7、戦争孤児が、自己の体験を語れなかった理由
 理由は様々あります。10人いれば10人違いますが、大雑把に分けます。

イ、惨めすぎる過去を晒したくない
 生きるために盗みをしなければ生きていけなかった浮浪児たちは、前述したように惨めそのもの、浮浪児だったことを家族にさえ話すことができませんでした。幸せな結婚生活をしていた孤児が、もと戦災孤児だったことが判明して自殺した人もいます。
「あの人は刑務所に入っていた」「売春婦であった」とか、後ろ指をさされ、軽蔑のまなざしに耐えきれなくなり自殺したと思います。白眼視されたり、蔑視されますから、一生黙ったままです。

ロ、空襲下での極限状況が刻印されている
 親が自分の目の前で火だるまになって、死ぬのを見てきた子は、あまりの凄惨な極限状態が刻印され、思い出すまいと心底に抑えつけてきました。空襲を想起するようなもの、たとえば地震、災害、赤色、焦げた魚など見ると、パニックを起こしますから、絶対に見ないようにしています。今でも、その場面になるとワッと泣き伏し、「まだ語れません」といいます。その刻印の深さは、はかりしれないほど深いのです。

ハ、親戚の悪口は語れない
 親戚は仮にも置いてもらったという負い目もあり、悪口は個人攻撃になり、やはり言えませんでした。私もこれまでの自分史には、親戚の悪口を書けませんでしたから、読んだ孤児からは「金田さんは孤児として幸せだったのね」といわれ、知人からは「親戚に感謝しなさい」といわれました。私は母の貯金があったので高校まで通わせてもらえましたが、
18歳で無一文で東京へきてから、崖っぷちを歩くような貧窮生活でも、心の自由があり自分を取り戻せました。親戚で自由を奪われ、何をされても口答えひとつできない、心を殺す生活ほど辛いものはありません。一点の光もない絶望生活でした。「生は死より辛い」あのころを思いだすと、どうしても生きていて良かったと思えません。
 親戚への憎しみから生きてきたという人もいます。

ニ、精神に異常をきたした
 坊ちゃん、お嬢さんとして育てられた子は、その落差に苦しみ、また気の弱い子も喪失感から無気力になり、自殺したり、あるいは精神異常になりました。精神病院に入院中、あるいは治療中の人を私は何人も知っています。愛人になった人が、心も身体もボロボロになり、「私が孤児になったから」とうわ言をいいつづけている人もいれば、幻覚に犯され周囲から狂人扱いされている人もいます。

ホ、学力無く、コンプレックスを持っている
 小学校も卒業できなかった孤児は、読み書きもできず、話をまとめる能力がない。と自分自身に非常な劣等感、コンプレックスをもっています。人前で話ができない。人の影に隠れ、人に知られないように生きてきました。ある子は小1年で親の空襲死、それから学校へ行かせてもらえず、私のアンケート調査に「カタカナしか習ってないので、字が読めなくて、友人に読んでもらいました」と電話がかかってきました。

ヘ、村八分になる
 東北地方の農家などへ労働力として貰われていった子は大勢いました。逃げるところがなく昼夜なくこき使われ働きづくめ、努力を重ね、やがて結婚、子どもや孫ができました。ある地方の地元の先生が「当時の話を聞かせて」と尋ね歩きましたが、だれも頑なに証言を拒否しました。愛情こめて育てられたのなら、よどみなく話ができるでしょう。事実を公表すれば村八分になり、村に住めなくなります。せっかく築いた家庭も壊されます。

ト、人間としてのプライドがある
 人は自分を認めてもらいたい、飾りたい本能を持っているようです。対等の立場でなく、上からの目線で、憐れみをかけられたくない、同情されたくない、というプライドがあります。惨めな話は軽蔑されるだけです。このプライドは男性に多いように思いました。

チ、人間を信用できなくなった、だれにも心を開かない
  大人や社会から利用され、虐待され、子どもたちからもバカにされ、社会の底辺へ追いやられた子は、全く人間を信じられなくなり、心を開かなくなりました。なかには反抗的になる子もいました。「俺たちが良い子になったら、また、大人は戦争をおっぱじめるだろう」という子もいました。大人に対する不信感は、相当根強く、孤児の心をむしばんでいます。
 
 孤児たちは親、家もないことで、就職、結婚も差別されてきました。「親がいないからどんな育て方をされてきたかわからない」「どこの馬の骨かわからない」と。
 性格が暗いと孤児だから、明るいと孤児らしくない(両親ある子でも明るい子と暗い子がいる)。何事も孤児というレッテルを貼られ、差別、偏見、蔑視をうけますから、まるでエイズ患者のように、孤児であったことを隠して生きてきました。
 
 しかし、戦後60年前後から、ようやく孤児たちが話しはじめました。
孤児になった狩野光男さんは、画家を本業としながら、空襲体験画を描けなかったのですが、75歳になってから描きはじめました。浮浪児になった山田清一郎さんは、凄惨な浮浪児体験「俺たちは野良犬か」を2006年に出版しました。そして、また親戚での実態も話をしなければ、孤児たちの本当の姿が浮かびあがりません。少しずつですが、語りはじめました。みな高齢になっていますから、遺言です。
 孤児証言がでるには、これほど長い歳月が必要でした。まだ語れない人は多くいます。戦争孤児は子ども故に訴える術をもたず、成人してからも差別、蔑視をうけつづけ、組織をつくることもできず、孤独との闘いの日々でした。従軍慰安婦より、中国残留孤児より遅く出てきたのは、それほど重い、深刻な、問題なのです。