6.親戚での生活

 昭和20(1945)年この年は、3月に空襲があり、8月に敗戦になった年です。私たち孤児の苦しみの原点になった年です。私は最後に姫路の伯父宅へ預けられました。ここで10歳から19歳までの約9年間、生活しました。
 敗戦直後はどこも食料のない時代で、伯母は「なんでウチで預からんといけんのか」と私のことで伯父とケンカしていました。従弟から「おまえなんかいらん。早ういんでけえ(出ていけ)」と白い目で睨まれました。私はどこへも行く所がなく辛い日々でした。
 ある日、父の親友が私を心配して尋ねてくれ、新品の赤いセーターをもってきてくれました。従妹(妹と同じ年)がそのセーターを欲しがり、伯母にいわれて従妹の古いセーターと取り替え一度しか着られませんでした。悲しみがこみ上げてきました。
 ある日、子どもたちが羽根つきをして遊んいました。私は羽子板を持っていなかったので、従妹に「ちょっとだけ貸して」と何回も頼みましたが貸してくれません。隣家のAちゃんがみかねて貸してくれ、喜んで羽根つきしていました。するとその羽子板を貸せと従妹がいいます。「これは私のものでないから」と断りましたら「マリちゃんがいじめた」わぁわぁ泣いて家へはいり、家から従兄(三男)が飛んできて往復ビンタを浴びせられました。理由もなく私はいとこ(長男と三男)からよく叩かれました。
 その日は夜9時ごろでした。長男から「子犬を取りに行ってこい」と命じられたのですが、すぐに行動しなかった私に「ワシのいうことがきけんのか」と、両頬をあざができるほど叩かれました。私は家をでました。真っ暗な河原へしゃがみ込み「お母さんのところへ逝きたい。お姉さんや百合ちゅんのいるところへ逝きたい。どうして置いていつたの。お母さんに会いたい」と泣きじゃくっていました。私が男児だったら浮浪児になっていたと思います。
 学校から帰ると、いとこはおやつを食べていましたが、私は貰えません。従弟は見せびらかすように目の前で大きなリンゴをかじっています。私はエル(犬の名)のところへ走っていきます。エルの首を抱きしめていると、エルは私の涙をぺろりとなめてくれました。近所の男の子から「やーい、野良犬、野良は犬好き」とはやしたてられました。
 そのうち朝は家の人より早く起き、ポンプで水をくみ、薪でご飯を炊く食事の支度(当時は電化製品がなく重労働)をしました。支度ができると家の人全員がぞろぞろ起きてきます。それから10人分のふとん片付け、そうじをしてから学校へかけつけます。学校から帰ると、夜寝るまで家事労働が待っていました。
 中学2年のころ結核になったのですが(高校のときレントゲンで知った)、医者にかからず薬も飲みませんでした。ただ息が苦しく体が重く、仕事が遅いので、従姉(長女)から「怠け者、横着者」と激しくののしられました。<早く死なせて、早く楽にさせて>と祈りながら、這うようにして仕事をしていました。
 学校で必要なお金もなかなか貰えません。長期間、授業料の滞納で中央廊下に私の名前が張り出されたときは、この世から消えてしまいたいと思いました。通信簿(成績表)は一度も見せたことがありません。全くの無関心、無視されていました。差別され、無視された、愛のない生活ほど、惨めで苦しいものはなく、一筋の光もありませんでした。