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重圧を越える
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よろこびから
2009年8月

ずいしょう
 南無阿弥陀佛とは?

 先日、あるお方が、お寺へ訪ねて来て下さいました。
「前から方丈さんに一度聞いてみたいと思っていたんだけど、うちの母親や嫁さんが、いつも、なむあみだぶ、なむあみだぶ、なあむあみだぶつと称えているけど、どういう意味なんか、教えてもらいたいと思って・・・」
「そうですか。この南無阿弥陀仏というのは「南無」と「阿弥陀仏」に分けてまず、考えたらいいと思います。「南無」とは、帰依する・・・すべてをおまかせしますと言う意味なのです。「阿弥陀仏」というのは「無量寿経」という経典の一部のなかにこうあります。
 十刧という遥か遥か遠い大昔に法蔵菩薩というお方が、現われました。この法蔵菩薩様が、{私ども生きとし生けるもの一切の衆生(人間ばかりでなく、動物や植物などの一切の生き物)を必ず救う、もし救うことができなければ、私は仏とはならないとまで誓われて、気の遠くなるような永い永い間修行されて、菩薩道を成就されてついに、阿弥陀仏という仏になられた。
ここから、阿弥陀様がはじまります。この法蔵菩薩が、阿弥陀仏という仏になられたときに、この時に私ども生きとし生けるもの、一切の衆生の往生は決定された…即ち私どもは救われたというのです・・・}
 この私どもを、いつでもどこでも見守ってくださっている「阿弥陀仏」にすべてをあずけて帰依するわたしの心と阿弥陀仏が一体となったのが、南無阿弥陀仏というのです。」「ああ、そういうことなんか。いや、ありがとう。ありがとうございます。と思いながら、称えてもいいのですね」「いいのです。私自身最初は、手を合わせること自体が自分に負けたなあと思った時もありましたが、やはり、人間は手を合わせることからはじめなければいけません。なぜならば、人間というのは、ちょっと調子がいい、うまくいってますと、「それは、俺がやった、私がやった」と、ついつい思いあがってしまうのです。その挙句の果ては奈落の底へ落とされ、手痛いしっぺ返しが待っているのです。ですから、自らを抑える、謙虚に受け止めていく、初心にもどるためにも、大いなるものへ、手をあわせていくところからはじめていかねばならないと思うのです。」「あ〜。そうか・・・」と、少し納得していただいたようです。関本諦承上人は
「みなさん信仰もちなされ。信仰なしには生きられぬ、心に深く弥陀仏の慈悲の光を持ちなされ」と申されました。
 いつでもどこでも見守って下さっている大きなお慈悲に少しでも気付かせていただき、この大いなるものに帰依し、信仰を保ち続けていくことこそが、充実した毎日を過ごさせていただくことだと思います。(ずいしょう)
2009年7月 気づき

 梅の実もふくらみ、このみなべの郷(さと)もいよいよ農繁期を迎えました。
 大自然の中で、人間は永い永い歴史を積み重ねて、生かされてまいりました。
 その中で、人間の本質は変わらないのです。
 とにかく人というのは、自分のことは棚に上げ、他人(ひと)のことをついつい責めがちになるのです。
 自分の考えや思いが正しい・・・他人の言うことは間違っている・・・自らを正当化するのです。
 正しいと思い込んでいる考えが通らなくなると、人は頑な(かたくな)になり、人の中に溶け込めない・・・そして人は寄り付かなくなるのです。だんだんと自らを消沈させてしまうのです。
 しかし、落ち着いて、じっくり自らをふり返って、
「我を張っていたなあ・・・ごねていたなあ・・・捻くれて(ひねくれて)いたなあ・・・。」
と、見つめていくのです。
 そうすると、いつでも、どこでも、誰にでも見守って下さっている大きな大慈悲の光が、さっと差し込んでくるのです。
 その時に、肩の力をスーッと抜け、今まで我を通してきた、突っ張ってきたことは、
「悪かった・・・申し分けなかった・・・。」
と、素直になり、柔らかい言葉を発すると、まわりには、不思議に受け入れられ、暖かく迎えられるのです。
 自らは、打ち解け、いい関係になり、それがまわりを明るくするのです。
 大いなる宇宙のつながりの中で生かされている自らを再認識し、法悦(ほうえつ)にひたれる・・・幸福感を味わうのです。

 他力を心得て見れば
 仏の方より衆生を
 追いありきたまひけるを
 知らずして
 今日まで流転しけるなり
       (西山上人)

 気づいて見れば、私たちは、いっぱいのお慈悲に包まれていたのです、
 お互いの不思議な出合いに気づかせていただき、これをよろこび、力を合わせ協力していけるような毎日を過ごしてまいりたいものです。
                    (ずいしょう)
2009年6月 ECO(エコ)とは

 最近ECO(エコ)という言葉が注目されています。
1、地球温暖化の原因となっている二酸化炭素、一酸化窒素などの温室効果ガス対策。
2、燃料効率の向上や排気ガスの排出量の削減を考えた、燃料(ガソリンやディーゼル)と電機で動くハイブリッドカーの利用。
3、太陽光や熱、風力、潮力、地勢などの自然現象を利用するグリーンエネルギー対策。
4、三つのRといって、リディース(減らす)、リユーズ(繰り返し使う)、リサイクル(再生利用)ーをして、環境によい暮らしを実現するーなど。

 このECO(エコ)というのは、もともとエコロジー(ecology)からきています。エコロジーとは、生態学という意味で、生物の生活や環境学との関係、つまり「環境にいい」という意味につながります。
 一方で、エコノミー(economy)のエコとも言われています。
 エコノミーとは経済のことです。環境と経済はつながっていて、どちらか一方だけ発展してもうまくいきません。
 環境問題を世界中で解決していくことで世界の経済も発展し、人びとが安全で豊かな生活をおくれるようにと思いをこめて、「エコ」という言葉が使われているそうです。
 よく考えていきますと、エコロジー(生態学)もエコノミー(経済)も“いのち”という根源に立ち返っていくのです。

 人にして生まるるは難し(かたし)
 今、生命(いのち)あるは難し
              「法句経」

 この「難し(かたし)」というのは、あることが難しい、めずらしい、めったにないということです。
 そうしますと、“人にして生るるは難し”とは、この世に人として生まれてくることは、難しいことなんだ、めったにないことなんだ、まれなことなんだ・・・
“今、生命(いのち)あるは難し”とは、今、生命あり続けることも、本当は難しいことなんだ・・・ということになります。

 とても難しいことなのに、今、ここに生かしていただいている。
 思いや考えや願いや悩みに先立って、生かしていただいている・・・という尊い存在の事実があったのです。
 この大切なことを、日常生活の中では、ほとんど忘れさられてしまっているのではないでしょうか・・・。
 自分にとって都合の悪いことが起きますと、不満や不服をいい、相手のせいにしてしまう・・・

 今、落ち着いて、阿弥陀さまから生命(いのち)をさずけていただいて、生かしていただいている我身をふりかえってまいりたいものです。
 生命の根源に立ち返って、そこから立ち働いていく自らを養ってまいりたいものです。

 本当のECO(エコ)とは、まず自らの生命(いのち)をふり返り、他の生命と共に潤って(うるおって)いくことではないでしょうか。
                          (ずいしょう)
2009年5月  ゆだねる

私は、4月21日から23日までの三日間、代参という役目をいただき、本山の御忌会、第798回目の法然上人の御法事へ参拝してまいりました。
 私が、はじめて、本山へ行った26年前、本山での随身生活が嫌で嫌でたまらなくて、ある職員の方に、「僧侶の資格を頂いて、地方に帰ったら、また、本山に来なきゃいけ ないのですか?」と尋ねました。そうしますと、「いやいや・・・本山に登ってこない住職も いるよ・・・」と言われたので、私も、やれやれ・・・とホッとした記憶があ ります。そんな私が、昭和58年4月8日、二週間の加行を満行して、極楽寺に帰ってまいりましたが、それから、二週間もたたないうちに、どういうわけか御忌会に出て行った んです。
まわりの仲間から、「あんなに本山を嫌がって、もう二度と来ない・・・と言ってたのにもう来たんかい!」と言われ、苦笑したことも思い出しました。
 本山でのこの三日間、全国各地から、来られた方丈さまと共に、大衆部屋で、雑魚寝して過ごすのです。
朝五時前に起床し、朝の晨朝のおつとめ、昼の日中のおつとめ・・・など、足はとても痛いのですが、1年に1度他地域の方と交流できて、勉強にもなり今となっては喜んで行 かせていただいています。 

今から、およそ800年前、法然上人は「念仏をとなえれば、必ず往生して救われる!」と説かれました。
人間の世界、世間の中においては、楽しいこと、うれしいことがたくさんあります。人間関係がうまくいきますと、これほどすばらしいことはありません。しかしながら、ち ょっと間違うと、恨みや、ねたみや、そねみや憎しみに変わり、足の引っ張り合い、わかしあいのドロドロの関係になってしまうのです。
 先日、大阪のある母親が、内縁の夫、その知人と共犯で、母親の娘9歳を殺害し、山中の墓地に遺体を捨てる!という残酷な事件が起きました。釈尊の言葉に「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみ)のこころを起こすべし」(スッタニバータ )とあります。
 これは、「お慈悲」を母が、命を賭けても護る子への慈しみの姿で喩えたものです。しかし、この事件の恐ろしい鬼のような母親では、お慈悲の喩えにはなりません。わたしたちは、このような事件がありますと、「何とひどい母親だ!こんな親がいるんか!」と思いがちですが、私たちの心の中には良き心がある反面、だれでも恐ろしい心が潜 んでいて、これは人ごとではない・・・と受け止めた方が正しいかもしれません。
 だからこそ、この人間社会だけからの考えや思いだけでは根本的な安らぎの境地を得ることはできない・・・人間の力を遥かに超えた、いつでもどこでも見守って下さって いる阿弥陀様にまず、ゆだねていくこころを持たなければ、本当に落ち着いた安らぎの境地は生まれて来ない!と法然上人は達観されて、阿弥陀様に帰依するこころ、「南無 阿弥陀仏」と称えていくことをお勧めくださった・・・と受け止めています。お互いまず、素直になって手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と称え、大いなるものにゆだねていく ところからはじめてまいりたいものです。(ずいしょう)

「以前のりんどう記事 その1」


「以前のりんどう記事 その2」