3、乙第12号証(社団法人日本戦災遺族会発行の「全国戦災史実調査報告書」、昭和57年度)によれば、厚生省が都道府県を通じ、昭和23年2月1日午前0時を期して、全国規模での一斉調査を実施し、孤児の総数は12万3511人で、その種類の内訳は、戦災孤児が2万8248人(22.9%)。引揚孤児が1万1351人(9.2%)。そのほかの一般孤児が8万1266人(65.8%)。棄迷児が2647人(2.1%)であったとされていることについて

 戦災孤児には、空襲下で逃げまどい、親とはぐれて孤児になったものと、地方へ疎開していて孤児になったものと二種類に大別されます。
 空襲下を逃げたものは、乳幼児を除き、中学生は親家族の死を、たとえ行方不明であっても「もう生きてはいない」と確信したと思います。あれだけの死体の山を見てきましたし、自宅の焼け跡に親たちは帰ってきませんでした。
 一方、地方へ疎開、移住していた子どもは、人伝てに親の死を知らされた子もいれば、知らされない子もいました。空襲体験がなく、遺体もないため、親の死を信じられませんでした。学童疎開には縁故と集団の二種類あります。 
 縁故疎開=親類、知人を頼り、個人で疎開。この中には幼児も小学生の兄姉と縁故疎開していた子もいました。
 集団疎開=小3〜6年生は学校ごと、先生や学友と一緒に集団で疎開。生活は旅館、お寺など、学校長が生徒の保護、養育のすべての責任を負っていました。

一般孤児は問題です
 一般孤児の中には両親の病死や、両親の行方不明が含まれています。小学生の親は30代〜40歳代で働きざかりの年代であり、片親が病死したとしても、両親が病死する確率は他の年代にくらべ少ないはずですし、病死は確定されていますから、病死の項目をつくり、親の行方不明の項目は別に設けるべきでした。厚生省がなぜこのような訳のわからない分類をしたのか、不信をもっています。
 東京戦災孤児は両親の行方不明がもっとも多いのです。なぜ行方不明になつたのか。それは大空襲が原因で、3月10日の空襲では死者の8割が行方不明になっています。東京下町はまるで火葬場の焼却炉のような焼死体の山になり、死骸の街になりました。その死体を軍が天皇の視察(3月18日)前に片付けるために、トラックで運び、公園や空き地にどんどん埋めてしまいました。また、川から海へ流失した遺体、ガレキになった遺体など、相当数が行方不明になり、遺体もありませんでした。
 地方へ移住していた子どもたちは、家族全員の死亡は信じられず、父か母のどちらかは必ず生きている。と待ち続けました。こうして親が行方不明になった戦災孤児です。一般孤児の大多数は戦災孤児といえるでしょう。
 なお、一言付け加えておきます。
 なぜ、空襲死者数の調査もしなかった国が、孤児総数を調査したのでしょうか。それはアメリカのフラナガン神父が来日して、「孤児総数を調査しなければ、孤児対策はたてられない」といわれ、やむなく厚生省が全国規模で調査したのです。ところが、この厚生省全国一斉調査は、昭和23年1月に行われましたが、戦後40年近く過ぎてから、戦災遺族会によって発表され、世間は、はじめて知りました。これが発表されなかったために40年間も、各孤児資料などは、実にいい加減、でたらめが横行していたのでした。厚生省はなぜ隠してきたのでしょうか。