1、東京大空襲と戦争孤児について調査し、著書に残した理由

 私は44歳のとき「東京戦災遺族会」が結成され、入会しました。そこで空襲当時30〜40歳代の遺族たちから、空襲の猛火に追われ、火だるまになり、極限状態の恐怖や、逃げ場もなく焼死、水死していくという身の毛もよだつ体験を聞きました。
 私が50歳のとき疎開児童を研究する「疎開学童連絡協議会」(略称、疎開協)へ入会しました。私は疎開児童です。学童疎開は1944年(昭和19)6月に閣議決定され、国策として都市に住む小学3年〜6年までの児童を地方へ70万人を疎開させました。
目的は次期戦闘員温存のためでした。病弱児や障害児を残して、健康な子どもだけを疎開させたのです。
 親たちは小さい子を親許から手放すことにためらいがありましたが、これも国の命令なら仕方ないと、「お国のために」と、小さな出征兵士として日の丸の小旗を振って見送りました。都市に住む親に万一のことがあれば、国が子を護ってくれると信じて疎開させたのでした。私は小学3年で宮城県へ集団疎開しました。
 その疎開協で、子どもたちが地方へ学童疎開している間に、都市に住む親家族が空襲をうけ、一家全滅して大勢の孤児が生じたことを知りました。孤児と空襲と疎開は、密接に結びついていたのです。
 複数の人から孤児調査をしようとしたが、資料が何一つなく、施設へいってもシャットアウトされ、孤児を捜すのも困難、また見つかっても話をしてくれない。
 「お手上げ」といわれ、私は自分が孤児だから私が調査しようと思い、それから10年以上かけて、100人以上の孤児たちの証言を、直接聞いたり、また文献、資料などから調査しました。

 それを戦後57年目の2002年に「東京大空襲と戦争孤児」と題して著書にしました。
 
2、戦争孤児という用語の意味

 戦争孤児とは戦争に起因して孤児になったものの総称です。戦災孤児はもちろん、満州から引き揚げ中に孤児になったもの、空襲下に親とはぐれた棄迷児も、戦争のため医薬品がなく両親を亡くして孤児になったものすべてです。両親のない孤児は、私の調査したかぎり、それは親のある普通の子とは、次元の違う苦労をしています。後ろ盾になってくれる両親ともいないことは、子どもにとってこれ以上の不幸はありません。
 私が若者や子どもの前で「戦災孤児」といいますと、「戦災孤児って何?」といわれ、
現在は戦災を知らない人が多く、「戦争孤児」といえば「ああ、イラクやアフガンでもいたね」と説明しなくても、すぐわかってもらえます。