陳述書           2010年10月3日
       控訴人番号25(原審の原告番号30) 金田マリ子

はじめに
 もっとも愛する人を殺された悲しみ、辛さ、悔しさは、戦死者遺族も、戦災死者遺族も、また殺人事件で被害者になった遺族も、すべて同じです。余命ある命を絶たれ、非業の最期を遂げた死者たちの無念を思うとともに、家族の絆を壊され、決して元へは戻れなくなった遺族です。被害者の遺族が加害者を極刑にしてほしいと願うのは、それほど心の傷が深いといえます。家族の一名でもそうですが、戦災孤児たちは、親を含む家族が一挙に戦争で虐殺されました。
 私の夢に出てくる母は、頬がこけ、蒼い顔、その目は見たこともない悲しみに沈み、打ちひしがれた姿で「マリちゃんゴメンネ。ひとり残してゴメンネ。お母さんを許してね。ゴメンネ」としきりに謝るのでした。当時小学3年生9歳だった私、3月10日朝、疎開先から帰ってくる私のために、母はご馳走をいっぱい作り、7ヶ月ぶりに我が子にあえると、はしゃぎなから待っていたそうです。その10日、午前0時8分からはじまった東京大空襲で火の中を逃げまどい、「あの子ひとり残して死ねない。どんなことがあっても生きなければ。9歳の子をひとりにできない。死ぬことができない」と最期の最期まで我が子を案じつづけ、無念を残して絶命したのでした。
 私の母だけでなく、どの親も同じです。いたいけな我が子ひとり残して死ねる親はいません。孤児は学童疎開中がもっとも多くいました。大空襲によって一家全滅、子どもだけが取り残される結果になりました。
 親きょうだいに二度と会えなくなり、家、財産も焼き尽くされ、帰るところがなくなりました。一人では生活できない子、親の愛情が必要な子です。泣き叫んでも親は二度と戻ってきません。親たちを失った悲しみと同時に、これから自分はどうなるのか、と不安に怯え、極限状態におかれた子どもたちです。その子たちに国は何ひとつ援助、救済はなく、放置されました。孤児たちは戦後から、筆舌につくせぬ地獄の生活がはじまったのです。多くの孤児たちが飢えと寒さで死亡、現在生きている孤児たちも生と死の狭間で生き、これまで命を長らえたのに不思議な気がします。虐待、差別、偏見、貧窮、精神的苦痛と生活苦など、幾重もの重い十字架を背負って生きねばなりませんでした。しかし、子どもゆえに何も訴えられませんでした。
 どん底の生活から這い上がるには50年という長い歳月が必要でした。孤児たちが真実を語れるようになるのは、戦後60年を過ぎたころからです。従軍慰安婦、中国残留孤児などより、一番最後に出てきたとということは、語ることもできないほど重い問題を抱えているからです。
 さらに高齢化が進みますと、昔へ戻るといわれています。心の底へ閉じこめてきた恐ろしい体験が、なにかのきっかけで蘇り、パニックを引きおこします。精神医学者の野田先生は「アウシュビッツの生き残りのように、心に大きな負荷を負っている」と述べています。そうした孤児たちの苦しみを、なお倍増させているのは、無念を残し虐殺され、非業の死を遂げた親。子を案じながら絶命した親たちを、悼み、弔う独立した追悼碑がないことです。
 語れなかった故に、戦争孤児は日本の歴史から抹殺されてきました。