◇ 心の傷が増す生活
私は親戚で10歳から18歳までの8年間、生活しました。あるとき父の親友が私を心配して尋ねてくれ、新品の赤いセーターをもってきてくれました。飛び上がるほどうれしかったのですが、従妹(妹と同じ年)がそのセーターを欲しがり、おばにいわれて、従妹の古いセーターと取り替え、一度しか着られませんでした。従妹が私の新しい赤いセーターをよろこんで身につけている姿を悲しく見つめました。
ある日、子どもたちが羽根つきをして遊んいました。私は羽子板を持っていなかったので、従妹に「ちょっとだけ貸して」と何回も頼みましたが貸してくれません。隣家のAちゃんがみかねて貸してくれ、喜んで羽根つきしていました。するとその羽子板を貸せと従妹がいいます。「これは私のものでないから」と断りましたら「マリちゃんがいじめた」わぁわぁ泣いて家へはいり、家から従兄(三男)が飛んできて往復ビンタを浴びせられました。理由もなく私はいとこ(長男と三男)から叩かれました。
いとこ(長男)から次々に「新聞もってこい、ハサミもってこい、洗面器もってこい」と用をいいつけられ、遅いといっては叱られ、毎日朝から晩まで叱られてばかりでした。通信簿(成績表)は見せたことありません。成績がよいと皮肉をいわれますから。みな私には無関心、無視されていました。
学校から帰ると、いとこたちはおやつを食べていましたが、私は貰えません。従弟は見せびらかすように目の前で大きなリンゴをかじっています。私はエル(犬の名)のところへ走っていきます。エルの首を抱きしめていると、エルは私の涙をぺろりとなめてくれました。近所の男の子から「やーい、野良犬、野良は犬好き」とはやしたてられました。
私のいく所はどこもありません。そして朝は家の人より早く起き、ポンプで水をくみ、薪でご飯を炊く食事の支度(当時は電化製品がなく重労働)したあと、家の人全員がぞろぞろ起きてきます。それから10人分のふとん片付け、そうじをしてから学校へかけつけます。学校から帰ると、夜寝るまで家事労働が待っていました。
私の手は荒れ放題、夏になってもひび割れ、しもやけは治らず赤く腫れていました。学校で必要なお金もなかなか貰えませんでした。遠慮ばかりしていました。差別され、無視された、愛のない生活ほど、惨めで苦しいものはありません。崖から深い谷底へ突き落とされ、絶壁をあがれず、ただ暗闇を這っているような絶望だけの世界でした。
<自分は生きていない方がいい。邪魔な存在なのだ。自分の人生は終わった。死にたい>と、気持ちがずたずたに切り裂かれ、希望も夢もなくなり、死を願いつづけていました。
これは経済的な問題でなく、心の問題です。
戦後50年すぎてから戦争孤児たちと話をしたとき、孤児たちが私と同じか、それ以上の辛さを体験してきたことを知りました。私ひとりではなかったのです。
マザーテレサは「一番不幸なのは、見捨てられることです。食べ物ではありません。貧困でもありません。病苦でもありません。必要とされていないこと、立っている場所のない人が、一番、不幸な人です」と述べています。
親戚という密室に入ってしまうと、これらの心の問題が表面に現れません。そこに落穴があります。孤児は置いてもらったという負い目があり語れません。そのため孤児の心が、世間に伝わらない、理解されない一因になっています。
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