イ 隠蔽された学童疎開中の孤児

  学童疎開は国策によって行われたものであり、学童疎開で孤児になったものは、戦争中は草場弘氏が戦争孤児の「国児院」設置を提唱し、東京都は「保護者が空襲などの被害をうけた場合は、これらの保護者に代わってその任務を遂行する」とされていたが、結局、国も都も何一つ、つくらなかった。

 「日本は神の国です。この戦争は聖戦です。日本は必ず勝ちます。皆さんは天皇の子どもです」と叩きこまれた国民学校時代の教育。「欲しがりません、勝までは」と我慢させられ、小さな戦士として、親と離れた生活を強いられた子どもたちである。
 日本は戦争に負けた。日本の一部の指導者によって無謀な戦争に突入。この戦争は間違っていたと後で教えられた。子どもたちが疎開している間に、親と家を奪った戦争で、孤児にさせられた子たちは、何を頼りに生きればいいのだろう。
 学童疎開中は、たとえ家族と引き裂かれた生活であろうとも、親が生きている。また家族と元の生活にもどれる。と心の支えがあった。その心の支えを失った子ども。敗戦後、親に引き取られていく友人たちの姿を、必死に涙をこらえて見送ったのだった。
 浅草区(現台東区)の富士小66名、深川区(江東区)の深川小60名、本所区(墨田区)の中和小80名の孤児がいたとあるが、富士小の場合6年生は3月10日に卒業で東京へ戻ったが、東京は焼け野原、親の焼死で42名が孤児になった。宮城県へ集団疎開していた3年4年5年の3学年を単純に計算しても120名の孤児が生じたことになる。中和小4年男子組32名の内29名が孤児になった(谷村公司証言)1クラスでこれだけの孤児が出た。
 中和地区は住民の85%が空襲で亡くなっている。3月10日の下町一帯の空襲は実に凄惨で一夜にして10万人以上が焼死した。「関東大震災の数倍の被害であり、東京下町は火葬場の焼却炉のようになった」(慰霊協会発行の「戦災横死者改葬事業始末記」より)という。現在報道されているハイチ地震と同規模の被害であった。地震は世界中に詳しく報道され、映像が流され、救済されるが、戦争は写真を撮ることさえ禁じられ、国民には被害を知らされなかった。援護もしない。それが戦争の恐ろしさである。
 東京は3月だけでなく4月5月と大規模な空襲があり、9ヶ月間続いた空襲で、市街地のほとんどが壊滅した。当然ながら疎開中に孤児が多く輩出された。
 親戚縁者に引き取られた子、養子に出された子、引き取り手のない子、施設に預けられた子の合計、どれだけの孤児が生じていたのか。各学校の全体孤児数が全くない。
 各学校で孤児が何名いたと、校長、教頭は知っているはずである。なぜなら集団疎開は、学校が子どもの命を預かり、保護者がわりに子どもの生活全般の面倒をみるのが、校長の責任だった。学籍簿もある。疎開費用25円のうち10円は親が負担していた。(小学教諭初任給50円)疎開を継続させるために、校長は直ちに被害家庭を調査し、都へ報告していたはずである。孤児を調査した痕跡もある。
 
   孤児の隠蔽ーなぜ学校全体の孤児数が無いのか。 
 文部省国民教育局が行った最初の対策は、敗戦後の昭和20年9月15日
「戦災孤児等集団合宿教育ニ関スル件」であった。
「集団合宿所を国民学校の分教場として、1、定員を250名にすること。2、自給自足のため1名6坪の農場を必ず設けること。 施設を経営する都道府県には国庫補助8割を補助する」となっていた。10月15日までに計画申請書を提出すること。とあったが、その文書の後に「国庫補助金予算ノ都合上場合ニヨリ之を認メザルコトモ有之ベキニツキ予メ御承知ノ上」わざわざ断り書きがあった。
 結局、このように250名収容する孤児集団合宿所は全国に一つもなかった。
焼け出された人がひしめいている時、250人収容する施設はなかったであろうし、食糧不足で人々が血眼になつていた時期に、1名6坪の農場などあろうはずがない。机上の空論を述べ、あたかも孤児を救済したかのように見せかけた文書である。
 孤児資料が何も無い中で、この文書や都合のよい文書だけが残されていた。世間の人はこの文書で、国が集団合宿所をつくった。と勘違いしていた人が多くいたように思う。
 
 集団疎開の初期の資料は山ほどある。どこの学校から、どの県へ、何学年、何名が疎開した。という詳しい調査、資料もある。ところが3月10日以降の資料がほとんど消えている。あらゆる人が調べても集団疎開中の孤児全体数が何も無いのである。考えられない。
調査した痕跡がある。例えば下記の調査文が見つかった。
集団疎開被害調査ノ件

荒教収第370号       31日受付
   昭和20年3月30日       東京荒川区長  高橋寛
 第五日暮里国民学校長殿      至急
空襲により罹災シタル集団疎開学童調査ノ件
空襲ニ依リ保護者罹災シタル集団疎開学童ニ対シテハ援護必要有之候條
別紙様式ニ依リ御調査ノ上ね大至急御報告相成度候也
追面 将来右事実発生ノ都度報告相成度
 
集団疎開は昭和20年11月終了。東京都は学童の復帰、輸送計画を立てた。

    集団疎開学童復帰計画要綱
1〜9まで略
10、疎開学童ノ復帰ニ先立チ戦災遺児ハ実情ニ依リ新設予定ノ戦災遺児ノ
   学寮ニ収容スルカ又ハ集団疎開ノ打切迄同学寮ニ収容スルコト。
11、戦災遺児ノ身分、財産、親戚縁者関係等能フ限リ詳細ナル調査ヲナシ
   置キ援護ノ資ニ供スルコト。(後略)
 
     上の文書は焼却寸前に疎開協の小林さんが見つけてきた。
     下の文書は戦災遺族会編「戦争孤児」より

 集団疎開中の孤児数が判明すれば、縁故疎開もほぼ同数であることから、学童疎開中の孤児全体像が浮かびあがってくるはずであるが…。