5、国の戦争孤児対策について

 この厚生省の年齢別調査から、学童疎開中の孤児が約7万人いることが、疎開協や私の調査からわかりました。小学生70万人が地方へ移住、疎開していましたから、疎開中の小学生孤児が群を抜き多くいたといえます。まず学童疎開中の孤児から説明します。
 
A 国の対応=学童疎開中に孤児になったもの
★ 1945年6月、学童疎開中に空襲で両親を失った孤児たちを「戦災遺児の親は国難に殉じたのであるから、その孤児は国児として国が養育せよ」との声が有識者の間から起きました。それに対し、国は「国児院」をつくり、国が養育すると発表しましたが、とうとう国児院は、つくりませんでした。以後、国児扱いは一切しませんでした。
★ 同年9月15日「戦災孤児等集団合宿教育ニ関スル件」を文部省が発表しました。
「各都府県に250人収容できる孤児施設をつくる。国庫が8割の費用を補助する」
と詳細な経費の案までつくった文書があり、これを多くの関係者が信用していましたが、これも予算措置がなく、結局、疎開中の孤児施設は、文部省も、厚生省も、1カ所もつくっていません。
★ 同年9月20日に「戦災孤児等保護対策要綱」が厚生省次官会議で決定されました。
21日の朝日新聞で報じた内容と違います。以下、山内幸夫さんの文より
 1、個人家庭へ保護委託…家庭的雰囲気で護り育てる。もちろん孤児の生活費、
   教育費、その他一切の費用は国家が補給する。

 2、養子縁組の斡旋…前と同様本人が独立するまでの間の費用を国家が負担する。
 3、集団保護…各地に快適な保護施設を設けて孤児らを集団的に収容する。
 と趣旨、項目を説明している。
 ところが、児童福祉法成立資料集成には、前項にあった生活費、教育費、その他一切の費用を国家が負担する、という最も重要な部分が、無くなっていて、各地に快適な施設を設けが、適当な施設に収容、に変わっている。

  戦後の孤児対策は虚構からはじまった
「費用を国家がすべて負担する」と発表を行っていながら、実行しませんでした。
★「東京都は学童疎開中の引き取り手のない孤児を、多摩の8学寮で345名を養育した」と様々な文献、東京戦災誌などに345名を養育したとなっていますが、これは私や疎開協が調査した結果、8学寮(寺)に収容予定だった孤児たちを、次々に養子にだしては、人数を減らし、小山学寮一つになり、81名しか養育していないことが判明しました。

孤児資料の焼却、隠ぺい
 3月10日空襲以後から、孤児が大量に発生しました。集団疎開では、学校長が児童の生活すべてに全責任をもち、疎開費用20円の内、10円を親が負担(当時の先生初任給50円)していましたから、孤児になれば費用の負担者がいなくなります。校長は孤児数を把握しているはずです。孤児調査をした形跡はありますが、各学校の孤児数も、資料も何ひとつありません。学童疎開中の孤児資料はすべて焼却したと聞きました。実施されなかった文部省の「250人収容する記事施設を作る」という文章だけがありました。
 東京都の学童疎開中の戦災孤児は、約3万5千人〜5万人ぐらいと推定されていますが、都教育局が養育したのは、たったの81名にすぎません。
 国は孤児に予算措置を全くつけずに、あたかも孤児たちを保護したかのような文書だけを発表して、国民を騙してきたのてす。これらは疎開協や私の調査から50年すぎてから事実が判明しました。官僚の裏の顔の恐ろしさを知りました。
 国がこれまで発表したことを実行していれば、孤児たちは浮浪児にならずにすみました。
 
B 国の対応=疎開以外、空襲下を逃げた孤児等
 空襲下を逃げまどい、孤児になった子もいました。中学生、疎開残留児童、乳幼児です。
焼け跡に放り出された孤児たちは、その日から食べ物がありませんでした。幼児、疎開残留(小3〜6年、地方へ疎開しなかった児童)は浮浪児になるか、親戚、知人に引き取られたようです。中学生は学徒動員されていましたから、動員先に行った子もいました。
 しかし、この中学生も敗戦と同時に放りだされ、浮浪児になった子もいれば、学業を断念して働きはじめた子もいました。まだ13〜15歳の中学生が、家もなく、親もなく、食料のない時代に、たった一人で生きていくのは、どれほど悲惨であったか。売春婦になった子もいました。大人に利用され、こき使われた子も多くいました。
 敗戦前後の都の公的孤児施設は、戦前からあった既存の養育院しかなかったのです。

養育院 
「収容者629人の食肉配給がいまだ一度も無き候につき昭和19年度38人、昭和20度316人の死者を出した」(養育院60年史より)
 都養育院は板橋養育院と栃木分院、安房分院がありました。
* 安房分院ては館山保健所長の調査によりますと、「歩行困難21名、疥癬79名、入所児童140名中117名の8割が栄養失調」と報告されています。
* 栃木分院では「昭和19年7月に開設され、昭和27年7月閉院まで、8年間の間に
681名が永眠した」と塩原の墓石に刻まれた碑文が見つかりました。
* 板橋養育院に入所していた孤児の栄養失調の写真(菊池俊吉氏が撮影)があります。
手足は骨と皮だけ、、お腹だけがぷくんとふくれ上がり、とても正視できません。
こうした孤児施設に国からの食料の配給がなかったのです。
* 当時5歳だったSさんは、養育院へ入れられました。死体がごろごろしていて死体の横に寝かされ、その後、安房分院へいきましたが、そこで孤児たちが柱の前に座り込み、振り子時計のように、頭を一日中ぶつけている子が何人もいたそうです。精神異常になってしまったのです。

民間孤児施設
 当時、巷にあふれた孤児たちを、民間の篤志家が、私財を投げ出して施設をつくり、孤児たちを収容して養育しました。民間人が孤児たちを救ったのです。それでもあとからあとから親戚や養子先を逃げてくる子が後を絶たないので、浮浪児が増える一方、施設の絶対数の不足で浮浪児は減りませんでした。
 厚生省23年度調査では、施設に入所した児童は12.202名、たったの1割でした。
 
{浮浪児狩り}について
 国は、浮浪児=非行児、不良児とみなしていました。
 浮浪児は10歳前後がほとんどで、これは学童疎開した年代です。アメリカ占領軍から「汚いからこの浮浪児を、一掃せよ」と命令をうけた国は、「浮浪児狩り」と称して「一匹、二匹」と浮浪児を捕まえ、トラックで施設に運び、孤児が逃げ出さないようにハダカにして、鉄格子の中に閉じこめてしまいました。
 浮浪児は少年犯罪者として極印を押され、少年院や刑務所に入れ、社会から隔離されました。内部は矯正と称して殴る蹴る、軍隊もどきの体罰で、当時の国会でも人権蹂躙だと、問題にされました。脱走する子が多く、愛のない体罰は、子どもを反抗的にさせるだけで、多数が犯罪者になり、転落していったそうです。
 この施設で働いていた品川博氏は、こうした矯正と称する体罰のやり方に反対して、孤児数名をひきつれ、大変苦労した末、群馬県に「少年の家」という弧児施設をつくりました。脱走を7回くり返し、手に負えなかった剛のもの伊藤幸夫さんは、のちアメリカへ渡り、苦学して全米州教育庁長官協議会日本代表になりました。もし、品川氏に出会っていなければ、大悪人になっていたかもしれません。
 浮浪児や孤児は行方不明が多く、友人たちが必死にさがしても、どこで、どんな生活をしているか、現在もわかない人が大勢います。