「まさか、あの薬を使える者がいたとは……」
暗い部屋。
何処かの書斎のようにも見える。
が、そこはとある大学の研究室。その一角の緑川教授の部屋だ。
頭を抱え悩んでいる初老の白衣の男こそが、当の緑川鷹史(みどりかわたかし)教授だ。
「資料こそ盗まれてはしまったが、構造式自体は私と一分の研究員にしか解らないはず……だが、彼等は無実だと警察も言っていた……いったい、何がどうなっているんだ……?」
手元に見えるのは何かのカルテにも見えた。
ソレに目をやりながら緑川は溜め息混じりに呟いた。
「青海(おうみ)先生……私は一体どうしたら……」
と、その時、隣の部屋からまるで暴れてでもいるような物音が聞こえてきた。
「な、なんだ?」
抱えていた頭を上げて物音のする方にある壁に目をやる。
隣にあるのは――
「実験室でいったい何が……?」
自分の想定外の物事に黙ってじっとしていられないのが人の性である。
緑川も勿論例外ではない。
ソレまで目を据えて見ていた資料からも手を放し、椅子から立ち上がった。

ガラスが割れる音。
何か堅い木のような物が当たる音。
そして……まだ若いが、少し嗄れているような声が聞こえた。

「何処だ?何処かにあるはずなんだ……どこにいったい何処に!」
部屋の中は、まるで嵐の通り過ぎた……いや、まだ嵐はその中にいた。
「さ、咲智(さち)くん……なのか?」
荒らし果てた部屋の扉を開けて入ってきた緑川は立ちつくし名を呼んだ。
「先生!緑川先生!」
女性 ―― 咲智は緑川に掴みかかりながら名を呼んだ。
「その声……それに顔……間違いない……だが、その髪は……ま、まさか、君まで!?」
「先生……もう、何日も前からなんです!お父さんが、死んだときから……」
「青海先生が!?ま、まさか……USは人体感染も起こすのか?!」
「そう、みたいです………」
緑川の肩を掴んでいた手を項垂れると力なく答える。

彼女 ―― 青海咲智の父親、青海雷造(らいぞう)は緑川と、そして、咲智を含む何人かの研究員、学生と共に新薬の研究をしていた。
新薬というのは、高齢化の進んだ昨今、入院後退院するにも多大なリハビリ時間を要する患者が増えてきたと言うことで、その迅速化を図るためを目的にとした新種の筋肉増強剤のコトである。
薬品名は仮に“Uncanny Steroids”=直訳で“凄い増強剤”と安易な名前が付けられ、開発者の間では略称であるUSを使いアスと呼ばれていた。
ところがである………厚生労働省立ち会いの下で行われた記者会見も済み、簡易な人体実験も終わり、これから医療の現場で実際に使うというところまで行ったとき……ソレは、何者かによって盗まれてしまったのである。
犯人そのものもさることながら、その目的や入手手段さえも解らないまま、第一の事件が起きた。

その発端も、驚くべきコトだった。
皇居で何者かの手により、昭和天皇の墓が暴かれたのだ。
天皇家は、神道のために日本国内で唯一代々遺体は土葬としてきている。つまり、一般家庭のように肉体が灰になってしまうことがないのである。
そのことが仇となった。
暴かれた昭和天皇の墓から消えたモノは………遺体。昭和天皇自身の遺体である。
古代のエジプトや、日本でも豪族の時代と言ったほどではないにしろ、現在でも天皇の墓には装飾品や宝物が収められていた。しかし、それらには一切手を掛けず、天皇の遺体のみを何者かは持ち去ったのだ。
そして、その事件が発覚した日の夜中……永田町の自由(じゆう)公生(こうせい)党・通称自公(じこう)党本部前でソレが動いていたのである。既に絶命して二十年以上も経つ半腐敗した遺体 ―― 元昭和天皇と呼ばれた人間の器 ―― が。
最初に見つけた巡回中の警官によると、まるで全身を痙攣させているような状態だったという。
その為に、アルコール中毒か何かだと思い近付いたら、全身が爛れた遺体だったのだ。
勿論、昭和天皇の顔などその警官は知らなかった。もっとも、仮に知っていたとしても、すでにソレを見分けることは不可能な状態にあったと思うが……。
その事件が起きた翌日に緊急に報道陣に警視庁からの会見発表の通達があった。
そして、その席には、青海雷造、緑川鷹史を始め、US開発に携わった主要メンバー、それに厚生労働省の幹部管領達が同席していた。
会見内容は、昭和天皇の遺体盗難の件。そして、もう一つは、そのことよりも更に世情を動かす内容だった。
USには…………蘇生能力がある。
魂というモノの名を借りればその見解は間違いになる。しかし、科学のみで人の生を語れば、ソレは正しいコトになるのだ。
心臓を始めとする筋肉器官が活動可能ならば、全身や脳に血液を送ることができ、そのコトで、事実上死んでしまった人間を生き返らせることも不可能ではないのである。
勿論、病気などで死した場合、臓器などの機関が壊れてしまっているので、そこの修復を行わなければ不可能だ。
が、所謂寿命で死んでしまった場合、それは、筋力の衰えによる、脳への血流量の低下が原因である場合が多い。よって、その機能を正常化すれば、蘇生は可能となる。
そして、その効能がUSにはあるというのだ。
昭和天皇の死因は病死だ。ガンによるモノで亡くなったとされている。しかし、それはあくまでも宮内庁の報道官が語ったことに過ぎない。理由は分からないが、真実の死因は寿命だったのだ。そのことも、今回のことで明らかになった。勿論、その事実を隠していた宮内庁には何らかの責任が生じるだろう。しかし、今、世の中の興味は蘇生剤の存在だった。
また、警察当局もその点に重点を置いた会見を開いたのだ。
そして、そのUSが盗まれてしまったことについても……。
その事件自体は、基本的に皇居への侵入と遺体の持ち出しを基本とした捜査が行われている。
つまり、USの盗難についての事件よりも重要視されたのだ。まぁ、天皇家の関わりなのだから当たり前と言えば当たり前であるが……。

しかし、それが間違いだった。
昭和天皇の事件から僅か一週間で、次のUSによる事件が起きたのだ。
事件そのものは大したものではなかった。
東京湾で、大量に筋肉異常を起こした魚が発見されたのだ。
突然変異で、筋肉異常を起こす魚は希に捕獲される。が、それが何十匹もとあったらどうだろう?
間違いなく異常である。環境的な変化か。はたまた、人為的なモノなのか。どちらにしても東京湾の水質検査は必至である。そして、その依頼は城南(じょうなん)大学に降りてきた。
青海雷造や緑川鷹史が勤務する大学である。
かくして、急遽組まれたチームにより、検査は実行された。
結果は………東京湾内に微量ながらUSが散布された可能性があるというものだった。
USの実験段階でモルモットに使った際には、異常と言うほどの肉体変化は起きなかった。起きて、全身の筋肉が一割から二割急激に成長するというモノだった。
何者かが、USを改造している。
開発チームの脳裏にその考えが浮かぶのに時間はかからなかった。
そして、青海雷造もその例外ではなかった。

US自体の化学式や構造式は大学や教授達が個人で保管していた。勿論青海雷造も……。
青海は、異常な魚たちが発見された翌日から自宅の研究室に籠もりきりとなった。
家族に顔を見せるのは食事時のみ。それも、一日に僅か一回である。
そして、青海の体は見る間に窶れていった。
が、その甲斐あってか、青海は自力でUSの復元に成功した。しかし、それが、第三の事件を、そして、娘である咲智の運命をも変えてしまうことになろうとは……。
再び作られたUSは知らぬ間に、青海の体の中に入り込んできていたのだ。制作中に誤って体内に入ってしまったのかも知れない。または、皮膚からの浸入もある薬品だったのかも知れない。
しかし、どちらにしても青海の体内に入ってしまったことに変わりはない。
そして、その作用は青海が実験を終え、研究室から出てきたときに既に起きていた。
その異変に最初に気づいたのは咲智だった。
「!?お、お父さん……何、その頭?」
青海は厳しい父親であった。ピアスやタトゥーなどは勿論、頭髪を染めたり、派手なアクセサリーにさえも怪訝な顔をした。
咲智が二十歳過ぎでようやく口うるさく言わなくなったほどである。
その父親の髪が、深緑に染まっているのだ。
「ン?何だ、咲智……私の髪に何か付いているのか?」
気づいていないのか。それとも、髪を染めたことを肯定しているのか、咲智は戸惑った。が、次に発せられた言葉によって、父の言葉が前者であることを覚った。
「オイオイ、オヤジィ、俺たちには口うるさく言ってたくせして、自分は髪染めてるのかよ?」
青海の息子の鴇斗(ときと) ―― 咲智の弟である ―― の言葉だ。
「染めてるって……私がか?鴇斗、冗談は止しなさい」
「冗談だって?」
「お父さん、ホラ鏡見て」
咲智は手鏡を青海に手渡しながら言う。
「ン?…………」
手に取り鏡を覗き込む青海。
「な、何だ?何なんだこの頭は!?」
その様子は明らかに動揺していた。
「何だって、オヤジ自分でやったんじゃなかったのかよ?」
「馬鹿なことを言いなさい。私がそんなこと………ま、まさか!?」
と、そこで、青海の脳裏に一つの名詞が過ぎった。
 ――――US――――

筋肉増強剤など所謂ドーピング薬品の使用により、頭髪が抜け落ちてしまったという事例は数多く報告されている。
それは、筋肉や臓器の強化により、毛髪の細胞に悪影響、つまり、副作用として抜けてしまうと言うことだ。
そして、それはUSにも起こった。
ただし、この場合は抜け落ちてしまうのではない。頭髪そのものが変色してしまうのだ。従来の薬品でも脱色など、色素が落ちてしまうモノはあった。
元々、頭髪の色を形成しているのは、皮膚組織の色情報である。よって黄色人種や黒人は肌の色がベースとなり、より黒が強く出る。同様に、白人に代表される、明るい色の肌を持つ人種は髪も金など白系に近くなる。
それを狂わせる作用がUSにはあったのだ。
本来の髪の色を無視し、まったく異質のところから色情報を持ってくる。例えば、血液の中の赤血球や、眼球の中にある幾つもの色情報。眼球の中にある網膜には色を判断するために虹色グラデーションのような色情報が含まれている。
それらを髪の色情報として持ってきてしまうのだ。
その結果として、青海の髪は緑色となってしまったようだ。

「お父さん、一体何があったの?」
咲智の頭の中にその薬品の名前が浮かんでいた。ラッド実験の際に全身の色が金色に変化してしまった個体があったためだ。
が、それは勿論実験段階でのこと……つまり、他のラッドは即死。そして、その全身の毛が変色したラッドも全身爆破という奇怪な死を遂げた。
「ま、まさか……お父さん――」
「何だよ姉キ、心当たりでもあるのか?この不良っぽいオヤジの状態について」
「――USを……作ったんじゃ……」
「そう、だ……」
ほとんど聞き取れる限界のところで青海は答えた。
「と、とにかく、一度、大学に……緑川先生に連絡を!」
「無駄だ、咲智。私が作った薬だ。私に症状は解る。そうか……やはり、中途半端な機関と機材では中途半端な物しか作れないと言うことか……」
青海は呟きながら膝を突いた。
と、その瞬間、全身から血が噴き出した。
USの本来の効能 ―― 筋肉増強 ―― が姿を現したのだ。
異常に増強された筋肉は、血管を圧迫し、所々で血管を詰まらせる。その結果として、血管は血液が貯まりすぎて破裂を起こしてしまったのだ。
「ぐ……」
低い唸り声を上げる青海。
しかし、それも精一杯の声だった。
もう、それ以上声を上げられないまま、青海は全身の血液の殆どを吹き出しながら絶命した。

警察が到着したのは、青海が逝ってから二十分ほど経ってからだった。
死因ははっきりしている。しかし、変死であることに変わりはないので、青海の遺体は一時警察に押収された。
その翌日、通夜が執り行われ、翌々日の十月七日に葬儀が行われた。しかし、それは本人の遺体のないものだった。
警察から来たのは遺体ではなく、青海咲智に対する二通の手紙であった。咲智はいつの間にかUSの資料盗難の重要参考人として当局からマークされていたのである。
しかし、その父親が自ら薬品を作りそして、その効果で死んでしまったことで、幸か不幸かその疑いは晴れたのだ。
本来、解放状などはあるはずがない。よって、それは本来の用件と一緒についでに送られてきたものである。
本来の用件とは、USの完全破棄の決定報告書だ。どうやら、関係者全員に送られた物らしい。
咲智は、その二通の手紙を握りしめ、涙をこらえていた……。

「その翌日なのか?君のお父さん、青海先生の葬儀の翌日に、君の髪も……」
「そうです……どうやら、USは皮膚感染も起こすようで、しかし、それは特定の人だけらしいです。私は………こうなってしまいましたが、弟も母も何ともありませんから……」
「そう、か……」
「………先生、そんなことよりも、USの資料は何処にあるんですか?あるんでしょ?大学に?研究室に?」
「………残念ながら、君が欲しい情報はないよ。当然ながら、青海先生が持って行かれた資料は確認しただろ?アレで全部だ。私が記憶していることは、殆ど君も知っているだろう」



「さぁてと……もうそろそろ出かけるかな……」
何処かの倉庫。
闇の中。
声のみが、響いた。
「たまには、真面目に戦闘(仕事)しねぇとな……」
そして、足音が木霊する。
声の感じから、かなり若い感じの男だ。
「今回の敵は……少々厄介そうだ、な……」

扉が左右に開くと、中からエンジン音が聞こえ排気ガスが漏れだした。
そして、黄色を基調としたバイクが飛び出してきた。
ライダーは、オフロード用のフルフェイスヘルメットを被り、胸のはだけたワイシャツを荒っぽく着ている。
グリップを握る手にはめられているのはバイクに合わせたのであろう。黄色が主色のグローブだ。
一点、おかしいのは腰のベルトに挿されている紫色の袋に入った何かの存在……。

青年は、バイクを荒野に走らせた。
ほんの十年ほど前までは幾棟もビル群が建ち並ぶちょっとした都会(まち)だったのだが、直ぐ近くに出来たニュータウンに大半の人が引っ越してしまったために、その殆どを国が買い取り、現在土地の用途を考案しているために更地となっているのだ。
勿論、更地となっている理由はそれだけではない。そして、人々がニュータウンに移った理由も……。
その荒野から僅か数キロのところにあるのだ。USが開発された城南大学が……。
そして、その周囲は半径三キロ封鎖区域となっていた。
その区域に入っていた人は出ることが出来ず、勿論外から入ることも出来ない。
そこが封鎖されたのは僅か三日前だが、都会が荒野に変わったのは半年前だ。USの開発の途中、副作用が確認されたとき、そこはゴーストタウンと化した。
人は目に見える恐怖には耐えることが出来るが、目に見えない恐怖には耐えることが出来ない生き物なのだ。
城南大学が開発している薬には死に至る副作用がある。真実はさておき、そう言った悪い噂は広まるのに大した時間を要さない。
そして、それは人から人に伝わるにつれ大きく悪くなっていく。
副作用が、死にも至るようになり、人体感染、皮膚感染、空気感染………。
そして、街から人は消えた。
そんな元町の中、何者にも邪魔されず、青年はフルスロットルに入れ、マシンを駆った。
真横で見ていてはまるで消えてでもいるようにもの凄い速さで……。