抑攝州有馬郡平田村清楽山正福寺本尊の由来委しく尋ぬるに、三世松渓貞禅師は当寺伝法の初祖にして、且本尊十一面千手観音を迎えられし和尚なり。元播州赤穂城浅野内匠守殿菩提所華岳寺住持にして殊に大石良雄等の帰依僧也。然に元禄13年辰年の頃、浅野家滅亡に及び、其の幾ならずして華岳寺を隠居し、享保元丙申の年、齢四旬余に及び九月十七日を以て漸く当寺へ住職なりし、且つ先年華岳寺退院の砌、護持致されし十一面千手観音の靈像は、忝も清和の御宇貞観年中園珎法師の御直作にて世に比類無き靈像也。
 扨又此木の出所を尋るに或人の曰、昔洪水の時、近江国高島郡三尾の崎より流れ出たる橋木にして霹靂木也。この木落書処、火災疾病あり。始め時和州葛下郡上河の浦に附きしに其里中大に失敗はやりし故、里人推し流しけるに、又同州代下郡当麻村の近辺に到、其近辺郷頻々熱病起こり火災有りしかば、郷中倚合い牽て長谷川上に捨しより後三拾年を経て沙弥徳道なる者あり。法道仙人と力を併せ、仏師稽主動、稽父会の弐人に命じ、御長二丈六尺の尊像を刻み奉。是則今の長谷寺の観世音なり。神亀四年聖武帝御宇也。行基大僧正を請待し開眼供養の道師となし、首尾圓成す。
 此時行基僧正彼沙弥に御尋遊さる様は定めて此御尊像を作し木の余りあらんと仰せられば、沙弥具に弐尺斗りの端木を把り出し語て曰。嘗て尊像を作りし時、仏師等此切端を見失ひしより、種々尋ね捜せ共ついに得ざる処、はて訝かしき事には、此頃誰持来る共無く、不図後園にすえ置てぞ有りける。殊に大僧正の御球を待つならんとて早速に奉ける。
 去れば行基僧正手づから千手観世音の尊像を刻んと欲して江州日根里に持行れし惜哉。娑婆の教化尽志にや齢ひ重なり、時来て坐化したまふぞ、はかなけれ。
 是より此木江州日根里に在て、徒に百四五十年を経て去る程に彼の木折々夜深けて光を放つ。見る者皆不思議に念へ共、年月久しければ、如何なる木と云事しらず。然るに一人の貧夫或夜の夢に千手十一面の観世音枕辺にあらわれ告げ玉はく、日根野に一ツの朽木あり。昔し行基僧正我が像を刻と欲して未だ作らざるに滅を取りし故、徒に朽爛れて村人の足下に觸れ穢れしなり。汝速やかに好き人を勧め我が像を刻むべしと夢覚めて後、心に掛かる事切なれ共、家貧にして如何共すべき様なく月日を送りしに、此時圓珎法師自から謂えらく、われ幼きより観世音の力に倚りて今日に及べり。然共無常は測り難き故、存命の内観世音の一体を作りと思し召し、略霊木を探り求めらるる。
 折柄前日の観世音を夢し夫、右の霊木のこと有りのまま語りければ法師も悦び眉をのべての玉く。何ぞ是に過ぎたる幸あらん。我行基の蹤を尋て自ら作り奉んとて早速に彼の朽ち木を採倚せらるるには外は爛れたりといへども中のしんは其儘にて香き沈水香の如し。終に千手十一面の小像を作らせ玉ふ。又江州日根野里に於て一宇を建立し、圓珎自分に開眼供養し遠近善男女為に化縁を弘めらるる。誠に十一面経に我名を唱ふる者は一切の病患憂苦を除却せしめんと説き玉ふべし御誓の賴も候にや、或は疫疾病或は難産、頑として成就せざるはなし。
 不思議なる哉。茲于浅野家の先祖何某不幸にして嗣子無き事をのみ常々心に愁ひらる折柄。彼観音のあらたかなる事を聞き及び、終に自から行て礼拝恭敬し、祈願致されしに、衆生済度の大悲の願力なれば、などか感応の無かるべき。頓て奥方も懐妊とぞ成らせられ、程なく十月を経させられれば実にいつわりなき普門品に男を求めんと欲せば即ち福徳知恵の男を生んと説き玉ふも所なり。顔貌玉の如の男子を設けさせらる。是より御夫婦を始め一家中に至迄喜悦の眉を展ぶるぞ目出たけれ。若君も成長に従て聡明叡智人に超えたりしが、金烏急に玉兎速なれば早や御家督相続とならせられ、彼観音を城内へ勧請在しまして我が是大士の授け玉ふいしなれば、必定前世には大士常随の眷属たらんとて日に百味の飲食を供養致されしも娑婆有様なれば王侯大臣とても免れ難き早晩しら雪の頭に積り、腰は金剛の弓をはり、面は四海の浪を湛へ、已に齢も六旬に余れば一陣の無常の嵐と共に逝去せられし社(こそ)、実に此の土の習いなり。
 扨又(さてまた)後に遅し奥方を花房於藤と申されしが、或春の夜に一ツ明灯の下に打倚、殿様在世の事をなんと思いわびしき仮寝のうつつにや殿様極楽に往生し弥陀勢子観音等の諸仏菩薩と并居遊し玉ふと夢み声高らかに南無観世音南無観世音と唱ふる音に近習目を驚し、こは御前様如何遊し候ふやと御尋ね申ば只我は殿様極楽に往生し玉ふと夢む。其あり難き尊さに覚へず、名号を抄念と云。終りて其の翌朝若君を始め城中親しき者共を呼集め仰せらるには我が殿様彼の観音を信仰なされし事多年なり。その功力によりて極楽に往生まします。皆々此の尊容を礼拝供養すべしと。又若殿に向ひねんごろに申されけるは当家の子孫幾久しく供養の 遺告失念あるべからずと。是より毎日千手十一面陀羅尼を七万辺づつ懈怠なく唱へられし社、其後子孫封を播州赤穂へ移されし節も彼の靈像を護持し城内に一小宇を置き、是に安置し奉り、晨夕の供養も前へに過たりとかや。然るに其末孫内匠守に至って悲哉殿幼年の時、臣家に大野九兵衛なる者仏法不信の族にして幼君を賺やし、彼の尊容を菩提所華岳寺へ奉納しける。其後弐拾四年を経て元禄十三年辰年の頃浅野家滅亡にぞ及びける。先祖への不幸是に過ぎたるはなし。
 彼尊容寺に納めしより光明を放ち玉ふ事度々なり。また住持松渓和尚も十方旦那の為に祈念あれば、願としてかなわざるはなし。然れ共大旦那滅亡の後幾ならずして隠居し、又当寺へ住職いたされし事四十年、其間特に彼尊像を迎へ当道場へ安置し永代の本尊と仰せ玉ふ時、享保元年丙申九月十七日なり故に、長く薩埵の霊験遠近に知らしめんが為に毎年九月十七日を以て会式の日となし。然るに禅師も元文四年末の九月十八日を以て迂化せられし故、且つは松渓和尚の其報恩をわすれざるが為とて村中は申すに及ばず外隣村迄、講を結ひ平等に餅を撞き、本尊真前へ奉献する也。故此餅を今に至って平等餅とぞ名付けたり。斯くの如き世に希る大悲薩埵の道場なれば尚幾末迄尊むべく敬うべし。

                          当寺第六葉   音金嶺叟謹白
文久元辛酉年    蕤賓写之              菴大二臥叟

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