4、戦争孤児の置かれた境遇

 私のアンケート調査(1994年)によりますと、22名の回答者の内、2名(0.9%)が、「祖母が健在で復員した叔父が面倒をみてくれた。信心深い伯父夫婦に育てられたことで生活に不自由はなかった。」と答え、他20名(約90%)が親戚をたらい回しされたり、労働力として働かされたり、虐待され、食事も与えられなかったりと、一挙に家族を殺された悲しみ以外に、生活面で心に深い傷を負ってきました。
 国は孤児たちを困窮した親戚へ押しつけ、どうしても引き取り手のない子は養子にだしました。国の方針は戦争孤児にほとんど予算をつけず、戦争で孤児になった子を、国が親かわりに養育するという発想は、毛頭ありませんでした。

◆ 親戚に預けられた子
 集団疎開した子は、預かってくれる親戚がなかったから集団疎開させたのであり、縁故疎開は養育費を支払っていた親がいなくなると、とたんに手の平が返りました。
 親は我が子を保護、養育する義務と責任があります。親戚には子を養育する義務はありません。現代でも突然、子の養育費も払わず「育てなさい」といわれれば迷惑この上ないと思います。当時は食糧難、物価の高騰、人心の荒廃などで、どの家庭も困窮していた時代でしたから、子どもを押しつけられても困るのです。邪魔者でした。
 親戚、知人宅などたらい回しさせられ「親と一緒に死ねばよかったのに」「ゴクつぶし」「疫病神」「早くでていけ」といわれたり、「お前は親戚中から棄てられた」「野良犬だ」「乞食」と、食べ物を与えられなかったり、食事の差別、いとこからの意地悪などで、身の置きどころがありませんでした。
「自分はこの世に必要のない人間なのだ。邪魔な存在だ」と自殺を考えたり、あるいは、野坂昭如著「蛍の墓」のように、家を出て浮浪児になっていく子も多くいました。
 * Iさん(小4年10歳、男)は復員してきたおじから「顔をみるのも胸くそ悪い」といわれ、家に入れてもらえず、いとこから小便をかけられたり、鎖のチェーンでなぐられ、食事は鍋底についた黒こげごはんつぶだけ。栄養失調で死ぬ寸前、近所の人に助けられました。その後、身売りされていきました。
 * Hさん(小4年10歳、女)は小学校も通わせてもらえず、働き通し、従兄から性的虐待をうけました。現在、まともに自分の住所も書けない、言葉も満足にしゃべれないほど、あまりにも萎縮してしまった姿をみて、私は呆然となりました。

◆ 行く先がなく、そこに置いてもらうより仕方なかった子
 親戚、知人宅に置いてもらうには、働かなければ食べさせてもらえません。普通の子の数倍働きました。子守や家事労働、あるいは農作業など様々です。身分はその家の人より数段下で、いわば奴隷扱いでした。口答え一つ許されませんでした。
 * Tさん(小4年10歳、男)は両親と兄4人を失い、一人だけ残されました。「カスだけが残った」といわれ、朝4時から夜10時まで開墾の重労働にあけくれ、近くの人から「児童虐待だ」といわれると、「誰も引き取らんから俺が引き取ったんだ。手伝うのは当たり前だ」と大声でまくしたて、そのおじ宅をでたあとは、学歴もなく、親も、家もなく、保証人もないため、4、50回も仕事を変わりました。「土方のタコ部屋は酒とばくちの凄いところだった」といっていました。底辺でしか働けませんでした。
 一生懸命働いても「お前は使い捨ての身分だ」「だれのおかげで置いてもらっているんだ」といわれ、近所の子どもたちからは「野良犬やーい」「お前が盗んだにきまっている」と蔑まれてきました。
 義務教育の学校へいけなかった子は非常に多くいました。中卒でないと、美容師、理容師、調理師、看護婦などの資格もとれません。生きるのに精一杯で、底辺で働くしかなかったのです。孤児たちは心の支えがなく、先の見えない暗闇の生活で、死を願った孤児が多くいました。心を殺す生活に、夢も希望も奪われました。

◆ 幼い子
 幼い子ほど役にたちません。そのため食事が与えられず餓死、衰弱死していきました。
幼い子ほど早く死んでいきます。どの子も枯れ枝のように手足がやせ細り、お腹だけがふくれ「おかあちゃん」と呼びながら死んでいきました。
* 原告の山本麗子さん(小3年9歳、女)は、両親の死後、姉弟は親戚にばらばらに預けられ、彼女は叔母宅で塩をとるため、昼は山からマキを運び、夜は海岸で夜通し火を燃やしつづけ、昼夜の別なく働きました。2年後、叔父宅にいた弟が体調が悪いと呼ばれ行ってみると、弟は馬小屋に寝かされ、「おかあちゃん」と呼びながら、うどんのような回虫を吐いて死に、それを見た彼女は、叔母宅を出ましたが、行く先はなく浮浪児になりました。そして「浮浪児狩り」で捕まえられ、トラックでに載せられ山奥へ棄てられました。学校は小3年で止まりました。
* 原告だった石川智恵子さん(当時6歳、今年死亡)は、親戚に引き取られましたが、幼い故に役に立たず、食事は一日に芋1つだけ、身体は垢だらけ、栄養失調で日ごとに衰弱していき、みかねた近所の人に紹介され、子守奉公に出て、はじめて皆と食卓を共にできるようになり、みそ汁やお新香の味を知りました。
 役に立たない子ほど、食事を与えられなかったり、追い出されたり、次第にやせていき、動けなくなり、死んだ子の話は、ずいぶん聞きました。

◆ 養子
 国は引き取り手のない孤児を「養子」にだすことを奨励しました。1945月11月に集団疎開は終了、疎開児童は親もとへ帰りましたが、東京都のばあい、引き取り手のない孤児1万7千人が、主に東北地方(岩手、宮城、秋田県)に残されました。そこで農家などから「孤児を貰い受けたい」と申し込みが殺到しました。富士小の先生は一軒一軒、その家庭を訪問しましたが、どこも労働力に利用しようとしていることがわかり断ったそうです。他の学校では調査することなく、つぎつぎに養子にだしました。(孤児寮住職、寮母、先生など多数の証言あり)男の子は頑健な子、女の子は器量のよい子から先に貰われていったそうです。売春婦にされた子もいたようです。
 当時は生めよ、殖やせよの時代で、子だくさん。夫も10人のきょうだい、私の預けられた親戚も7人の子どもがいました。我が子がいるのに子どもを貰いにくるのは、必ず利用しようとする功利的な魂胆があります。
 * Kさん(小3年9歳、男)は、学校へ行かせず、早朝から夜遅くまで農作業の重労働をさせられ、仕事が遅いと殴る蹴る、雨の日もビショヌレになりながら働かされ、トイレへ行くときだけが自由になる時間だった。重労働で身体中が痛み、馬小屋で寝かされたといいいます。全くの奴隷生活でした。
 こうして養子にだされた孤児たちは、養子にだした校長や担任の先生を怨みました。
そして養子先や親戚宅を逃げ出した孤児たちが、行く先もなく浮浪児になっていくのです。

◆ 浮浪児生活
 浮浪児は全国で3〜4万人といわれています。親戚や養子先から逃げだしたり、あるいは空襲下で親の死により、そのまま浮浪児になった子もいました。上野駅地下道などに住み着き、夜はコンクリートの上でごろ寝をします。餓死、凍死、衰弱死、腐ったものをたべて中毒死、殴られて変死と、幼い子ほど先に死んでいきました。1947年元旦から7日にかけて、各家庭で親子が楽しい正月を過ごしているとき、地下道で11人が凍死しました(朝日1947年1月9日)。毎日、孤児が死んでいきました。
 しらみだらけのボロボロの服、汚れた真っ黒の顔、鼻が曲がりそうな臭い匂いに、世間から爪弾きにされ、忌み嫌われました。「野良犬。乞食。汚い。近づくな。目を会わせるな。人間のクズだ」とまるで汚物のように見られてきました。
 当時はゴミ箱をあさっても食べ物のない時代でした。「10日も食べられないときがあった。生きるために盗むしかなかった。盗むと大人から殴る、蹴る、コン棒でメチャクチャに殴られ、ひどい仕打ちをうけた。毎日つぎつぎと死んでいく子をみて、「明日は自分も死んでいるかもしれない」という生と死の隣りあわせの生活でした。
 盗み、スリ、かっぱらい、置き引きなどあらゆる方法で飢えを凌ぎました。もちろん学校へも行かれません。「浮浪児は10歳前後がもっとも多かった」と当時の各新聞で報じられています。10歳前後は学童疎開した年代です。学童疎開が孤児をつくったのです。