9、本訴を提起する以前の、戦争孤児としての活動

1979年〜1988年=「東京戦災遺族会」が結成され入会。私は44歳のときから
 約10年間、役員10名の中のひとりとして溝口会長のもとで「戦時災害保護法」の
 制定にむけ、傷害者団体の杉山千佐子さんらと共に、国会議員や各政党に陳情して
 回りました。しかし、14回も廃案になりました。86年に「母に捧げる鎮魂記」を出版。
1988年=「全国疎開学童連絡協議会」に入会。孤児にアンケートを依頼しました。
 90年に自分史「夜空のお星さま」を出版しました。
1994年=アンケート結果をまとめ、「学童疎開の記録 1」(疎開協編集)の中に掲載。
1995年=はじめて孤児たち15人が集まり、話し合い、それから原稿を集めました。
1997年=「焼け跡の子どもたち」を「戦争孤児を記録する会」で出版しました。
1997〜2001年=都が「平和祈念館」建立のため懇親会が設置されたのを機に、
 私たちは横網町(震災の場)以外の場所に、東京空襲死者追悼碑の建立を求め、
 個人参加の「再考を求める会」が設立され、必死に活動してきました。結局、遺族の
 うるさい口を封じるために、目くらましのモニメントが、あれだけ反対していた横網町
 公園(震災の場)につくられ、祈念館は凍結され、挫折しました。

2001年7月=この経過の報告を「平和のひろば」の冊子に。代表が編集して発刊しま
 した。ともに活動した孤児たちの原稿を募り、7人の証言もあります。

2002年=「東京大空襲と戦争孤児。隠蔽された真実を追って」を発刊しました。
2005年3月に「東京大空襲六十年展」を六本木ヒルズで開催、これも個人参加で
 2002年ごろより準備に入り、「六十年の会」が結成され、孤児たちも参加しました。
 この展示にはこれまで出てこなかった展示が多く、1万人が来場。マスコミに大きく
 取り上げられ、東京空襲が世間一般にようやく知られるようになりました。

2005年7月=図録「東京大空襲展」を発刊、編集を手伝いました。
 私は44歳から一貫して、休みなく東京空襲と孤児問題に取り組んできました。
 30年間、全力投球してきました。