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2010年2月

ずいちょう
                              随暢 記
 鈴木大拙(1870〜1966 明治3年〜昭和41年)大正、昭和期の仏教哲学者、大谷大学教授、著書には「禅と日本文化」など多数。氏は、この世は一つの世界でありながら、霊性の世界(浄土・信仰の世界)と、感性・知性の世界(娑婆)の二つの世界が一つに重なりあっていると述べられています。
 では、霊性の世界と、娑婆世界ではどう違うのでありましょうか。
 霊性の世界は信仰、大自然の美しさ、底抜けの歓びなどで、表現されると思います。
 一方娑婆世界は、人間自身が決めたあまり意味のない価値観に支配されています。
 社会的地位、身分、お金、それらを得るために、ほとんど意味のない競争に明け暮れる、そして人は、死が目前に迫った時、本当の意味のあるものが何であったか、気づくのではないでしょうか?もしかしたら、気づかない人も多いのかもしれません。
 私たちにとって大切なこと、それは、霊性の世界を友として生きることだと思います。
 神仏と御先祖さまの恩徳を歓び、感謝し、神仏と御先祖さまとともに生き、あらゆる存在と歓びを共にしてゆく、・・・無意味な競争を離れ、お互いを認め、尊重し、比べないこと・・・
 私自身今年こそ、もう一歩娑婆を抜け、霊性の世界に近づきたいと思います。
                                  下津町  阿弥陀寺 寺報 「月かげ」より。
2010年1月

ずいちょう
 新年おめでとうございます。            随暢 記

 西山浄土宗の祖師、西山證空上人の著述されました「秘訣集」の中で、
「森羅万象、皆是れ無量寿仏なり」とあります。
 森羅万象とは、宇宙に存在する一切のもの、目に見え、耳に聞こえ、鼻でかぐ、手で触れ得るすべて。
 無量寿仏とは、阿弥陀様のことであります。
 かつて、「千の風になって」という歌が、新井満さんの翻訳で、ブームになりましたが、仏教では「法身の仏」と申されています。
 私どもは一瞬一時たりとも、この世に生かされているのは、森羅万象と言われる阿弥陀如来様の絶対的な願力によるところであります。
 娑婆のいさかいや、いざこざ、景気が悪いなど、不足不満の多い現実は、一人ひとりの貪・瞋・痴(三毒の煩悩)が、元兇で、地獄になったり、闘争が、国際間では戦争になったり、職場も家庭も、人間関係の諸悪の本は、三毒が元になって起こるのであります。
 新年を迎えるにあたり、明るく、正しく、和やかな一年を生かされるためには、拝みあう心で、年の初めを誓って頂きたいと、切に念じて止まない次第であります。

2009年12月

ずいちょう
 「天に一つの月あって、影万水に浮かぶ」   随暢 記
 「道端の、ちりぢり草の露にまで、影をせばめて宿る月かな」
 「万水に浮かぶ」とは、海にも、川にも小さな草の葉に結んだ露にでも、手水鉢にも、まさに、万水であります。 水たまりの月も、溢すまいと上を見上げて溜また瞼の涙にも月は宿ってくれます。
 「天月、水月、その体一なり」とも言われています。私どもの信ずる、阿弥陀如来さまのお慈悲を喩えて古来から、この月の光りが沢山譬えられています。
 「待影の黒きは、月の光なり。」法然上人の御歌に
 「月影の、いたらぬ里はなけれども、ながむる人の心にぞすむ。」は、みなさんもすでによく御存じのことと存じます。
  万 機 普 益
 この言葉も有名な仏教用語であります。
 万機は、「一切衆生」と言う。み仏さまの大きな広大無辺のお慈悲が、この宇宙に存在する、生きとし生けるもののうえに、いつでもどこでも誰にでも、行住坐臥に(立って歩く時も、家に住んでいる時も、床に着いて寝ている間も)み仏さまのお慈悲は過去、現在、未来(三世を通じ)十刧の昔から、摂取不捨されていることに気づくことが信心であります。
 気づくためには、聞くことです。聞いて信ずることが、私どもの宗教の重要な課題であります。
 「聞即信」と申します。また、むずかしい言葉でありますが、「聞位即果」の益とも申しています。
 既成教団と言われるお寺では、檀家のみなさんにご法話や文書伝道による信仰の伝達を中心に活動をしなければなりません。
2009年11月

ずいちょう
無常             随暢 記

 澄み切った秋空の下、さわやかな気分でございます。
 四方の山にも、紅葉の日ごとに色増して、やがて散りゆく、凋落の冬景色へと早や変わりしてゆきます。
「無常迅速」は天地自然の真理として、仏教の第一法印に示されています。
 この頃、私はあまりにも早く過ぎ去っていく、一か月、一年と、次々に追われている毎日を勿体なくも怖く思うことしきりです。
 お互いの一生は一秒一秒、かけがえのない時の流れであり、どうしようもなく、過ぎ去っていくのです。

 「時は自分のものにあらず
  今は自分のものにあらず、
  明日も自分のものにあらず、
  すべて執われるものは
  自分のものにあらず。」です。 (札幌市 大西さん)

 時に執われて、追われて、惜しむだけでは、何の為に生きているのかわかりません。
 おそろしいことですよね。
何も考えることもなく、教えも聞くことなく、ただ、目先の損得だけで終わってしまう人生。まことに儚い極みであります。
 人生生活の一番根本的な苦悩の元兇は、「三毒の煩悩」であります。
 ・貪(むさぼり)   ・瞋(いかり)   ・痴(ぐち)
この三毒によって自我や自惚れの心が禍いとなるのです。
 戦争にしても、個人的な争いも家族間のいさかいも、地獄の苦しみもすべて自我や自惚れの心が元になっています。
 明るく、清く、正しく、なごやかな世は、みほとけの智恵の光に照らされて、一人一人が素直な心になることが人間として生まれた意義であり、人生の目的はこれに極まるのであります。
 信仰生活とは、真理のみ教えにめざめ、究極は、お念仏をよろこべる人になることであります。 
2009年10月 信仰について       随暢 記


 よく申し上げましたが関本諦承上人は
 「みなさん信仰もちなされ、信仰なしには生きられぬ、
 心に深く、弥陀仏の慈悲の心をもちなされ」

信仰とは、信じ仰ぐことです。
問題は何を信ずるか。ということになります。
 「いわしの頭も信心から」ということわざがあります。
「どんなつまらないものでも信心するとありがたく思われる。」― 新明解国語辞典 ―とあります。
 いわしの頭を信じて、ありがたく思っても、つまらないことであります。仏教では、諸仏如来と申しますと、たくさんの仏さま方のことであります。
 薬師如来、大日如来、釈迦如来、のほか、菩薩さま等たくさんの仏さま方を含めて、諸仏菩薩と申されていますが、私どもの宗派、西山浄土宗では、阿弥陀如来さまが中心で、分けても各宗のご本尊と仰がるる仏さまは、法相宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、黄檗宗、と現代は十三宗数えられますが、それぞれ宗派の、信仰の対象となる仏さまがいらっしゃいます。

    信仰の原点

 それは一言で申しますと、「自我の崩壊」と言ってもよろしかろうかと思います。同時に、誰でも自我はもちろん、うぬぼれに通じるもので実力以上に自分の事をすぐれていると思いこむこころであります。
 米澤英雄著「信とは何か」という本の中に「自惚れがあったら、信心というのは縁がない。自惚れというのは自我ですから、自我が崩れて零になって、はじめて天地一切をいただくことができるんです。」とあります。金子大栄博士も「念仏は自我崩壊の響きなり」と申されています。要は信仰・信心とは、素直になることです。

2009年9月

ずいちょう
到彼岸の生活       随暢 記


お盆が過ぎると、もうすぐ秋のお彼岸です。
田んぼには、黄金の波が秋風を運んでいきます。
「みのるほど、頭のさがる稲穂かな」
秋は、充実した、みのりの時季であります。
人生も、年を重ねるごとに、人徳が光り、人格者として崇められ、お人柄のよいお方と讃えられてこそ、長寿の重ねた意義があるのです。
さて、おひがんについては、以前から「りんどう」でも「テレホン説法」でも何回となくおつたえしてまいりましたので、よくご存じのことと思いますが、
この彼岸の行事は、日本仏教にのみ伝えられる千三百年以上も続いている伝統法要であります。
 申しあげるまでもなく、お彼岸とはパーラミターという、サンスクリット(梵語)でその意味は般若心経で称える、「波羅密多」のことであります。
波羅密多とは到彼岸と訳されて「彼の岸に到る」という意味になります。
 みほとけさまの限りなきお慈悲と智恵によって彼の岸に到る、即ち現実の苦しみの多いこの世の中にいて、最高の幸せ、極楽の生活をさせていただくことを意味するものであります。
 それにしましても、折角この世に人間として生を享け、ただ損だ得だ、勝った負けた、好きだ嫌いだ、と事ごとに二つに分けて思うとおりになったら、喜び、思うとおりにならなければ不足不満で、
此の世の地獄にして生きている人々の多いこと。
 み仏さまのみ教えは、それを無くして、歓喜踊躍ー大いによろこびおどりあがる、信仰を得たよろこびの表現ーの生活に切り替えられる世界であります。
 関本諦承上人の「みなさん信仰持ちなされ。信仰なしには生きられん。こころに深く弥陀仏の慈悲の光を持ちなされ。」これが到彼岸の生活であります。


2009年8月

ずいちょう
盂蘭盆  随暢 記


 八月に入りました。お盆の月です。
「盆はうれしや別れた人も晴れとこの世へ会いに来る」
盂蘭盆とは、裏や表の盆を言うのではありません。
「ウランバナーというインドの言葉を音写して、ウラボンというのです。
サンスクリット(梵語)の(ULLANBANA)であります。
その意味は倒懸苦と訳されています。「さかさまにぶらさげられた苦しみ」という意味で、両方の足首を紐で縛られて、木の枝からつりさげられている苦しみということです。これは、大変な苦しみでしょう。
 お釈迦さまのお弟子に目蓮というお方がおられました。
六神通という力を備えたお方で、したから霊界まで見抜くことが出来たのです。
すると、亡くなった、自分のお母さんが、餓鬼道へ堕ちて大変苦しんでいるのです。姿はまさしく餓鬼です。のどは針の如く、あばら骨がみえて、痩せて骨と筋だけで、それにお腹がふくれて、髪は乱れ、ほお骨までとがっておそろしい顔をしているのです。ものを食べようとすると、メラメラと火になってもえてしまうのです。この苦しみを救いたいと、お釈迦様に助けを求めたのです。
 生きている間に善いことをしたようでも、それは、所詮執われた心でしたことであって、ほとけさまの智恵の眼でみると、それらはみな、自己中心のことで決して、世のため人のためになっていないのです。執われた煩悩の為す業(わざ)であって、その業(わざ)、業(ごう)といいますが、その結果苦しむのだ。それを救うにはこの経に説くがごとく、施餓鬼の法を修し、仏法僧に過分の供養をするより他はないと教えられてはじまったのが、このお盆の行事です。あの世、この世が一つになって結ばれるお盆の行事です。平素のご無礼を謝する思いで、ご先祖さまのお供養をさせていただきましょう。
2009年7月 「一如(いちにょ)」がわかる  随暢 記


 梅雨の時期に入っています。日毎に青梅の実の光沢が増してまいりました。
 慈、みなべの里はこれから一ヶ月は大変な活気に満ちた日が続きます。苦しい中にこそよろこびがあるのです。辛抱した甲斐があってこそ収穫の実績があがるのです。
「苦中に楽あり」「楽中に苦あり」と言われます。
 また「忙中閑あり」とか、「楽は苦の種、苦は楽の種」とも言われています。
 
 「つみかさね
  一球一球のつみかさね、
  一打一打のつみかさね、
  一作一作のつみかさね、
  一歩一歩のつみかさね、
  一念一念のつみかさね、
  一座一座のつみかさね、
  つみかさねの上に咲く花
  つみかさねの果てに熟する実
  それは美しく、尊とく
  真の光を放つ」。

 と、かつて坂村真民さんの詩を紹介したことがあります。
 お忘れになりましたか?
それでも結構です。
 くりかえし聞いていただくことも、これ、つみかさねですから。
 人生というものは、つまるところ、このつみかさねの連続なのです。
 ほんとうに生きる人生。
 真の人生とは、このつみかさねの上に築かれていくものでなければなりません。
 楽と苦とは別ものではなく、忙しいことと、閑(暇)なことも結局一つであることがわかってくるのは、つみかさねに生きた人にしてこそであります。
 「苦楽一如(いちにょ)」、ほんとうのよろこびは、苦しいことのつみかさねから味わえるのであって、つらいこと、くるしいこと、いやなこと、くやしいことが、つみかさねの要素であることをしみじみと考えさせられています。容易なこと、楽なことのつみかさねでは真の人生を味わうことが出来ないと言っても過言ではありません。
 つくいかきくの頭文字こそ真の人間を育てる要素ではないでしょうか。
2009年6月 「物とこころ」 随暢 記


 先日或るお説教師さまから聞かされたといって、私に教えてくれたご婦人がいます。
 おばあさんが亡きご主人のご命日に、お仏壇へお供えをしようと、お霊供膳(おりょうくぜん)をつくっていると、嫁が、「飯(た)べもせんのに、そんなもの、供えんでもええやないの」と、語気を強めて言ったそうです。
 おばあさんは、「そうかそうか」と言って、それにはさからわずに、霊供膳(りょうくぜん)をつくることを止めた。と言うのです。
 事実あった話だそうです。と。

 もう一つは、孫の一歳の誕生日に赤飯を焚いて祝ってやりたいと思っておばあさんが、小豆を洗って準備していると、若い嫁が「まだ、よう飯(た)べんのに、そんなこと、止めといて」と言った。
 と言うのです。この二つ、事実だとすれば、この世はまさに闇黒の世界と言わねばなりません。
 物とこころは、一体でなければ人間の生活とは言えないのです。
 それを割り切って、物は物、こころなんて問題にしない生活となれば、もう地獄と言わねばなりません。
 仏教では、「物心一如(いちにょ)」と申します。
 見えないこころの世界がわからないのは、幼いこころからの情操教育がかけていたからです。
  「みほとけさまがみてござる。
   いつでもどこでも一緒でござる」、
この事実の教えが、人間をつくるのです。
 尤も(もっとも)大切なことを忘れ、ものに執われた日常生活から取り返しのつかない結果を招くのです。
 おそろしいことではありませんか。
 私は七歳でこの寺に小僧として迎えられ、この道一筋に、学ばせて頂いたのは、ことごとく、「見えない世界への対応」に極まるのです。
 物に執(とら)われた現代社会を救うのは、「物心一如(ぶっしんいちにょ)」の仏教的世界観だけです。
2009年5月 大自然のいとなみ


万緑の五月を迎えようとしています。冬の間は枯葉が散って、常緑樹の中に落葉樹が枯木の如く、突っ立っていましたが、三月から四月に入り、若い木の芽が伸びて、早や、五月に入りますと周囲の山々が一段と膨らんで、しかも近くに山が接近してきたように見えるのです。
それは、四方を山に囲まれた、南部郷というこの里に住まわせていただく者にのみ実感せしめられる感慨でございます。
 広大なる平野の中に発展した大都会では、ビルの谷間に、という生活でしょうが、大自然の山ふところに住む者の、朝夕変わりゆく木々の芽の若緑が色増しつつ光が時々千変万化する光景まことに勿体ないようなさわやかさで心も洗われています。

「ほとけさまはどこに、どこにいらっしゃる、春は花咲く枝のもと、夏は水辺の草のかげ、秋は空ゆく雲の上、冬は窓打つ雪の中、いつもどこかでみていてくださる、いつも何かを教えて下さる、ほとけさまはあれあれあそこにいらっしゃる」と作詞された森山美苗というお方の歌に感動したのは、もう十年も前のことでしたが、「あれあれあそこにいらっしゃる」とみえたほとけさまが、実は、「ここにいらっしゃる」のでございます。「森羅万象皆是れ無量寿仏なり」と、西山上人が秘訣集のなかで申されているおことばが、しみじみと味わえる年になってきて、本当にありがたく勿体ない毎日であります。
 さる、1月20日大手術をうけて、80年働き続けてくださった胃を三分の二切除していただいた体験は私の生涯を一変させてくださった、無量寿仏のおはからいでございました。「日にち薬」と聞かされました実感まことに尊くいただいています。五月の行事予定は「日々是好日」といただくばかりの予定でございます。
ちなみに中外日報創設者、真渓涙骨(またにるいこつ)氏の百十周年記念誌、涙骨抄に出会って〜価値の発見〜拙者の表紙にある傘の絵は涙骨氏の直筆で「破れ傘さしつづけたる六十年、涙骨」とありました唐笠の絵でございます。