ロ その他の施設

 孤児施設がない

 親戚で邪魔にされ虐待されたり、知人、養子先で奴隷扱いされるより、施設に入りたかったという孤児がほとんどであるが、入所できる施設などなかった。孤児総数の1割の施設。国の施設は、全孤児施設の14%である。しかも劣悪な環境の施設が多かった。
 前述した小山学寮も、最初は小山氏が父親の土地に古財を運び、孤児たちも自分たちの家ができると狂喜して建設を手伝い学寮ができた。という。(昭和25年に小山児童学園は国の管轄になった「東久留米郷土研究会」や新聞記事より)

民間人があふれた孤児、浮浪児を救ってくれたのだった。
* 葛飾区の「希望の家」では母子授産所だったが、都の役人がトラックに20数名の浮浪児をいきなり運んできた。栄養失調、皮膚病、シラミだらけだった。それらのこどもたちを「ワシの子どもだ」と思って育てた。(福島理事長談)
* 世田谷区の有隣療護院には「浮浪児狩りで予告もなしにトラックで孤児が運ばれてくる。子どもたちに食べさせるものがない。栄養失調でやせ細り、死んでいく子があとをたたない。その子たちの遺体を医科大学の研究資料にするため大八車で運び、いくばくかの金をもらい、院で生きている子どものための費用にした」(西村滋氏証言)
* 刈り込みでトラックにのせられ、山奥へ棄てられた子もいた。(前出、空襲訴訟原告)
 東京だけで3万〜5万人の孤児が生じたと推測されているが、その子たちは地方の親戚、知人、養子先へ預けられ、虐待をうけ逃げ出した。あふれた浮浪児を見るに見かねた民間の篤志家が、私財を投げ出し孤児施設をつくり、孤児たちを救済してくれたが、それでも施設は足りなかった。(民間施設238、官公立38)
 愛情をこめて孤児たちを養育した施設の記述はかなり多くある。どの施設も「食べ物の配給がなく、貧窮の一語につきる」という状態だった。先祖代々の土地、家財など売って育てた。民間人の善意で孤児が救済されたといって過言ではない。

* 板橋養育院
板橋養育院だけは戦前からあった既存の施設であった。養育院60年史には
「収容者629人の食肉配給いまだ一度も無き候につき昭和19年度38人、昭和20年度は316人の死者を出した」とあり言葉がでない。戦後も2、3年は食肉配給がなく、同じ状態がつづいていたと推測される。
 敗戦後、養育院へ収容されたSさんは「死体の横に寝かされ怖かった」と語り、浮浪児になったKさんは、刈り込みで板橋養育院に入れられ、「死体がころごろ廊下にまで転がっているので恐ろしくなり、張り巡らされた鉄条網をかいくぐり夢中で逃げた」と。
 東京都板橋養育院に入所した餓死寸前の孤児の写真がある。手足は骨と皮だけ、お腹だけが異常にふくれた栄養失調の子ども。正視できない写真だが、このような状態は日常的だったようだ。
 戦後、空襲死者の遺体発掘作業にかかわった小林さんは「板橋養育院の空き地に空襲死者でない遺骨が数千あった」と証言している。おそらく子どもたちの遺骨だったと思う。いったい何千、何万人の子どもが死んでいったのだろうか。

* 鉄の格子の孤児院と、愛に包まれた孤児院
 東京都中央相談所のハダカ戦術、静岡の葵寮では、鉄窓とカギで絶対逃げ出さないよう監禁する方法。(犯罪者扱い)この方法は厚生省公認といわれ、各所の施設で行われていたが、大方が脱走した。(S23年4月8日、朝日)。また、「施設の職員が配給品を横取りしている。下部組織が腐りきっている」と国会で問題にされたこともある。
 F(小3)さんは空襲で孤児になり、おばから孤児院へつれていかれた。孤児たちがオリから手をだし、訪問者の服を掴んで放そうとしない。「食べ物をください」といって、必死にすがりつく目、やせこけた哀れな姿、最低の汚い環境に驚き、おばはFさんを連れて帰ったという(大阪訴訟原告)。
 子どもたちがなぜ逃げ出すのか。愛情もかけず、食事も満足に与えず、オリの中に閉じこめるとは、厚生省や施設長は人間としての感情をもっていたのだろうか。人権蹂躙、児童虐待が平然と行われていたのだった。
 伊藤幸男さんは7回も脱走をくりかえし、リーダ格の剛のものだった。品川博氏は伊藤さんの入所した施設の職員だった。鉄格子に入れる、矯正と称する殴る蹴るの体罰に反対し、施設長と対立して辞職し、伊藤さんはじめ孤児たちを引き連れて実家へ行ったが、そこでも孤児たちは追い出された。品川先生を慕う孤児たちは、自分たちの家が持ちたいと、靴磨き、新聞売り、土方の人夫などあらゆることをして、働きながら金を貯め、群馬県に「少年の家」をつくった。のちに伊藤さんはアメリカへ渡り、戦後50年目に全米教育長日本担当代表として来日、品川先生と再会した様子がテレビで放映された。
 中野区「愛児の家」の石綿さちよさんは浮浪児を連れてきては育てた。多いときは百名をこえ、食べさせるのが大変で、私財を売って愛情こめて育てた。孤児たちからママと慕われ、各施設で手に負えなかった脱走常習者もここで更生し、立派な社会人になった。
 民間の篤志家が私財を投げ出してつくった施設は、貧しくても愛情かけて育てられ、施設を逃げ出す子はほとんどいなかった。孤児たちはどれほど愛が欲しかったか、私自身も孤児だったので愛が一番重要だと痛感している。施設によって孤児の運命は変った