1.「市民の意見」に「戦争と孤児」の文

戦争と孤児(PDFファイル 市民の意見NO.140掲載)
 冒頭のリンクは、「市民の意見」(NO.140号。2013/10/1発行)に掲載された文です。これは「市民の意見30の会」から「子どもが危ない」の特集を組みたいので、孤児についての原稿を書いて欲しいと依頼されました。「市民の意見」の会は「平和憲法九条を守る会」であり、執筆者は有名人がずらりと並んでいました。「特集1 安倍政権の暴走を止める」で、「特集2 若者が、子どもたちが危ない」です。無名の私ですが、浮浪児を中心に書きました。字数の制限があり、その枠内におさめるには言葉不足もありましたが、これは私の一番いいたかったことです。
 2013年4月に発刊した「終わりなき悲しみ」にも孤児については書きましたが、この本の内容は、原発事故と戦争の類似性、東京大空襲と戦争孤児と裁判などを盛り込んだ範囲の広いものになってしまいましたので、結論がぼやけてしまったように思います。
 私が最初に浮浪児に疑問をもったのは、敗戦後1946年〜49年ごろまでの新聞記事に10歳前後浮浪児が巷にあふれ、大きな社会問題になっているという報道でした。10歳前後といえば小学生です。なぜ14、5歳の中学生や17、8歳の高校生でなく小学生なのか。敗戦直後の混乱している状態では中学や高校生が不良になってもおかしくありませんが、大半の浮浪児が小学年代の児童であるのは、なぜなのだろうと考えました。
 私は1993年「全国疎開児童連絡協議会」(略・疎開協)へ入会してから、大勢の孤児がいたことに驚き、そこから孤児調査をはじめました。孤児資料がないため、孤児たちを探しだして話を聞くという作業は、大変困難でしたが、私が孤児であるたため、孤児たちも心を開いてくれたのだと思います。これまで闇に埋もれたいた孤児たちの実相が次第に明らかになってきました。一人ずつの孤児に当たって直接調査した結果は、全員が都市爆撃による空襲で孤児になっていました。その中には猛火の下を親・家族といっしょに逃げたが、家族と離れてしまったとか、子どもがだけが奇跡的に命をとのとめた場合もありましたが、その数は少なく、圧倒的に多かったのは学童疎開中の孤児でした。それは、地方へ疎開していましたから、都市の空襲には遭遇しなかった子どもだけが残されてしまったのです。(学童疎開については後に書く)
 こうして長い年月をかけ、学童疎開中の孤児を旧文部省が隠蔽してしまったこと。浮浪児のほとんどが学童疎開中の孤児であったこと。を突き止め、ようやく確信をもって、結論をだすことができました。