室町 |
1467 |
蓮華王院 |
「大内政弘、楊井より出陣」
『経覚私要抄』
(奈良興福寺管主の日記)
奈良にて京都、山口の出来事を日記にしたもので、内容はまた聞きと思われる。詳細も雑で合致しない処も見られるが、楊井から乗船したことは事実のようで、他にも大内氏が楊井を経由した記録が残っている。
之により「楊井は大内氏の東門で、良き軍港であった」
『柳井市史』 |
応仁の乱時、大内政弘が楊井港より大軍を率いて上京した記録が残っている。
この文を以って『市史』は「楊井は大内氏の東の良き軍港であり、また楊井は大内氏により開かれ発展せしめられた」の意で記されている。
しかし、当時の楊井港は、浪速から大和田泊、牛窓、鞆、尾道、厳島、楊井、上関、富田、門司と瀬戸内海海運の要港の一つであり、既に大船も停泊できる程に開かれ利便性に優れていた。
その中、主従に近い関係であったにせよ、大内氏と楊井氏の関係が良好で在った為、楊井を難なく利用できたと考えられ、先の仁保弘有代官職補任の如く、楊井庄領主は蓮華王院であり、大内氏の影響力はあったにせよ、楊井の支配者は楊井氏であったと思われる。
また、大内傘下の海賊・水軍は楊井(柳井)平郡島(楊井氏傘下・前述)、屋代島(現大島)以外は安芸(現広島)水軍が主力であった。
そのため、大内氏上京には本来多々良(現防府)や富田(現徳山)乗船が妥当である所、安芸水軍に近いことと港の規模の上から楊井港乗船が必然であったと思われる。
『経覚私要抄』
「海賊衆先陣 ノウエ(野上)クラハシ(倉橋)クレ(呉)ケコヤ(警固屋)其外九州面々、五月十日、山口出陣、六月二日、周防野上(徳山)マテ御付候、同三日屋内(楊井)と申在所マテ出陣。同十三日、乗船一定候、社(屋代・大島)ノ嶋陸(久賀)マテ御付候」
ノウエ==(野上衆)=広島県福山野上、能美
クラハシ=(倉橋衆)=広島県音戸、倉橋島
クレ===(呉衆)==広島県呉、
ケコヤ==(警固屋氏)広島県呉、
その上で、後述『玖珂郡史』『戊子入明記』『大明譜』や前述の出典等を見て行けば、事実上楊井を治め発展させたのは楊井氏であることが見て取れる。
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室町 |
1468 |
蓮華王院 |
「遣明船」の記入あり
『戊子入明記』 『柳井市史』
豊前・和泉丸 = 将軍家
豊前・宮丸 = 細川家
豊前・寺丸 = 大内使船 |
楊井に「楊井宮丸700斛」と遠洋に耐える大船が存在していた『戊子入明記』
当時遣明船を出した将軍家、有力寺社、守護大名等は、自前の船を持っていたわけではなく、瀬戸内の有力商人や海上にも強い豪族の船を借り上げ遣明船としていた。
遣明船の記録によれば、
① 700斛 ~ 1500斛
② 500斛 ~ 2500斛の2説あり。
してみれば、「楊井宮丸700斛」は、
1に楊井の船名。
2に豪族に合った船の大きさ。
3に出典が『戊子入明記』(遣明の記録)。
4に後述「楊井郷直遣明船乗船」の記録からして、楊井氏の船と見るのが妥当と思われる。
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室町 |
1477 |
蓮華王院 |
「周防守護代陶弘護、大内政弘を楊井に迎える」
『陶弘護肖像讃』『市史』
弘護の法事の時に作られた掛け軸の讃である。
応仁の乱後、弘護が山口に帰る政弘を、楊井まで出迎えた事を表したものである。過大な表現を用いることが常ではあるが、事実と思われる。
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室町 |
1482 |
蓮華王院
大内氏? |
「杉八郎重祐、楊井新庄代官職に補任される」
『萩藩閥閲禄』『柳井市史』
*荘園制度の崩壊
守護大名(後の戦国大名)による荘園の侵略は、応仁の乱以後徐々に加速され、太閤検地により終焉する。
即ち、約100年をかけてゆっくりと進んだものである。
弱体の荘園領主を持つ荘園は、早くに守護大名の物となった。
一方、蓮華王院領楊井庄のように朝廷と直結、力を持っていた荘園は、徐々に弱体化させられ、最後は戦国大名の物となっていったが、其の頃には戦国大名も終わりと成る者が多かった。 |
先の仁保弘有と同じく、蓮華王院の代官であるが、任命権者が大内氏である事を思えば、楊井氏の上に、大内氏の圧力が徐々に強まって来たと推測される。
その前後、文明三年(1471)大内政弘が母親の菩提を弔うため、別邸跡に建立した妙喜寺に、楊井庄の一部を寄進した文が出てくる。
然し文中、「玖阿(珂)郡、柳(楊)井庄」と誤字がある。この時代、(柳)の字を使う事はあり得ず、妙喜寺も変遷している事を思えば、内容、実施の可否に灰色の一面を残す。
次いで、永享四年(1432)、文明十年(1478)に大内氏が興隆寺に与田保の一部を寄進した文、或いは家臣に伊陸、日積、伊保庄の一部を与えた文書が出てくる。『柳井市史』
これ等の文は、合併後の現在の柳井市の一部であり、『市史』の記述は間違いとは云えない。
しかし、当時は蓮華王院領楊井庄の隣接地域、即ち他国で領主も異なり、室町期楊井庄とは無関係である。
当時の歴史的背景を知らない人々は、「室町期楊井庄大内氏支配」をそのまま受け入れ、記憶する事となる。
真実を伝える為には、時代背景等丁寧に説明し、正しい歴史を伝えるべきである。
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室町 |
1482 |
蓮華王院
大内氏?
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右、『柳井市史』にあり。 |
『正仁記』に「防州楊井新庄の名が見える」
『新庄地区史』
『正仁記』は、大内氏家臣の日記で、楊井氏の占有地であった新庄に大内氏の影響力が及んできた事を推測させる文である。
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室町 |
1492 |
蓮華王院
大内氏? |
右、『柳井市史』にあり。 |
「楊井助次郎盛友、大内政弘に家臣として縫殿允の官名を所望する」『萩藩閥閲禄』
(閥閲禄中、別家藤原姓楊井氏)
*楊井氏家系図の上では、別家藤原姓となるが始めて大内家臣の記述が出てくる。この頃より、別家は協力者周防国人から大内家臣に組み込まれていったようである。
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室町 |
1511 |
蓮華王院
大内氏? |
右、『柳井市史』にあり。
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「楊井弥七国盛、大内義興から修理進に推挙される」『閥閲禄』
(閥閲禄中、別家藤原姓楊井氏)
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室町 |
1529 |
蓮華王院
大内氏 |
「白井光胤、大内義隆から楊井新庄20石を賜る」
『岩波文庫』『柳井市史』 |
この頃、新庄に於いて他国の武将が大内氏から給地を貰っているところを見ると、新庄は大内氏時代になっていたようである。
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室町 |
1531 |
蓮華王院
大内氏 |
右、『柳井市史』にあり。 |
「楊井修理進長盛、大内義孝から美和庄内10石、糟屋郡内5石、宇佐郡内の一部を宛がわれる」
『閥閲禄』 (閥閲禄中、別家藤原姓楊井氏)
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室町 |
1538 |
大内氏 |
「山本禅正忠房勝、大内義隆から楊井庄内64石7斗を給地として賜る」『柳井市史・閥閲禄』 |
この頃、楊井本庄も大内氏が自由にしていたことが見て取れ、いよいよ大内時代となる。
領主大内氏下記を見る限り地頭楊井氏も健在か
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室町 |
1547 |
大内氏 |
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「楊井郷直、遣明船に乗船」『周東歴史物語』
「郷直は天龍寺の僧策彦に随行す。この船天文十六年二月二十一日山口発船。これ等の船は長さ二十三尋、帆柱十三尋云々」
その他乗組員の氏名、積み荷の数量、海賊撃退の詳細等記している。
天龍寺妙智院所蔵『大明譜』(楊井郷直著)
『策彦入明記の研究』上巻298頁 牧田諦編
*郷直は船の貸主と護衛を兼ねていたようである。
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室町 |
1555 |
大内氏
毛利氏 |
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「陶清隆、厳島合戦で滅亡、楊井氏も陶方の水軍として宇賀島水軍(現大島)と共に出陣、毛利方と戦い敗れた」『周東歴史物語』
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室町 |
1555 |
大内氏
毛利氏 |
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「楊井氏本家、杉氏と共に鞍掛山合戦で滅亡」
『柳井新庄地区史』
*主力は毛利に下り、その他は離散したが滅亡はしていない
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室町 |
1557 |
毛利氏 |
右、『柳井市史』にあり。 |
「楊井武盛、毛利に下り養父の遺跡地、秋吉別府の内30石を安堵される」『萩藩閥閲禄』
(閥閲禄中、本家藤原姓楊井氏)
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室町 |
1557 |
毛利氏 |
右、『柳井市史』にあり。 |
「楊井隠岐守何某、玖珂郡南桑の内8貫を給地として安堵され、南桑に移住した」
『萩藩閥閲禄』(多々良姓楊井氏)
*『閥閲禄』の記載は「元楊井庄に居住した矢野氏が後に楊井姓を名乗った」と記している。
しかし、楊井氏の本拠地(現忠信・新生地区)の小名は、(多々野)即ち(多々良)と同義語である。
してみれば、戦後の禄高の扱い等併せて勘案すれば、負けた側の配慮から、『閥閲禄』作成時、楊井氏を隠して元矢野姓と口述したと推測される。
その根拠は、『閥閲禄』の『藤原姓、多々良姓共に、楊井領家(楊井を治めていた)」の記述である。
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安土 桃山 |
1601 |
吉川氏 |
「楊井庄、岩国領となる」
『柳井市史』
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江戸 |
1625 |
吉川氏 |
「楊井庄から柳井庄へと字が変わる」
『市史』『熊野検地・坪付帳』 |
下記の文の如く、まだ変わっていなった。萩本藩の熊野氏が楊井を検地した時、楊と柳を誤認。
最初は単なる勘違いとして記入したことに始まったと思われる。
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江戸 |
1639 |
吉川氏 |
右、『柳井市史』にあり。
*『市史』は複数名が担当別に記述されている為、整合性のとれない個所がある。その中、右及び下記の記述が正しいように思れる。
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「代田八幡宮石鳥居には、右檀那当國楊井住長谷川浄感、寛永十六歴三月吉日」の銘があり、1639年当時、一般にはまだ「楊井」の字が使われていた」
『柳井市史・信仰生活・伊藤芳江述』 |
江戸 |
1652 |
吉川氏 |
「楊井から柳井の字に統一される」
『旧藩時玖珂町村制度概略』
『柳井市史別項』
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歴史に適った記述と思われる。楊井から柳井へと字が変わったことと、当地に楊井氏の記録が残っていないことは幾何かの関連が有るように思われる。
この為、変わった時期は正確でありたい。
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江戸 |
1666 |
吉川氏 |
「柳井地名命名」の根拠、般若姫伝説。 その舞台である、柳と井戸が存在する湘江庵。 湘江庵の長弁が亡くなった年が、正式開山となっている」『柳井市史』
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湘江庵開山当時、「般若姫伝説・柳と井戸」はまだ出来ていなかった。 |
江戸 |
1700
以降 |
吉川氏 |
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「般若姫伝説・柳と井戸」誕生
般若姫伝説は、近松門左衛門(1653~1724)
が、大分県大野郡の『蓮城寺縁起』の民話「真名野長者」を基にして、歌舞伎の台本『用明天皇職人鑑』を著した。之が「炭焼き行者」「草刈り山路」「般若姫伝説」等に変わりつつ全国に広まり、夫々の土地の話として定着し、特に瀬戸内に多く残っている。
詳細は「柳井の地名命名について」にて。
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江戸 |
1668 |
番 外 |
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前述、毛利に下り美祢郡秋吉別府の一部を知行した別家藤原姓楊井氏・楊井武盛の玄孫?にあたる
「楊井三之允春勝は、山陽小野田舟木代官として、寛文年間(1688)に近世最大規模の開作と言われる高泊開作を主催し、「外は蓑でも内は三之允」という口碑を残している」
「山陽小野田市」HP
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