感動的な話 
  このコーナーには、私が感動したことを記載しています。
  涙、ウルウルものもあります、読んでくださいね。

少年の絵を描く人
  画家のF男は、辛い出来事からまだ立ち直れず、絵を描かなくなって半年になる。
  最愛の息子を交通事故で失ってしまったのだ。
  まだ、小学校の六年生だった。
  亡くなる前の晩、星の美しい夜道を親子は歩いていた。
  「ぼくは、世界のみんなが仲良く暮らせるように頑張るんだ。」と語った息子
  F男は、世界中が平和になると良いねと応えた。 
   そんな息子が、交通事故であっけなく他界してしまったのだから無理もない。
  F男は、絵筆を持つ気力も失せ、涙も涸れることがなかった。
  ところが、ある日、庭をぼ〜っと眺めていたF男のところに、小学校一年生の妹 がやってきて言った。
  「昨日、お兄ちゃんが夢に出てきて、「パパ元気にしているかなぁ?」って言っていたよ。お兄ちゃんは心配そうだったよ。」
  F男は、ハッとした。
  息子に励まされた父、まもなくF男は再び絵を描くようになった。
  それ以来、F男のどの絵にも少年が描かれようになった。


中田英寿の引退のメッセージ  2006.7.4
   ワールドカップに敗戦した後、中田英寿がサッカーから引退するメッセージを彼のホームページ
 に掲載していました。 
  決して上手な文章ではないけれど、中田らしさが良く出ています。
  彼の今後の人生に幸あらんことを祈ります

【中田英寿の引退メッセージ 彼のホームページから】

  俺が「サッカー」という旅に出てからおよそ20年の月日が経った。
  8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった。

 あの頃はボールを蹴ることに夢中になり
 必死でゴールを決めることだけを目指した。
 そして、ひたすらゲームを楽しんだ。
 サッカーボールは常に傍らにあった。

 この旅がこんなに長くなるとは俺自身思いも寄らなかった。
 山梨の県選抜から関東選抜、U−15、U−17、ユース、そしてJリーグの一員へ。
 その後、自分のサッカー人生の大半を占める欧州へ渡った。

 五輪代表、日本代表へも招聘され
 世界中のあらゆる場所でいくつものゲームを戦った。

 サッカーはどんなときも俺の心の中心にあった。
 サッカーは本当に多くのものを授けてくれた。
 喜び、悲しみ、友、そして試練を与えてくれた。

 もちろん平穏で楽しいことだけだったわけではない。
 それ故に、与えられたことすべてが俺にとって素晴らしい“経験”となり、
 “糧”となり、自分を成長させてくれた。

 半年ほど前からこのドイツワールドカップを最後に
 約10年間過ごしたプロサッカー界から引退しようと決めていた。

 何か特別な出来事があったからではない。その理由もひとつではない。
 今言えることは、プロサッカーという旅から卒業し“新たな自分”探しの旅に出たい。
 そう思ったからだった。

 サッカーは世界で最大のスポーツ。
 それだけに、多くのファンがいて、また多くのジャーナリストがいる。
 選手は多くの期待や注目を集め、そして勝利の為の責任を負う。
 時には、自分には何でも出来ると錯覚するほどの賞賛を浴び
 時には、自分の存在価値を全て否定させられるような批判に苛まれる。

 プロになって以来、「サッカー、好きですか?」と問われても
 「好きだよ」とは素直に言えない自分がいた。
 責任を負って戦うことの尊さに、大きな感動を覚えながらも
 子供のころに持っていたボールに対する瑞々しい感情は失われていった。

 けれど、プロとして最後のゲームになった6月22日のブラジル戦の後
 サッカーを愛して止まない自分が確かにいることが分かった。
 自分でも予想していなかったほどに、心の底からこみ上げてきた大きな感情。

 それは、傷つけないようにと胸の奥に押し込めてきたサッカーへの思い。
 厚い壁を築くようにして守ってきた気持ちだった。

 これまでは、周りのいろんな状況からそれを守る為
 ある時はまるで感情が無いかのように無機的に、またある時には敢えて無愛想に振舞った。
 しかし最後の最後、俺の心に存在した壁は崩れすべてが一気に溢れ出した。

 ブラジル戦の後、最後の芝生の感触を心に刻みつつ
 込み上げてきた気持ちを落ち着かせたのだが、最後にスタンドのサポーターへ
 挨拶をした時、もう一度その感情が噴き上がってきた。
 そして、思った。

 どこの国のどんなスタジアムにもやってきて
 声を嗄らし全身全霊で応援してくれたファン――。
 世界各国のどのピッチにいても聞こえてきた「NAKATA」の声援――。
 本当にみんながいたからこそ、10年もの長い旅を続けてこられたんだ、と…。

 サッカーという旅のなかでも「日本代表」は、俺にとって特別な場所だった。
 最後となるドイツでの戦いの中では、選手たち、スタッフ、そしてファンのみんなに
 「俺は一体何を伝えられることが出来るのだろうか」、それだけを考えてプレーしてきた。

 俺は今大会、日本代表の可能性はかなり大きいものと感じていた。
 今の日本代表選手個人の技術レベルは本当に高く、その上スピードもある。
 ただひとつ残念だったのは、自分たちの実力を100%出す術を知らなかったこと。
 それにどうにか気づいてもらおうと俺なりに4年間やってきた。
 時には励まし、時には怒鳴り、時には相手を怒らせてしまったこともあった。
 だが、メンバーには最後まで上手に伝えることは出来なかった。

 ワールドカップがこのような結果に終わってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 俺がこれまでサッカーを通じてみんなに何を見せられたのか、
 何を感じさせられたのか、この大会の後にいろいろと考えた。
 正直、俺が少しでも何かを伝えることが出来たのか…
 ちょっと自信がなかった。

 けれどみんなからのmailをすべて読んで
 俺が伝えたかった何か、日本代表に必要だと思った何か、
 それをたくさんの人が理解してくれたんだと知った。
 それが分かった今、プロになってからの俺の“姿勢”は
 間違っていなかったと自信を持って言える。

 何も伝えられないまま代表そしてサッカーから離れる、というのは
 とても辛いことだと感じていた。しかし、俺の気持ちを分かってくれている“みんな”が
 きっと次の代表、Jリーグ、そして日本サッカーの将来を支えてくれると信じている。
 だから今、俺は、安心して旅立つことができる。
 最後にこれだけは伝えたい。

 これまで抱き続けてきた“誇り”は、
 これからも俺の人生の基盤になるだろうし、自信になると思う。
 でもこれは、みんなからの“声”があったからこそ
 守ることが出来たものだと思う。

 みんなの声を胸に、誇りを失わずに生きていく。
 そう思えればこそ、この先の新たな旅でどんな困難なことがあろうと
 乗り越えていけると信じられる。
 新しい旅はこれから始まる。

 今後、プロの選手としてピッチに立つことはないけれど
 サッカーをやめることは絶対にないだろう。
 旅先の路地で、草むらで、小さなグラウンドで、誰かと言葉を交わす代わりに
 ボールを蹴るだろう。子供の頃の瑞々しい気持ちを持って――。

 これまで一緒にプレーしてきたすべての選手、関わってきてくれたすべての人々、
 そして最後まで信じ応援し続けてきてくれたみんなに、心の底から一言を。

 “ありがとう”

トルコとの友好秘話

 1890年、遭難したトルコのエルトゥールル号の乗組員を和歌山県串本町の人々
が命がけで救ったそうです。
 それから、100年後、その恩を忘れなかつたトルコ政府が日本人の命を救ったとい
うものです。
 詳しい内容は、次のURLを見てくださいね。

   http://www.kokueki.com/swf/toruko.htm

  文字版(先に上を見た方が分かりやすいです。) http://iroiro.alualu.jp/syosetu/torukoaa.html

救ってくれた中国人の夫よ

 「おとぎ話だって言う人もいるんよ。憎しみと貧困の時代にありえないって、なぜ私を助けたのか、あの人
が心の優しい人だったからじゃあないかね。」と彼女は言う。
 1945年、ソ連軍に追われ中国のソバ畑で集団自決した血まみれの日本人の少女を中国人の青年が見
つけた。
 少女の家族は、開拓団を率いる味方の団長に集団自決するために殺された。
 当時14歳だった少女も団長に刀で首を切られ、倒れていたところを32歳の青年が見つけたのである。
 青年は、山道を40分かけて少女を家まで運んでくれた。
 青年の兄弟や家の人は「早く捨ててこい。日本人をかくまえば殺される。」となじった。
 しかし青年は、「俺一人が殺されればいいんだろう。」と言い張った。

 寝たきりの生活は2年に及んだが、青年は朝も夜も、首の傷を地酒と塩水で洗ってくれた。
 完治し、16歳になったとき、青年は「好きな人と結婚して、好きなところへ行きなさい。」と言ったが、少女は、
涙でかすんだ目で、「いやだ、あなたと一生一緒にいる。」と言った。そして、二人は結婚した。
 文化大革命があり、日本人の妻を持つ夫は、仲間の輪から外された。8人の子供は教師からも同級生からも
いじめられ、傷だらけになった。でも、夫は「そんな学校には行かなくていい。」と黙々と畑に向かった。
 1983年、彼女は残留孤児として日本に帰国し、2年後に夫も子供と来日した。
 夫は、「みんなで暮らせて幸せだ。」と喜んでいた。
 だが、子供が日本語を覚えて巣立ってしまうと、家に引きこもるようになる。 あのソバ畑、故郷の兄弟....
..遠い目をして、昔話を口にした。
 夫は、昨年8月に亡くなったが、ひ孫たちも、みんな立派に育っている。
 残された彼女は、夜に夢を見る。あの人にぴったりくっついて、ソバ畑で農作業をしている。目覚めると、涙が
止まらなくなる。
 そして、今年こそ、亡き夫と出会った中国のソバ畑に花束を捧げようと思う。
                                           「朝日新聞より引用」
 確かに、おとぎ話のような感動的な話です。命をかけて、見ず知らずの人を救うなんて、私にはできな
いかもしれない。でも、そんな人になりたいと思う。
 日本と中国は、今もいがみ合っている。
 歴史から言えば、ヨーロッパ諸国も中国にひどいことをしているのに、今はいがみ合っていない。
 日本も早く、中国や韓国と心が通じ合える日が来ることを願うばかりです。 

人生は辛いものなのか

 青木さやかのプログが評判となつているそうなので、見てみました。
 すると、あっけらかんと強気で生きているように見える彼女でも、苦悩は多いようです。
 苦悩が大きく、それを乗り越えられた人だけが成長できるということを、また思い知らされました。

【青木さやかの日記から抜粋】 
 私はずっと自分の体にコンプレックスを感じていました。子供の頃は痩せすぎで学生の頃は太りすぎ。
 色黒で指がぶよぶよしてるのも嫌。顔が大きいのも嫌。指摘されると「でしょ〜」なんて言いながらも深
く傷つき、何故こんな顔なんだ!と親を恨んだものです。
 テレビに出だしの頃、先輩芸人さんから「青木は顔と身体のバランスが悪いな〜」と指摘され、その場が
笑いにつつまれました。私は全く笑えず、誰もテレビ見ないで〜とさえ思いました。そんなことが何度か続き、
いつ頃からかコンプレックスが自分の中でとるに足らないことにかわっていたんです。
 そうか!コンプレックスはさらけだしてしまえばいいんだ!この写真集、私にはそんな意味もあったりします。

【青木さやかの日記から抜粋 その2】
 私って超ヘボイかも〜、日々修行なのか〜、キツイぜ〜!だけど死ぬもんか〜・・・重い。重すぎる。正直、
仕事で忙しくなれば楽しいのかな〜なんて、この孤独感から抜け出せるかな〜なんて、思っていたが甘かっ
た。というより、どうやらテレビに出てもそんな効果はないようだ。

私の感想
 コンプレックスは誰にでもあるし、優越感だけの人がいたら、そんな人とは話をしたくない。
 コンプレックスを強く生きるエネルギーにしましょう。
 しかし、結局、人間は何時までも孤独なのですね。これは受け入れなければならないことなのでしょう。
 孤独を恐れてはいけない、受け入れなければならないコトなのでしょう。
 孤独を恐れて、人は卑屈になるけれど、孤独を恐れなければ、卑屈になることもないのですね。 

ご主人のことを心底信じていたからかも?

 知り合いの奥さん(専業主婦)のところに、振り込め詐欺の電話があったそうです。
 その時の電話対応は、考えようによれば感動的なので紹介します。
 
 詐欺師 「もしもし、○○さん宅ですね。 鉄道警察のものですが、お宅のご主人が今日、電車
       の中で痴漢行為をいたしまして、今、ここに居るのですが。」
 奥さん  「あ、はい、そうですか。 いつもお世話になります。どうかよろしくお願いします。」
        (と言って、電話を切ったそうです。すると、すぐ電話がかかってきて)
 詐欺師 「電話を切らないでくださいよ。 いま、ご主人と替わりますから。」
        (しかし、奥さんは、ちょうど無性にトイレに行きたかったらしく) 
 奥さん  「すいません、私、ちょっとトイレに行きたいので、しばらくしてから電話をかけてください。」
        (と言って、電話を切って、トイレに行ったそうですが、電話は二度とかかってこなかった
        そうです。)
       ※ 私は、この話を聞いて、なんだか振り込め詐欺師の人が哀れになりました。         
サミュエル・ウルマンの詩 より

 青春とは、人生の或る期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
 歳を重ねただけで人は老いない。
 理想を失う時に初めて老いが来る。
 歳月は、皮膚にしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。
 希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。

 「青春とは希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる。」 まさにその通りだと思います。

保守的な生活は、幸せに結びつかない。

 人は、年を取ると保守的になるが、現状を維持しょうとするばかりでは、決して幸せにはなれない。
 全てのものは、いずれ失われるからである。
 何かを明日に求め、動き出すときに初めて幸せと心の安定がもたらされる。  

 ある中学校での生活 〜FOREVER〜 より

 付属中で私が過ごした三年間、それは何にも替え難い大切な時間だつた。
 小学生の時は、私はやや暗い性格だった。クラスの仲間とほとんどうちとけず、いつも図書室で一人
で本を読んでいる、という状態だった。
 しかし、中学に入って何かが変わった。何が変わったのかは私には分からない。しかし、比較的クラス
のみんなとうち解けることができるようになった。
 今から考えると、それは技術部のみんなと、当時のクラスメイトのお陰だったのだろう。

 もし、私が府属中にいなければ、市立中学校でやる気もなく過ごしていただろう。そして学年の邪魔者
として、つまはじきされていただろう。そのようにならなかつたのは、府中の校風と、先生方と、そしてクラ
スのみんなのお陰だと、今は思っている。

 今、私たちはみんな、三年間歩いた同じ道を離れ、別々の道をあるいて行こうとしている。もしかしたら、
その道を歩いていくのは一人だけかも知れない。あるいは、また誰かと同じ道を歩くかもしれない。
 しかし、たとえ別々の道を歩いても、いや、別々の道を歩むからこそ、三年間同じ道を歩いたということ、
そしてその間の思い出を大切にしていきたいと思う。
 一つの詩を思い出した。「そのままの君で」に、こんな部分があつた。

 「時は流れて、僕らは別々の人生を歩んでいく
  けれど、いつかどこかで、偶然出会ったら、
  心の底から語り合おう。
  変わらない何かを、確かめあっていきたい
  いくつもの思い出を、素直に伝えたい
  そんな仲間でいてほしい。」

 この歌は、去年、三年生を送る会で唱った歌だ。それから一年が過ぎた今、自分が送られる。
 あの時、私はそんなことは一切考えなかつた。だが、あの場所には、三年間のあらゆる思い出があつ
た。
 完成させる喜び、将来への不安、生きる楽しみ、人生への恐怖、充実した時間、偽りの微笑み、そして
思い出の破片(かけら)。
 私たちは、別々の道を歩んでいく。しかし、3年間の思い出は永遠に残る。
 そんな思いを込めて  We’re friend Forever

木枯らしの ふきし彼方に 我は見る
    輝く校舎と去りし日の我

 何年か前、私の子供が中学を卒業した時に書いたものです。
 今も、親の私から見れば進歩しとらんと思ってしまうのですが、この文章を見ると、彼奴もあいつなりに
苦しんでいたのだと思います。
 できれば、この時期の事を忘れずに、世間との繋がりを大事にして、日々進歩して欲しいと思います。

無用な競争に参加しない こと。  

 人生は競争の連続です。
 私たちは、学校、職場、企業間で好むと好まざるとに係わらず、競争することを強いられています。
 そして、この社会は、競争を当然のこととして受入れること、競争に勝った人のみがすばらしいとす
る論理が支配していることもある意味で真実です。
 しかし、競争というものは、あくまで相対的なものなのです。他人との比較、他社との比較でしかあり
ません。
 そして、競争における勝者は、敗者に対してしだいに優越感を持ちます。
 逆に、敗者は、勝者に対して劣等感をいだきやる気を失う結果、しだいに競争から脱落していきます。

 競争のための競争という意識で参加すると、どうしてもそうなってしまいます。
 つまり、競争は、勝敗を決めるための単なるゲームでしかなく、あなたやあなたの生み出したものの
価値を正しく評価しないものなのです。
 自分の価値は自分で決めるべきもので、他人に決めてもらうものでもありません。

 大事なことは………
 自らの目的と意思によって、何かを生み出し、
 その生み出すものの人生における価値のために
 自分との闘いにおいて努力し取組むという姿勢なのです。

ビツグコミック 14年3月18日号 聖 より 
 余命いくばくもない若きプロ将棋士が、彼女に言う言葉、泣けました。

 僕たちは、1年先に生きているという保証はなにもないのだ。
 たけど、何かを求めて生きているのだ。
 ボクは、名人を目指して一生懸命生きている。
 でも、名人になれずに明日死ぬかもしれない。
 その時に、後悔しないように今日を一生懸命生きているんだ。
 絵里子さんも、生きてください。一日でも長く生きてください。

闘志は内に秘めて H12.5.18 ≪日々雑感≫より

 一言言われれば、必ず言い返さずにはいられない。そんな性分を、あなたはお持ちだろうか・・・?
 気持ちは分かるのだが、これほど損な性分はない。
 いい訳、勘違いなど、様々なシチュエーションが存在するのであろうが、言い返して得なことは一つも
無いのが現実である。

 もし、自らに自信を植え付けたいのなら、相手からのメッセージは厳粛に受け止めてみよう。
 自分の身を守る為にいくらいい訳をしても、それは自分の未熟さ、そして弱さを露呈しているに過ぎな
いのだ。
 要らぬ一言は、争いを招く。いつも笑って過ごしたいのなら、先ず自分から実践することだ。

 人間には器というものが存在するが、この器はこの時育って行く。
 貴方の器が大きければ大きいほど、何事も受け止めることが出来るのだ。
 最初は腹も立つだろうが、いずれそれも収まっていくはずである。

 怒りは貴重な貴方のエネルギーである。それをそんな簡単に爆発させないで、貴方自身の為に使っ
てみよう。
 “闘志は内に秘めて・・・。”
 いつかそのパワーを活かせる時が来る。
 その時の為に、今は自身の成長を第一に考えようではないか。

 なるほどと思いますが、この年になってもまだ実践できていない。
 高い悟りは、人間が成長できないと受け入れられないのかも知れない。
 人間、日々成長が必要ですね。 自分の幸せのためにも
 

吉田松陰の手紙 

 吉田松陰の記録を調べていたら、安政5年6月、松陰が山田市之允に扇面
に書いて渡した手紙があった。
 すばらしい内容で、感動した。
松蔭先生はやはり、すごい。
 
 ※山田市之允
   安政5年春、15歳で松下村塾に入塾
   後の伯爵 山田顕義です。
   彼の詳しい経歴は、次のホームページを見てください。 
   http://www.nihon-u.ac.jp/info/yamada.html
 
 「手紙の内容」
 志を立てるためには人と異なることを畏れてはならない
 世俗の意見に惑わされてもいけない
 死んだ後の業苦を思いわずらうな
 また目先の安楽は一時しのぎと知れ
 百年の時は一瞬にすぎない
 君たちはどうかいたずらに時を過ごすことのないように
  
○手紙のの原文
 【山田生に示す】 
 立志尚特異      立志は特異を尚(たっと)ぶ、
 俗流興議難      俗流は興(とき)に議し難し。
 不顧身后業      身后(しんご)の業を顧(おも)はず、
 且偸目前安      且つ目前の安きを偸(ぬす)む。
 百年一瞬耳      百年は一瞬のみ、
 君子勿素餐      君子素餐(そさん)するなかれ。
 

山に帰してあげたタヌキ 

 「最近近所に引っ越ししてきた奥さんの出来事です。」
 その奥さんは、山口に引っ越してきて、毎朝、犬と散歩するのが日課になっ
たそうです。
 台風が来た次の日も、いつもの道路を散歩していると、大きなタヌキが倒れ
ていました。
 愛犬は、びつくりしたらしく、タヌキの回りをウロウロするばかりです。 
 きっと、自動車に轢かれたのでしょう。 可哀想に思って、家に帰ってこ一輪車
と、タヌキにかぶせる古いシャツを持ってきましたが、意気地の無い私は、タヌキ
に触ることができず、困っていました。

 すると、たまたまそこを通りかかった、お婆さんが、その様子を見て、
 「タヌキも台風のせいで、食べ物が無くなり、里にさがしに来たのじゃろう。可哀想
にのう...。早く山に帰してもらいなさい。」
 と言って、ひょいとタヌキを一輪車に乗せ、シャツをかぶせてくれました。
 「こんなお婆さんがいるなんて、また、好きな人が一人増えました。」

−−こんな風にに話してくれましたが、貴女もすてきな人ですと、私は心の中で思いました。−−  

決して、諦めるな!

 休暇をとってアメリカの西海岸を訪れたときのこと
    偶然、ツァーで一緒だつた、仙台から来られた40才台の会社員の方と懇意に なった。
  彼には、高校生の息子さんが同行していた。
    当然、目的は観光である。
    息子さん、その時、生まれて始めてパラセイリングを経験した。
    彼は、このパラセイリングをとても楽しみにしていたのだが、運の悪いことに、  ロープがからまる事故に遭遇してしまった。
    怪我はなかったものの、一歩間違えば、命を落としかねないものだった。
    彼は怯え、もう二度とパラセイリングはしたくないと思った。

   その時そこに、たまたまレジャーに来てた一人のアメリカ人P氏がいた。
    後で知ったのだが、この方は、世界でも有名な事業家であり、モティベーション に関する研究の第一人者でもあった。
    P氏はその時、見ず知らずの高校生に近寄り、こう言ったのだ。
    「君が事故に遭ったことはとてもアンラッキーだ。
  しかし、パラセイリングは、決して危ないスポーツではない。
    君は今、再挑戦するべきだ。」と・・・。
    日本人なら「なんということを言うアメリカ人だ!」と恐らく、怒る人が多いことだ ろう。
    しかしP氏は、この体験がまだうら若き青年の将来にマイナスになることを悟っていたのだ。
    英語だった事もあり、説得すること二時間。
    ついに彼は、親の静止も聞かず再挑戦したのだ。

    彼は優雅に、カモメが滑走するように、大空を舞った。
    地上に降り立った時、彼はP氏に真っ先に駆け寄り抱きついたのだ。
    「サンキュー!サンキュー!」
    彼はP氏の胸の中で号泣した。
    P氏もまた、彼を抱きしめ、涙でその勇気を称えていた。

    彼は日本に帰り、この経験がこれからの人生を歩んでいく中で、最高の財産になるであろうことに気付いていたと思う。

    「どんなことがあっても、挑戦をやめてはいけない、
     絶対に諦めてはいけない!」のだと・・・。

マックよ安らかに                           

 ご近所に、不登校ぎみの高校2年生の男子生徒がいた。
 彼は、体が弱く、友達との折り合いも良くなかったため、学校に行くのが嫌になつた
ようだ。
 親は、そんな彼を心配し、学校の先生などとも、何回か話しあったのだが解決せず、
不登校は秋から3年生の春にまで続いてしまった。

 5月の雨の日、その男の子が、捨て犬らしい子犬をつれて帰ってきた。
 母親は、小さいとき犬に噛まれた経験から、犬があまり好きではなかったが、男の子
があまりにも熱心に頼むので、とうとう飼うことになった。
 男の子は、その子犬にマックという名前を付け、毎日、遊んでいるうちに、段々元気
になり、学校にも少しずつ行くようになった。
 そして、学校から帰ると、毎日、マツクと転げ回って遊んでいた。
 マックも彼が帰るのをただひたすら待っような犬だった。

 だが、10月に悲劇が起きた。男の子は心臓に欠陥があったらしく、病気が発見され
てから、なんと、数週間で亡くなってしまった。
 葬儀の日、人の出入りが多いから、家の裏に繋がれたマックは、ただじっとして、眠
ったようにしていた。ところが、男の子の棺が家を出る時、マックは狂ったように吠えだ
した。
 マックの居る所からは、決して見えるはずがないのにである。
 次の日から、マックは、ただじっと男の子を待っかのように、遠くを見てばかりいた。
 飼い主は、いそがしさのあまり、数日は、マックの世話があまりできなかった。
 ある朝、母親がマックの所に行って見ると、ついさっきまでいたマックの鎖が外れてい
て、マックが見あたらなかった。
 家族全員で近所を捜したのだが、そのときは発見できなかった。
 その夕方、近所の人から電話があり、マックらしい犬がダンプカーに轢かれたという知
らせがった。
 母親が現場に行って見ると、横たわっていたのは、まちがいなくマツクだった。

 現場には、マックが轢かれるところを見た男の人がいて、状況をこう説明してくれた。
 「あの犬は、歩道にじっと立っていたいたけれど、ダンプカーが近づいてくるのを見たら、
すごいスピードで真っ直ぐダンプカー向かって走っていつた。 あの犬は、まるで自殺し
たかったように見えた。」 
 次の日、家族全員でマックを丁重に葬ったそうですが、その母親は、泣きながら、こう
言っていたそうです。   
 「マックは可哀想なことをしたけれど、私は、マックが自分を可愛がってくれた子供の所
に行きたかったのだという気がしてなりません。
  マックは、いま天国で、子供と元気一杯遊んでいるような気がします。
  子供とマックが、天国で幸せに暮らしていると思います。

カエル君のお手紙  

がまくんは玄関の前にすわっていました。
かえるくんがやってきて言いました。
「どうしたんだい、がまがえるくん。 君、悲しそうだね。」
「うん、そうなんだ。」がまくんが言いました。
「今、一日のうちの悲しい時なんだ。 つまり、お手紙を待つ時間なんだ。
 そうなると、いつも僕、 とても不幸せな気持ちになるんだよ。」
「そりゃ、どういうわけ?」かえるくんは尋ねました。
「だって僕、お手紙もらったことないんだもの。」
がまくんが言いました。

「一度もかい?」かえるくんが尋ねました。
「ああ。一度も。」がまくんが言いました。
「誰も僕に手紙なんてくれたことがないんだ。毎日、僕の郵便受けは空っぽさ。
 お手紙を待っているときが悲しいのは、 そのためなのさ。」
二人とも悲しい気分で、玄関の前に腰を下ろしていました。
すると、かえるくんが言いました。
「ぼく、もう家に帰らなくっちゃ、がまくん。 しなくちゃいけないことがあるんだ。」

かえるくんは、大急ぎで家へ帰りました。
鉛筆と紙を見つけました。
紙に何かを書きました。
紙を封筒に入れました。
封筒にこう書きました。
『がまがえるくんへ』

かえるくんは家から飛び出しました。
知り合いのかたつむりくんに会いました。
「かたつむりくん。」かえるが言いました。
「おねがいだけど、このお手紙を がまくんの家へ持っていって、 郵便受けに入れ
てきてくれないかい?」
「まかせてくれよ。」かたつむりくんがいいました。
「すぐやるぜ。」
それからかえるくんは、がまがえるくんの家へ戻りました。

がまくんはベッドでお昼寝をしていました。
「がまくん。」かえるくんが言いました。
「君、起きてさ、お手紙が来るのを、もうちょっと待ってみたらいいと思うな。」
「いやだよ。」がまくんが言いました。
「僕、もう待っているの、飽き飽きしたよ。」
かえるくんは窓から郵便受けを見ました。
かたつむりくんはまだやって来ません。
「がまくん。」かえるくんがいいました。
「ひょっとして、誰かが君に
 お手紙をくれるかもしれないだろう?」
「そんなことあるものかい。」がまくんが言いました。
「僕にお手紙をくれる人なんて、
 いるとは思えないよ。」

 かえるくんは窓からのぞきました。かたつむりくんはまだやって来ません。
「でもがまくん。」かえるくんが言いました。
「今日は誰かが、君にお手紙くれるかもしれないよ。」
「ばからしいこ、いうなよ。」がまくんがいいました。
「今まで、誰も、お手紙くれなかったんだぜ。 今日だって同じだろうよ。」

かえるくんは、窓からのぞきました。
かたつむりくんはまだやって来ません。
「かえるくん、どうして君、ずっと窓の外を見ているの?」がまくんが尋ねました。
「だって今、僕、お手紙を待っているんだもの。」
かえるくんが言いました。
「でも来やしないよ。」がまくんが言いました。

「きっと来るよ。」かえるくんが言いました。
「だって僕が君にお手紙出したんだもの。」
「君が?」がまくんが言いました。
「お手紙になんて書いたの?」
かえるくんが言いました。
「僕はこう書いたんだ。
 『親愛なるがまがえるくん。僕は君が僕の親友であることを、うれしく思ってい
ます。 君の親友、かえる。』」
「ああ」がまくんが言いました。
「とてもいいお手紙だ。」

それから二人は玄関に出て、
お手紙が来るのを待っていました。
二人ともとても幸せな気持ちで、そこに座っていました。
長いこと待っていました。

四日たってかたつむりくんが、
がまくんの家につきました。
そしてかえるくんからのお手紙を、がまくんに渡しました。
お手紙をもらってがまくんは、とてもよろこびました。


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