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| Home > はじめに |
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◇はじめに◇ 〜 このサイトを作るにあたって 〜 |
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ごあいさつ |
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2005年4月25日午前9時18分ごろ、兵庫県尼崎市のJR福知山線、宝塚発同志社前行き快速電車(7両編成)が脱線
7両のうち前5両が脱線し、前2両は線路から約6メートル離れたマンションに激突するという、大事故が発生しました。
この事故により107人の尊い命が犠牲となり、500人以上の方が負傷しました。
お亡くなりになられました107人の方のご冥福を心からお祈り致します。
そして負傷されました500人以上の方の一日も早いご回復を祈念致します。
まず初めに、このホームページはchacha(夫)とfoo(妻)の共同で運営しています。
fooはこの日3両目に乗っており、事故に遭いました。
chachaは今回の事故の直接の被害者ではありませんが、身体に障害をもちながらも
事故後しばらく寝たきりに近い状態だったfooを支えなければいけない日が続き、間接的な被害者です。
今私たちが思うことは、あの事故当時何も出来なかったという悔しさと無力さでいっぱいです。
でも事故はあの時が全てではなく、これからも事故に遭われた方やそのご家族のにとっては
一生終わることのない出来事であると思います。
あの時何も出来なかったからこそ、今私たちのできることは「あの事故を風化させない」
そして「同じ思いの方同士が集える場所を提供する」ことと考え、その手段の一つとしてこのホームページを開設しました。
私たち一人一人が出来ることは小さなことかもしれませんし、このホームページを見てあの辛かった事故のことを
思い出してしまうかもしれません。
しかし人はあの時に立ち止まってはいられないし、小さな一歩でも踏み出さなければなりません。
でもそれは大変難しいことであることも事実、そうしなくてはならないと思いつつも
なかなか上手く出来ない自分がいるのも事実です。
時間がかかっても、少しずつでも、このホームページが一人でも多くの方に少しでもお役に立てることを願います。 |
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事故当日の二人の様子 |
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2005年4月25日の朝、朝一番で仕事を済ませてその足で大阪へ向かうためにJR伊丹駅へと向かいました。
いつもより早く仕事が終わり、その仕事先がJR伊丹駅の近くだったこともあり
そのまま大阪駅に行く普通電車に乗ろうとホームで待っていました。
電車を待っていると快速電車が停止線を越えて停車し、バックしてきました。
最初は、ドアが乗車の印の所からずれているので少しだけ戻るのかと思っていたのが
電車はかなりのスピードでかなりの距離をバックしてきたのです。
1車両以上バックした記憶があるのですが、感覚としては半分ぐらい行き過ぎていたように思います。
これを見て、このままだと電車が遅れるだろうなぁとふと脳裏を過ぎったので
乗るか乗るまいか迷ったのですが、ドアが閉まる瞬間私はこの電車に乗り込みました。
JR尼崎駅で乗換えができると知っていたので、その方が早いと考えたからです。
何気にドアの横の手すりを持ち、外をぼぉ〜っと見ていました。
いつもは電車の中では本を読むのですが、この日はなぜかそういう気分にもなれず
ただただぼぉ〜っと外を眺めていました。
もしかしたら、いつもの普通電車と違い人が多かったのが原因かも知れないとも思い
無意識にスピードに対し恐怖があったのかもと後になって思います。
そうこうしている間に電車がいきなりバウンドするような縦揺れを感じました。
その瞬間から、車内はざわめきはじめ車内の方たちがフラついているのが見えました。
私はとっさに両手でドアの横の手すりにしがみつきました。
とその瞬間凄い衝撃が電車を襲って前後左右上下とにかく振り回されたのです。
何が起こっているのかとか考える余裕は全く無く、とりあえずこの手を離してはダメだという思いで
必死に手すりにしがみついていました。
実際には一瞬であったろう時間が長く長く感じ、窓ガラスが全て割れてそれを頭からかぶりました。
もう手の握力も限界に近づき、もうダメだと思った瞬間、電車の揺れはおさまりました。
呆然としていると他の車両から降りてきた方が声をかけてくれ、車内からも降りれる人から
降りようという声が響いていました。
我に返った私は、一番ドア側にいたのでまずは自分が出なければ他の人が出れないと感じ
ドアの割れた窓ガラスの部分から無我夢中で外に出たのです。
この時外から女性の方が手助けしてくださったのですが、今思えばお礼も言えずじまい。
もし、会う機会があればお礼が言いたいと今でも思います。 |
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<<fooの事故直後の様子>> |
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その後は気が動転していたのですが、とりあえず主人(chacha)に電話をしなくてはと思い
おもむろに携帯をポケットから出したのですが、正直壊れてないかとかなり心配でしたけど
無数の傷やへこみは出来ているものの何とか通話できる状態でした。
今どういう状況かわかる範囲で主人(chacha)に伝え今すぐ来てほしいと伝えました。
でも、ここがどこで何が起きているのか自分でも解っておらず
意味不明な電話だっただろうなぁと後になって思います。
とりあえず電話ができ安心すると、体のあちこちが痛い。左目を強打したらしく目が開かない。足も痛い。
体全体がとにかく痛かったです。
でも何とか歩くことは出来たし、右目は開くことが出来、ただただ呆然としていました。
後になって思うと、なぜあの時まだたくさんの方が車内に居たのに、何の手助けも出来なかったのか
自分にも何か出来たんじゃないのかなぁという思いが心の中を占めています。
その後、何度か今の場所などを伝える電話を主人(chacha)にかけたましたが
事故で緊急車両以外は現場までたどり着くことが出来ず、結局は病院まで会うことが出来ませんでした。
病院へは、周辺の会社の方だと思いますが、車に乗せてくれたので早く病院に行く事ができました。
救急車はもちろん重症の方が優先で、歩ける状態の私がこんなに早く病院に行けた事を
とても感謝しています。
周辺の住民の皆様、会社の皆様そして現場のマンションの皆様にとても親切にしていただいたこと
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
皆様への感謝の思いを胸に占め、今後私自身もそういう人間でいられる様に努力していきたいと思います。
本当に皆様ありがとうございました。 |
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<<chachaの事故直後の様子>> |
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私は事故直前の午前9時ちょうどにfooから、「いま仕事終わったから、そのまま病院に行ってくる」
と普段の何気ない電話がありました。
そして私はその日は在宅勤務の日で、何の虫の知らせも感しず仕事前に家庭菜園の手入れをしていました。
すると前回の電話からわずか20分後に再度fooから電話があり、第一声が「chacha助けてっ!」という
悲痛な声でした。その時の声は今でも忘れられません。
その後のやりとりはこんな感じでした。
chacha「どないしたんやっ!何かあったん?」
foo「電車が壁にぶつかってん」
chacha「エッ!?電車が壁にぶつかったぁ!?」
(この時、電車が壁にぶつかったと聞き、もう地下鉄に乗ってるのかと思いました)
foo「電車がマンションにぶつかってん」
chacha「電車がマンションにぶつかったぁーーー!?????」
(この言葉でどんな状況になっているのか、さっぱりわからなくなりました)
chacha「それで怪我はしてんのか?場所はどこ?」
foo「私は大丈夫やけど、周りに頭から血を流してる人とか意識がなさそうな人とかがいっぱいおるねん」
(そう話すとfooが周りの人に「大丈夫ですか?大丈夫ですか?」と何回も聞いている声がしました)
chacha「それで場所はどの辺?尼崎駅は過ぎたか?まだ過ぎてなかったか?」
(場所をある程度でも特定するために中間の尼崎駅を過ぎたかどうか聞いていました)
foo「そんなんわからへん」
chacha「わかった。とりあえずJR伊丹駅に行って場所聞いて、すぐにそっちに行くからなっ!」
foo「ズボンが破れて、他の人の血が服にいっぱい付いてるから着替えをもってきてほしい」
foo「それから救急車とかが全然足りてなさそうやから、他の人も一緒に乗せたげてな」
chacha「わかった。できるだけ早く行くけど、救急車に乗れそうやったら乗せてもらいやっ!」
とこんな感じでした。
その後、とりあえず着替えと靴だけを持って車へと急ぎました。
車に乗り込みエンジンをかけ、カーナビの画面にテレビ画面が映り、いきなり目に飛び込んできたのが
速報で流れている事故現場の様子でした。
それを目にするまでは1分でも早く行けるようにと焦っていたので、体中汗でいっぱいだったのが
事故現場を目にした途端、血の気を引いたように寒気がして、汗も一気に引いていくのがわかりました。
そして病院でfooに会えるまでの間、何度か電話で今の状況を聞きながら現場へと急ぎました。
現場近くまで行くと、既に渋滞が発生していてなかなか前に進めず、わき道にそれようとしたところに
交通規制のための警官が立っていて「ここから先はダメ」と言われたのですが、状況を説明すると
「すぐに行ったげてっ!」と言ってその道を通らせてくれました。
が、その先に立っていた警官にまた止められ「ここからは緊急車両が通るから通れません」と言われ
また状況を説明すると今度は「じゃあどっかその辺で待っといて」と意味不明な返事が返ってきました。
でも待ってる事など到底できず思わず「待ってられるかアホっ!嫁さんがあの電車に乗っとったんやっ!」
と警官に対してちょっと暴言を吐いてしまいました。
とその時、fooから周辺の企業の方が病院に連れて行ってくれると電話があり
その道をUターンする事も難しいほど渋滞していたので、その警官が通れないと言っていた道を
無理やり通って、今度は病院へと向かいました。
この時から私の中で「お前っ!そんな直前まで来てて何で誰も乗せずに病院に向かってんねんっ!」
と怒っている自分と「いやっ!やっぱり自分の嫁が一番大事やから仕方ないで」
という自分がいました。
そして渋滞につかまりながら、やっとの思いで病院に辿り着くと、既に報道陣がいっぱいいました。
病院に着くと真っ先に受付に行き、この病院に嫁が運ばれたと聞いたんですがと言うと
受付の方は親切に1階をくまなく名前を呼びながら探してくれました。
でもそこでfooの姿を見つける事ができず、携帯も繋がらない状況で途方に暮れながら
何度が携帯にかけると1度だけ繋がり、3階のCT室にいることがわかり
やっとの思いでfooと会うことができました。
しかしそのCT室の前には血だらけになり体中が腫れ上がった状態の方が数名
ストレッチャーに横たわっていて、ストレッチャーの数が足りず机をストレッチャーがわりにして
横たわっている方もいました。
その現場はテレビドラマでしか見た事がないような状況でした。
そして全ての検査と診察、治療が終わり、帰宅する事が出来たのですが、それから先は大変な生活の
日々が待ち構えていました。
今回の事故では、周辺の企業方々や住民の方々が迅速に救助活動を行ってくれました。
fooもその方々に助けて頂いた一人です。
その方々に対して未だお礼も言えずじまいですが、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
周辺企業の方々や周辺住民の方々、そして救助活動に参加して頂いた全ての方々
本当に有難うございました。 |
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事故後の二人の様子 |
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fooは、当時3両目に乗っていました。伊丹駅で悩んだ末に乗り込んだため、ドア付近に乗っていました。
そのためドア横の手すりにつかまる事ができ、全身に打撲や切り傷は出来たものの
その日のうちに家に帰ることができました。
でも、この日からの自宅での生活は大変なものでした。
何故なら全身の打撲や切り傷、それから首の鞭打ちのような痛さから、自分で寝返りをすることも
起き上がることも出来ない状態だったからです。
その上、病院では痛み止めを処方してもらえるとの事だったのですが、私たち夫婦は現在不妊治療をしていて
事故の前週に治療を終え、結果を待っている状態でした。
もし治療がうまくいき、妊娠に至った時にこの痛み止めを飲んだことでの副作用を恐れ
fooは薬を手にする事ができませんでした。
ちょうどこの日も不妊治療の病院へ向かっているところだったのです。
もちろんその日は不妊治療の病院に行くことも出来ず、数日は一人で起き上がれる状態ではなく、ずっと不安でした。
また、私は現在夫と2人暮らし。この状態の私に寝返りをさせてくれたり、起き上がるヘルプをしてくれたのは夫でした。
ただ夫には出来ることと出来ないことがありました。
というのも夫は生まれつき下半身に障害があり、車イスの生活であるためです。
私のヘルプや家事、そして仕事を夫一人でこなすにはとても無理がありました。
一人で日常必要な全ての買い物に行くのも大変な夫ですので、食事はどうしても出前や弁当になり
食生活からのストレスもピークになっていました。
当然、私自身が一人で動けない状態であるため少しでもそばに夫は居てくれました。
そのため、掃除や洗濯なども滞りもう限界の生活でした。
時間的にも病院へ通わなければならなかったので、送り迎えから何から何まで夫に頼る生活でした。
夫ももう体力の限界に来ていましたし、私自身も体の痛みとストレスでおかしくなりそうでした。
ちょうどそんな時、JRの方がお見舞いに来られ、我が家の状況をお話しし、その日中になんらかの回答が頂ける
との事で少し気が楽になりました。しかし連絡が来ることはなく、数日が経ち限界に近づいていました。
そんな中、傷の消毒へと病院に向かうとそこにJRの職員の方がおられ、お話させて頂く機会が持てました。
そこで今までのことをお話させてもらうと、ヘルパー等を頼んでくださいとの回答を頂きました。
ちょうど私自身ヘルパーをしているので、直ぐに職場に連絡を取り5月3日よりヘルパーさんが来てくれるようになり
少しずつですが生活のリズムが戻ってきたように思います。 |
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当サイトの目的 |
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これまでにもお話ししたように、私の夫は障害者です。生まれてからずっと障害者として生きてきました。
辛い事もあったでしょうが楽しいこと嬉しいこともありました。
今回の事故で障害が残ってしまった方々が、障害があってもこんな風に生活できるんだと感じてもらえたら
また生活に対しての工夫や制度のことなど、微力ながらご相談にのれればと思っています。
私の夫のように、学校も卒業でき、就職もし、結婚もできるのです。
辛く、悲観的になってしまうこともあるでしょう。でもそんなあなたの周りの人たちはずっと見ていてくれているのです。
この事故があったから、そして障害が残ったからこその出会いや、人々のやさしさに接する機会を大切に
この先の自分の生活を同じ境遇の方たちや、そのご家族や友人、そして周囲の方たちとお互い協力しながら
共に歩んでゆければ、その手段の一つとして当サイトが何かお役に立てればと思います。 |
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