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由緒
 當寺は平氏の勇将平の教經の後裔、宮崎弾正二郎廣綱の開基にして長門壇浦の戦に敗れたる平家の一族は、悉く滅亡離散し、教經の遺子も亦日向の國宮崎の地に落て茲に隠棲すること多年、地名を取って姓とす。其の後世静まりて大永年間弾正廣綱宮崎より教經の念持佛たりし聖観音の尊像を奉じ、平家福原遷都の當時教經の領地たりしと傳う八多の庄を慕い来て當地を開拓し村名を二郎とし、観音の霊像を安置し以て當寺を開創、天正二年十一月十五日没す。

 廣綱の子日下部蒲公城主松原氏の女を娶り一子平右衛門廣光を生む、爾来二十數代子孫連綿宮崎家中興と称する養順安静は令名夙に聞こえたり。この間醫を業とす、嘗て伏見宮家の御内醫となり久しく宮家に奉仕し篤く殊遇を蒙る。この縁により宮家深く當寺観音を尊信せられ、畏くも宮家の祈願所として菊花御紋章佩用を差し許され、今尚堂宇の瓦を始め玄関正面その他に御紋章あり。是れ實に當寺の光栄にして末代尤も誇りとする處なり。

 安正の宮家御内醫たりしことは安正の位牌の裏に明記さる寺の南方に宮崎家の墓地あり。弾正廣綱の碑を中心として累代の碑五輪塔等三十余基あり、廣綱の碑前と寺の背後に時代を語るべき二大老松ありしも明治二十七、八年頃樹齢に達し何れも枯死して今はなし。寺の西隅一小丘に宮崎家代々尊奉祭祀せし安徳天皇を祭神とする古風なる小社ありしも、明治三十九年頃村社へ合併し、遺跡のみ存す宮崎家は過ぐる明治四十年頃迄廣荘なる邸宅ありて子孫も繼續せし、宮崎友七の代に至り嗣子なく、此の家もついに絶家し、唯邸宅の跡のみあり。

 此の外當寺は九世大圓和尚の時代、文政年間祝融の災に罹り伽藍、古文書當烏有に歸したるは遺憾とする處なり。依って十世祖宗和尚再建を念願し、東奔西走寝食を忘れ、檀徒一般の協力を得て天保四年秋現在の伽藍を再建す。

 尚又十二世祖拳和尚は逸材の器にして當寺住職中大本山永平寺の重役として凡十年間奉職し、恪勤勵多大の功勞あり。依って明治二年大本山永平寺はその功勲を賞して寺階を昇等し随意會を免牘され宗門一方の望刹として寺格を有するに至る。
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御本尊 聖観世音菩薩 
創 立 大永年間(1521年〜1528年)
開 基 宮崎弾正二郎廣綱(平教經の後裔
現 在 別格地寺院(随意
地)
現住職 十七世 権大教師 近藤芳樹