親戚、知人にあずけられた孤児
 
 当時は敗戦のショックで人心も荒れ果てていた。とくに食料事情は深刻で、米の値段は10Kgあたり、昭和20年12月末6円だったものが、昭和22年7月99円と高騰している。(共同通信))家畜の餌を代用品とした食べた。すべての物資が不足していた。このような困窮している親戚へ預けられた孤児たちは、心理的虐待をうけた。
 しかし、孤児たちは親戚などで虐められたことは口にできなかった。話しても「親戚の悪口を言うもんじゃない」「置いてもらっただけ良かったではないか」といわれるので、口を噤んでしまう。話をしても理解されない。できるだけ忘れようとしてきたが、心に受けた傷は疼き、孤児同志で話するとき、「あなたもそうだったの。私も同じよ」と次々と虐待の事実がでてくる。私自身も親戚での生活は60年近く公表できなかった。しかし、自分をさらけ出し体験を語らなければ、孤児の実態は判明しないと思うようになった。
 ある人から「学童疎開中に私の親友が孤児になったのよ。私の家も食うや食わずで、どこか預かってくれる所がないかって父が探したの。引き取っていいという人がいて安心。ところが学校へも行かせず、労働力として働かせているので、父がやっと親戚を探し出し預けてホットしたのも束の間、親友はその後、すぐに死んでしまったの。憔悴しきった親友の姿が目に焼きついて…。親戚ではどんな生活だったのか、施設はなかったのか教えて」といわれた。
 
 Mさん(小4)は縁故疎開中に孤児になった。おばから「Mは戦争で何もかも無くしたのに、国から何の配給もないんだね」と常にこぼし、次の親戚へまわされた。そこでは食べ物も満足に与えられず、学校へも行かせてもらえなかったので、農家へ子守り奉公にでたが、農作業をさせられ、地下足袋が与えられなかったので、裸足で冬はひび割れで血がふきだし、夏は足裏が焼けそうだった。早朝から夜まで働かされた。と語っている。
 国からの援助が一切ないため邪魔にされ、親戚をたらい回しされる。または、まだ小学生を労働力として搾取された。
 そうした孤児たちは非常に多い。「焼け跡の子どもたち」の14人の孤児証言や、「平和のひろば」の9人の孤児証言。「孤児たちの長い時間」などの、孤児自身が書いた証言を見ると、孤児たちがどれほど過酷な人生を辿ってきたかがわかる。孤児たちは差別と偏見の中で、普通の子の数倍働いて生きてきた。

 孤児は子ども時代の栄養不足から早死にする子が多いといわれている。この証言を書いてくれた人も次々に亡くなり、精神に異常をきたした人や、病気療養中の人もいる。孤児は戦争中より、戦後が孤児たちの戦争だった。
 戦後65年が経過した。当時10歳だった子も75歳になっている。今、語っておかなければ語る人がいなくなる。