戦争孤児とは 
 
 戦争孤児とは戦争に起因して孤児になったものを総称していいます。
例えば空襲、原爆などで、両親を殺された戦災孤児。外地からの引き揚げ中に孤児になった引揚孤児。焼け跡をさまよう棄迷児。空襲で両親が行方不明になった児童。戦争中、医薬品不足のため両親が病死した孤児などです。
 
 昭和23年2月1日の厚生省の「全国孤児一斉調査」では123、511人の戦争孤児が生じています。その内、施設に収容された孤児は12、202人と孤児総数の約1割です。その孤児施設のほとんどが民間の施設であり、国の施設は既存の板橋養育院と乳幼児孤児収容のため、わずかの施設がつくられたのみでした。
 差し引き10万人以上にものぼる孤児たちは、困窮した親戚に押しつけられたり、知人宅で労働力にされたり、養子にだされ奴隷のように働かされたり、子どもだけで生活したりと、ごく一部を除き、それは凄惨な人生を送ってきました。餓死、凍死、病死と死んでいった孤児も多くいました。
 戦争孤児は圧倒的に小学生年代の孤児が多く、当時は学童疎開が行われていたため、子どもたちが地方へ分散、居住しており、その間に都市に住む親家族が、空襲で殺されたため孤児になったものが圧倒的、多数でした。
 国の孤児施設の絶対数の不足。孤児たちを救済するとはいえないお粗末すぎる孤児対策。こうして国から放置されてきた孤児たちは、のちに浮浪児の大量発生という事態に陥り、大きな社会的問題に発展とていくのでした。
 
 日本は旧軍人、軍属には年間1兆円の補償を行こなってきました。民間人への補償は0円で、全くありませんでした。第二次世界大戦に参加したドイツ、イタリア、フランス、イギリス、アメリカの欧米諸国は、軍と民を平等に補償しています。
 フランスの戦災孤児は「人間としての成長のため国の特別な保護と生計費、奨学制度に上積みした高等教育までの教育、職業訓練手当、社会保障制度に上積みした医療費の支給等の金銭的な援助と金を受けた」(宍戸伴久著「戦後処理の残された課題」より)日本とは大違いです。日本は民主国家なのでしょうか。
 
 戦後65年が過ぎ、当時10歳だった子どもも75歳になりました。戦後50年過ぎたころよりボツボツ孤児の証言が出てきましたが、「浮浪児の詩」を読んだ人から「バカバカしい。こんなことあるはずがない。信じられない」と一蹴され、孤児たちは何を話しても理解されない。これ以上惨めな自分をさらけ出したくないと、口を閉ざしてしまいます。
 このままでは日本に孤児はいなかったことになる。孤児は歴史から抹殺される。戦争で犠牲になるのは常に子どもたちです。、私は孤児の実態を私のできる範囲で調べ、主に戦災孤児についての調査結果をこれから述べていきます。