施設に預けられた孤児

   孤児たちの入所できる孤児施設をつくらなかった

 敗戦直後は、孤児施設は極端にすくなかった。孤児を収容する施設がなかったのである。国は既存の板橋養育院に主に収容され、杉並区に乳児院などつくったが、入所できる人数はわずかであり、微ひたる施設しかなかった。浮浪児が巷にあふれ、アメリカ占領軍から「浮浪児を一掃せよ」と命令されて、それから浮浪児対策に乗り出すのだった。しかし、劣悪な環境だった。
 
孤児には、孤児になった経過が2通りあるので、それによって孤児施設のあり方が違うので、それをまず述べなければならない。
      イ、空襲下を逃げ回ったもの
      ロ、親家族と離れ、地方へ移住していた。(疎開)
 
イ、親と一緒に空襲下を逃げまどい、子どもだけが残された。
 親は子どもだけでも助けようと、水に浸した毛布を頭からすっぽりかぶせ、子だけが命をとりとめた。親子で校舎に逃げ込み、炎に囲まれ、隙間から子どもだけを押し出して助けた。または、逃げる途中で親たちとはぐれてしまった。など。
幼児のばあいは「お母ちゃん」とよびながら、焼け跡を泣きながら歩いているところを保護された。棄迷児は住所も親の名も知らない子が多くいた。
 棄迷児は2647人のうち、1501人が施設に入所しており、一番高い比率であるが、施設には食物の配給が少なく、貧窮の施設が多かった。。

中学以上は
学徒動員で働いていた年代なので、勤務先に置いてもらった。敗戦後は親戚を頼っていったが、邪魔にされた。ほとんどが働き、自立同様の生活だった。
 中学生以上になると、あの劫火の中で親ききょうだいが死んでいく姿を見てきただけに、それが鮮明に刻印され、頭から離れない。兵士が敵を撃ち殺すとは全く違う。そのため現在も苦しんでいる。
 16,7歳で親もなく、金もなく、家もない子どもたちが 親の死を目の前に見てきた 悲しみと、大人でさえ餓死する時代に、何ひとつ援助もなく、どれほど辛酸をなめてきたか、浮浪児になった子も多くいた。
 
ロ、疎開で地方へ移住していて孤児になったもの。
 この数が突出して多い。この子たちは空襲を体験していないため、家族全滅の悲報に、泣き叫ぶ子もいれば、親家族の死を信じられない子もいた。
  とくに学童疎開中の孤児が多かった。10歳前後の浮浪児、家出少年などを入れると、約8万人に及ぶと推測される学童疎開中の孤児たちを、国はどう扱ってきたのか。孤児施設はあったのか。引き取り手のない孤児はどうなったか。を、これから述べたい。