学童疎開とは
昭和16年から始まった太平洋戦争で、戦局が厳しくなり、昭和19年6月に「学童疎開促進要綱」と「帝都学童集団疎開実施要領」が閣議決定され、東京はじめ12都市の小学生(当時は国民学校)3年〜6年までの児童を地方へ疎開させた。目的は都市の防空体制を強化するため、足手まといをなくすこと。将来の兵力を温存するためであった。国策により半強制的に学童疎開は行われた。
学童疎開には3つの形がある。
縁故疎開=地方に親戚や知人のある子どもは、個人的に疎開した。
集団疎開=地方に知り合いのない子どもは、学校ごとに集団で疎開した。
残留組=健康上の理由や、疎開させる費用がなくて都市に残った。
その他=家族、祖父母などと一緒に疎開した。
全国疎開児童数 (全国疎開学童連絡協議会調査より)
昭和19年12月末、全国国民学校3年〜6年、文部省調査
縁故疎開=322.887人 残留組=327,033人
集団疎開=347,780人 その他= 25,530人
合計 = 1033,671人 東京の疎開児童は全国の46、6%
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疎開児童は常に流動的であり、残留から後に疎開したり、縁故から集団になったり、その逆もある。昭和20年初期の調査で東京から集団疎開した児童は20万人といわれている。
○ 小学1年より皆疎開
昭和20年4月より小学1年より皆疎開になった。東京空襲では300万人が家を焼かれ住む場所を失い、残留組も地方へと疎開していった。全国の都市では1、300万人が空襲で家を焼かれ、その人たちのほとんどが(とくに子どもは)地方へ疎開していった。
全国で子ども約90万人が疎開し、東京では約50万人の子どもたちが集団や縁故などで、地方へ疎開したと推測する。
○ 集団疎開先(東京の場合)
東京34区(当時)は、埼玉、千葉、茨城、福島、栃木、宮城、山形、新潟、群馬、富山、長野、山梨、静岡、三多摩、青森、秋田、岩手の17県へ児童が疎開した。宿泊先は主にお寺か旅館だった。お寺に寄宿した子どもは地元の小学校へ通い、旅館へ寄宿した子どもたちは旅館内で座学した場合が多い。集団疎開の費用は、実質25円かかるところを親が10円負担した。(当時の学校先生の初任給は50円だった)
○ 疎開終了 帰京
昭和20年8月に戦争は終わったが、疎開が終了したのは11月だった。疎開児童はそれぞれ親元に引き取られていった。孤児は3月10日以降、疎開中に親戚へ引き渡された孤児もかなりいた(10円の費用が払えないからか)。11月、疎開児童と一緒に帰京した孤児もいた。または、そのまま疎開地に残された孤児もいた。