東京都の孤児対策〜集団保護児童81名

東京都教育局は、昭和20年9月20日に「戦災孤児等保護対策要綱」をだした。
イ、個人家庭への保護委託    ロ、養子縁組の斡旋    ハ、集団保護
  の3通りであった。このイ、ロ、ハ、のすべてに、人数の記載はない。
イ、個人家庭への保護委託というのは、一銭の養育費もださずに、親戚、知人宅へ預けることなのか、親戚、知人宅に押しつけられた孤児たちのことは、これまでに書いてきたので省略する。
ハ、集団保護ーたった81名の保護だった
 東京都は三多摩のお寺8カ所へ孤児学寮をつくり、最初は370名の収容予定者がいた。
しかし、次々に養子に出し、実際に入所したのは下図の通りである。
 養子に出し、人数が少なくなると、学寮を廃止する。他の学寮も同じ。人数の少なくなった学寮を統合し、また養子に出し、寮を廃止、統合するをくり返し、最後は小山児童学園ただ1学寮のみになった。南養寺の積惟勝氏はこのような統廃合に反対して独立した。

   孤児学寮の入寮数 小山児童学園 77名の養育 (定員64名)
  入所予定数 実際の入所者 その後 統合
大泉寺(町田市)
福生寺(町田市)
金剛寺(日野市)
51
41
64
16
17
不明
12
12
不明
3学寮を統合
40名を
忠生学寮に
東光寺(府中市)
大円寺(東久留米市)
蓮華寺(東大和市)
梅岩寺(東大和市)
69
40
40
25
13
12
不明
不明
この4学寮を
統合
37名を
小山学寮に
忠生学寮と
小山学寮が
統合 77名
が小山学園へ
南養寺(国立市) 40  
合計  370 名   81名 77名
                                
☆ 小山児童学園=(もと大円寺)
「会誌 第15号 旧小山村特集」東久留米市郷土研究会 小山久仁夫氏文あり
「終戦特集.小山児童学園の園長、保母の座談会」ひがしくるめ広報 52.8.15
「小山児童学園のあゆみ」などの新聞記事や「沿革史」から調査した。
「S23.4月、蓮花寺と梅若寺学寮を併合し、さなに6月には東光寺学寮も併合、37名という大世帯になった。S23.11.1教育局の直営になった。S25年には国の管轄になる。S27年には忠生学寮も併合した」となっている。
☆ 大泉寺=犬飼住職を疎開協の水足さんと尋ねた。その後、文通を重ねる。当時の大泉寺の孤児日誌をコピーして送ってくださった。「大泉寺住職と福祉活動」の冊子もある。
「最初の入寮16名、4名が引き取られ、その後12名が忠生学寮へ転出した」とある。
☆ 福生寺=酒寄岩男先生、学寮長「富士小90周年記念誌」に孤児学寮の文が掲載されていた。「S20.10月に17名が来所する。S22.4月に金剛寺へ12名が転居した。さらに同年10月に忠生学寮へ統合された」とある。
☆ 忠生学寮=S23.1月に町田市の家屋を忠生学寮と名付け、大泉寺12名、福生寺12名、金剛寺の3学寮が統合され、40名足らずで発足した。S27年に廃止、小山児童学園へ吸収された。(新聞記事などより)
☆東光寺=東光寺へ最初から入所していた孤児から直接、話を聴き取った。13名の入所
であったという。東光寺から小山学寮に移った。
☆南養寺=前身は「二子多摩川学寮」積惟勝寮長 著書に「青空を呼ぶ子どもたち、戦災孤児育成期」がある。「どんな方法で選定されたのか4名だけが入寮してきた」と述べている。積氏は学寮の統廃合を拒否して沼津に移住。片浜養護学園を開設して独立した。
☆ 「町田地方史研究、第12号、戦後50周年特集」に阿久津福栄氏の「町田の戦災孤児寮のこどもたち」文があった。大泉寺、福生寺、忠生学寮の詳しい記述がある。
 
 この81名という数字は、私が必死に足で歩き、種々の文献や資料をもとに、ようやく辿りついた数字である。
 しかし「東京戦災史」「東京百年史」「社会事業復刊1号」「東京教育史、通史編4」をはしめ、どの孤児資料や個人の文献にも「345名か370名を養育した」とあった。
 また、戦後50年までに出されたほとんどの孤児資料にも、(もちろん上記の国の資料にも)全国戦災孤児.2、500名、東京都戦災孤児数1.169名、となっている。
どこからこの数字を出してきたのか。民間人は国が出した孤児資料をそのまま信じていた。
この事実に反した数字が世間にまかり通り、歴史に刻まれていく。私は日本官僚の恐ろしさに身震いした。             
昭和23(1948)年2月1日、厚生省の「孤児一斉調査」が、どの資料にもなかった。
厚生省が全国の児童委員を総動員して、全国孤児の総数を記載した調査データがありながら、これが消えてしまい、存在さえわからなかった。隠蔽したとしかいいようがない。
      なぜ隠蔽しなければならなかっのか?
 厚生省の孤児一斉調査で、年齢からも、一般孤児からも(種類別)、保護者別からも、小学生(当時は国民学校)の孤児がもっとも多く、小学生=学童疎開 の関係は明らかであるが、また、その学童疎開中の孤児資料が何も無いのだ。校長が全責任を負う集団疎開に孤児の資料がないとは考えにくい。校長も強いかん口令がひかれたのか、口をつぐんでしまったようだ。国家公務員として身を保全をはかったのであろう。国(文部省)が完全に証拠隠滅を計ったと思わざるとえない。
 国策による学童疎開は、国か保護者(親)の代わりに子どもを養育する責任が生じてくるが、あまりにも多すぎた孤児の発生に、疎開を強制した責任も問われかねない。費用もかかる。疎開中の孤児を隠蔽することによって、戦争中の暗いニュースが多いなか
「学童疎開は戦火から子どもたちの命を護った」と官僚は自画自賛した。
                                        
 学童疎開は、孤児にされたものを、いかに保護していったかを視野に入れ、総括しなければ、学童疎開の評価はできないと思っている。