13.追悼碑について

 東日本大震災で遺体を探しつづけている遺族がいました。津波にのまれてしまったのか、ガレキの下に埋まってしまったのか、<早く自分の許へかえってほしい>と祈りながら遺体を探している姿は胸に迫ってきます。見つからないかぎり心の整理はつかないでしょう。
 すべての家が消え、街がなくなり、一面砂漠になったのは同じでしたが、震災と空襲の違いは、空襲では黒焦げの死体が山のようになっていたこと。さらに東京下町の縦横にはしる川という川には、凍死も溺死した遺体が、水の面もみえなくなるほど埋め尽くされていたことです。
 66年前の3月10日の空襲直後、軍隊がすぐに出動して、死体をトラックに載せて運び、公園へ死体を埋めてしまいました。錦糸公園13.951人、猿江公園13.242人、その他、上野公園、隅田公園など公園、空き地、約130ヵ所へ遺体を埋めてしまいました。このことはほとんどの人が知りません。戦争中でしたから軍に隠蔽されました。遺族がいくら遺体を探しても、どこへ持っていかれたかわからなくなり、現在も行方不明です。空襲死者は、遺体も遺骨もなく、葬式もなく、読経ひとつなく、死者に手を合わせるところもありません。空襲死者の氏名の調査もありませんでした。この世に生きていたという証もありません。人間として尊厳はなく、まるでゴミのように扱われました。
 その遺体は戦後、「公園整備」という名目で、昭和24.5年より遺体発掘作業が秘密裏に行われ、当然ながら遺体は腐りきり、身元が判明しませんでした。作業にあたった都公園課の人が、頭蓋骨から人数を数え(死者数は一番正確)105.400人の死者がいました。(この数の中には川から海へ流された遺体や、形のない骨だけの遺体は含まれていない)こうして3月10日の空襲死者の8割は行方不明になったままです。
 この10万余人の遺骨は、関東大震災(1923年)の慰霊施設の後室に置かれたまま。そのことがどれほど孤児や遺族を苦しめてきたことか。孤児は親の墓を持っていない人が多いのです。嫁にいき姓がかわつてしまった人、養子だされた人、お墓の買えないない人など。お墓があっても中はからっぽ。遺骨のあるところが自分の親や家族のいる場所です。<親、家族に手を合わせ、祈りをささげたい。話かけたい>と思っても、8月のお盆がきてもお参りするところがありません。
 よく「震災記念堂に遺骨があるのだから、そこへいけばいいじゃないか」といわれますが、いわば他人のお墓の中に入れられたのです。歴史に遺りません。空襲死者は地下で泣いています。まだ浮かばれていません。私は毎年3月10日がくるたび、ぞっーとする死者の霊気を感じ、悪寒に襲われます。死者の<救ってくれ。はやく成仏させてくれ>という叫びが聞こえてくるからです。私は闇に葬られてきた死者のうめき声に、日本に「よからぬこと」が起きねばよがと危惧していました。
 今年も3月10日が終わり、<ああ、空襲死者はこのまま闇に埋もれてしまうのだろうか>と思っていた矢先、東日本大震災がおき、空襲の場面が再現しました。息が止まりました。3月11日、同じ日です。その上、原発事故という人災が起きました。戦争は人災です。私には空襲死者の無念、追悼もしない怨念、闇に葬られた怒りが、この世に現れたのではないか、と思いました。まったく空襲と同じことが起きました。