保護者別について
国は戦争孤児を放置した
戦争孤児=123、511人の内
親戚、知人預けられた孤児=107、108人
施設に預けられた孤児=12、202人
保護者なく独立して生計を営む=4、201人
国は9割以上を困窮している親戚に引き取らせたり、知人や養子にだしたり、保護者なくして自立と、国が費用を負担(金)しないですむ対策をとった。すなわち、孤児に対して国の予算がつかなかったのだ。
施設に預けられた孤児は約1割である。その内、民間施設238。官公立は38(同胞援護会、昭和21年12月調査)と施設全数の14%と驚くほど少ない。学童疎開中の孤児は、東京の場合は80名程度しか養育していない。この微びたる数で、国は戦争孤児を保護、養育したとはいえないだろう。民間人が私財を投げだして孤児施設をつくり、孤児たちを救済してくれたのだった。
中学生以上の孤児は、
住み込みで働いた孤児が多い。親や家もないとバカにされ、保護者もなく、子どもが自立して生活していくのは、大変きびしい生活環境だった。
もっとも多い小学生の孤児(主に学童疎開中)は。
ひとりでは生きられない年代だが、小学生のほとんどが親戚、知人にあずけられた。
祖父母、兄姉に預けられ、愛情をかけられて育った孤児もいるが、約1割と非常に少ない。
集団疎開児はもともと親が安心して預けられる親戚、知人がなかったから、学校ごと疎開する集団疎開に参加したのである。敗戦になり、困窮している親戚に、血縁関係があるから育てなさいと押しつけたが、厄介者にされた。。
どうしても引き取り手のない孤児は、孤児学寮をつくり収容したが、孤児を次々に養子にだし、国が養育したのは、たったの80名ほどにすぎなかった。(後述)
縁故疎開児はそのまま親戚や知人宅にとどまり、親からの仕送りのなくなった孤児は、とたんに邪魔扱いされ親戚などあちこちに回されるようになる。姉弟はバラバラにされた。
親戚、知人、養子にだされた孤児たちは、ごく一部の恵まれた孤児を除き、孤独と絶望のはざまで生きてきた。作男や女中として働かされたり、奴隷のようにこき使われ、学校へも通わせてもらえなかった子も多い。役に立たない幼い子は、食べ物も与えられず、栄養失調や餓死、病死した子も多くいた。
国は救済の手を差しのべてこなかったため、のちに浮浪児という大きな社会的問題となって現れてくるのである。 孤児たちは子どもゆえに、どれほど非道い目に遭わされても、訴える術がなかった。働ける年代になっても親ナシ、家ナシ、金ナシで辛酸をなめてきた。