天 地 人  「土への回帰」     ソンコ・マージュ 年代不明
 その月、益子の空は暗かった。ここが焼きものの郷だからといって、窯煙のせいではなかった。
「このぶんだと、客が来る頃は雨んなっかも知んねべな」
 自動車を駆って私を案内してくれた主催者の地元の陶工は、がっかりしたように言った。 私が、益子の在る栃木県の生まれでありながら、ここを訪ねたのはこれが二度目である。数年まえ、近くに住む私の知人が益子に別荘を建てたから遊びに行かないか、と誘われて以来のことだ。だが、こんどの益子行は遊びではなく、この小さな山合いの陶器の郷が、私のコンサートを催ってくれることになったからである。
 その夜は案の定、雨となった。この町でのコンサートは初めてであるというのに、意外に私の名を知る人たちが多かったのは僥倖だった。べつに陶工たちに限って聴かせる催しでもなかったが、客の大部分が、益子に住む若い陶工たちで埋められた。
 予備の椅子もなくなったと知らされたらしい陶工たちが、つい今しがたまで使っていたと思われる黄色い陶土がこびり付いた自分の椅子を片手に、会場に姿を見せたのが印象的であった。そのなかには、バーナード・リーチや濱田庄司らの影響で、この町に住みついたと思われるイギリス人と覚しき陶工たちの姿も何人か見えていた。
 訊けば、その日集った陶工たちの殆んどが昭和生まれの若い学卒者で、セトヤと呼ばれていたような、昔ながらの地元の陶工たちの姿は見受けられなかった。セトヤと言われたのは、当時の栃木周辺の陶磁器に対するイメージが、益子より瀬戸のほうに強いので呼ばれた焼きものを扱う人たちの代名詞である。
 たいていの焼きものの郷がそうであるように、益子にも牧歌的な静けさが漂う。町は小高い山に囲まれていて、大きな待合室にいざなわれているような雰囲気がある。こういったところに、都会から数時間という僅かな時間で運ぼれてしまうと、タイム・カプセルで遠い昔に逆行したかのような不思議な気分になり、まだ私が小童であった時分を憶う。
 そのころ、栃木市の生家には、益子の焼きものがやたらと多かった。台所にあった土瓶も、醤油の入った片口も、おかゆを焚いた土鍋も、日用雑器の殆んどが益子の焼きものであった。それらは、分厚く、素朴で、とり澄ましたところのない、伝統的な茶色の柿粕の流し掛けで、大地と触れ合った温もりを感じさせる陶器であった。
 コンサートの帰路、不意に昔の益子焼への郷愁が胸をよぎった。私は生家に立ち寄り、古い益子の焼きものを捜し出そうとしたが、それらの陶片すら見当たらなかった。昔の益子の焼きものほ脆かったため、すべて壊れて姿を消したのだと母は言う。
 昔の益子の焼きものが、壊れ易いからといって大衆に敬遠され、不興を買っていたわけではなかったと言う。むしろいまより、下野の大衆の支持と愛着は大きかったようである。
 それは、当時の益子の焼きものは廉価な日用雑器であったという単純な理由に他ならないような気がする。決して芸術的であったというような理由からではないようだ。
 その後、リーチや濱田庄司らが、昔ながらの益子の職人による柿釉の雑器に、新古典主義とでも呼べそうな新しい美も付加し陶芸家を志す多くの人たちがこの小さな郷に殺到した。
 この現象は、私の演るフォルクローレの音楽と深と相関関係にあるように思われて、私にとって由々しき問題なのである。
 ところで、そのフォルクローレのことに触れてみるが、この呼び名の語源は音楽とは直接関係がなく、フォルクロア(民俗学)というアカデミカクな意味の語である。これが南米や中央アンデスに住むインディオたちの演る音楽のジャンルの呼び名になったのは、まだ日の浅いことである。
 インディオの住むアンデスには、インカと呼ぶ大きな文化があった。当然そこには、彼らの有つ固有の音楽がある。それは、日本古来の音階に似た五つの音階をもっていた。そして不思議にも彼らは、われわれ日本人とよく似た風貌をしていた。
 彼らがもつプレ・インカ時代からの楽器は、ケナと呼ばれる葦笛くらいのものであった。そして彼らの音楽は、ある時はアンデスの風が、ある時は月の光の糸が、またある時は平原の小鳥たちの歌が運んでくれたものであった。それらの歌は、彼らの人生に寛容や希望や苦悩を教えた。彼らは歌のなかで闘い、長い年月を触やし続けてぎた。
 この、素朴で、単純で、衒いのない音楽は、インディオたちの生活に掛け替えのないものとなった。当然、フォルクローレなどと分類した呼び名もなく、音楽をなりわいとした者などは居なかった筈である。そこにあったのほ、インディオたちの世界の、人間共同体としての音楽だけであった筈である。
 十六世紀に入り、スペイン人が侵入し、ヨーロッパの風が彼らの大地を横切り、音楽も血も混交された。インディオたちのポンチョは、侵略者の文化世優しく包み、その温もりで今日のフォルクローレを育でてきた。
 音楽は混交されることにより芸術性が昂まる。それには個を自己のものでなくなる領域にまで掘り下げねばならない。そのとき普遍性が生まれる。同時に、自己と他との関係を見定める必要もある。そこで哲学が生まれるだろう。原住民インディオの歌から生まれたフォルクローレと栃木の民窯から生まれた現在の益子の陶芸とには、希望と苦悩とのふたつの魂の葛藤があるに違いない。その葛藤を孕みながら歩み続けるなら、われわれの芸術は滅びはしないだろう。陶工が、より土を見っめ、より火を見つめ創造力を身につけねばならないように、私も、より風を感じ、より光を受け、より人間をみつめて、原住民の音楽を越えたものを創らねばならぬ。
 人は、大地を離れることはできない。長い道のりを歩み疲れれぼ、また土に還る。人は歩く土である。そして表現者は、自然が教えた無数の芸術を解釈して、世に伝えるだけだ。