孤児の種類別一覧表 (本州のみ)
疎開児童は集団のみ記載。縁故を合計すれば、この数の倍になる
|
戦災孤児 |
一般孤児 |
集団疎開児童 |
空襲などの死者 |
青森 |
138 |
816 |
2、745 |
920 |
秋田 |
251 |
1525 |
3、661 |
76 |
岩手 |
264 |
1679 |
4、175 |
615 |
山形 |
213 |
1210 |
14,605 |
22 |
宮城 |
231 |
1074 |
18,781 |
1,485 |
新潟 |
705 |
2327 |
14,147 |
1,468 |
栃木 |
599 |
1824 |
19,647 |
557 |
福島 |
387 |
1157 |
28,958 |
625 |
群馬 |
397 |
1774 |
28,068 |
903 |
茨城 |
923 |
2481 |
6,544 |
2、101 |
埼玉 |
908 |
2950 |
8,408 |
413 |
千葉 |
775 |
1436 |
8,782 |
1、338 |
東京
三多摩 |
2010
|
3279
|
7,347 |
115,101
|
富山 |
427 |
1474 |
6,257 |
2,300 |
長野 |
424 |
1716 |
36,975 |
51 |
山梨 |
246 |
682 |
9,191 |
1,181 |
静岡 |
682 |
1758 |
27,095 |
5,944 |
神奈川 |
553 |
1438 |
35,438 |
9,139 |
愛知 |
1019 |
3245 |
21,020 |
12,958 |
岐阜 |
762 |
3152 |
6,747 |
1,212 |
三重 |
907 |
1993 |
6,389 |
5,583 |
石川 |
243 |
1131 |
2,605 |
0 |
福井 |
466 |
1594 |
4,637 |
1,909 |
滋賀 |
325 |
1440 |
10,911 |
44 |
京都 |
830 |
3342 |
2,103 |
214 |
奈良 |
357 |
1321 |
8,731 |
20 |
大阪 |
1140 |
2706 |
14,700 |
14,728 |
和歌山 |
356 |
900 |
5,655 |
1,675 |
兵庫 |
1453 |
4149 |
14,857 |
12,048 |
鳥取 |
270 |
982 |
2,616 |
48 |
岡山 |
627 |
1169 |
4,142 |
1,778 |
島根 |
389 |
1268 |
2,934 |
10 |
広島 |
2541 |
2781 |
2,958 |
143,084 |
山口 |
644 |
1748 |
(記入ナシ) |
3,334 |
この一覧表から浮かんできたこと
* 都市の子ども(小学生)のほとんどが地方へ分散居住していた。
この表の疎開児童は縁故疎開は入っていないので、疎開児童はこの数の倍になるだろう。
縁故疎開は個人的な疎開であるから、どこへ誰が疎開したか調査されてない。ただし昭和19年12月末の文部省調査では集団34万人、縁故32万人となっており、昭和20年からの空襲後は縁故疎開した、と考えられるので、ほぼ同数とみてよいのではないか。
* 一般孤児に含まれる親の行方不明死者
この疎開中に都市に住む家族が、空襲で全滅して、孤児になったものが多くいた。年齢別に考えても小学生の孤児が多い理由は、学童疎開と無縁ではない。
昭和20年3月10日、東京下町を襲った空襲では、前述したように焼き尽くされた街に死体だけが残されていた。その遺体を軍隊が汚物を投げ込むようにトラックに放り投げ、身元判明者もトラックで運ばれ、公園や空き地に埋めてしまった。そのため遺族は遺体も遺骨もない。行方不明で死亡届をだせなかった死者は失踪扱いになっている。
☆ Tさん(小5女)は城東区(現、江東区)に住んでいたが、縁故疎開していた。3月10日以後、親からの連絡がぷっつり途絶え、誰からも両親、家族の死を伝えられなかった。「なぜ親は連絡してこないのか。親に棄てられたのか」と思い、悩み、親を恨んでいたという。5年後東京へいき、跡形もなくなった我が家のあつた場所へいき、何もかもすべて失ったとわかり、泣き崩れたそうだ。ひとりだけ残された。
☆ Eさんは(小4男)は浅草区(台東区)から奈良へ縁故疎開した。漠然と東京下町の空襲で両親と弟が死んだらしいと、知らされたが、両親の最期もわからず、遺体も遺骨もなく、死を信じられず、65年過ぎた今でも父の帰りを待ちつづけ、「帰ったよ。という父の夢をよくみます」と語っている。まだ心の整理がついていないのだ。
* 疑問の多い戦災孤児と一般孤児の分類 (山内幸夫さん文より)
「表の東京では空襲死者11万5101人にたいし、戦災孤児2010、一般孤児3279となっている一方、埼玉では空襲死者413人にたいし、戦災孤児908、一般孤児2950となっている。戦災孤児と一般孤児を比較し、見直すと、こんな数字はありえなかったことがわかる。
これは大阪の空襲死者1万4728、戦災孤児1140、一般孤児2703と、京都の空襲死者214、戦災孤児830、一般孤児3342、と見直すとさらに明瞭になる。
もともとこれを分類すること自体が無理、無意味なのであり、当時の食糧難、貧窮の実態、医療体制の不備などからみて、この時期の孤児は全員が戦災孤児だつたといえるのではないか」と述べています。私も同感です。この戦後の窮乏時期に孤児たちの辿った道は辛酸を舐めつくし、すべて戦災、戦争孤児になるでしょう。
* 東京都の学童疎開中の戦災孤児は、3万5000人以上と山内さんは独自の計算方法で出している。私も3、5万人〜5万人とみている。