GendaiGuitar  No.474 June 2004
濱田滋郎対談 123 ソンコ・マージュ
濱田 ユパンキが亡くなって、12年ですね。
ソンコ ちょうど5月だからね。だから今日は、いいときインタビューに来てくれました。死ぬ3カ月前に〈インディオの道〉歌ったの、知ってます?アマチュアが録ったんですよ、チューリッヒで。絞るような声でね。よく歌ったね。それで最後に「エル・アラサン……」って2度言ってね(註:『エル・アラサン』はエバンキの愛馬の名。曲名にもなった)。馬は数十頭いたらしいけど、やっぱりあの馬が好きだったのかもしれないね。それが最後ですよ……(〈インディオの道〉を弾き語り)。
濱田 (聴き終えて)いや、最高の贅沢ですね。
ソンコ この3カ月後に死んじゃった。その最後に歌ったのが、今から演る〈エル・アラサン〉。ユパンキは完全にやらないで死んだから、完全にやりましょうか、代理人が……(〈エル・アラサン〉を弾き語り)。
濱田 (拍手)すばらしい費沢だね。いやあ懐かしい、本当にユパンキが弾いた音ですね。同じ音だね。
ソンコ ユパンキがくれたギターだから、A・Yってイニシャルが入ってるんだ。で、俺(の本名)が荒川義男でしょ?向こうが気がついたの、「同じだなあ」と。これは何かあるでしょう?このギターはね、いろんなギタリストが弾いてるんだけど、音が出ないんだって。アルミを使ってるでしょ。だからタッチが普通じゃない。それに、逆に張ってますからね。(E弦のところが@弦で。)
濱田 私も一度そのことを開いてみようと思ったんだ。ユパンキが左利きだから。
ソンコ だんだん鳴るから、っていうんですね(笑)。それで1年以上かかって鳴ってきた。今鳴ってるでしょ。
 
濱田 ええ、鳴ってます。
ソンコ 今、ユパンキが演ってるのと同じ音になってるんですよ。やっぱりユパンキの“魂”だからね。ユパンキの精神とかそういうことを知らないとね、鳴ってくれない。
ユパンキとはいろいろ運命が重なるんです
濱田 本当に残念だったんだけど、1月の(NTV系の)番組を見損なっちゃったんです。
ソンコ 今度またやりますよ、1時間の番組にして。だってアルゼンチンまで行って、3時間ぶん録ってきたんだから。いろんな人に会いましたよ、スマ・パスとかね。セ一口・コロラードにも行きました。ちょっと郊外なんだけれども、インディオ語だろうな、“アパチェタ(墳墓)”があるんですよ。そこで演奏会やってくれ、っていうから、やったんです。
濱田 それほどこにあるの?
ソンコ ちょっとやそっとでは行けない(笑)。ユパンキが1947、8年に蟄居したでしょ、そこですよ。電車も何もないし、自動車にどっかんどっかん揺られてね。そこからまた杖を持って歩くんですよ。いったん上がってまた下ったところに、やっとユパンキのいた家の屋根の頂きが見えるんですね。それで墓の前で演奏したんですよ、墓にキスしてね。ユパンキのせがれの“コージャ”も来てね、司会をやってくれたんだ。
濱田 彼も、ユパンキのCDを出してますよね。
ソンコ 息子は歌も唄ってるけど、僕が行くとやめちゃうんです(笑)。「親父のように歌ったら?」って言ったら、「あれは歌えそうで歌えないんだ。おまえのほうがよっぽど親父に似てる」って(笑)。
濱田 それはしょうがないよ、年季が違うんだもん。
ソンコ 僕だってユパンキの真似してるわけじやないんだけど、あの精神を汲むとああなってくるんですよ。ポピュラリティにはなれないんですよ、僕の場合は。僕はユパンキから、単に技術だけを習ったわけじゃない。人間の精神を、特にトレランシア(寛容)とイグアルダー(平等、各民族の文化の等価値)を教わったんです。僕は自分のギターの中に、いつもそれを生かそうとしてきた。コージャが僕のことを「本当の(ユパンキの)後継者だ」と言ってくれるのも、精神を受け継いでいるからだと思ってます。
濱田 いや、本当にね、ユパンキのスタイルで歌える入っていうのはいないですよ。ソンコ・マージュっていう名前をエバンキにもらったのは、1967年?
ソンコ もともと僕にくれた名前は、“トゥパク・マージュ” なんだよ。これに僕が、よけいなクレームをつけたんだよ。演奏会で「次はトゥパクさんどうぞ」って言われたら・…日本だと、お客さんが笑らちゃうじゃないですか(笑)。そうしたら「“ソンコ”は?」と……“心”だっていうから、これでいい、と。“マージュ”は“川”ですね。で、ユパンキが〈トゥパク・アマルの犠牲〉っていうカンタータを作ったでしょ。その中の〈インディオの子どもの歌〉に「ソンコ、ソンキート(心よ、いとしい心よ)……」ってあるのは、僕のことなんだって。僕が80年にパリに行ったときに、ユパンキが台本をくれてね、「これはおまえなんだ」と言ってくれて……なんだか、涙出ちゃったな。こみあげたね、これも。僕みたいな者を、最後まで想ってくれたんだね。
濱田 いや、大事にしてましたよ。
ソンコ コージャが、「あんたの写真は、親父の机の上にいつもある」……そう言ってました。
濱田 そもそも最初は、給費留学生としてスペインに行って、セゴビアについたりしてらしたでしょう?
ソンコ セゴビアについた時点では、もうクラシックとフォルクローレの二刀流だったんですよ。最初は、ヴァイオリンだったんです。だから僕とユパンキの弾き方は、テクニック的にヴァイオリンに近いでしょ?
濱田 ユパンキも初め、ヴァイオリンやったんですよね。
ソンコ そう、だから、ユパンキは慧眼だね、僕がヴァイオリンやってたことを見抜いたね。僕も、ギターを、なるべく撥弦じゃなくて擦弦楽器に近いように弾こうと思ってて。そういう大家はいないかと思ってユパンキに会ってみたら、「これぞわが師だ!」と思ったんです。セゴビアだって、それに近いね。セゴビアとユパンキは、音楽の種類は違ってもね、非常に共通点ありますよ。
濱田 あれだけ‘‘歌える’’のは本当に素晴らしいですね。
ソンコ その両方が私の師ですからね。僕は不肖の弟子で申しわけないけど、たいへんなものだよね(笑)
濱田 ヴァイオリンからギターに移るきっかけはどういうことだったの?
ソンコ どうしても僕は、ボウイングが下手でね。「ノコギリじゃないんだから」ってずっと言われてたんですよ。音域が高過ぎるのも嫌いだったから、よしチェロだ、と思って、チェロを買いにいったの。そしたら、全然金が足りないの(笑)。それで結局、ギターを買ったんですよ。中出阪蔵さんっているでしょ。中出さんに金がないことを訴えたら、特別安くしてくれたんですよ(笑)。で、関西の(チェロ製作家の)猪子さんという人を紹介してくれて。それで、チェロも買ったんです。中出さんのギターは、今でも地下室にありますよ。これは生涯取っときます
濱田 中出さんのギターはいいですよね。うちにも1台ありますけど、弾いてると良くなってきますよ。
ソンコ その後、有名になるにはどうしたらいいのかと思?たら、NHKのオーディションを受けろ、というんですね。ひと月にいっぺんあって、そこに受からないと、ラジオに出してくれないんです。最初、余計なこと聞いちゃったの、僕は。「審査員はどなたですか?」と。そしたら、大御所なんだよ。野村光一さんと、堀内敬三さんと、NHKの音楽部の人。もう、手が震えちゃって(笑)。それでみごと不合格。で、2度目から受かったね。それから、だんだん仕事がくるようになったんです。
濱田 じゃ、それでもっばらクラシックを弾いて、フォルクローレを始めて……そのころ、あんまりフォルクローレ弾く人はいなかったでしょ? やっとユパンキのLPレコードが出始めたころですよね。
ソンコ これは偶然なんだけどね、ラジオでユパンキを聴いたことがあるんですよ。バッとラジオつけたら、今にして思えば〈ボブレシート・ミ・シガロ〉が聴こえたんです。こんなに心打つ音楽家がいるのかなと思ったら、これがアタウアルパ・ユパンキ……僕は10代ですよ。
濱田 私も10代の終わりごろですね。ラテン音楽の評論家の高橋忠雄先生が、レコードコンサートをヤマハホールでやったんですよね。それでユパンキを聴かせてくれてね。昭和でいうと30年ぐらいね。当時は「ムシカ・フォルクロリカ」って言ってましたよ。あと関西にいた野崎浩一さんっていう人が、実業家なんだけど、ユパンキに心酔してレコード出してましたよね。私もギターはセゴビアから聴いたんだけど、ユパンキに触れたときの、あの感動っていうのはやっばり……。『現代ギター』の創刊が1967年で、私は創刊の2号目から書かせてもらって、まずユパンキのこと書いたんです。
ソンコ 今だから言うけど、1964年の来日のときは、僕が(招聴元の)東宝芸能に売り込んだんだよ。偉大な人だから会え、つて、呼ぶことを決定させちゃった(笑)。
濱田 それはいいことをしてくださいましたよ。
ソンコ ユパンキとは、鎌倉から少し離れたところの真言宗か何かの洞穴にも行きました。そうしたらユパンキが、「これはヒガン(彼岸)だろう」って……住職に、すごい人を連れてきてくれた、つて感謝されましたよ。ユパンキが死ぬ前の日には、僕は赤坂に演奏会の打ち合わせに行ったんだけど、そのときも不思議でした。打ち合わせだから別にギターを持っていく必要はないんだけど、妙に持っていきたいんですよ。そうしたら翌日の読売新聞に、ユパンキの死の知らせが出てた。それから夢も見た。あのね、僕がユパンキから2メートルぐらい離れて崖を歩いてたの。そしたらユパンキが、ふっと崖に消えちゃったんですよ。ハッ!と思って目が覚めたらば、ユパンキが死んだ日の朝の5時半ごろですよ。……ゾッとしないですか?
濱田 確かにゾッとはしますけど、素晴らしい話ですねえ。
ソンコ ユパンキとは、いろいろ、運命というか、宿命が重なるんですね。
濱田 ユパンキを演奏されるソンコマさんももちろん最高なんだけど、ご自分で歌も作られるでしょ?
ソンコ 作ってる。誰もやらないようなものやるんですよ。〈祝言の晩げ〉って知らないでしょ。津軽弁で“結婚の晩” っていうことでね。青森の三戸の教育委員会が僕のコンサートをひらいてくれて、そこで演ったんですが、津軽弁はむずかしくてね。僕も栃木県生まれで、東北文化圏だから訛ってるんだけど、完壁な津軽弁はできません。これはね、貧しい結婚式を挙げる歌なんですよ。三戸のある小学校でやったんですけど、みんな泣いちゃってね……津軽は貧しかったでしょ。1700年代には日照りがあってね、日本全国で100万人以上死んだそうですね。来月も、琵琶湖の奥なんですけど、昔の日照りで集落の人が半分以上死んだところに行くんですよ。そこに行くのは2回目なんですけどね、このあいだは人口600人なのに、演奏会に100人集まってくれたんです。さすがに胸にグッとこみ上げるものがありましたよ。岐阜県揖斐郡坂内村・・・・・そういうところ、いいでしょ。
濱田 いいですねえ。
ソンコ 言っちゃなんだけれどもね、そういうところにいる人のほうが、はるかに僕の音楽を理解してくれますよ。三戸でも、800人が涙した。そのあとがたいへんなんだよ。演奏会は1時間40分で終わって、全員へのサインに4時間かかったんです(笑)。僕は、これが日本のフォルクローレ、というような形にしたいと思うんですよ、こういうものをね…(弾き語り)。
濱田 (拍手)これは、感動しますよ。ユパンキに聴かせたかったねえ……。
ソンコ 惜しいことしたね。
濱田 でも聴いてますよ、きっと。
ソンコ 天上でね。
濱田 しかも、このユパンキから授かったギターを弾いてるんだもの。
ソンコ 日本語の歌は20何曲作ってますけどね、その中でレコーディングしたのは5、6曲。『ひとりで旅に出た』っていう、CBSソニーのLPに入ってます。こういう(〈祝言の晩げ〉のような)歌は、貧乏というものを相当胸に受け止めないと、歌えない曲です。僕らは、貧乏な時代知ってるんですよね
濱田 うん、そう、本当にね。
ソンコ うちの姉さんがね、戦後に結婚式を挙げて、赤城山のほうに新婚旅行に行ったんですよ。そうしたら、途中で帰ってきたんですよね。木炭車だから馬力がなくて、坂が登れないっていうの(笑)。だからとうとう姉さんは、新婚旅行行ってないよ。
濱田 本当に何もなかったからね、戦後は。こういう曲がCDになるといいですね。というより、新しくそういうのを録音してくださいよ、ぜひ。ソンコマさんは、専属はないの?
ソンコ 専属は……結構制約多いでしょ?だから、悪いけどやめさせてくれ、って言ったの。でも最近、テレビにも出たでしょ。視聴率が良かったんだって、18.7%。つまりね2,000万人も見てるんですよ。だから最近、悪いことできない(笑)。どこ行ったって、「あれ?ソンコ・マージュさんじゃないですか?」なんて言われてね。めんどくさいから、「よく間違われるんだ、似てるんだけど違うよ」なんて言って帰ってきちゃう(笑)。それにしてもテレビの影響はすごいね。100万円ぐらいのカツラをあつらえなきゃ(笑)。今度のインタビューのときは、カツラですからね(笑)。
濱田 じゃ、今CD出したらベストセラーにりますよ。