する諸記録によって中世までを述べたものである」
『楊井新庄地区史、楊井本庄と新庄』
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(ロ)古代よりの一族、楊井氏
「嘉応年中(1169〜1171)楊井庄は蓮華王院御領として立加を被り(乃至)地頭職は楊井太郎 これを知行す」
『内閣文庫所蔵・周防国古文書・僧源尊重申文案』(1244年4月作成の文書)
『鎌倉遺文』第9巻84頁 (東京堂出版)
前掲の如く、楊井氏の家系図は約1000年前に遡る 「楊井は平安末期の嘉応年間(1169〜71)には既に蓮華王院領楊井庄として立荘されていた」『平生町史』
これ等が何を意味するかと言えば、楊井氏が領地を後白河法皇の勅願時三十三間堂に名目寄進し、少量の名義料を上納する事に依り、時の権力の後ろ盾を得、自らが楊井庄を実効支配し、地位と財を守った事を意味する。
また当時の周防国は東大寺領で在った中、数少ない有力寺社、貴族が所有する荘園領地、蓮華王院三十三間堂領 楊井庄で在った事が、これを実証している。
之等の古文書、事象に於いて楊井氏が古くから存在していた事が見て取れる。
次いで、村上源氏の末裔 白潟山誓光寺の先祖は、1185年楊井氏に帰属する事に依り、以後楊井に居住している。 『誓光寺、寺社記・由来記』
当地多々野には、弥生後期の多々野・新生の二遺跡、古墳後期の多々野古墳1基があり、鎌倉よりの五輪塔群約60基、及び室町後期から江戸初期と思われる石祠(供養塔)3基が在る。

地域六ヵ所に点在する五輪塔群 石祠に納められている一石五輪塔

地域6ヵ所に点在する五輪塔群
これ等の主を推測するに、
一つには、当地域が馬皿を中心に古くから開け、古代中世には楊井(柳井)の中心であった事。
二つには、楊井津(中・下馬皿)及び旧楊井水道(現柳井湾から柳井市街地を通り、新庄、余田、田布施を経て平生湾に抜ける近道)を控え、戦略上最も重要な地であった事。
三には、楊井本庄・新庄には、歴史上 楊井氏を除いて他に有力な豪族・武士が全く見出せない事。
以上三つの理由により、上記五輪塔 其の他の遺物の主は、豪族楊井氏であると断定出来る。
また、大祖積蔵寺にも推定100基近い五輪塔・宝篋印塔が在り、石祠も1基存在する。 その中、中世まで同寺が五輪塔の本家 真言宗であった為の五輪塔と、少なからず存在する
江戸以降一般庶民に流行した小五輪は除いて、残り半数はこれも楊井氏の物と推測される。
また、此処に在る石祠も、忠信・新生の3基同様、全て旧楊井水道に向けられている。 後述の如く、海外貿易に力を注いだ 楊井一族の思いの一端を窺がい知ることが出来る。

積蔵寺上の墓地に集められた五輪塔 積蔵寺門前に移設された石祠、以前は
宝篋印塔、下の墓地にも多く在る。 旧参道にあり、楊井水道を見下ろしていた。
いま1ヵ所、新庄佐保(さを)の岩政次郎右衛門が、1600年代2期に亘って行った長溝工事の際集めたとされる五輪塔が十数基残っている。
この工事は、始め(延宝7年1679)馬皿から多々野(忠信・新生)を通り新庄までの道程である為、之も楊井氏の物と推定される。
この五輪塔群は、次郎右衛門にとって、自らの先祖の主家とその有縁の人々に当たる。 其の為特別の思いが在ったと考えられ、持ち帰って安置した事も容易に頷ける事である。

次郎右衛門の記念碑と同所に集められ、散在している楊井氏・岩政一族の
五輪塔群、既に忘れ去られ、時の流れと無常を漂わせている。 柳井域で
放置されているのは此処だけで、何時の日か整備したいものである。
重ねて1244年には「楊井太郎、楊井庄地頭」の文あり。
『東大寺文書、内閣所蔵・周防國古文書』 『柳井市史・信仰生活』
1250年『吾妻鏡』「閑院殿造営雑掌目録」の中「西鰭(外壁、縁側のような物)五丈、楊井左近将監跡」とあり、京都中央に名を連ねる程の地位、勢力を持っていた事が見て取れる。
1360年には『玖珂郡志』「八幡宮、宮本云々」とあり、代田八幡宮は馬皿(当時、多々野は馬皿組とも言っていた)から宮本に移したとある。
またこの年代か否かは特定出来ないが、同書に
「代田八幡宮、往古ハ 八月十八日御祭、御神幸ノ節 楊井右京ト申ス大禄ノ士、神輿ノ御供勤メ被ル」とあり、平安、鎌倉、室町と長期に亘り、楊井氏が活躍した事が見て取れる。
これに関連した1600年代『代田八幡宮・寺社控』に
「地頭代の儀ハ往古くわんのんひら(観音平)ニテ、片山兵部ト申御地頭御座候、右御祭礼ノ節、御名代御共成候」とある。
この事は、大内氏と共に敗れた楊井氏が、その後離散や農業商業に帰し、地頭の地位を失った後も、柳井の地頭が、代々中世の楊井氏に習い、年々の祭りの神輿の先導をしていた事を意味している。
* 片山兵部について
『柳井市史』には、片山兵部に就いて「堅田兵部少補元慶(1568〜1622)のことであろう」と記している。しかし、堅田兵部は本物の毛利重臣であり、安芸・三原城の城主を勤め、本拠は現周南の湯野温泉周辺を所領している。
この毛利重臣が、楊井庄の観音平に住する地頭とは まず考えられない。 また楊井は1600年以降岩国藩領となり、代官が置かれ、その後地頭の存在は無かった。(1557〜1600の間には何か考えられない事もないが、おそらく無いものと思われる。
また代田八幡宮は、1649年に火災を起こし文書等全て消失しており、現在残っている祭りの形式や文書等は、消失以後過去などに配慮しながら、時代に合わせ作られたものと推測される。
憶測ではあるが、岩国藩に配慮し、楊井氏の記録を存在しない「毛利の重臣・片山兵部」に置き換え記録したことは、十分考えられる事である。
何れにしても柳井の歴史同様、時代的背景等考慮しなければ、真実は見えて来ない。
1468年 「対明貿易船 楊井宮丸700石」 『戊子入明記』 『柳井市史』
1548年 楊井郷直、海外貿易船の遣明船に乗船」 『大明譜』とある。
当時に於いて、700石もの大船を商人が持つという事は推測し難い。また商人であれば屋号を船名とする事は必定で、船名楊井宮丸と地名 姓名を以てしている事からして、やはり楊井氏の船と見る事が妥当と思われる。
これ等の事により、楊井氏が早くから海外にも手を広げていた事が窺がわれる。
ここを指して、『周東歴史物語』柳田泰次、 他著は
「古くは楊井一族が海外貿易を営んでいた関係もあり、柳井商人は進取の気性に富み云々」と
また「楊井氏が残した貿易の伝統は、後年柳井商人に受け継がれて行ったのである」と
1556年「楊井郷直、大内氏と共に滅亡」 『柳井市新庄地区史』
然し、未だまだ楊井氏の歴史は続いている。
1557年「楊井武盛、毛利に降り 養父の遺跡地 秋吉別府の内30石を安堵される」 『萩藩閥閲録』
その後5代続いて、楊井正親、楊井正勝(推定1640〜1680頃)等の名も見え、この両名はかなり後の人と思われる。 『大内家臣団・家系図』
前述 毛利に降り、 美祢郡秋吉別府の一部を知行した 別家藤原姓楊井武盛の曾孫に当たる楊井三之允春勝は、山陽小野田舟木の代官として、寛文年間(1668)近世最大規模の開作と言われる高泊開作を主催し、「外は蓑でも内は三之允」という口碑まで残している。 「山陽小野田市役所ホームページ」
追われたとは言え、当地柳井から唯一とも思える逸材が流出し、山陽小野田で名を挙げ 楊井一族の実力を垣間見せている事は、せめてもの救いか。 柳井に縁有る者としては、何とも複雑な思いである。

地域6ヵ所に点在する五輪塔群
思うに楊井氏は、古代より楊井に住し、その後中世まで実質 楊井本庄・新庄を所有し、その間柳井発展の基礎を築いた一族であった。
1169年 この頃楊井氏は、楊井を後白河法皇の勅願時蓮華王院三十三間堂に寄進し、少量の寺納米を献上し、法皇という絶大な後ろ盾を得た。
1185年 源平合戦時には、義経の義兄弟、奥州藤原氏同族 佐藤忠信の血縁を得て、日本三大氏姓の一つ藤原姓を名乗った。
1358年、この頃勢力を伸ばしつつあった 朝鮮王朝の末裔 、多々良大内弘世に、長子正衡を避け三男武衡をその傘下にし、何らかの縁を結んで多々良姓楊井氏も名乗った。
これ等の事は、唯単に利に聡いと言うのみならず、かなりの英知と力量を有した一族であった事が推測される。
必要以上に表に出る事なく、時の権力の完全支配を受ける事もなく、しかも自分の地域領地を実効支配し、自らと領民を守り、かつ財を蓄え 海外に目を向けた先駆者であった事は、現在の我々の指針ともなるものである。
過去に拘り過ぎるのも良しとはしないが、さりとて表面のみ繕い、遮二無二に前進するのも如何かと思われる。先人に学ぶ謙虚さ、柔軟性も時として必要ではなかろうか。
また、過去を除いて現在が在るはずもなく、古代・中世に立脚して現在の歴史を語らねば、その足腰は脆弱の域を出ず、せっかくの宝を埋没させる事ともなりかねない。
歴史を訪ねると奥は深遠である。時が移れば地名字も変わり、人の心も移り行く。前述、佐尾・佐保の字で後人が迷い、柳井の字で深い歴史を失う危機とも成り得る。
思うに柳井の字は柳に井戸でもなければ、岩国藩に配慮して自ら楊井から柳井に変えたのでは無かったように思われる。
真実は古代より中世まで、数百年に亘り楊井を支配し造ってきた楊井氏の影・影響力を、快く思わなかった岩国藩が、最初は間違って使ったであろう柳井の字を、之に便乗して徐々に変えていったものと思われる。
時は移り今日に於いては、今度は岩国藩の亡霊から?と思えるほど柳井の字のみに拘り、柳井の歴史を半減させているように思えてならない。
ここ柳井に於いて、楊井氏を口にする事はタブー視されているように思える。これは、『柳井市史』の権威、或いは「柳と井戸」として柳井を売出す、観光協会及び市観光課に配慮しての事かと思われる。
思うに『市史』に於ける柳井の歴史は、平安時代の蓮華王院領、鎌倉・室町時代の大内・毛利支配、江戸時代に岩国藩領となった事を良しとし、それでも最後には商人の金の力で武士を跪かせたと言う事により、一応の体面を保っているように見える。
しかし、見様に依っては被抑圧者の論理と見えなくもない。 後世に於いて、真に柳井の歴史が探求されん事を望んでやまない。
その上で、今の『柳井市史』の語る処、及び当地一部歴史研究家の説に行き着いたなら、それは其れで良しとするものである。
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◎『柳井市史』に於ける、楊井氏の記述について
『柳井市史』作成の基となったとされる『柳井市新庄地区史』には、豪族楊井氏の事が多く出て来る。
然るに『市史』には、市史と無関係とも思える多くの記述に対し、楊井氏の記述は「大内政弘の家臣として、延徳四年(1492)五月十三日に楊井助次郎盛友が縫殿允の官名を所望した文書が所見で、「先祖代々楊井に居住した」[閥閲録106楊井神平]に始まり、1511年、1531年、1538年、1557年の記録を引いて、藤原姓、多々良姓、別家藤原姓の家系図を紹介し、次いで「楊井氏は柳井地域内に知行地を持っていないが、柳井に大内時代から居住した旧族であるので、その家系の一部を『萩藩閥閲録』『萩藩譜録』によって紹介した次第である」と1,5ページで終わっている。
この中、「楊井氏は柳井に知行地を持っていないが」の主張は真実とは言い難いように思われる。
楊井は蓮華王院に名目寄進され楊井庄となり、実質楊井氏が支配していた事は、当庄寺納米の賦課率や『内閣所蔵・周防国古文書』及び『玖珂郡志・楊井右京』の文等で明らかであり、大内氏から領地を拝領していないから、或いは『萩藩閥閲録』等からその古文書が出て来ない等の理由で、楊井氏が柳井に知行地を持たないと理解することは的外れと言わざるを得ない。
知行地については、kawabemasatake氏HP『大内家臣団』の中、1358年大内弘世の傘下に入った、楊井氏三男武衡は、大内氏の家臣ではなく、上下関係を有する協力者、「周防国人」として記録されている。之等の事も加味して、知行地の解釈をすべきではあるまいか。
それはさて置き、『柳井新庄地区史』に楊井氏の事を多く書いた谷林博氏が、『柳井市史』の編纂主任であった事を聞くと、わずか1,5ページの記述は解せない。
然れば何故と思案すれば、
一つには、谷林博氏が『市史』の完成を見ずして没しておられる事。
二つには、それまでの柳井では考えられない楊井氏の存在(新説)を唱えたため、当時の学者及び歴史研究家諸氏との論争に敗れ、阻害されたものか。
三つには、その後『市史』を編纂された学者・先生方々が、楊井に於ける鎌倉・室町時代の大内家臣による、楊井庄代官職の文書、及び室町末期に於ける同家家臣団の楊井庄一部知行の文により、当柳井に於いては、室町の一時期以外は楊井氏は不在であった、との解釈に依るものと思われる。
他所に多く在る楊井氏の記録・痕跡が、当柳井市に於いて皆無に等しい事と『市史』の記述者を柳井以外に求めた事を思えば、無理からぬ事とも思える。
また『市史』の「中世」担当学者が、「山口県文書館専門研究員」の肩書を持ち、江戸時代に萩藩士の調書や文書に依って制作された『萩藩閥閲録・譜録・享保11年・1728完成』、その他大内、毛利関係を中心とした「文書館」に残る文書を基に同様の解釈をされたものと考えられる。
今日歴史学の流れは、実証主義が本流であると聞いた事がある。 之はこれで重要不可欠、一番大切な事である。
然し歴史・考古学は、実証至上主義に偏り過ぎたなら成り立たない学問のようにも思える。又、史実の深い考察なくしては、真実は見えて来ないのではなかろうか。
私は畏れ多くも『市史』を非難しようとするものではない。 他所の有名学者を頼み史実(歴史上柳井が置かれた立場等)の深い考察・熟慮を重視せず、余りに古文書実証主義に重きを置いて『市史』を記述したのではあるまいか?と思うからである。
古文書は通常 勝者の側の文書で、都合よく書かれ 都合よく残されたものが多いい事は、世間の常識と思われる。
もっと言えば、地域の歴史を語る時、その地に対する徹底した探求と、執着を除いた愛着と柔軟性が不可欠と思えてならない。
◎柳井に於いて楊井氏が肯定されなかった一理由
当地柳井に於いては、他所に多くある楊井氏の記述・痕跡が皆無に等しく、これが肯定されなかった大きな理由と思われる。 今日楊井氏を顕彰する上で、唯一の泣き所である。
思うに平安・大内時代は、自ら表に出る事無く楊井庄を実効支配していた為、本家楊井氏の古文書らしき物が、当地に残っていない事である。
次いで、1557年大内氏と共に周東鞍掛山で毛利氏に敗れ、その後明治まで311年に亘って、毛利氏及び岩国藩の支配を受け、柳井は商人の町として生き残って来た。
負けた側として、また商人として生き残るため、自ら楊井氏の事は忘れ去り、消し去ったのがその理由と思われる。
然し上記に就いては、『玖珂郡志』に
1360年「代田八幡宮、馬皿から宮本に移転」とある、次いで「代田八幡宮、大古は八月十五日御祭、御神幸の節、楊井右京と申す大禄の士、神輿の御供勤め被る」とある。
また、『萩藩閥閲録』に
別家(毛利以降は本家)藤原姓楊井氏の楊井右京允武盛が、1557年毛利に降り、養父春盛の遺跡地を、安堵されている。
この楊井右京允武盛が、『玖珂郡志』に出て来る楊井右京であるとは、当時何代も同名を継いだり、或いは飛び飛びに同名を名乗ったりした例など勘案すれば、直ちに当人とは断定出来ないが、其の可能性は少なからず有ると思われる。
少なくとも、平安時代、「楊井太郎、楊井庄地頭」『東大寺文書』から大内末期まで、楊井氏が楊井に存在しこの地を支配していた一つの証ともなり、古文書の典拠とも成り得るのではあるまいか。
今一つ、楊井氏不在の根拠と思われるものは、現在山口県文書館に残っている文書が、下記の如く楊井氏楊井庄地頭を否定させるかの文である。
『島津家譜』
「1332島津貞久、楊井庄地頭に補任される」
『楊井市史』が疑問を抱く如く、蓮華王院領に代官の指名はあっても地頭の指名は在り得ず、やはり信憑性に欠けると思われる。
『三浦家文書』
「1467大内重臣・仁保弘有、妙法院庁より、楊井庄代官職に補任される」
この補任状の文に依れば、それまで伊陸の高山寺が代官職にあったが、多年沙汰をせず、年貢徴収を怠った為これを改易し、替わって仁保弘有を代官職として、妙法院の燈油料毎年50貫文と5年に一度の段銭を徴収納付する旨契約し、其の事を大内家老・陶弘房に通知している。
これが何を意味しているかと言えば、楊井庄は三十三間堂の荘園領地であって、大内氏の知行地では無かった事を意味している。
即ち、この頃勢力を増して来た楊井氏からの年貢徴収が、高山寺では無理になって来た為、其れが可能な大内重臣に代官を委嘱したものである。
また、仁保弘有が知行していた 現仁保では、弘有が蓮華王院に出した楊井庄代官職承諾の文に依り、弘有が楊井庄を知行していたとの主張も見えるが、仁保三浦家に残っている文書は、後世の移しであり、真実は蓮華王院が出した文面の如く、単なる蓮華王院領楊井庄の代官であって、王院に代わって楊井庄より年貢を徴収しただけのものである。
また同年、大内政弘が時の将軍を助ける為、楊井港より大軍を率いて出陣した古文書、及び10年後政弘帰国の際、周防守護代陶弘護が、これを楊井に出迎えた文『弘護肖像讃』に依り、「楊井は大内氏の軍港であり、良港であった」『柳井市史』の主張であるが、上記 弘有の文の如く、楊井庄は蓮華王院領であり、大内氏と楊井氏の力関係は在ったにせよ其の仲が良好であった為、大内氏が楊井を港として、利用出来たと見る方が正しい見方かと思われる。
山口県史上では、1358年大内弘世の県内統一以後、大内時代と見て行くのであるが、有力寺社、貴族が所領した荘園、この地方で言えば「蓮華王院領楊井庄」、「賀茂神社領伊保庄」等は、上記文面を見る限り大内氏の自由には成らなかったようである。
『萩藩閥閲録』
「1483杉彦八郎重祐、楊井庄新庄代官職に補任される」
仁保弘有に等しく蓮華王院領楊井新庄の代官であり、新庄を杉氏が知行した事にはならないと思われるが、楊井氏の上に、徐々に大内氏の圧力が増してきた事を窺がわせる文である。
『萩藩閥閲録』
「1545山本禅正忠房勝、大内義隆より、楊井庄64石7斗を給地として賜る」
この頃になると、散発的ではあるが閥閲録に他国の武将が、楊井の一部を知行したとの文が出て来る。
荘園制度が崩れる中、大内氏の影響力が楊井庄にも及び、本家楊井氏は大内氏の家臣では無かったが その意向には逆らえず、徐々に大内氏に組込まれて行ったものと思われる。
* 大内氏滅亡の十数年前の事である。
* 文明3年(1471)4月15日、大内氏が山口妙喜寺に柳井庄内12石5斗の地を寄進したとの妙喜寺文書も見えるが、文中、玖阿郡(玖珂郡)柳井庄(楊井庄)の字が使われており、当時に於いて柳井の字が使われる事は在り得ず(所見より最短でも160年早い)、玖珂の字も誤字である事、また、年代が仁保弘有が楊井庄代官に就任して4年目となれば、大内氏が楊井庄を自由に出来たとも考えられず、真偽の程は如何であろうか。
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五、柳井の地名命名について
柳井の地名命名に就いて、歴史上明らかな処では、平安時代 後白河法皇の勅願時蓮華王院三十三間堂の荘園楊井庄となった。
その後約430年を経て、江戸初期岩国藩領となり、其のまた50年後に柳井組と地名を改め、その後柳井町から現在の柳井市に至っている。
広く歴史研究家諸氏の地名命名の説を挙げれば、以下の5説に大別される。 その内当地歴史研究家に於いては、二、三、四の三説が挙げられる。
一、 「三十三間堂の荘園楊井庄」となり、これを以て楊井(柳井)の地名の始めとする。
二、 「般若姫伝説の柳と井戸」により、柳井の地名が出来たとし、今日 柳井市一丸となって これを流布している。
三、 「楊枝(柳)が当地に多く在った」ので柳井となった。
四、 「楊」は枝が上を向くので、岩国藩に配慮して枝が下を向く「柳」の字に変えた。
五、 「古代からの一族、楊井氏」に余って楊井となり、後に柳井の字に変えられた。
一、三十三間堂の説
楊井庄の領主となった三十三間堂は、平安末期 後白河法皇が、自らの頭痛治癒の為、生薬である楊枝(柳)の木を以て、本堂を建立せしめたものである。
この三十三間堂の楊枝(柳)を以て、当地が楊井庄と名付けられ、地名も楊井となったとする説である。
二、般若姫伝説の柳と井戸の説
夢があり単純明快、観光柳井市を目指す柳井に於いては、価値ある説と言える。 一方、歴史的事実を明らかにして置く事も、永い将来に於いて柳井の益と考える。
般若姫伝説は、大分県大野郡の「連城寺縁起」の民話を基とし、近松門左衛門(1653〜1724)が歌舞伎の台本として『用明天皇職人鑑』を著した物であるが、之が全国に大流行して、「炭焼長者」「草刈山路」「真野長者」「般若姫伝説」へと広がった物語である。
この「般若姫伝説・柳と井戸」を要約すれば、大分の般若姫の所に 後の用明天皇が下向し、姫と夫婦になった。
後の用明天皇は、皇位を継ため 先に京都に呼び戻され、後から般若姫が京都に向かう途中、国崎半島から すぐ前の姫島に向かう間に遭難し、姫島で静養した。
この時、楊枝(やなぎ)を逆さに挿したら 大木に成ったという、「逆さ柳」の伝説を残し、その後、祝島、上関を経て楊井に立ち寄り、井戸の側に楊枝を挿したらまた大木に成ったという「柳と井戸」の伝説を残した。
その後、大畠の瀬戸で再び遭難し、乗組員に多数の犠牲者が出たため其れを悲観し、私の亡き後は向かいの山(現平生の般若寺の地)に葬ってほしいと言い残し、自ら入水して命を絶ったと言うものである。
この中、大分、大畠、近松門左衛門、その他の書の何れにも柳井の事は出て来ない。即ち何れの書も、上関から其の侭大畠の瀬戸へ直行となっている。
また「柳と井戸」がある湘江庵の開基長弁が1666年に亡くなっており、この時が湘江庵の正式開山となっている。 また、近松門左衛門の年齢等から推察すれば、「柳と井戸」伝説が出来たのは、1700年頃の事と思われる。
次に「楊井」から「柳井」に字が変わった時期であるが、『柳井市史』は、1626年『熊野検地』以後としているが、代田八幡宮石鳥居には、「寛永十六歴三月吉日、楊井在住の者建立」の銘があり、1639年当時一般には、まだ『楊井」の字が使われていた事を示している。
また『柳井市史』の別項には、1643年の岩国領検地『享保増補村記』で楊井庄から柳井組に変わっており、その後之を修正した1651年『旧藩時玖珂町村制度概略』に「本村は岩国領にして、柳井組に属し・・・」から柳井の字に統一されたとも記している。
何れにしても、この前後に字が変わったと見るのが正しい見方かと思われる。
以上の如く見ていくと、「柳と井戸」の伝説が出来る前に、『楊井」から「柳井」に字が変わっていた事が見て取れるが、その後大流行した「般若姫伝説」の中、姫島の「逆さ柳の伝説」を夢があるからと柳井に迎え、語呂合わせして「柳と井戸」伝説が出来上がったものと推測される。
憶測ではあるが、楊井の本家本元である楊井氏の名が、以後見事に消え去った事等、必然的であるにせよ、この伝説と何らかの関係を無視出来ないように思われる。
『東大寺文書』『吾妻鏡』『玖珂郡志』『萩藩閥閲録』『萩藩譜録』『大明譜』と他所に多く在る楊井氏の記述が、『誓光寺、寺社記・由来記』「岩政家記録」を除いて、当地柳井に一切存在しない事である。
余りに不自然であり、岩国藩の統治上の都合が働いたのでは?と思わざるを得ない根拠とするものである。
三、楊枝(柳)が当地に多くあったので柳井となった。
表記、其の侭である
四、楊の枝は上向きの為、岩国藩に配慮して、枝が下向きの柳の字に変えた。
神田継治氏が、上記二説と並べ、選び取られた説で、楊井の人々が、岩国藩に配慮して上を向く楊から下を向く柳の字に、自ら変えたという説。
然し、岩国藩のお膝元 岩国ならいざ知らず、遠く離れた楊井の地で、其処までへりくだる必要があったか?いささか疑問である。
当地は既に、楊井氏により海外貿易港として開かれており、商都の態も成していた。
また、当時の岩国藩が、楊井商人を岩国に連れ帰り、柳井町と名付けて、住まわせている記録も残っている。
即ち、当時の楊井は重要視されており、楊井商人、民の力量も高く評価されていた。
その状況下で、楊井の民が上を向く楊の字をわざわざ下を向く柳の字に変えなければならない程、へりくだる必要に迫られたとは推測し難い。
やはり、他にそれ相当の理由があったと考えるべきであり、此処でも楊井氏が残した影響力を無視する事はできない。
五、楊井氏が、古代から当地を治めていたので楊井となり、後に柳井の字となった。
我が国では、多くの場合 豪族の名が地名となるか、或いは豪族が地名を姓として名乗っている。
柳井の地名に就いては、三十三間堂の説が有力と思えるが、当地を三十三間堂に寄進した楊井氏の方が歴史が古い。
して見れば、楊井氏が三十三間堂に寄進という形をとる事により楊井庄となり、後に岩国藩領と成って、字も改め 名を柳井組とし、柳井町を経て現在の柳井市に至ると見るのが、歴史にかなう無理の無い見方であろうと思われる。

地域6ヵ所に点在する五輪塔群、まだまだ
地中に相当数埋まっていると思われる
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六、忠信・新生地区、楊井氏・義経・佐藤兄弟の古墳・五輪塔・石祠案内図


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以下の文献を参考にさせて頂きました。 有難うございました。
一、『柳井市新庄地区史』 谷林 博
二、『周東歴史物語』 柳田泰次 藤田 保
八幡熊次郎 山本一朗
林芙美夫
三、『柳井市史』
「古代」 河村幹次郎
「中世」 田村哲夫
「地名」 金谷匡人
『信仰生活」 伊藤芳江
四、『東大寺文書』
『鎌倉遣文』
『内閣文庫所蔵・周防国古文書・僧源尊重申文案』
資料提供教授 山口県立大学 伊藤幸司
五、『吾妻鏡』
六、『平生町史』
七、『玖珂郡志』 広瀬喜運
八、『大内家臣団』 HP kawabemasatake
九、『岩手県史・佐藤一族』
十、『新平家物語』 吉川英治
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著者
山口県柳井市忠信
浄土真宗 正念寺
巻末 著者 メールアドレス seisin@snow.plala.or.jp
長時間お読みいただき、有難うございました。
ご意見、情報をお寄せください。 お待ちしております。
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◎柳井市忠信正念寺情報 (0820−23−5244)
楊井氏の五輪塔の一部が存在する正念寺墓地に、念願の永代供養塔、共同供養塔が平成21年5月に完成しました。
これからお墓を建てられない方々、将来家名が絶えると思われる方々の永代供養墓として、また、忠信の阿弥陀様として、人々に愛されることを願っています。
柳井市忠信の阿弥陀さま 永代供養・共同供養塔