船宿寺田屋ウオーク      12km           平成22年2月21日(日)
坂本龍馬シリーズ@






今日は維新の大事件寺田屋騒動の舞台、寺田屋を見たくて参加しました。

坂本龍馬の負傷した事件です。この前まで司馬遼太郎の「龍馬が行く」で嫌な事件と思っていましたが、

先日「ある明治人の記録」を読んで、考えさせられました。歴史を一面から見ては駄目ですね。

そういえば高校の世界史の先生が歴史は勝者が書き残したものであると云っていたことを思い出しました。

寺田屋事件は伏見奉行所による寺田屋手入れであり、お龍の機転で間一髪龍馬は助かります。

最近読んだ「ある明治人の記録」は会津藩士で明治の陸軍大将柴五郎の遺書です、この柴五郎氏は明治の中国の日本大使館

にあって義和団事件の折、英国の大使館をも警備し、日本人は信頼に足ると大英帝国に評価高くされ、日英同盟の元となったのです。

それにしても維新は物凄いエネルギーで成し遂げられました。会津藩一藩を丸ごと流罪にして、新政府は出来ていたのです。

西南の役で西郷さんに対して敵討ちとばかり参加した会津藩士の心は司馬遼太郎の世界には書かれていません。

また血塗られた維新で得した金持ちとなった人達のことはなぜか話題になっていません。

柴五郎は会津では裃(かみしも)を許された、由緒ある家柄でした。維新の際、一族の女性と老人の9人は自害して果てました。

青森の北の斗南藩として会津藩は移封されるのですが、その地での生活は想像を絶する苦しさでした。その遺書によると

「余の一家は、3間ばかりの店作りにて、6畳の二階と店と炉のある10畳ばかりの台所兼用の板敷きと、屋後に納屋あり。

建具あれど畳なく、障子あれど貼るべき紙なし、板敷きには蓆(むしろ)を敷き、骨ばかりなる障子には米俵等を藁(わら)縄

にて縛りつけ戸障子の代用とし、炉に焚き火して寒気をしのがんとせるも、陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を吹き貫け、

炉辺にありても氷点下10度15度なり。炊きたる粥も石のごとく凍り、これを解かして啜る。衣服は凍死をまぬかれる程度なれば、

幼き余は冬期間40日ほど熱病に罹りたるも、褥(しとね)なければ米俵にもぐりて苦しめらる。用水は2丁ばかり離れたる田名部川

より汲むほかなし。冬期は川面に井戸のごとく氷の穴を堀りて汲み上げ、父上、兄嫁、余と3人代わる代わる手桶を背負えるも途中

にて氷となりて溶かすに苦労せり、−−−−−−」、

凄まじい生活です、蛇口をひねればお湯が出る、今の我々には考えられない生活です。

これを読むと明治維新とは何だったのかとも思います。

それにしても、薩摩藩長州藩の連合成し遂げた後、大政奉還を喜んでいた龍馬が生きていたならば、会津藩がここまでされることは、

なかったでしょう。でも亡くなってしまって、時代はかってに流れていきます。

明治を生きた私の尊敬する「勝海舟」はこの会津の惨状を知っていた筈なのですが、なんともコメントが残されていません。

逆に隣の庄内藩士による「西郷南州遺訓」が残されているとは何ということでしょうか。ゴマスリはいつも大事なのでしょうか。

当時の龍馬の目標である「欧米諸国に追いつくこと」がその後130年ずっと今まで、わが国の目標だったのです。

思えば、龍馬の時代は進むべき道がはっきりしていて幸せです。これからの政治家は大変です、海図の無い海に漕ぎ出すの

ですからね。世界に対して日本は何を旗印にするかが問題です。私はここで日本が旗印にするのは「武士道」だと思います。

公平を心がけ、潔く責任をとる、いいわけをしない、そして弱い者に味方をするこころが、「武士道」だと思っています。


と思いながら、寺田屋に向かいます、若い人が多いです。ここでは語り部が解説してくれています。

この事件は龍馬のなした大事業「薩長同盟」の二日後のこととか、その後、堀川へ龍馬の潜む材木小屋、お龍は薩摩藩邸へ助けを

求めて走ったとか、坂本龍馬は薩摩藩邸の手のものに助けられて、薩摩への逃避行が新婚旅行へとなります。

ここ伏見は、その2年後の鳥羽・伏見の戦いの舞台でもあります、朝廷側の薩摩長州は3万人、幕府側は10万人と云われていますが、

朝廷側の一発の銃弾で始まった戦いは新撰組の土方の奮闘にも拘わらず、幕府側の総退却と将軍の江戸への帰還で決着して

しまいました。「魚三楼」には朝廷側の鉄砲銃弾跡が格子戸残っています。

住吉児童公園で昼食の後、大石内蔵助遊郭遊びの「鐘木町郭の跡」を経て、藤森神社へ、ここの神社での馬の曲乗りも見てみたいですね。

今日はここ藤森神社がゴールです。



コース       12km         時間

京阪中書島駅 − 伏見港公園(スタート) − 伏見奉行所跡(幕府側拠点) − 乃木神社 − 御香宮(薩摩側拠点) − 
    10:00        10:35                11:05             11:20-30                 


魚三楼 − 寺田屋 − 材木小屋跡 − 薩摩藩邸 − 住吉児童公園(昼食) − 鐘木町郭跡 − 藤森神社(ゴール) −
 12:00   12:10-15     12:20       12:35      12:45-13:05        13:20         13:35          


京阪墨染駅
   13:50



伏見港公園


三十石船

伏見奉行所跡
乃木神社
乃木大将の家

魚三楼の矢弾跡

同左

龍馬が逃げた街並

寺田屋

寺田屋
寺田屋
龍馬辞世の句

幕末激戦地

龍馬の逃げた堀川

ここ材木小屋避難

薩摩藩邸

鐘木町郭入り口

藤森神社旗塚