雑感



『「明治」という国家』を読んで!! (05,6.26)


 日記上でも度々触れているが、わが国の現状を考えると、将来、どのような国になるのであろうか。甚だ、不安になるし、明るい将来展望を持てない思いが深まってくる。21世紀を迎え、世界が大きく変わって来ている今日、わが国が、わが町がどのように変えなければならないのか熟慮する必要性、必然性があると考えるのは、私だけであろうか。

 新聞紙上においても、「ポスト工業化社会実現を」などと、経済面におけるあるべき姿の模索や提言が。また、地方分権社会における国と地方自治体のあり方についての様々な論調や提言が多い。経済、教育、福祉など、各分野におけるこれからの姿を求めるに当たって、前提となり、大切なのは、国の新たな姿をではないかと考える。

 国の姿が基本となって、各分野における姿も、それに基づくことになるであろうからである。いづれにしても、今こそ、見直しをし、わが国のあるべき姿を求める必要性があると言う認識と、どのようにそれを構築していくかが求められていると認識している。そのヒントが、明治維新の中にあるのではないかと思い、「明治」関係の書物探しに書店へ。書店では、「明治」関係の書物の多いことに驚く。それは、多くの人が、「明治」にヒントを求めることを表わしていると思う。その1冊が、司馬遼太郎著の『「明治」と言う国家 上・下』である。

 司馬氏ご本人は、この著書を、
 『 「明治」は清廉で透きとおった公感覚と道徳的緊張=モラルをもっていた。維新を躍進させた風雲児・坂本竜馬、国家改造の設計者・小栗忠順、国家という建物解体の設計者・勝海舟、新国家の設計助言者・福沢諭吉、無私の心を持ち歩いていた巨魁・西郷隆盛、国民国家の形成を目指したかれら「明治の父たち・ゴッドファザー」は偉大であった。本書は、明治草創の精神を捉え直し、「明治国」という人類普遍の遺産を巨細に語りつくす。これは、著者畢生の日本論であり、鮮明な日本人論である」と。

 私がこの本のポイントと思った文言を太字にしたわけであるが、この紹介文だけで大きなヒントがあるように思えてならない。また、ゴッドファザーたちの司馬史観による記述は、飽きさせない面白いものであった。読後感は、以下の通りである。

 「清廉で透きとおった公感覚と道徳的緊張=モラル」を持った政治家たちをはじめとするわが国の主導者に、何人いるのであろうか?数えるとすると両手で足りるかな?

 「明治の父たち・ゴッドファザー ならぬ、「平成の父たち」は、一体、誰なのでしょうか?月光仮面たちのような正義の味方は、架空の世界だけなのだろうか?私利私欲、利益追求といった輩が多すぎですね!!

 「日本論」と「日本人論」は、私たち身近なところでもやる必要性があると思われる。わが国の根本的見直しには欠かせられないことであろう。そして、その事が、わが国のあるべき姿探しのスタートでもあり、市民参加ならぬ国民参加のスタートでもあると思える。

 佐賀、長州、土佐、佐賀の各藩が国を変えようとしたことは、地方からの声、動きである。現在の中央の地方に対する政策を見ても、地方が連携をして、中央に向かっていかねば、何も変わらないと言ってもよいであろう。地方から国を変えるチャンスは、今だと痛感する。

 「サムライ」がいたのですね。今はどうでしょうか。イエスマン、波風を起こさないで、上面だけの論議と行動をする傾向が強いのではないかと思われた。なぜなのでしょうか?平和ボケといわざるを得ません!!

 雑駁な感想ですが、楽しい読書時間であった。国の進路やあるべき姿を構築するには、それぞれの役割分担をこなす中心的「人材」が必要ですね。大きく、それらを企画し実践するプランナーが求められているとも言えますね。以上ののことは、国だけのお話ではなく、わがまちでも同様と考えさせられました。何か、背後から、「議員さん、しっかりすれよ!!」との声が聞こえたようです。肝に銘じて置こうっと!!

 

野良犬の遠吠え (05,5,7))

 連休の一日間を、倶知安町にある小川原 脩記念美術館で小川原画伯の作品を鑑賞してきた。作品もさることながら、「群化社会A」と「野犬」の作品の間に掲げられていた画伯の文章に目が行った。

 「犬を描いていると私も又、一匹の野良犬に過ぎなかった事を思い知らされる。しかし、最近ではその野良犬さえも、身近に見られなくなってしまった。
  文明は、極度に野良犬を恐れるようになって、勝手気ままに街中をあさり歩くことをゆるさなくなってしまったのだ。
  実際は、あやしげな血統書つきの犬だけが、愛玩されるようになったので、犬と人間との関係がかなり歪んだものになってしまった。これも実は、自分達の秩序はそっちのけにして、犬だけ人間の秩序を押しつけた結果といえないこともない。1972年」と、記されている。

 18年前、選挙に出馬するに当たって必要とされる「ジバン、カバン、カンバン」の無い中で当選し議員となっている私は、血統書なしである。それに加えて、市政に殴り込みをかけてきたと誤解されたように、今までの発想や手法から脱却し、新たな視点でのまちづくりを進めようとの意気込みで、様々な提言を展開してきたが、なかなか、その具現性に結びつかない。これらのことから、「野良犬の遠吠え」と自覚している私にとって、画伯の文は、とても、印象深かったわけである。

 画伯のこの文は、痛烈な社会批判でもあり、含蓄のあるものと理解をする。33年前に記した文であるが、現代社会への批判としても、理解できる。世の中は何も変わっていないと言うことだろうか?

 イエスマンが多くなり、スマートな生き方をしている方が確かに多いと感ずる。自分の信念が無いのか、あっても、表に出さず、腹の中に秘めておく方が、賢い生き方と考えているのだろうか。「勝手気ままに街中を」歩きたいものである。

 「血統書つきの犬だけが、愛玩される」のは、愛玩する側の「勝手気まま」ではないだろうか。従順ならばかわいいと言うのは、ある面では理解できるが、愛玩される側の生き方はどうなるのでしょうか。

 血統書つきでなく、野良犬である人間の私は、信念を持ち、自己主張を貫こうと思う。「野良犬の遠吠え」を、理解して下さる方もいらっしゃる。「猿の惑星」ならぬ、「野良犬の惑星」を、夢見て!!!


「まちづくり基本条例」は、何のため?  (05,4,27)

  「自治基本条例」や「まちづくり基本条例」が、ブームのごとく、全国の自治体で制定、もしくは制定に向けて取り組まれています。それは、地方分権や地域主権、住民自治、はたまた、合併、自主自立などと言ったことが(半)強制的に国から求められ、従来の自治体のあり方を見直さざるを得ない背景があるからと考えます。(それらの推進の背景は、国の財政破綻によって、その責任を地方に押し付けているのが実体と考えますが。)
 
 そのことは、新たな視点や考えでもって、自治体の機構、制度と言った行政システムの改革をすることになります。また、その行政システムは、行政内部だけの改革ではなく、市民も深く関わりを持つことになってきます。そして、その改革された行政システムによって、新たなまちづくりの取り組みが展開されることになります。

 改革される行政システムは、その自治体の特性や考え方によって、違いがあるのは、当然でありましょう。市民に充分な軸足を置いたもの、形式だけのもの、浅薄な論議でなされるものなど、様々だろうと思われます。

 いずれにしても、新たな行政システムでまちづくりを推進しようと考え、「まちづくり基本条例」を制定すると思うのです。と言う事は、住民が願う、より良いまちを作ろうとする為に、「まちづくり基本条例」と言う「手段・手法」でもって推進しようと言うことですね。その「手段・手法」の内容がポイントなり、「まちづくり基本条例」は、決して、「目的」でない事を再確認しておく必要があります。

 この条例策定に当たって、 もう一つ大事なことは、制定された「まちづくり基本条例」などが充分に活かされるためにも、「地域主権」「住民自治」「自主自立」などを推進するためにも、市民、行政、議会の意識改革も同時に進めていかねばならないと考えます。

 専門家が記した自治基本条例等のモデル案は、自治のあるべきモデル案としては、要点を的確に把握されていると考えます。それに基づいて条例を策定することも一方法でしょう。しかし、それぞれの自治体で、何を求める「まちづくり基本条例」制定なのかによって、条文内容に違いがあって、当然と思います。コーヒーのCM、「違いの判る・・・・まちづくり基本条例」にしたいものです。

 まちづくりの勉強会である登別一の会では、ニセコ町の基本条例制定までの記録とも言える「わたしたちのまちの憲法」(木佐 茂男・逢坂 誠二編)を基に、当市の「まちづくり基本条例」の策定について勉強しました。策定のプロセスが大切であることやどこに軸足を置いた条例にするかなどが、ポイントと理解しました。

 そこで、『「市民主体の市民に軸足を置いたまちづくり」を目指した「まちづくり基本条例」策定を』という基本的な考えをし、1.市民・議会・行政のパートナーシップシステムの構築を 2.「市民主体の市民に軸足を置いた」実効性ある市民参画システムの確立を 3.「市民主体の市民に軸足を置いた」情報の共有を
の3項目(各項目の詳細は割愛)について、論議されるよう要望書を出した経緯があります。論議の題材として、多少は役に立ったかは、判りませんが。

 全国から注目されているニセコ町の「自治基本条例」は、ニセコ町の言葉で記されていると痛感します。そして、逢坂町長をはじめ、役場職員のまちに対する熱い思いとあるべきまちの姿への徹底的研究などと言った取り組み、道内自治体職員たちの研究会である札幌地方自治法研究会有志との深い繋がりなどの賜物と思う。

 当市では、6月定例会に議案として出す予定である。生きた「まちづくり基本条例」となるように、私見をぶつけ、多いに論議をしたいと考えているこの頃です。


 登別の宝その3・・・資源としても「登別厚生年金病院」の存続を (05,4,17)
 
 厚生年金制度の見直し論議の中で、厚生年金病院(全国で10病院)や関連福祉施設などが、譲渡又は廃止の方針が出され、60年近い歴史も持つ登別厚生年金病院の存続を願う署名活動が全市的に展開されています。
 登別温泉町にある総合病院機能を持つこの病院は、市内のみならず、道内の患者さんや観光客にも欠かせられないものです。市内外からの患者さんは、様々な治療を受けていますが、特に温泉を利用したリハビリ医療は、全国でも高い水準を持ち、注目すべき病院でもあります。そこで、医療については全くの素人ながらの夢を語りたいと思います。

 高い水準のリハビリ医療をもつこの病院を、日本一の、少なからず日本有数の専門病院に出来ないのであろうか。日本一となれば、全国から患者さんが治療を受けに来るでありましょう。私は無理でも、全国レベルで考えると、金持ち父さんや母さんは沢山いらっしゃる。そう考えると、一日当たりが、5万円なり10万円なりの特別室を用意しても、使用する方はかなりいらっしゃると考えられます。
 短期入院ではないので、親族の方のお見舞い客もいらっしゃる。と言うことは、温泉に滞在することになりますよね。患者さん方も良いでしょうし、病院経営にも良い。地域経済の活性化にも繋がりますね。
 滞在型になると、温泉だけでは時間を持て余しますよね。と言うことは、登別温泉地区のみならず、鷲別、幌別、登別、カルルス温泉地区にある、それぞれの素晴らしい資源を高付加価値化して、それらを利活用した場と時間の提供を考えなければなりませんね。そう考えると、夢が広がって来ませんか?
 加えて、登別温泉とカルルス温泉の旅館・ホテルには、「温泉ソムリエ」を配置し、温泉の入浴方法や温泉療養のアドバイスを行う。温泉の効能に加えて、コミュニケーションを通して、人と人との繋がりが増して来ますね。現代人が求めている一つにも応えられことになるのではと思いますね。
 「身も心も温まる湯の里・登別」の誕生です。
 非常にどん欲な考えかも知れませんが、地元にある資源を活かしていくと言うことは、このようなことではないでしょうか。いずれにしても、地元資源を活かしたまちづくりを進める上での、柱、方針、理念が大切ですね。その意味合いからも、「登別厚生年金病院」の存続を望みますし、署名活動にご協力を。


『お金』と『マネー』 (05,4,10)
 
 今、騒がれていることの一つに、ライブドアの城主ホリエモンとフジの城主ヒエダモンとの熱き戦いがあります。買収しようとする側とされまいとする側との戦いですが、貧乏父さんから言わせると、マネーゲームと言った感を受けます。法律内でマネーを駆使して何でもできると考える人と今の諸権力を守ろうとする人とのゲームそのもの。この件では、様々な見方・考えがありましょうが、その本質は、「マネー」に振り回されている人間の姿ではと思えてなりません。
 父さんが共感する経済評論家の内橋克人氏は、「パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金は、二つの全く異なった種類のお金で」、「前者は人々の日常と共にあるそれを『お金』と呼び、後者をあえて『マネー』と呼んで区別しています」と述べています。私達に大切なのは『お金』ですか?それとも『マネー』ですか?
 氏は、国際化や国際貢献とプラスのイメージのグローバリズムは、競争主義によって「世界を市場化する」イデオロギーと言っています。その結果、国間の格差、貧富の格差などが生じると。それらのことは、『マネー』の世界のお話しですから、ライブドアとフジのゲームは、当事者が楽しむマネーゲームと言えるのではないでしょうか。しかし、貧乏父さんは、傍観者だけですまされません。社会の流れが、『マネー』の世界になりつつあるのですから、今後、私達が暮らす地域ではどのように取り組むべきなのでしょうか。氏は、「地域主権」「共生経済」「資源循環型社会」を訴えていますが、21世紀となり、従来の価値観や考え、システムを変えざるを得ない、あるいは見直しをせざるを得ない今かと思います。その中で、私達が暮らす地域は、どうあるべきなのでしょうか。文殊の知恵を出し合って行く中に、それが見えてくると考えるのですが。