週刊プレイボーイ アタウアルパ・ユパンキ来日独占インタビュー

フォルクローレの巨匠 A・ユパンキが語る

<大地と風と音楽と>
・・・・私は人間臭を感じない音楽を認めない・・・・

 
 日本でいえば昭和4年の頃だが、アルゼンチンの首都のブエノスアイレスの貧民街に、20才の腹をすかせた男がいた。 彼はフォルクローレ歌手だった。ある朝、目がさめると、ポケットには1センターボのコインもない。このアルゼンチン・タンゴの本場では、タンゴ歌手はやっとこさっとこ食えたが、酒場の客は土くさいフォルクローレ歌手の帽子には、コインを投げるどころかソッポを向く。
「村のフェスティバルがあるよ。行って稼ぎなよ」と、友だちが教えてくれたのはブエノスアイレスから60`はなれた村祭りである。若者はドタ靴をピカビカに磨き、ギターを背にして歩きはじめた。 川を渡り、アルゼンチンの原野を太陽であぶられて、彼がやっと村についたのは、フェスティパルがはじまる2時間前の午後9時だった。店では村の男たちがピーノ(ワイン)を飲み、脂がこげる肉をくっている。出演したら幾らかくれる。若者はがまんして、樹にもたれて練習した。すると、銃声。殺人事件でフェスティバルはお流れ。
 この若い男、アタウアルパ・ユパンキ(ATAHUALUPA・YUPANQUl)は、月光に照らされて、涙も涸れて、帰っていった。
「私の青春はいつもこんなだった」と、彼はいう。
11月3日、日比谷野外音楽堂のコソサート。聴衆は20代の若者ばかり。ギターのインストゥルメンタル・ナンバーの『悲痛のビルダーラ』『恋する鳩の踊り」。ギターに人生を捧げてきたその指のすばらしさ。
 その夜、ソンコ・マージュ氏はこの恩師と会った。ソンコ・マージュ氏はレッキとした日本人で、その名は恩師ユパンキがつけてくれたものだ。

ソンコ 先生、9年ぶりですね。あのときいただいたヌーニュスのギターは、いまでも大切に使っています。
ユパンキ 君のレコードはパリで聞いたよ。かなり進歩したようだね。僕は家族をアルゼンチンにおいて、ひとりでパリに住んでいる。日本とフランスほどフォルクローレを愛してくれる国は ない。アルゼンチンの有名なグループもパリに来ているよ。
ソンコ アルゼンチンの有名なピアニストのアリエル・ラミレスが先生の曲をよく弾いてますね。彼は日本でも知られているピアニストです。
ユパンキ ラミレスはダメだよ(笑)。私にいわせれば正確すぎて、機械的すぎる。だから人間の感 情が出て来ない。僕の家内もピアニストだが、ラミレスは家内の前では決してサンバは 弾かないんだ。

ユパンキの身長は、優に180センチを越す。昔はフットボールやテニスをやったが「スポーツは私の生き方の本流をなすものではない」からやめてしまっている。

【宮沢賢治と若山牧水に強く魅かれる】
 
アルゼンチンの草原は果てしなく広い。1908年1月31日にユパンキが生まれた所は、ブエノスアイレス州の片田舎の村である。 村の名はカンポ・デ・ラ・クルース(十字架の草原)といった。地平線は遠く、牛がひねもす草をはみ、ソンブレロをかぶったガウチョが馬を走らせている。夜の帳りがおりるとタキ火が赤々と燃えてギターが鳴る。 少年時代のユパンキは、そのギターが好きだった。
 父はケチェア族のインディオである。誇り高いインカ帝国の民が先祖だった。母は1609年にアルゼンチンに移住してきたバスク系のスペイン人の血統だ。バスクはピレネーの山に住む謎の民族。白人種というよりも、ヨーロッパを席捲したあのモンゴルの後裔といわれている。 こうしてユパンキの顔にはアジア系の影が残っている。

ソンコ この9年間で、先生にとって変わったことがありましたか?
ユパンキ スペインに行ったことだね。スペインは私の祖先の故郷で行きたかったのだが、私はフランコ大統領とトラブルを起こしていた。思想的に相いれないのだよ。でも1968年にトラブルが一応、氷解して行ったんだが、レコードの賞などをもらって歓迎された。
ソンコ 先生はプロテスト・シンガーといわれていますね。
ユパンキ 芸術をやると、政治的にものを見れるようになるものだ。そして自分に正直な表現をすれば、それはプロテストすることになる。必然的にね。だから、プロテストのためのプロテストではない。芸術はプロテストするが、プロテスト・シンガーなんて信じない。そもそもういう人は、本当にプロテストするだけの勉強をしているだろうか。
ソンコ 先生は.ソ連とアメリカには行きませんね。
ユパンキ 招待されないから行かないだけだよ(笑)
ソンコ 大国は嫌いなんでしょ。
ユパンキ 大きな魚が小さな魚を食う…・。でも、それは仕方のないことだよ。私は日本のケンジ・ミヤザワが好きだね。フォルクローレに『アルチ』という曲がある。岩に絞めつけられ痛めつけられても、小さな草が小きな花をつけるという歌だ。
ソンコ 宮沢賢治ですね。
ユパンキ 私はケンジの2〜3編の詩と散文を読んだだけだが彼の生き方にひかれるのだよ。農業学校の教師として、自分の技術を大切にして世に出ようとはしなかった。ケンジは自分の道をまっすぐに生き抜いている。ボクスイ(若山牧水)も知っている。彼は非常に苦しい生活を送った。ボクもそうだったし戦後の日本もそうだったろう。あの苦難の人生に、深い感銘と感動を受けるネ。
ソンコ 芸術は喝采からではなくて、芸術家の苦しみの中から生まれてくるものですからね。フォルクローレも、スペイン人に抑圧された民衆の声でしょう。そこから、日本の民謡にはない力 強さが生まれてくるんですね。
ユパンキ 私が感銘を受けることといえば、自分の身を犠牲にして冷静に考え、対処する人々だ。理性を失わずに光りを見つけた人だ。悩みの中から光りを見つけた人の典型がベートーベンだろう。らくな人生をすごしてきた人が美しい作品を生むのは、それほどむずかしいことではない。でも、つらい人生を送ってきた人の美しい作品には、感動する価値がある。

【本当に地方的なものこそ国際的になりうる】
父がユパンキにギターを習わせたことがある。少年のユパンキはギターでフォルクローレを弾いて、こっぴどく殴られた。 彼はギターで、エスティロやウンガロを弾くのが好きだった。それを知った父は、少年を巨匠パウティスタ・アルミロンに入門させてくれる。なんといい父だろう。ユパンキはアルミロンに古典ギターを教えられた。

ユパンキ 私がバイオリンやギターを習いはじめたとき、「ワシたちの先祖は木なんだよ。    幼いお前が知らず知らずのうちに木製の楽器を手にしているんだからネ」と祖     父がいった。そう…・どうも私の先祖は木らしいんだよ(笑)。もう20年も木を研究して、今では確信してる。1609年にスペインからやってきた先祖は、大工みたいな仕事をしていたらしい。そして私の父まで、ずっと木にかかわりをもってきた。私は偶然を信じない。すべてのことには原因がある。人間だって、偶然に地球上に現われたものではない。
ソンコ ユパンキ流の哲学ですね。先生はクラシックではバッハをお弾きになりますが、コンサートでは.絶対にバッハを弾きませんね。
ユパンキ プライベートでは教会に祈りに行くように、バッハを弾くよ。でもコンサートでは、私はフォルクローレのユパンキだからね。しかも舞曲のリズムを数10年間も弾いてきた。もうクラシックを弾く指をなくしたんだよ。
ソンコ ぜひ聞きたいのに残念です。先生はよく「フォルクローレは10%を作曲家の霊感がつくり、あとの90%は自然がつくる」とおっしやいますね。
ユパンキ そうです。もし自分の音楽がバッハやベートーベンのように全人類のものになればうれしいことだが、私はそんなことを考えて作曲しているんではないんです。私はまず、自分の故郷のアルゼンチンの大地、草原、木、山、馬、馬の寿命を思い浮かべる。アルゼンチンなしに私はない。アルゼンチンは私の中にある。だからパリでも、ロンドンでも、ヨコハマでも、私は作曲できるんです。そして本当に地方的なものこそ国際的になりうる。と、いえるのかもしれない。
ソンコ 先生の代表曲の『牛車にゆられて』の作詞はロミルト・リッツですが、彼はどんな人ですか。
エバンキ 彼はガウチョなんですよ。隣のウルグアイのガウチョにして詩人なんです。もう国民的英雄です。彼の父は船乗りで、彼はガウチョ。同じ大自然を相手たしている。私もいろんな曲を作ったが、あの曲にはいまでも愛着を感じている。

『牛車にゆられて』
心棒に脂をぬらぬから おいらはログデナシだとさ 音のたつのが好きなのに
どうして脂をぬるものか これはあんまり退屈だ わだちたどってのろのろと
道をつたってごろごろと 楽しみひとつあるじやない 静かさなんぞほしくない
思うこととてないものを・・・・ あるにやあったが今はもう 古い昔の思いぐさ
おいらの牛車の心棒よ けっして脂はぬるものか ギイコ、ギイコと鳴る
心棒だけが支えるこの人生

 故郷にやさしく迎えられなかった詩人がいるように、ユパンキは独裁政権が続くアルゼンチンでは、うけいれられない時期が長かった。ヨーロッパへ行ったのはそのためだが、パリの国際民謡祭では大賞をもらうことになった。よりよい地方性はたしかに国際性を帯びるのだ。

【信念という太い心棒を持ちつづけよ】
 アルゼンチンの民衆は、ユパンキを「ドン・アタ」としたしみをこめていう。アタウアルパの旦那・・・というような意味である。ちなみにアタウアルパもユパンキも、インカ帝国の王の名をとったものである。

ユパンキ  私は自分の音楽を残そうとして作曲しているんじやない。自分の作品が残るかどうかは、自分のカではどうしようもないことだ。でも社会で歌い継がれていく歌というものは、借りものではない自分の生活から生まれたもの・・・直感したもので、さらにそれを的確に表現しえたものということはハツキリしている。ことに民族音楽は血で受け継ぐものだ。いま、どんな歌がうけるかと市場調査をして、それにもとづいて作るという風潮があるネ。だが、創作には順序ってものがある。最初に自分なんだよ。
ソンコ 最後になりますが、若者に必要なものはなんだと思いますか。
ユパンキ 私は若いころから自由にやってきた。それができたのは、まず体力があったからだと思う。それからフォルクローレはぜんぜん盛んではなかったからずいぶん苦労したけど、「私がやるんだ」「私しかいないんだ」と思っていた。信念があったといえるだろう。太い心棒だけは必ず離さないでまっすぐ生きることだよ。

 1946年、ユパンキは『セロ・バジョ』(孤独の石)という本を書いた。さらに『インディオの道』『ギター』などの本を書く。『インディオの道』は『石の地平線』という映画になりふきこんだギターで、ヴェネチア映画祭の音楽部門大賞をとっている。
 ユパンキは農夫にもなり、ガウチョもやり、新聞記者の見習いも、小学校の代用教員もやった。そこから土への愛着、馬の寿命とはかなさ、政治批判、教育への関心も生まれてきた。
 ユパンキの心にひろがるアルゼンチンの風吹く草原、やけつく太陽、夜になると青く輝く夜空の新月も、われわれにはない。
 といって、われわれのギターに、日本人の愛、哀れさ、歓びがないならば、ユパンキは絶対にそれを歌とは呼ばない。技術よりも心だと、この巨匠はいいつづけるのである。ここから、演歌でも、軍歌でも、大量生産のポップスでもない、新しい日本の歌が生まれて
くるはずではないだろうか。