養子縁組みの斡旋 主に養子に出した

      国は戦災孤児を養子に出すよう奨励していた。

 8歳以上は教育学的に養子に適さないといわれている。実親の声、仕草など鮮明に覚えているから、新しい環境には馴染まないからだろう。疎開先で実親に会える日を、どれほど待ち焦がれていたことか。そうした子どもを次々に養子にだした。
 疎開はS20年11月に終了したが、1万7千人が引き取り手がなく疎開地に残された。「集団疎開は校長が全責任を持っていました。疎開地に残った児童には国も都も何もしてくれませんでした」と佐藤シサ先生(疎開児童の引率教師)は証言している。地方の村民も敗戦と同時に非常に冷たくなった。中和小5男K君は翌年3月まで残されたが、まさに貧民窟そのままの生活であったという。その他の戦災孤児たちや引率教師も同様のことを述べている。 
 疎開地では「孤児を養子にしたい」と農家の人々が押し寄せてきた。孤児たちを持てあました学校側は、調査もせずに次々に孤児を養子に出したそうだ。当時の農家はいくら食料をつくっても足りない。食料不足にあえぐ人々が列をなしてくる。働き手の男性の多くか戦争で死亡したため、人手不足でネコの手も借りたいほど忙しかった。養子はごく一部を除き、学校へもいかせず、働かせ、利用することが目的だった。 
 孤児学寮の孤児たちも次々に養子に出した。大泉寺(孤児学寮)の住職は「男児は頑強な子、女児は器量のよい子をもらいにきた。校長がどどししくれてやった」と証言している。のちに「孤児を安価なる労務者を得るがごとき動機の不純なる者があるにつき、正確な調査が必要」と通達がだされたが、すでに手遅れだった。売春宿に売られていった子もいたと聞いた。いったい何名が養子にだされたのか。かなりの数になるだろう。

家出児童(養子は親も家もある)孤児養子の家出
 東京百年史には「農村経済の窮迫により、地方からの家出児童が激増した」とあり、各孤児資料にも「浮浪児は初期のころは戦災孤児が多く、その内、家出児童が増えていった」とあった。私はこの家出児童も戦災孤児であったと思っている。なぜなら、戦災孤児は養子に多く出され、「養子は親も家もある」ということで、孤児とはみなされなかった。
「刈り込み」によって施設に入所した子は、養親が迎えにきて「家の息子です。返してください」といって連れ帰った。施設は事情も調査せず、養親のもとへ返したそうだ。
 K(小5男)さんは養子先で奴隷であった。あまりの辛さにそこを逃げだし、浮浪しているところを保護され施設に入れられたが、「養親が金になるものを盗んでこいというので、どうしても帰りたくない」と職員に懇願して、施設に置いてもらったという。
 都市は焼け野原の廃墟だ。食べ物もない。寝るところもない。土地勘もない。見知らぬところへ、地方の子どもが、なぜ家出するのだろうか。小学生はまだ親から離れられない年代である。農村は戦前は貧しかったが、戦後は家を焼け出された都市の人々にくらべ、食べ物があり、寝るところがあり、実親なら逃げ出す子は少なかったはずてある。
 養子は労働力として早朝から夜まで働かせ、学校へも行かせず、奴隷扱いされた。実子とひどい差別をされたという。養子先での絶望的生活は何人からも聞いている。地方の養家から家出して、元住んでいた所へ舞戻り、浮浪児になったと考えるのが自然だろう。