狩野光男著「一枚の絵」のエッセイを読んで  金田茉莉

 戦争孤児になった狩野さんが「エッセイ」をまとめ一冊の本になりました。私は拡大鏡で何回も読みました。同じ戦争孤児として孤児の視点から、感じたことを述べてみます。

3回も死に直面
 狩野さんは1930年の東京・浅草生まれ。当時、中学生(14歳)で、勤労動員として働いていたとき、3回も死に直面しました。
 1回めは東京下町を襲った3月10日の大空襲です。家族と一緒に隅田公園へ逃げましたが、焼夷弾が降り注ぎ、火炎地獄のなか、周りの人たち全員が焼死、川の中で溺死、凍死しました。ここで命を取りとめたのは奇跡です。全身火傷を負いながら3日間にたった1個のおにぎりを食べただけで、焼け野原を歩き回り家族を探したそうです。このときは火傷の痛さも、空腹も、死者の焼ける臭いも、焼けた地面の熱さも、何も感じなかったそうです。五感の感覚が麻痺していたのでしょう。そして正常に戻ってから、激しい痛みと恐怖が押し寄せてきました。
 2回目は横浜の学徒動員先の工場やその近辺に爆弾が落ちました。教護に向かい「電車に入ると、肉片があちこちに飛び散り、内蔵を露出した人がうめいていた。同級生のY君は転がっていた生首を抱いたままうろうろしていた」気持ちが動転してしまったのでしょう。「何をぐずぐずしている。負傷者を早く運びだせ」と一喝され、我にかえり、運び出したとたん、時限爆弾が爆発して「早くしろ」と叫んだ人は「大音響とともに肉体は四散した」のです。一瞬の差で命がなかったかもしれません。
 3回目は銃撃です。「工場に爆弾を落とし、あとは逃げ惑う動く物に容赦なく銃弾を浴びせる」「屋根すれすれに降りてきた敵機から、バリバリッという発射音が起こり、私の左側を肩幅の間隔で火花と土煙が走った」と。丸腰の市民を狙い撃ちするのです。その有様を見た人は「その恐ろしさといったら、生きた心地がしなかった」という人ともいました。狩野さんは左足に銃弾をうけ、現在も銃創のあとがケロイドになって残っています。もし身体に命中していれば生きていなかったでしょう。こうして3回も死に直面しました。
 残虐な戦争を経験した人で自殺した人も多く、また精神が異常になる人も大勢いました。狩野さんが後年、国府台を訪れたさい、元兵士で精神に異常をきたした人が収容されている精神病院を見ました。彼は他人事と思えず「あの不気味な病院の中で死を待つばかりの人々を思うと、形容し難い怒りと悲しみがこみ上げてきた」と述べています。
「戦争とは狂気の世界だ。人が人でなくなる。敵国人というだけで恨みもない人間を当然のように殺す」「命は羽毛よりも軽し」「国が軍隊を持てば、徴兵は必要不可欠になる」 「戦争がどんなに不条理で残酷で人間のモラルの通用しないもの」と。
体験者だけに説得力のある言葉です。
「不戦平和を求める者を、非国民・国賊と刑務所に叩きこんだ過去がある」
現在も、情報を隠し、ウソばかりを並び立てる人たちがいます。また戦前と同じ状況になってきました。戦争の実態を知らず、「戦争っておもしろそう」とか「かっこいい」という若者に、どのように教えていけばいいのでしょうか。

両親の死・戦争孤児になる
 狩野さんは空襲で両親と2名の妹、計4名の肉親を失い、家・財産もすべてを焼き尽くされ戦争孤児になりました。軍需工場で働いていましたが、寮生は日曜になると自宅へ帰り家族だんらんを楽しみます。14歳の少年にとってその日が待ち遠しく、食べ物が乏しい時代でしたが親は我が子のために工面して待っていました。狩野さんにはどこにも帰る所がありません。たった一人ポツンと寮に残る寂しさは想像に余りあります。級友が狩野さんのために、自宅から「炒り豆」をもってきてくれました。「バカヤロウ。日本男児が炒り豆ごときで泣くな」といわれました。孤児にとってこの何げない優しい気遣いが心に浸み、寂しさに耐えていた気持ちがほぐれ涙がでてくるのです。私も同じでした。
 元気でピンピンしていた人の突然の死は、家族にとって人生最悪の事態です。一晩で白髪になった人もいます。とくに子どもにとって親はこの世で一番大切な存在でした。空襲にあう前までは「ただいま」といって帰る家があり、「お帰り」と食事を用意して待ってくれた親がいました。お風呂に入り、ふとんにもぐって寝る。そんな当たり前の生活をしてきた子どもたちが、それらのすべてを空襲で失ってしまったのです。
 3・11の津波の惨状は空襲と全く同じ状態で「空襲が再現した」と錯覚を起こしたほどそっくりでした。家族のひとりを失っても悲嘆にくれます。私たちにはその苦しみがよく分かります。空襲では一挙に親・家族全員を失いました。片親(父か母)でも生きていれば心の支えがあります。何の支えもなく、これからどうなるのか、ただ恐怖におののくばかりでした。子どもですから自分の気持ちを上手く表現できません。心の奥に貯める込み、孤独、苦悩を耐えるしかありませんでした。
 同年8月に敗戦。敗戦直後の日本は、敵国に占領され、国土は焦土、極端な食糧や物資の不足などで人心が荒廃していました。戦争中は「戦争で殺された親たちは戦死と同じだ。親の仇を撃て」と激励してきた大人たちが大豹変して、孤児は放りだされました。それまで支援してくれた地方の農家の人たちもおにぎり1個、餅1ヶもくれなくなりました。生き馬の目をくりぬくような悪知恵の働く者が横行するようになり、国からは一切の援助もなく、孤児は戦争中より何十倍も苦しい生活を強いられるようになりました。
 狩狩野さんは動員先から千葉の伯父宅へいきます。伯父宅では邪魔者でした。彼だけでなくほとんどの孤児たちは親戚で邪魔者でした。当時は、我が子に食べさせるだけでも大変な時代に「厄介者が一人増えた」と冷たい目でみられ、居場所がありませんでした。
 さらに転校した学校ではでひどい虐めをうけます。孤児たちの大半は同じ体験をしています。私も「野良犬」と囃したてられたり、「親なし子」と石を投げられたりしました。のうのうと親の庇護のもとで生活している子どもには、孤児の苦しみなど分かるはずがなく「よそ者、異物」としてはじかれました。
 狩野さんは東京・浅草で大きなお屋敷に住み、お坊ちゃんとして裕福に暮らしてきましたが、絶望のどん底にあるとき、虐めをうけ、反抗すると袋だたきにあいました。「親が死んだ位で、甘ったれるな」と、見下げた侮辱の言葉を浴びせられ、袋叩きにする仕打ちに、刀を持ちだしたのも分ります。「ケンカ早い人」という人は孤児の気持ちを理解できないのでしょう。私は狩野さんが自尊心を持ち、理不尽に反発する勇気と、気迫があったからこそ、苦難を乗り越え、現在があるのだと思います。

浮浪児=戦災孤児
 浮浪児は戦争が生んだ落とし子です。大半が空襲によって両親を失った孤児です、山田清一郎さん(当時10歳)のように、空襲直後から浮浪児になった子もいれば、また、地方へ学童疎開していた間に、都市空襲で一家全滅して孤児になり、敗戦後から浮浪児になった子も多くいました。10歳前後が主だったそうです。敗戦後の数年間、浮浪児は巷にあふれ、大きな社会問題になりました。
 狩野さんは「孤児は人権も生存権も与えられず、餓死、凍死の他、自死を選んだ者も多い」「差別と侮辱にひたすら耐え、社会の底辺を這いずり廻って暮らした」といいます。
当時、流行った「鐘の鳴る丘」のラジオドラマ。私は働いていましたので聴いていませんが、実際に聴いた孤児たちの話では「ウソだ。でたらめだ」「優しい人などいなかった。虫けらに扱われた」「俺たちは骨の髄まで大人に利用された」といっています。
 狩野さんは「鐘の鳴る丘」のドラマが大嫌いで「戦災孤児の本質な苦悩とは全くかけはなれていて、私達孤児にとってあまりにの安易さに憤りを感じた」「彼等は人生のスタートラインで人間の心理の酷い部分を感じとってしまった。それによって人間不信、社会に対する反抗心が、根深く染め付いてしまった事は否めない」と。
 確かに孤児たちは、荒廃した社会で、利益を優先する悪徳な大人のかっこうな餌食になり、牛馬のようにこき使われ、そこを逃げ出す子も多くいました。「夢も、希望もない。絶望だけ」という孤児の深い悲しみと苦しみを、経験のない人には想像できないでしょうが、どこへいっても地獄で、親のいない苦しみをとことん知りました。
「なぜ盗みをするのか」それは食べ物がないからです。盗みをするとコン棒でメチャクチャに殴られますから、すばしっこく逃げるのは当り前です。そして非行少年として刈り込みで捕まり、1匹2匹と呼ばれ人間扱しされてきませんでした。ハダカにされ、鉄格子のオリの中にいれられ、ひどい処遇と、激しい虐待に脱走するのです。「愛児の家」(民間の孤児施設)のように、貧しくても愛情があれば逃げ出すことはありまでした。脱走常習少年がここで安住しています。孤児が一番ほしかったは愛でした。頼れる家族がのいない、たったひとりぼっちになった寂しさに、猛烈な孤独に耐えていちたのです。抱きしめ、受けとめてくれる人がほしかったのです。ヤクザや売春婦の方が優しかったといいます。義務教育もうけられず、子どもの未来を奪ったのは誰でしょうか。
「国から一円の援助も受けていない。一瞥すら与えられなかった」「何で罪の無い子供達がこんな目に遭わなければならなかったのか。そして彼等を見る世間の冷たい目。差別、侮り。声を上げる事も出来ない弱い立場の子供達は人生のスタートラインで大きなハンデイをつけられ、生涯それは続いたのだ」「戦争孤児たちは国にからも、世間からも見捨てられた」「日本の侵略の罪を厳しく追及する進歩的有識者の先生方も、この問題に触れることはない。自国の幼い子どもたちの悲劇に関心を持たないのは甚だ遺憾である」と狩野さんは述べています。
 欧州諸国は戦勝国も敗戦国も、戦争孤児には手厚く遇し補償もしています。私たち孤児は敵国人でなく、自国の人から「みなし子」と呼ばれ、蔑まれてきました。結婚、就職なども差別され偏見をうけてきました。今でも孤児を軽蔑する人がいます。自国民に見捨てられたことが何より悲しく、心に大きな傷を負い、生涯、消えることはありません。

空襲死者の無念
 狩野さんの隅田公園・言問橋惨状の絵と文は、体験した者でなければかけないでしょう。隅田公園は避難民で埋めつくされ、業火のルツボの中で、苦しみ、もがもがきながら死んでいきました。あまりの熱さに川へ入って溺死、凍死しました。無辜の民の大虐殺でした。
「隅田川を埋め尽くした水死体。はじめは信じられなかった。世の中こんなことがあってよいのかと思った。そして何千人としれぬ焼死体」「屍の無残な有様、悪夢を見ているとしか考えられなかった」と。あまりにも多くの人が、自分の目の前で死んでいくのを見てきた狩野さんの文から、空襲死者の無念が、ひしひしと伝わってきました。
 東京・下町は隅田川だけでなく、縦横に走る川のすへてに、「川面も見えないほどの死体で埋めつくされ、一体の死体を引き揚げるのは2、3人がかりで引き揚げても、重く大変な作業だった。やっと引き揚げても、満潮になると、死体がどっと押し寄せ、川幅一杯になる。それが何日もつづき、あの死体はいったいどこへいったのか」と、久保田救援隊長が語っていました。海底に沈んだり、お台場に打ち上げられたりして行方不明になった人も非常に多くいます。私の妹も川へ入ったまま行方しれずになりました。
 また、あらゆる所に黒焦げになった焼死体が山になっていました。その焼死体、10万体以上が、公園、空き地などに、直ちに埋められてしまいました。そのため遺族がいくら探しても見つかりませんでした。東日本大震災でも、御嶽山噴火でも、行方不明者を必死に探しています。「何としても遺体だけでも見つかって欲しい。家族の元へ帰ってきて」と切実に願っている遺族です。戦争では、埋めた事実を遺族に何も知らせず、隠されてきました。遺体も遺骨もない遺族は、現在も苦しんでいます。
 あの空襲で亡くなった死者は、目をくわっと見開き、もの凄く口惜しいそうな形相だった人も多くいたそうです。生きていたかったでしょう。後に残す子どものことが心配で死に切れなかった人もいたでしょう。一家全滅が大変多くいました。
 死者はゴミのように、花一輪手向けられず、無残にも公園の穴に放り込まれたのです。無念に死んでいった死者の実態調査もされていません。まるでこの世に生存していない幽霊のように消されてしまいました。果たして空襲死者は天国へ旅立つことができたでしょうか。私には地下をさまよい「救ってくれー」と叫ぶ声が聞こえてきます。
 3月10日の空襲では、身元・氏名が不詳になって引き取りようのない遺骨が10万体があります。この遺骨は関東大震災の納骨堂に同居させられ、独立した空襲死者の納骨堂はありません。行政府は空襲の祈念館も資料館も造ろうとしませんでした。そのため、人々は空襲の実態について何も知らずにきました。靖国神社、広島・長崎、沖縄は世界中の人が知っていますが、空襲は忘れ去られ、国家元首の追悼もありません。なぜこうも空襲は冷遇されるのでしょうか。行政は空襲を無かったことにして、戦争孤児同様に、歴史から抹殺しようとしてきました。生き証人が早く死ぬのを待っているようです。
 現在もまだ闇の中にいる死者です。このまま死者を放置して、日本は発展するでしょうか。今の日本は、戦争、原発事故、災害、少子化、貧困、虐待などで行き詰まっています。私は日本の未来が心配でなりません。一日も早く空襲死者に安眠してもらいたいのです。成仏すれば、祖国日本、私たちの子や孫を加護してくれると信じています。「どうか空襲死者を救ってください」と、朝・晩、仏前に手を合わせ、祈りつづけています。